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2006/01/18

『作者を出せ!』

4560047979『作者を出せ!』デイヴィッド・ロッジ/高儀進訳(白水社/2004)は、ちょっと変わった題名だが、これは初日の舞台などで幕が下りたあと、興奮した観客がカーテンコールで作者を舞台上に呼び出すかけ声である。原題は "Author, Author"。主人公はヘンリー・ジェイムス。小説家として大西洋の両側ですでに地歩を固めていた作家が、ロンドンの演劇界でも大成功をおさめることができるかどうかという、1890年代の物語が中心になっている。「ほとんどすべての出来事は事実にもとづいている」という作者の弁が冒頭に置かれているように、ヴィクトリア時代末期の世相や文壇、劇壇などの様子をうかがう参考書にもなるような作品だが、もちろん、ロッジのことだから、たくみに仕掛けられた愉快な(しかし決して軽くはない)小説でもある。後半になると、まだ少女時代のヴァージニア・ウルフや幼いアガサ・クリスティなんかの名前も出てくるので、ゴシップ好きにはたまらない。(ただし出てくると言っても、物語のなかではほとんどエキストラみたいなかたちなので念のため)

さて本書のなかでは、わたしはヘンリー・ジェームスの親友として描かれているジョージ・デュモーリエの一家のことが一番面白かった。
本書のなかではジョージ・デュモーリエは、はじめ「パンチ」の挿絵画家として登場する。はじめという意味は、のちにかれは小説を書いて、これが当時の大ベストセラーとなるからだ。小説の題名は『トリルビー』といい、いまでは読む人もあまりないが、登場人物のスヴェンガリ "Svengali" は、英語の辞書にものって英語圏の人間なら誰でも知っているようなキャラクターになっている。

ところでデュモーリエ(du Maurier)という名前を聞くと、映画好きの人やミステリ・ファンなら、ヒッチコック映画の「レベッカ」や「鳥」の原作を書いたダフニ・デュモーリエとなんか関係があるの?、と思われるかもしれない。ダフニの父はサーの称号を得た役者のジェラルド・デュモーリエで、ジェラルドはジョージ・デュモーリエの五人の子供の末っ子である。つまりダフニは孫娘にあたるわけだ。

本書のなかで、ジョージ・デュモーリエ一家の様子はたとえばこんな風に紹介される。

「濃やかな心遣い」と題したその絵は、裏庭にいるデュモーリエ家の子供たちを描いたものだ。背の高さと歳の順に縦に並んでいる子供たちは先頭のトリクシー以外、前にいる者のスカートや上着の裾を掴んでいて、トリクシーがママに、こう説明している。「あたしたちは鉄道ごっこをしているの。あたしが機関車で、ガイが一等車で、シルヴィアが二等車で、メイが三等車。そうしてジェラルドも三等車なの——そう、ジェラルドは本当は無蓋貨車なんだけど、ジェラルドにそう言っちゃいけないの、怒るだろうから」

ジョージ・デュモーリエの「パンチ」に載せた挿絵は、ウェブ上でたくさん見ることができる。(たとえばこちら)しかし残念ながら、いまのところこの「濃やかな心遣い」はネットでは見当たらないようだ。124かわりにトリクシー(ビアトリックスの愛称)とシルヴィアらしき少女と母親(エマ、一家の愛称ではペム)の絵を載せておこう。父親の愛情がこもったいい絵だな。まあ、いかにもビクトリア時代という感じではあるが。

この姉妹のなかでは長女のトリクシーが「掛け値なしの」美人だったが、シルヴィアも思春期を過ぎたころから「蠱惑的な、ほんの少し歪んだ微笑を浮かべ、両目の感覚が広い大きな灰色の瞳をした際立って魅力的な若い女になった」。
じつは、このシルヴィアというのはこういう人なのだな。物語の最後の方で、成長したデュモーリエの子供たちのことが語られる。

「いいとも。そうあの子たちはシルヴィア・ルウェリン・デイヴィスの息子たちだった——シルヴィアというのは、ジョージ・デュモーリエの娘さ」(中略)「シルヴィアは法廷弁護士のアーサー・ルウェリン・デイヴィスと結婚し、五人の息子を儲けた。バリーは、ケンジントン・ガーデンズで、ごく幼い上の二人の息子に出会った。乳母も一緒だった。そうして、その二人の息子が気に入った。物語を聞かせたり、冒険ごっこを一緒にしたりした。——『ピーターパン』の着想はそうやって得たんだ。バリーは間もなくデイヴィス一家の親友になった。バリーには子供がいなかったのさ——でも、それは別の話だ……」

昨年ジョニー・デップがバリーを演じた映画「ネバーランド」は、観ていなかったので、ビデオで観てみることにしよう。

最後に、ジョージ亡き後の、デュモーリエ一家の子供たちと母親のことを補足しておく。上記の引用に続くかたちでこういう会話が本書にある。1916年、第一次大戦のさなかのことだ。

「……ルウェリン・デイヴィス一家は、彼にとっては一種の代理家族になった。万事順調だった、アーサーが四十代で、恐ろしい顎の癌に罹るまでは。アーサーはぞっとするような手術を受けたあと、死んだ。すると、シルヴィアもたった数年後に、やはり癌で死んだ。そこでバリーは五人の孤児の後見人になった。子供たちを溺愛し、イートン、ケンブリッジにやり、何でもしてやった……長男のジョージは去年の三月に戦死した。狙撃兵に撃たれて。二十一だった。シルヴィアの兄のガイ・デュモーリエが戦死してから、たった一週間かそこいらだった——同じ前線で。ガイは職業軍人だった、中佐だった。気の毒なエマがそれを知らずに死んだのは、いいことだった」
「エマ?」アリスは、知らない名前が次から次に出てくるので戸惑う。
「デュモーリエの未亡人。エマは、長女と次女が自分に先立って死ぬのを見た——シルヴィアとトリクシー。ふたりとも可愛らしい娘だった。ガイとジョージ・デイヴィスまで死んだのを聞くまで生きていれば、あまりに残酷なことだったろう。しかし、エマ自身も去年の夏、死んだ」ゴスは溜め息をつく。灰色の口ひげの端が、その物悲しい話に同情したかのように、いついまでも垂れ下がる。「悲劇の一家さ、一家の誰もが、若い時はどんな陽気で活溌だったかを考えれば、とりわけ(後略)」

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コメント

面白い書名ですね。ディヴィッド・ロッジの本は『交換教授』がいまだに忘れられないです。あれは傑作だと思う。『作者を出せ!』の主人公がヘンリー・ジェイムスとは風変わりですね。今度図書館で見かけたら手にとってみます。

投稿: 屁爆弾 | 2006/01/20 14:38

こんばんわ。わたしは、デイヴィッド・ロッジは旧サイトの掲示板である方に教えていただくまでは、全然知らない作家だったのですが、いや、この人の書く物は、ことごとくわたしのツボに見事にはまります。『交換教授』は屁爆弾さんがおっしゃるように傑作だと思いますし、同じキャラクターがちらっと出てくる(とくに続編というわけではないけど)『小さな世界』や『素敵な仕事』も大好きな小説だなあ。

投稿: かわうそ亭 | 2006/01/20 21:19

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