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2006年2月

2006/02/26

出久根達郎、本の話

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すべて『本の背中 本の顔』出久根達郎(講談社/2001)から、とお断りした上で、いくつか面白い話をメモしておく。読むはしから忘れていって、きれいさっぱり残らないのも悪くはないが、ときには取って置きたいようなものもある。こういう面白話に目がない方には本書はまさにオススメ。

その一「ダルマサンガコロンダ」
かくれんぼのときなどに鬼が唱える言葉。子供のときにわたしもやった。ただの子供の決まりというか、鬼になったとき目を瞑る時間を、「ダルマサンガコロンダを10回ね」という具合にこれで量るだけだと思っていたが、これは「一、二、三、四」と数を律儀に一から十まで数える代わりの数え歌であった。
これはもとをたどると「転読」のひとつだそうで、転読というのは、仏教に関係のある語である。ほら、お坊さんがアコーデオンみたいにお経を両手で伸び縮みさせる所作があるでしょ。あれをたとえば百回くりかえすと百回お経を読んだことになるのと同じことらしい。仏教からきているメソッドなのでダルマサン登場なのであります。
(以下は本書にはないわたしの感想)
むかしわたしたちはこれを「ダールマサンガ、コーロンダッ」と発声していた。いま、歌に合わせて指を折ると、どうしても「ダルマサン」のサンでひとつ、「コロンダ」のロンでひとつと数えてしまって10音ではなく8音のように感じる。つまり、こうして2音は得するので、同じ百まで数える約束でも、鬼の我慢は2割軽減されるということだったんだなあ。そうか、そうだったのか。

その二「挿絵画家・中一弥」
池波正太郎の鬼平シリーズや剣客商売シリーズの挿絵といえば、「ああ、あれか」とすぐ思い浮かぶ。画家の名前は中一弥という。作家、逢坂剛の父なのだそうな。
へえ。

その三「百鬼園先生のアンケート」
某雑誌のアンケート。「問。どんな小説を読みたいか。答。ナンニモ読ミタクナイ。人ノ目ハ字ヲ読ムタメノ物デハナイ。」
あはは。

その四「もし漱石の嫂になっていれば」
漱石の父は明治十四年に警視庁警視属となった。部下のひとりに樋口則義という男がいて親しくなった。樋口には娘がいた。漱石の兄にどうかという話になったが、結局実現しなかった。樋口の娘とは一葉のことなり。
へえ!知らんかった。

その五・・・・いや、もうやめよう。(笑)こういうお話が、出久根達郎さんの書物や作家をめぐるエッセイには満載されている。
さすがに長年の古本屋渡世の本にまつわる知識は底知れない。

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2006/02/25

『わがこころの加藤楸邨』

『わがこころの加藤楸邨』石寒太(紅書房/1998)は、石寒太さんの主宰誌「炎環」十周年を記念して書き下ろされた本。
石さんは、楸邨が還暦を過ぎた昭和40年代以降に門下となった人(はじめ角川書店の編集者。のちに毎日新聞社に転職)だが、講談社の加藤楸邨全集刊行の実務を担当するなど晩年の楸邨のもっとも信頼厚い愛弟子だったらしい。

本書を読むと、つねに自分の詩嚢を肥やすことに心をつかい、若手からでも貪欲に表現の手法を吸収し尽くそうとしたこの楸邨という俳人が、俳壇だけにとどまらず、ひろく現代詩や短歌や小説などのジャンルの表現者からも、人望をあつめていた理由がなんとなくわかるような気がする。
ただしこの本は門人による贔屓の引き倒しかというと、必ずしもそうでもなく、たとえば最晩年に句碑を建てたり、文化勲章を受けたりしたことについては、ホンネでは最後まで「抵抗の詩人」でいてほしかったと思うなんて率直に書いてあって、こういう風にある意味では突き放した見方を互いに許すというところが、「寒雷」の流儀でもあったのかなという感想をもった。

たとえば楸邨の結社誌「寒雷」を十五年間もの長きにわたって編集長として支えてきたのは森澄雄さんだが、本書の中に石寒太さんが「俳句アルファー」の取材をしたときの強烈な森澄雄さんの恨みつらみが出てくる。(この石寒太編集長による俳人インタビューはまとめてムックにもなった。桂信子や永田耕衣などがまだ生きていた最晩年のインタビューで、家に置いていた筈なのだが、探したが残念ながら出てこなかった)

「楸邨は自分のことだけが大切だったんだ。われわれのことなど、少しも思ったことはない。第一、ぼくを俳句作家として認めていなかった。『寒雷』の編集をしても、ありがたいとも思っていなかったし、すまない。とも思っていなかった・・・・」(中略)
「そうですか。じゃあ、楸邨は、俳句作家としての森澄雄を、恐れていたんじゃあないんでしょうか」
少し気が引けたが、そんなふうに問いかけてみると、
「いや!そんなことはない。楸邨はぼくを憎んでいた。その証拠に、安東次男・川崎展宏君が読売文学賞を受賞した時は、大変喜んで受賞式に出席し、お祝いの言葉も述べたのに、ぼくの時は、頼んでも来てくれなかった。楸邨には、そういう冷たいところがあった!」
きっぱりといった。それ以上ふれると、すぐに涙をこぼさんばかりの形相であったので、それ以上は何もいわなかった。
俳句結社はなにより人間の集団だから、出会いの喜びも、信頼や敬愛もあるだろう。堂々とした競争での昇進や停滞もあれば、ごますり坊主や廊下鳶や足を引っ張る下司がのさばる理不尽もあるだろう。そこには妬みや反感も生まれるし、離反も、決別もある。
つまりはサラリーマンの世界とかわるところはないのだと思う。

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2006/02/22

ISLAND / ALISTAIR MACLEOD

『Island: The Complete Stories』Alistair MacLeod (Vintage Books/2002)を読む。
タイトルにあるように、アリステア・マクラウドの全短編集である。もっとも全部といっても、寡作で知られる作家だけに、わずか16編にすぎない。題名と発表年は次のとおり。

  The Boat (1968)
  The Vastness of the Dark (1971)
  The Golden Gift of the Grey (1971)
  The Return (1971)
  In the Fall (1973)
  The Lost Salt Gift of Blood (1974)
  The Road to Rankin's Point (1976)
  The Closing Down of Summer (1976)

  To Every Thing There Is a Season (1977)
  Second Spring (1980)
  Winter dog (1981)
  The Turning of Perfection (1984)
  As Birds Bring Forth the Sun (1985)
  Vision (1986)
  Island (1988) 
  Clearances (1999)

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ふたつに分けたのは、中野恵津子さんによる翻訳、『灰色の輝ける贈り物』と『冬の犬』に対応させたため。

わたしは、『冬の犬』をまず翻訳で読み、長編の『彼方なる歌に耳を澄ませよ』(同じく中野訳)を読んで圧倒された。残る短編もぜひ読みたいと思ったのだが、どうせなら英語で読んでみようと思ったのである。そうすれば、『冬の犬』に収められた短編も英語で再読できるわけだし。

中野恵津子さんの翻訳の文章は、わたしは好きなのだが、マクラウドの原文は訳で予想したよりすこし難しいかな、という印象をもった。後半の短編は、すでに翻訳で読んでいるので比較的短時間で読めたが、前半は初めてだったせいか結構読み進むのに手間がかかったし、最後までうまく理解できない箇所も残った。(しかしそれはあまり気にならない。理由はあとで述べる)

2001年7月に行われたというこちらのインタビュー記事を読むと【ここ】マクラウドの文章の特徴が見えるような気がする。彫心鏤骨という言葉があるが、丹精をこめてひとつひとつのセンテンスを書きあげ、一度書いた文章は最後までほとんど手直しをしないという。また最初から、エンディングの一行が決まっているというスタイルは、ほんとうかどうかは定かではないが三島由紀夫などもそういうことを好んで言っていたように思う。
面白いのはかれの執筆手法で、ノートの右半分に原稿、そして左半分にはさまざまな印象の記録、覚え、スケッチなどを書いているというのだな。このノートは、研究者なんかには面白いだろうなあ。

またこのインタビューで、印象に残ったことが他にも二つある。

ひとつは、かれは『彼方なる歌に耳を澄ませよ』を書いたときに、悪者が一人もいないようにしたかったと語っていること。もちろんあの作品の中にも、最後には殺しあいに至るような人間関係もあるわけだが、すくなくとも邪悪さをもった人間はたしかにいないようだ。小説のなかに悪者をつくってそいつをやっつけるなんてのは安易すぎるだろ、とかれは答えているのだが、「でもそれってディケンスなんかにはよくありますよね」とインタビュワーのクレイグ・マクドナルドに突っ込まれて「うん、まあそうね」と苦笑している。(マクラウドは、65歳で辞めるまで、ディケンスなどの19世紀英文学とクリエイティヴライティングを教える大学教授でもあった)

もうひとつは、かれは自分の小説を書きながらそれを声に出して読んでいるというのだな。かれによれば、人間にとって声に出して語るというのは、ものを書いたり、読んだりするより起源の古いもので、自分はむしろそのようなストーリー・テラーでありたいと願っているというのだ。「これはだから、大半のわたしの小説が、語りに一人称を使っていることの理由なのさ」というわけだ。
実際、『ISLAND』の前半は初読で文章をきちんと理解するためには多少時間もかかったのはやむを得ないとしても、ところどころ意味が最後まで不明なところもあった。しかし、この作品についてはそれがあまり気にならないと先に述べた。なぜ気にならないのかといえば、わたし自身が、わからないところは多く声に出して、その文章を読んでいたためである。声に出して読むと、わからない部分はわからないままで、なんとなくわかってしまうのであります。
乱暴な話だが、まあ、物語なんてそういうもんだということがわかる人にはわかるだろう。

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2006/02/21

THE有頂天ホテル

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久しぶりに屈託なく笑った。

たまたま現実の社会でも民主党の永田寿康(ひさやす)議員が、トップ屋に踊らされて、捏造メールを国会で振り回し、大恥かいてどこかに潜伏中という顛末のようだが、この映画では佐藤浩市がマスコミから逃れてホテルに籠った若手政治家という役どころ。気のせいか劇場で失笑が漏れていたのは、この永田議員に連想が働いたからではなかろうか。

公開中の映画のネタバレをする趣味はないので、ストーリーは書かないが、たくさんの上手い役者が、いかにもその人のキャラらしい役柄で登場するのが楽しい。
伊東四朗の間抜けな総支配人のドタバタ追跡劇。篠原涼子のコールガールの愛らしさ。オダギリジョーの変人ぶり。唐沢寿明のほとんど変装のような芸能プロダクション社長。(わたしは一緒に行った家内にあとで教えられてはじめて気付いた)西田敏行の演歌歌手はいったい誰がモデルかしらと気になるし、松たか子のサングラス姿はなんの映画のパロディだろうと考える。(ヘップバーンかしら)
もちろん、そういうキャラをつくった脚本の三谷幸喜さんが上手いということになるのだろう。

映画を見終わっても、しばらく「ドンキホーテ サンチョパンサ ロシナンテ アンド オレ」という歌が耳について、気がつくと歌っていたりするのは、どうやら、わたしだけではないようだ。(笑)
ちなみにこの歌は甲本ヒロト作詞作曲の「天国うまれ」。いい歌ではないか、まだまだ立ち直れそうな気がしてくる。

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2006/02/18

1から100

100518736_1d0d285592街歩きや散歩のときに小さなデジタルカメラをポケットに入れておき、面白いものを見つけるたびにスナップするのは楽しい。ちなみにわたしの偏愛するアイテムはマンホールの蓋であるが、これはなかなか人通りがあるところでは撮るのがむつかしい。(実際にやってみればわかる)それでなくとも、昨今は怪しいヒトに間違われかねないご時世だ。いやはや住みにくい世の中になったものであります。

というわけで、最近はいつも手ぶらで街に出るのだが、そんな弱気なカメラボーイから見ると、よくもまあ、撮ったもんだよなという写真をFlickrで発見。
いやお見事。
こういう住居表示「Property Numbers」と呼ぶらしいね。

photo by LeoL30
thanks for sharing!

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2006/02/15

詞華集『宋詩選注 』

『宋詩選注 』は題名のとおり宋詩の詞華集(アンソロジー)である。
詞華集はしばしば花束にたとえられる。どの詩を採りどの詩を採らないかが、この花束の値打ちを決める。銭鍾書は「序」においてこう語る。

韻を踏んだだけの「文書」は選ばなかった。学問のひけらかしや、典故・成語の曲芸も選ばなかった。尊大不遜に前人を真似た、えせ骨董品も選ばなかった。前人の表現・内容をうわべを変えただけで、少しの新しさも加えず、古い品物をさも新しいものであるかのように仕立てあげた作品も選ばなかった。(中略)
佳句はあっても、一篇を通してあまりに釣り合いのとれていないものは選ばなかった。これが本当の割愛である。
当時ひろく伝えられ人口に膾炙したものでも、いま現在、好さを見出せないものも選ばなかった。この種の作品は、さながら漏電した電池のようである。読者の心の電線がそれらとたしかに接触したかに見えても、もはや往時の光芒を放つことを不可能にさせている。
自分がした少しばかりの発掘の努力を示すために、頑なに見慣れない作品を選んだり、文学の骨董を古典文学の中に混ぜこぜにしたりはしなかった。もし見慣れない作品がすでに血が通わなくなって虫の息も漏れぬほどであれば、静かに永遠の眠りについていただくのが一番好い。(中略)
選択の過程で心づもりが砕け、目がくもった時もあった。その結果、これらの基準に背いて、きっと採るべきものを欠いたり、不必要なものを採ったりという誤りを犯したに相違ない。
とりわけ、大作家に対しては、公平とはいえぬところが必ずやあるに違いない。どんな詩の選集においても、マイナー・ポエットが常に得をする。全部で数首しか残存しないマイナー・ポエットであればなおのことである。なぜならば、彼らには好作品ばかりが少数あるだけで、いっしょくたにしてショーウィンドウに陳列できるので、それを見れば読者は必ずやうっとりするに相違なく、その見本の品が彼らの全財産であることがわからないであろうから。
この中で自分の立てた基準に背いて、自分の目がくもったために選択を誤ったことがきっとあるに違いない、という言葉には少し注意が必要だ。銭鍾書がこの仕事をした1950年代は、いわゆる反右派闘争が過酷に繰り広げられた時期にあたる。本書はシリーズものの叢書の一冊であり、どの詩を選ぶかは当時所属していた北京大学文学研究所の会議によって決定された。当然、この状況のもとで、党の方針(文学や芸術は政治の指導により無産階級労働者に奉仕するものでなければならない)を遵守しながらこの『宋詩選注 』というアンソロジーは編纂された。銭鍾書の純粋な美意識だけで執筆されたわけではなかった。だから、本書には農民の苦しみを訴える社会批判詩の比重が高い。
にもかかわらず、この本の初版が出版されるや、真っ先に投げつけられた評価は「資産階級(ブルジョワ)的考え方の研究者による唯心主義的選集」というものであり、当時の政治状況の中ではむろん最悪のものだった。

しかし、わたしは面白いと思うのだが、半世紀前に共産党によって強調するように指導された古典のなかの社会批判という側面が、いま現在では、そのまま現政権の体制批判として読めるということだ。
『宋詩選注 』の一巻だけでも、農民や貧民の塗炭の苦しみ、これに対する富商や王侯貴族の無関心と奢侈、また税や兵役を通してあらわれる小官吏の苛斂誅求などが繰り返し語られる。しかし小官吏は地方の党員、王侯貴族は中央の政治家、富商は沿海部の資本家に変わっただけであろう。
文芸はときに皮肉な働き方をする。

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2006/02/14

銭鍾書『宋詩選注』のこと

『宋詩選注 (1)』銭鍾書/宋代詩文研究会・訳注(東洋文庫/平凡社/2004)を読む。
全部で四巻の本で、読み終えたのはまだ一巻だけだが、詩を読み、注を読み、訳を読み、またはじめの詩に戻り、さらにまた注を拾うといったように、頁を前に後ろに、行ったり来たりする本だから、一巻を通読したと言っても、実質的にはまだ十分に読んだとは言えない。とは言うものの、とりあえず、まずは四巻までこれからゆっくり読んで行けるということを考えるだけで心豊かになれるのも事実。いや、すごい本です。

以下は自分用の覚えとして。(内山精也氏の巻末解説による)

銭鍾書(1910ー1998)、字は黙存、号は槐聚。江蘇省無錫の名家の出身。父親も著名な学者であった。
中学をアメリカ系の全寮制ミッションスクール(六年制)に学ぶが、三年のときに閉校となったため同系列の無錫輔仁中学に転校。英語と国語は常に首席。
1929年、最優等で中学を卒業、同年、北京の清華大学外国語言文学系に入学。入試では数学が百点満点中、十五点しかなく規定では不合格であったが、英語と国語がともに抜群の成績で首位であったので、特別裁量で合格とされたという逸話がある。
清華大学時代の銭鍾書は図書館に入り浸り、西洋文学と国文学に兼通し、清華の「三傑」、「人中の龍」とも称される学生であった。大学院への進学を懇請されるも「清華には銭某を指導する資格のある教師は一人もいない」と豪語してこれを断ったという。
1933年清華大学を卒業、上海の光華大学の講師となる。(このとき父の銭基博も同校の国文系主任であった)
1935年清華大学で知り合い婚約していた楊絳(ようこう)と正式に結婚、同年、官費留学生の資格を得て夫婦でオックスフォードへ。1937年までの二年間の大半をボドレイアン図書館で過ごす。「十七、十八世紀英国文学における中国文学」を卒業論文として提出、学士号(B.Litt.)を取得。
1937年パリ大学に留学するが、日中戦争の全面的拡大に帰国を余儀なくされる。このとき二十八歳。

この後の銭鍾書については、日中戦争、国共内戦、文化大革命、開放政策という中国現代史のなかで、翻弄される知識人の典型的な生涯をたどることになるが、それよりも重要なことは、そういう過酷な社会情勢のなかで、超弩級の学問的な著作や文学的な営為を行っていたということであるらしい。

この銭鍾書という人物だけを専門的かつ総合的に研究する「銭学」という学問領域が今日の中国にはあり、それは一部の好事家のみに通用するような特殊な呼称ではなく、ひろく一般化された言葉であるという。
内山氏の「解説」から——

文革世代や改革開放後の若き知識人にとって銭鍾書は、彼らの常識をはるかに越えた知的スケールをもつ巨人であった。現代の貴種流離譚よろしく、同時代の同胞にそういう超級(スーパー)知識人が存在したということが、彼らには驚くべき発見であっただろう。その驚きはすぐさま憧憬と敬慕とに変わり、やがて彼らの知的好奇心が向かう対象となった。銭鍾書という「ブラック・ボックス」はどのようにして作り上げられ、またいったいどのような構造をもつのか、こういう素朴な知的関心が、今日の「銭学」を基盤から支えている。
これが今日21世紀の中国の銭鍾書に対する評価であるが、もちろん文革期には銭鍾書は「反動的学術権威」のレッテルとともに紅衛兵による心身の拷問にさらされた。この時期に紅衛兵の暴力により殺されたり、不具にされたり、自殺に追い込まれた知識人は数知れない。このとき、この銭鍾書の苦境を救ったのは、次のような事情も関係があったらしい。解説の注記より引用する。
『宋詩選注』の初版が刊行されて間もなく、日本では小川環樹氏によって本書の書評が発表されている(京都大学『中国文学報』第一〇冊、一九五九年)。この書評は中国国内にも伝えられ、小川氏が本書に与えた最高級の評価が当時の銭氏に向けられた批判の声を鎮め、彼を苦境から救ったという。(中略)孫氏「銭鍾書京都座談記」参照。
銭鍾書が京大を訪ねたときの座談だから多少は割り引く必要もあるが、日本人の一人として、誇らしく思うエピソードではある。

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2006/02/11

草田男って「ちょい悪オヤジ」という俳人

「角川俳句」2月号の「本当に名句なのか?評価の分かれる有名句」という特集のなかに、先日【ここ】、戦前の俳句弾圧事件とのからみで取り上げた中村草田男の句が俎上にあがっていた。

  金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り   草田男

じつはわたしの記事では初め「鉤」の字を「鈎」と間違っていたのだが、メールで誤りを教えていただいた。「彼奴」は「きゃつ」と読む。

さてこの特集、一句について五人の俳句作家が「既存の評価にとらわれずに論評する」という企画である。たいへん結構なことである。
ということで、この句をご担当なさった五人の先生様のお名前と、その御論評のポイントをあげさせていただく。(という書き方でわかるように、わたしはもう、久しぶりにかっか頭にきているよ(笑))

上野一孝氏 「ものを食べるということの原罪を描いた句であろう。」「ある種の功名心めいたものを感じる。」

片山由美子氏 「感情を剥きだしにしたもの」「憎しみもここに極まる」

渡辺誠一郎氏 「花鳥を愛でる世界からは最も遠い世界」「ブラックハイカイ」

如月真菜氏 「このチョイ悪な句」「団塊世代のファンタジー」

高山れおな氏 「この人はお肉の巨匠なのかも」

わたしは、思わず「はあー?」と心の中で叫んでしまった。
既存の評価にとらわれないことはよい。しかしこういう人口に膾炙した作品について、なにか論評することを求められれば、最低限、この句がどの句集に載っているか、いつごろ作られた句なのか、初出はどの句誌であったのか、そのときの作者が置かれていた社会的な状況はどうであったのか、は当然頭に置くべきではないのか。

先日のエントリーを繰り返すことになるが、初出は「ホトトギス」昭和14年、石田波郷、篠原梵、加藤楸邨たちとの座談会がきっかけで人間探求派と称された年である。この動きが、ホトトギスのなかで問題とされ、鶏頭陣の小野撫子が虚子を時局にからめて恫喝、撫子に取り入るもの、草田男の句を非国民呼ばわりして撫子に迎合する者、追い込まれた草田男は虚子に累が及ぶのを恐れてホトトギスを去る。そしてこの句を含む出句が草田男のホトトギスへの最後であり、虚子はこれを巻頭に据えたのだ。
その人物の俳句が無季であったり自由律であったり、あるいは伝統俳句を尊重しなかったりするのは、その人物の思想が赤化している証拠であると特高に検挙されて獄中で死んだ人間が本当にいた時代の話だ。笑い話ではない。

それらを知った上で、あらチョイ悪ぶったオヤジが、カッコつけちゃった句でしょこれ、と言ってのけるなら、ただの阿呆である。

作品をひとつのテクストとして、ほかの情報を一切排除して自由に解釈し味わえばよいという考え方もあるかもしれない。
それはわたしにも理解できる。
しかし、調べれば簡単にわかるのにその手間をかけず、テクスト批評という手法を作品を貶す場合に使うのは、わたしはフェアではないと思う。

上の五人のなかで片山氏と渡辺氏については、その憎しみの源がなんであるかは書かずともある意味ではきちんと受け止めておられる。しかし、いささか冷笑的なニュアンスは五人に共通する。とくにひどいのはいうまでもなく、如月氏である。
先人の俳句を批判的に(本当に名句なのか?)論評してくださいと俳句総合誌に言われて、ほいほい承諾、下調べもせず、よくも平気の平左でこんなお粗末で品のない文章が書けるものだと、その度胸には感心する。
書かせて掲載する俳句総合誌の編集長の見識もご立派なものだと申し添える。

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2006/02/09

冬の飛将軍

池内紀さんの『森の紳士録』(岩波新書/2005)は、山歩きで出会った(あるいは出会いはしなかったがその存在を山中で感じた)動物や植物を、「無口な友人たち」として紹介した二十四編の気持ちのよい随筆。そのなかのモズの項目に、尾崎喜八の詩が紹介されている。
尾崎喜八については池内さんはただ「文人登山家」とだけ書いておられるが、ちょっと調べてみると、これはなかなか面白そうな人だな。【ここ】
とりあえず、この「もず」という詩を池内さんの本から転記してみる。池内さんは、二つにわけて間にご自分の文章を挟んでおられるが、つなぐとこんな詩になる。これ、いいです。

もず

秋の夕日をつんざくもずの高音。
冬の飛将軍、彼は
梢のもつとも高い尖端で光と空気とに酔ひ、
遠方の地平線に
おもひを飛ばして鳴きしきる。
あの国境の山脈を、
其処をいろどる朝日の寒さを、雪を、
いちはやく無心に感じながら、
放胆に、不敵に、
ロバート バアンスのやうに彼は歌ふ。

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2006/02/08

みすず読書アンケート

図書館で「月刊みすず」1・2月合併号の読書アンケートをぱらぱらと眺める。
新刊、旧刊を問わず昨年出会った本の中から5冊以内を選んで一言、という方式で、全部で176人の方が回答を寄せておられる。

この月刊誌の性格から言って、「どう、ハイブロウでしょ、アタシたち」という匂いがぷんぷんして嫌らしいことこの上ないのだが、もともとそういうスノッブな世界が嫌いではないので、楽しく読んだ。ははは。

もちろんこの企画は、各界の専門家による読書案内という風に素直に取ればいいので、そこにへんな嫌らしさを見て取るのは、まあ、わたしの品性がその程度であるということであります。すまん。

しかし、今日の内田樹さんのブログの「『論座』からのご挨拶」と題するエントリーにも似たようなことが書いてあって可笑しかった。【ここ】

『論座』の取材。
「書棚拝見」という企画で、書棚の一角を撮影し、それが誰の書棚であるかを推理しつつ頁をめくると本人のインタビュー・・・という構成である。
(中略)
この企画は「どういう本を並べているか」を見るのではなく、「どういう本を並べていると『ちゃんとした教養人に見える』と思っているか」を見る企画だったのである。
人の悪い企画である。
こういう読書アンケートというのも、まあ似たようなものかも知れない。

だから、昨年の本の中からわざわざ『NANA』矢沢あい(リボン・マスコット・コミックス)なんてのを選んで、これ見よがしな文章書いてる人なんてのは、かえってくだらない、なんて思っちゃうんだなあ。いやはや、知識人のみなさんの読書アンケートは難しい。

さて、前置きが長くなったけど、書こうと思ったのは、そういう自意識過剰なアンケートのことではない。この読書アンケートに長田弘さんが寄せた回答がとても印象深かったということを書こうと思っていたのだな、じつは。
前半を引用してみる。

二〇〇五年という一年の本の記憶は、わたしの場合一書に尽きるといってよく、噂に聞きながら、完結してはじめて手にした銭鍾書『宋詩選注』(全四巻、宋代詩文研究会訳注、東洋文庫、平凡社)がくれた読書の時間は、最良の時間でした。宋詩のみごとなアンソロジー。
はなやかな唐詩とちがって、目立たないとされる宋詩ですが、『宋詩選注』に刻みこまれた、宋詩をわたしはこのように読むという潔い読みのむこうには、日本ではなお未知にとどまる銭鍾書という(六〇年代末からの文化大革命期には「反動的学術権威」として激しく誹謗された)大いなる同時代人の生きた、二十世紀の中国の「無語」の奥行きがひろがっています。
銭鍾書という学者がどういう人であるのか、もちろんわたしは知らないが、長田さんのこの一文を読み終えるや、ただちに東洋文庫の書棚に赴き『宋詩選注』を借り出したことは言うまでもない。

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2006/02/04

前田普羅の密告者疑惑

じつは前回紹介した『新興俳人の群像』には思わず「えっ」と驚くような記述がある。

京大俳句事件以後、全国の特高警察は新興俳句運動にかかわった人間を治安維持法違反容疑で次々に摘発して行くのだが、そのなかのひとつに秋田県の「蠍座」事件というのがある。昭和十八年十二月六日、秋田県の俳句同人誌「蠍座」の俳人二人が、無季自由律でプロレタリアリアリズムの手法による俳句を掲載して同人の左傾化を図ったとして検挙された。このとき検挙された高橋紫衣風という人物が、担当の警部からこんな話を聞かされたというのだ。『新興俳人の群像』から抜いてみよう。

「蠍座」関係者の検挙は、撫子の死後十ヶ月後だった。撫子の生前から特高は、探りを入れていたものと想像される。というのも、捕まった高橋は、担当の特高警部が密告者の張本人として「小野撫子と伊藤(注・ 伊東の誤り)月草、前田普羅、県内では小島彼誰(別号・夕雨=撫子の門下生)」の四人を名指しで挙げたといい、この事件でも撫子の名が最初に出ている。(P.198)
引用は、小野撫子が、この一連の弾圧事件の背後にいたことを裏付けるためのものだが、この密告者のなかに前田普羅の名前が挙がっていることに驚いたのだ。
小野撫子が、俳人仲間を特高に売って、あるいは売るぞと脅して俳壇のなかで勢力を広げて行ったことは、昭和の俳壇史でいろいろな人が証言している。伊東月草も、日本文学報国会編の「俳句年鑑」で皇道主義の俳句を唱導した人物だから、特高の手先であっても別に驚くようなことでもない。小島夕雨(かわたれ)という俳人は、秋田の俳人で地元には句碑が立っているような人物らしいが、くわしいことは知らない。
しかし、俳句愛好者であっても、この三人を知る人はいまではほとんどないだろう。
一方、これに比べて、前田普羅は俳句の世界では知らない人はいないような大物である。
それはたとえば山本健吉の『定本現代俳句』の目次を見れば一目瞭然である。頭からこのように並ぶ。

  正岡子規
  夏目漱石
  高浜虚子
  村上鬼城
  渡辺水巴
  飯田蛇笏
  原石鼎
  前田普羅
  久保田万太郎
  (以下略)

前田普羅。大正期の「ホトトギス」の大看板の一人であり、いまでもその清冽な山岳俳句を愛唱する人は多い。報知新聞富山支局長、読書家、蔵書家、科学と山を愛した人物。
 
  奧白根かの世の雪をかがやかす  前田普羅
  雪解川名山けづる響かな
  春雪の暫く降るや海の上  

これらの句のイメージと知人を思想問題で特高に密告するという陰湿な人物像がうまく重ならないのである。わずか一行にも満たない箇所だが、この記述は本書の中では重い。
正直に言って、わたしはショックを受けた。「蠍座」事件の当事者が特高からこのように聞いたという証言はおそらく事実だろう。しかし、問題はこの特高警部が被疑者にばらした談話がきちんと裏付けられる話なのかどうかだ。本書の著者である田島和生さん自身はこれについてはなんの補足もしておられないが、読者としてはここはもっと掘り下げてほしかったところである。

俳句結社というのは、ある意味では師系が命だ。ホトトギス―「辛夷」(前田普羅の結社)に淵源をもつ俳句結社がどれほどあるのか、わたしは詳らかにしないが、前田普羅は特高の密告者(イヌ)だったという証言を載せている本書に対してなにか動きはあるのだろうか。それとも結社主宰のみなさんはあんまり関心がないのかな。

本書を昨年の評論賞として推したのは俳人協会である。実際にはあまりそういう意識はないのかも知れないが、俳人協会はある意味では新興俳句運動の伏流水のような面がある。(拙ブログ「俳壇の組織」参照)選考委員にはそういうホトトギス系の触れてほしくない過去の清算のような意識があったのかどうか。

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2006/02/02

『新興俳人の群像—「京大俳句」の光と影 』

4784212515『新興俳人の群像—「京大俳句」の光と影 』田島和生(思文閣出版/2005)は、昨年度の俳人協会評論賞(第20回)を受賞した労作。新興俳句運動や京大俳句事件の概要を知る上で、巻末の資料ともども貴重な一冊となるだろう。
とくにわたしにとって興味深かったのは、たとえば以下のような事実だ。

昭和十九年(1944)に発行された日本文学報国会編の「俳句年鑑」。
参加者は五〇七人、一人五句ずつという構成である。日本文学報国会俳句部会長は虚子だから、普通ならば会長の序文があって然るべきだろうが、虚子は序文を寄せていない。(このあたりはしたたかとも言えるし、虚子のよく見える目、冷徹に身を処する凄さとも言えるかも知れぬ)
冒頭の言は伊東月草で、「自由主義、個人主義の上に立つ、芸術至上主義、乃至享楽的耽美主義を清算し、新しい世界観の樹立と、皇道主義、全体主義の上に立つ新しい文学理念」によって俳句はつくられねばならぬと記している。いまから見れば、見苦しいただのお調子者の阿呆だが、もちろん、その当時にあっては、全員立ち上がって心からの賛同の拍手をしなければならないような雰囲気であっただろう。
この「皇道主義、全体主義の上に立つ新しい文学理念」の俳句として、昭和十六年十二月八日(太平洋戦争の開戦日)の「感激を直接うたひあげた作品」が並ぶ。

 大詔煥発桶の山茶花静にも      渡辺水巴
 うてとのらすみことに冬日凛々たり  臼田亜浪
 かしこみて布子の膝に涙しぬ     富安風生
 冬霧にぬかづき祈る勝たせたまへ   水原秋櫻子

これに対して、同じ年鑑には、

 花ちるや瑞々しきは出羽の国     石田波郷
 ゆく雁の眼に見えずしてとゞまらず  山口誓子
 外套の裏は緋なりき明治の雪     山口青邨

などという後年の代表句のひとつにもなるような句もある。とくに石田波郷の句は見事だという外はない。時局に迎合し保身にこれつとめる先輩たちを尻目に、平生とまったくかわらぬ詠いぶり。
この時期、文学報国会を影で操っていたのは、悪評の高い常務理事、小野撫子(ぶし)で、本書のなかにこの撫子が秋櫻子を脅して無理矢理、波郷を馬酔木から除名させた件が出てくる。あれは非国民だ、あんなのを身内においているとあんたの身の保証もできませんぜ、てな調子であったらしい。

中村草田男もまた、撫子に狙われた一人だが、昭和十四年七月の巻頭が「ホトトギス」発表の最後となった。俳壇が右傾化する一方の時代にこんな句をつくっていた。
 
 人あり一と冬吾を鉄片と虐げし   中村草田男
 金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り

いうまでもなく、これは虚子の選。虚子という男も剛胆ではある。

この話題、もう少し続ける。

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2006/02/01

1月に読んだ本

『日本文学と漢詩 外国文学の受容について』中西進(岩波セミナーブック/2004)
『昭和詩史—運命共同体を読む』大岡信(思潮社/2004)
『漱石全集〈第4巻〉虞美人草』(岩波書店/2002)
『ネアンデルタール人類のなぞ』奈良貴史(岩波ジュニア新書/2003)
『地中海5 出来事、政治、人間 2』フェルナン・ブローデル/浜名優美訳(藤原書店/1995)
『素白先生の散歩』岩本素白/池内紀編(みすず書房/2001)
『プロポ〈2〉』アラン/山崎庸一郎訳(みすず書房/2003)
『作者を出せ!』デイヴィッド・ロッジ/高儀進訳(白水社/2004)
『デリダ CenturyBooks—人と思想175』上利博規(清水書院/2001)
『胎児の世界—人類の生命記憶』三木成夫(中公新書/1983)
『アーリオ オーリオの作り方』片岡護(集英社文庫/1999)
『生きることを学ぶ、終に』ジャック・デリダ/鵜飼哲訳(みすず書房/2005)
『チャター』パトリック・ラーデン・キーフ/冷泉彰彦訳(日本放送出版協会/2005)
『博徒の幕末維新』高橋敏(ちくま新書/2004)

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1月に観た映画

ハリー・ポッターと炎のゴブレット(2005/アメリカ)
監督:マイク・ニューウェル
出演:ダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリント、エマ・ワトソン

ジョゼと虎と魚たち(2003)
監督:犬童一心
出演:妻夫木聡、池脇千鶴、新井浩文、上野樹里

キッズ・リターン(1996)
監督:北野武
出演:金子賢、安藤政信、森本レオ、石橋凌、山谷初男、大家由祐子

サイドウェイ(2005/アメリカ)
監督:アレクサンダー・ペイン
出演:ポール・ジアマッティ、 トーマス・ヘイデン・チャーチ、ヴァージニア・マドセン、サンドラ・オー

リストランテの夜(1996/アメリカ)Big Night
監督:スタンリー・トゥッチ
出演:スタンリー・トゥッチ、トニー・シャルーブ、イアン・ホルム、イザベラ・ロッセリーニ、アリソン・ジャーニー

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