前田普羅の密告者疑惑
じつは前回紹介した『新興俳人の群像』には思わず「えっ」と驚くような記述がある。
京大俳句事件以後、全国の特高警察は新興俳句運動にかかわった人間を治安維持法違反容疑で次々に摘発して行くのだが、そのなかのひとつに秋田県の「蠍座」事件というのがある。昭和十八年十二月六日、秋田県の俳句同人誌「蠍座」の俳人二人が、無季自由律でプロレタリアリアリズムの手法による俳句を掲載して同人の左傾化を図ったとして検挙された。このとき検挙された高橋紫衣風という人物が、担当の警部からこんな話を聞かされたというのだ。『新興俳人の群像』から抜いてみよう。
「蠍座」関係者の検挙は、撫子の死後十ヶ月後だった。撫子の生前から特高は、探りを入れていたものと想像される。というのも、捕まった高橋は、担当の特高警部が密告者の張本人として「小野撫子と伊藤(注・ 伊東の誤り)月草、前田普羅、県内では小島彼誰(別号・夕雨=撫子の門下生)」の四人を名指しで挙げたといい、この事件でも撫子の名が最初に出ている。(P.198)引用は、小野撫子が、この一連の弾圧事件の背後にいたことを裏付けるためのものだが、この密告者のなかに前田普羅の名前が挙がっていることに驚いたのだ。
小野撫子が、俳人仲間を特高に売って、あるいは売るぞと脅して俳壇のなかで勢力を広げて行ったことは、昭和の俳壇史でいろいろな人が証言している。伊東月草も、日本文学報国会編の「俳句年鑑」で皇道主義の俳句を唱導した人物だから、特高の手先であっても別に驚くようなことでもない。小島夕雨(かわたれ)という俳人は、秋田の俳人で地元には句碑が立っているような人物らしいが、くわしいことは知らない。
しかし、俳句愛好者であっても、この三人を知る人はいまではほとんどないだろう。
一方、これに比べて、前田普羅は俳句の世界では知らない人はいないような大物である。
それはたとえば山本健吉の『定本現代俳句』の目次を見れば一目瞭然である。頭からこのように並ぶ。
正岡子規
夏目漱石
高浜虚子
村上鬼城
渡辺水巴
飯田蛇笏
原石鼎
前田普羅
久保田万太郎
(以下略)
前田普羅。大正期の「ホトトギス」の大看板の一人であり、いまでもその清冽な山岳俳句を愛唱する人は多い。報知新聞富山支局長、読書家、蔵書家、科学と山を愛した人物。
奧白根かの世の雪をかがやかす 前田普羅
雪解川名山けづる響かな
春雪の暫く降るや海の上
これらの句のイメージと知人を思想問題で特高に密告するという陰湿な人物像がうまく重ならないのである。わずか一行にも満たない箇所だが、この記述は本書の中では重い。
正直に言って、わたしはショックを受けた。「蠍座」事件の当事者が特高からこのように聞いたという証言はおそらく事実だろう。しかし、問題はこの特高警部が被疑者にばらした談話がきちんと裏付けられる話なのかどうかだ。本書の著者である田島和生さん自身はこれについてはなんの補足もしておられないが、読者としてはここはもっと掘り下げてほしかったところである。
俳句結社というのは、ある意味では師系が命だ。ホトトギス―「辛夷」(前田普羅の結社)に淵源をもつ俳句結社がどれほどあるのか、わたしは詳らかにしないが、前田普羅は特高の密告者(イヌ)だったという証言を載せている本書に対してなにか動きはあるのだろうか。それとも結社主宰のみなさんはあんまり関心がないのかな。
本書を昨年の評論賞として推したのは俳人協会である。実際にはあまりそういう意識はないのかも知れないが、俳人協会はある意味では新興俳句運動の伏流水のような面がある。(拙ブログ「俳壇の組織」参照)選考委員にはそういうホトトギス系の触れてほしくない過去の清算のような意識があったのかどうか。
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コメント
この話題、なにかが呼び寄せたのでしょう。というのも、最近はパソコンの調子が悪く自分の日記の更新さえできなくて、年が明けてからはほとんどnet上をふらふら歩くと言うことも滅多にないような状態で、かわうそ亭へおじゃましたのも久しぶりなのです。
この頃(昭18?)の普羅がどこでなにをしていたのか思い出したくて今、年譜を探そうと思っています。てもとには残念ながらないのです。また、どういうつながりで秋田県の俳句同人誌に関わりをもつようになったのかも、知りたいところです。
(普羅の評伝としては中西舗土さんのものがあるのですが、欲しいという人があって譲ってしまいました。)
1845(昭20)普羅は、富山にいて8月の空襲で焼け出されているのですが、これに先立つ鬱々とした時代を、普羅はどう過ごしていたのか、この時期富山で彼に接した人々は哲人としての風貌を彼について語っていたと記憶しているのですが。そうであればなおさらのこと、事実を――彼の時代に対する思いを、彼の俳句に対する思いを――探り出してみたい気持ちになります。
……ということで、また報告にうかがいたいと思います。
投稿: かぐら川 | 2006/02/08 22:20
こんばんわ。じつはこの話題、かぐら川さんになにかご存知かどうかお聞きしたものかと少し迷っていました。
以前に内容をお教えいただいた棟方志功の版画と普羅のことばが掲載された『普羅のことばと俳句』(非売品)のなかに、少しヒントのような言葉が残っていますね。
まず12頁。
「俳壇に探検隊が入り込んで俳壇を小馬鹿にするのは、俳壇が未開の地であるからだ。探検隊が這入らぬようにせねばならないのだが、小者ばかりが活躍する此処のジャングルの伐採を何うする。/俳句をチンコロの餌食にするな。」
続く14頁
「只彼はふるい、おれは新しいと云った大声が俚耳に入って一つの党派的形勢をなした。其上に俳句には素人であり、文学の根本探求の行きとどいて居ない人々が、非専門的に最も大胆に新興俳句に加担したことが、その火勢をさかんにしたのである。」
この本は昭和37年に門下の方が先師の言葉として再録をされたもののようですが、新興俳句を唱えた「非専門家」への激しい嫌悪だけは間違いがないように思えます。正直に云って、わたしの気持ちは落ち着きません。
投稿: かわうそ亭 | 2006/02/08 23:12
普羅ファンの小生としてはちょっとショックな記事でした。
ただ、戦前の特高の警部が尋問する相手などに正直に密告者が誰かなどを告げるかどうかということ。むしろ、探りを入れる相手(の加わる集団)などに心理的動揺・混乱を与えるため、さまざまなブラフを投げかけるのではないかとも思う。
でも、真相は分からない。もどかしいですね。
ちょっとTBしておきます。
投稿: やいっち | 2006/02/10 23:35
やいっちさんの普羅に関する丁寧な記事、拝見致しました。普羅の句はわたしもいくつか暗記して口にすることができます。それだけに、この話題はどうもトゲのように胸にひかかります。
しかし「真相」は案外、どこかに残っているのではないかという気も直感的にはしています。結社の主宰というのはその言動が記憶され、また文章に書きとめられるという性格があります。戦後の普羅は1945年8月の富山大空襲で焼け出され、1949年には富山を離れているわけですけれど、かつてホトトギス四天王と呼ばれた俳人にしては戦後が、なんとなく落魄めいて感じられることは、これと無関係ではないのではないかという気がします。(間違っているかもしれません)
「辛夷」を師系とした俳句結社の主宰や幹部は当然、もっとくわしいことを知っているはずですが、仮に普羅にこのような汚点があったことが事実だとすれば、それを隠し通して、あるいは口をぬぐって俳句商売をやっていることは、汚ねえなあ、お前等、と率直に思います。
投稿: かわうそ亭 | 2006/02/11 09:12
拙日記で中西舗土『前田普羅 生涯と俳句』(1971.7)について、少しふれました。中西氏は普羅を師と仰ぐ人ですが、金沢にいた人なので普羅の身の回りの動きといった情報には良くも悪くも距離があるように見受けられます。その中西氏の本にも、戦後の普羅の孤影はあきらかです。
たしかに、普羅の疑惑については、かわうそ亭さんが引用されている“先師の言葉”にいみじくも新興俳句運動に対するある事実が露呈しているように思われます。そうしたことも含めて、普羅をおいかけてみたいと思っています。
本年もよろしくお願いいたします。
投稿: かぐら川 | 2009/01/04 00:47
晩年の孤影というのは、たぶんわたし自身の姿をそこに投影してしまうからでしょうか、あまり他人事に思えません。
じつは、今年はちょっとライフスタイルを変えてみようか、などと考えています。まだ間に合うのではないかな、なんて楽観的に思っているのですが、どうでしょうね。
あまり自分のことはブログには書かないようにして来ましたが、ちょっとスタイルが変わるかも。(笑)今年もどうぞよろしくおつきあいのほどお願いいたします。
投稿: かわうそ亭 | 2009/01/04 12:19