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2006年3月

2006/03/29

エルンスト・バルラハ

Barlach 京都国立近代美術館でやっている「ドイツ表現主義の彫刻家−エルンスト・バルラハ展」を見に行った。
わたしは、今回の展覧会で初めてこの人のことを知ったのだが、木彫りの苦行者や読書をする修道士の像などを見つめているうちに、心の底の深い場所が、静かに、しかし大きく揺れ動くような感動を覚えた。以下、パンフレットの冒頭を引く。

芸術は人間性の最も深いところに存在するものである。

Kunst ist eine Sache allertiefster Menschlichkeit.

ハンブルク近郊ヴェーデルで生まれ、生涯の大半をメクレンブルク地方の小村ギュストローで過ごしたエルンスト・バルラハ(1870-1938)は、20世紀ドイツを代表する彫刻家・版画家・劇作家です。「人間」を生涯のテーマとし、ユーモアや笑いなど生きる喜びだけではなく、貧困や飢餓そして戦争などに直面する人々の存在を、優れた彫刻、版画さらには戯曲などの文学作品に表現しました。

最晩年の1930年代、ナチスが政権を取る前後あたりから、この芸術家は迫害を受け、「退廃芸術家」としてその作品を公共施設から撤収され、経済的にも困窮のうちに亡くなっている。作品は、彫刻も版画も、20世紀の前半がどのような時代であったのかを知る手がかりになるような気がする。

京都のあと、東京と山梨で引き続き開催されるようです。

  • 東京藝術大学大学美術館   平成18年4月12日 〜 5月28日
  • 山梨県立美術館       平成18年6月 3日 〜7月17日

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ココログに苦情

気がついたら、サイドバーの下に、「ココログからのお知らせ」なる項目が、勝手についております。「なんたら日記がスタートしました!」とか、無料のサービスでもないのに、特定企業の宣伝の片棒をなんで利用者がかつがなきゃならん義務があるのか、不愉快きわまりない。デザイン設定画面でも外すことのできない仕様のようであります。某社に恨みは別にないが、勝手なことをされては困る。

伊藤園のお茶は個人的にしばらく不買運動ですな。

<追記>
デザイン編集の画面でサイドバーの項目から「ココログのロゴ」のチェックを外せば、ロゴマークと一緒に、とりあえず今回のお知らせは消せますね。別にココログのロゴは、表示していてもかまわないのだが、勝手な「お知らせまで」来訪してくれた人への情報として表示する必要はないので、全部取っちゃうことにしました。あー、メンドクサイ。

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2006/03/28

The Interpreter

「ザ・インタープリーター/ The Interpreter」をDVDで見る。
DVDにはシドニー・ポラック監督による画面サイズとその効果の違いの解説がついていて、これがなかなか面白かった。この映画はワイドスクリーンで撮られてその画面の縦横比率でDVDにされているのだが、テレビ用にパンスキャンされると、映像がどのように変化するかを、この映画のいくつかのカットをつかって説明している。
要点は、パンスキャンされた映像は画面の左右が切られてしまうので、映像に盛り込まれた情報の量が不足してしまうために、当初の映像作家の狙いが生かされなくなるということで、実際のカットをつかって説明されると、なるほどなあと納得する。こんなに違う映像になってしまうのに、わたしがつくった作品だとして観客に見られてしまうのは嫌だ、と言うのは、たしかに無理もない。

この「ザ・インタープリーター」という映画もやはり、ストーリーをきちんと理解しようと思うと、いろいろ辻褄があわない箇所や、無理な設定じゃないかしらと首を傾げるところが多くがあって、どうも気分がよろしくないのだが 、まあ、ストーリーより映像=映画の文法を読みなさい、と言われるとそんなもんかしらと思わないでもない。そういう意味では、これは映画館で見るべき映画だなと思った。

Interpreter6

しかし、なにしろニコール・キッドマンがきれいでね。あんまり悪口をいう気にはなれないのであります。

個人的に、気に入ったのは、シルヴィア(ニコール・キッドマン)の兄のノートである。どういうわけか、わたしは人の手書きのノートが気になるたちで、ああいう場面には目が釘付けになってしまうんだなあ。

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2006/03/26

ヘップバーンの終わり

book_hb03黛まどかさんが代表をつとめる結社の俳誌「月刊ヘップバーン」が先ごろ100号をもって終刊となった。「俳句で日本を素敵にする」というのが謳い文句であった。
べつに反感もないのだが、企業のPR誌かなにかと間違えるような俳誌らしくないデザインだったな。横書きのページめくりで、俳句もすべて横書きだったが、掲載される俳句は、黛さんのものも含めて新しさはあんまりなかったように思う。
そういえば、この俳誌には、わたせせいぞうのイラストのページが見開きであるのだが、俳句もまさに、このイラストの感じなんだなあ。毒にも薬にもならないというか、こういうのを、おしゃれでクールと思う人もいるだろうが、わたしはどちらかというと、薄っぺらでチープだと思っていた。(まあ、趣味の問題だから、お好きな方は気に障ったらごめんなさい)
晩年の桂信子はインタビューで「あれはあれでいいんですのよ。でもああいうのとわたしたちの(ほんとうの)俳句とを一緒にされると、ちょっと困るんです」なんてキツイことを言っていたが、まあ、これは仕方ないかもしれないなあ、と率直に思う。

何号か前から個人的にちょっと目をひいていたのが、筑紫磐井さんの講評のページ。ただしこれも中身はあんまり感心はしなかった。

「ヘップバーン」終刊号には多くの人が寄稿している。全部を比べたわけではないけれど、この内容は「月刊俳句界」(文學の森)3月号の特集と同じだな。使い回しの原稿を載せるようでは、せっかくの終刊号が泣くのではなかろうか。それとも、俳壇のセンセー方は同じ原稿を違うところに売るという習慣があるのかな。やれやれ。
おまけに金子兜太さんや坪内稔典さんは黛まどかさんのことを「俳句タレント」、「俳人タレント」と呼び、この結社を俳句タレント養成所(しかも上手く行かなかった)としてしか見ていなかったということをあけすけに書いていて、こんな文章を書かれてお礼も言わなきゃならんとは、情けないことであります。

金子兜太さんはこんな風に言う。

しかしマスメディアに流れる風の新鮮さほど、俳壇と称される主宰同人誌で形成され、それに俳句綜合誌なるものが乗っかってうろうろしている世界は新しいものに柔軟ではなかった。(いまでも同様)
別に異論はないが、俳壇が物わかりよく、柔軟である必要はなかろう。そもそも、旧秩序や旧体制に保護され育成されなきゃならんような新しい芸術運動なら、土台くだらないものに決まっているのじゃなかろうか。

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2006/03/22

虚子の結婚、碧梧桐の結婚(承前)

さて、お話はそれから三年ほどたった頃。
碧梧桐はあいかわらず無職でぶらぶら旅をしていたが、いつしか大阪は浪速の俳壇の人々とも親しくなっていた。この頃、子規=日本派に賛同するグループとして、大阪には大阪満月会があり、その若手の部会のように三日月会というのがあった。この三日月会の中心に居たのが、道修町の売薬点眼水、快通丸本舗のぼんぼんであった青木月兎(のちに月斗に改名)当時二十一歳であります。(桂信子が古くさくて嫌だと思った月斗にも若いときはあった)
明治32年10月、月兎が発行人となった俳誌「車百合」が創刊される。関西初の日本派の俳誌である。創刊号は袖珍版型62頁、表紙は下村為山筆の蜘蛛の巣の図柄であったが、浪速の満月会の大御所、水落露石の求めに応じて、子規をはじめとするホトトギス同人から祝句が届いた。(以下、引用部分は『明治俳壇史』より)

 俳諧の西の奉行や月の秋    子規
 初秋を百合咲いて花車の如し  鳴雪
 御祝に渋柿やろか芋やろか   碧梧桐
 何のせてひくや此花車百合   虚子
 聞かばやと思ふ砧を打ち出しぬ 漱石

この「車百合」発刊とほぼ期を同じくして、浪速俳壇の新進として松瀬青々は第一銀行を退職し、ホトトギス編集員として上京した。このとき、三十一歳。もっとも、この松瀬青々のホトトギス入社は虚子の専断であったらしく、子規はこの採用にはあまりいい顔をしなかった。そのせいかどうか、青々は一年たらずでホトトギスを辞めて大阪に帰り大阪朝日新聞の会計課に入った。

さて、明治33年3月のことであったという。ある日、突然、大阪の青木月兎から碧梧桐に手紙が届いた。このように書かれてあった。

拝啓。突然に候へ共、小生の妹貴兄に恋し候に付、至てふ倚りように候へ共、女房に御もち被下候はず哉。他は多く申し上げず候。頓首。
中程の「至てふ倚りよう」は「いたって不器量」ですな。妹があなたに恋をした、いたって器量は悪いが、どうかもらってやっていただくわけにはいきませんか、というのであります。月兎の妹の名前は繁栄(のちに茂栄、茂枝とも書いた)といいました。不器量とは兄の謙遜で、なかなかの美人であった、と村山古郷の『明治俳壇史』には書かれております。年頃の娘さんですから、方々から縁談が持ち込まれるのだが、どの縁談にも諾と言わない。どうしてだ、他に好きな人でもあるのかと、手を変え品をかえてしつこく問いつめると、ついに「碧梧桐さんに貰ってほしいの」と兄に打ち明けた。

ところが面白いのは、このとき、まだ繁栄さんは碧梧桐に会ったことはなかった、というのでありますね。

前年に碧梧桐が浪速に来遊したとき、兄の月兎や松瀬青々たちが親しくつきあった。その時の写真にあった碧梧桐や、根岸の子規庵で一同が会したときの写真のなかの碧梧桐を見ただけであった。それだけで、見ぬ恋にあこがれたわけだが、それにはやはり、兄の月兎が日頃から子規門下の俊秀の一人として碧梧桐の噂を語っていたことが影響していた。いまをときめく日本派の若きホープに対する崇拝。それに加えて、碧梧桐の失恋物語である。この碧梧桐の失意の日々にいたく心を痛め同情していたことも大きかった。

寒川鼠骨は後に、繁栄の碧梧桐に寄せる心情を「此君ならでは百年嫁せず」と評している。
さて、困惑したのは碧梧桐である。見たことも会ったこともない女を嫁にどうか、というのは、この時代には別に珍しいことでもなんでもないが、なにせ無職でとても一家を構える身の上ではない。思いを寄せられたことに、心は弾んだが結婚には躊躇せざるを得なかった。

だが運のいいことに、このとき以前つとめていた「京華日報」が雑報記者として復職しないかと言って来た。就職が決まったことを知ると、繁栄と碧梧桐の縁談を積極的に押し進めたのは、前回紹介した虚子との因縁の下宿高田屋の主人、大畠豊水である。すなわち虚子の岳父にあたる。
大畠豊水は娘の糸子と虚子が結ばれることで碧梧桐をいたく傷つけていたことを知っていた。なんとか碧梧桐に好伴侶を、という強い思いがあった。碧梧桐に異存のないことを確かめると、ただちに大阪に走り、青木月兎に会い、万事を託されていた梅沢墨水にも会って、めでたくこの縁談を取りまとめたのであります。

かくして碧梧桐と繁栄の結婚式は明治33年10月21日、大阪北の静観楼で挙行された。

実際の仲人は墨水であったが、まだ独身であったので、東京から帰阪した松瀬青々・とめ女夫妻が挙式の媒酌人となった。碧梧桐は「京華日報」に復社したばかりで蓄えとてなく、社で前借りをして、やっと羽織と山高帽を整え、大阪に花嫁を迎えに行く始末であった。ずい分憐れな花婿ぶりであったと、後になって碧梧桐は述懐している。

このとき碧梧桐は数え二十八歳、繁栄二十一歳。結婚ということに、かくも世間が親身に世話をした時代の話であります。

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2006/03/21

虚子の結婚、碧梧桐の結婚

去年の12月15日の条に、桂信子が俳句を作りはじめた昭和10年頃、大阪で有名な俳人といえば松瀬青々とか青木月斗なんて人で、つまらないからもう止めようと思っていたら、偶然に日野草城の清新でおしゃれな「旗艦」に出会って、俳句を続けることになった、なんて話を紹介した。【ここ】
桂信子は1914年生まれだから、このとき二十四歳くらいか。ここに名前の出ている松瀬青々は1869年生まれ、このとき六十六歳前後。青木月斗は1879年生まれの五十六歳くらいであったはず。いまでこそ老人というほどの年でもないが、桂信子にはよほど魅力のないおじいちゃんに見えたのだろう。

村山古郷の『明治俳壇史』(角川書店)には、この二人が河東碧梧桐との意外な関係でもって登場する。
こんな話だ。

碧梧桐という人は、「日本新聞」、「京華日報」、「太平新聞」などに勤めてはすぐ辞めるという風で、どうも根気づよく働くことの苦手な人であった。すぐに、ぷいっと旅に出てしまうのですね。後には「三千里大旅行」という数年がかりで日本中を隈なく歩いてまわる俳句行脚をしている旅好きである。渡世人の寅さんみたいでカッコいいですな。
じっさい寅さんではないが、この旅から旅への暮らしは、もしかしたら失恋がきっかけであったかもしれない。

明治29年に、碧梧桐と虚子は神田区淡路町一丁目一番地の高田屋という下宿に同宿する。それまでもこのふたりは京都の三校時代、仙台の二校時代と、くっついたり離れたりしながらつるんでいる同郷の友人だった。
虚子には碧梧桐を悼んで詠んだ「たとふれば独楽のはじける如くなり」という弔句がありますね。

さて、この高田屋、主人は大畠豊水という旧前橋藩士の出であったが、官吏をやめて学生下宿を営んでいた。長女夫婦と次女が一緒に住んでいた。長女が台所を扱い、次女が下宿生の世話を担当した。次女の名前を糸子という。この糸子が碧梧桐は好きになった。糸子の方も碧梧桐を「カワさん」、虚子を「キヨさん」と呼んで家人同様に二人に親しく接していた。
ところが翌明治30年に碧梧桐は軽い天然痘に罹っていることが判明し、一ヶ月ほど入院をしたのですね。病癒えて下宿に戻ると、糸子の様子がおかしい。あれほど親しかったのに、急によそよそしいではないか。なんと自分の留守中、虚子との間に縁談が進んでいたのであった。虚子と糸子が夫婦となり生まれた長男が高浜年尾。さらにその娘が稲畑汀子という風に、この血筋は続くことになるわけです。
失恋した碧梧桐は悄然と旅に出たのでありました。
(この項つづく)

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2006/03/19

『お茶をどうぞ』楊絳

yan『お茶をどうぞ—楊絳エッセイ集』中島みどり訳(平凡社)は、1992年、著者八十歳のときに、北京・社会科学出版社が出版した『楊絳作品集』全三巻の第二巻「散文」から、訳者の中島氏が選んで編んだもの。タイトルにもなった『お茶をどうぞ』は、原文では「将飲茶」——「さあお茶にしましょう」というほどの意味だが、本書、軽い気持ちで読み始めると、意外に硬質な文体や内容に居ずまいを正されることになるだろう。

著者の楊絳(ようこう)については『宋詩選注』に関するエントリーで簡単に触れた。(【ここ】)銭鍾書の妻であり、中国では『ドンキホーテ』などの訳で知られる高名な文学者である。
ところで『お茶をどうぞ』という本書の題名はどうやら、翻訳の底本とは異なる単行本のエッセイ集のタイトルらしく、このエッセイ集には「孟婆の茶——思いつくままに、序に代えて」という前書があるという。ややこしいが、本書はあくまで『作品集』が底本なので、この「序に代えて」という短文も後ろの方に収録してある。

わたしは屋根のない列車に乗った。が、車ではなかった。地上を走るのではないからである。筏のようでもあったが、といって水上を行くのでもない。飛行機のようでもあったが機体もない。しかも長く連なっている。どうやら自動化されたコンベア・ベルトのようだ。長く長く、両側には手すりがあり、満員の乗客を乗せて、雲海の中を疾走している。
という風にこの文は始まる。そうか、あの世への旅に出たところなのか。大勢の人々の中には、ぽつん、ぽつんと見知った顔もある。乗り換えのアナウンスがあって、みなさん茶館で「お茶をどうぞ」という。供されるのは孟婆茶である。これを飲むとこの世の記憶が全部消えてなくなるのである。
わたしはあわてて手すりを乗り越え、下をめがけてパッと跳んだ。頭が重く足下が軽いという気がしたが、跳んだ瞬間、頭は枕の上に落ち、目を開けると、何ごともなくベッドに横たわっていた。耳もとではまだ「私物を持っていると関門が越せない」と言うのが聞こえていた。
なるほど、わたしは私物をたんと持っているのだ、早めに片づけておかなくては。
この世に戻って、片づけておかねばならぬ私物とはなんだろう。記憶の中にあり、どうしても書きのこしてておきたい人たちのことだろうか。
それはどうやら、著者と同じような知識人のことばかりではないようだ。
むしろ、著者の筆が力を得て、生き生きと躍動するのは、陋巷にあり、目に一丁字もなく、旧社会に踏みつけにされ、しかしそれでも善意を失わない人々との交遊を描くときである。

文革期、楊絳は反革命分子を意味する「牛鬼蛇神」とされ、頭半分をバリカン刈りにされた。「陰陽頭」という私刑である。文学研究所の地位は女子便所掃除係に降格されたが、そんなときにも銭鍾書と楊絳夫妻をこっそりと守り、不慣れな仕事の失敗を取り繕ってくれる市井の人々がいないわけではなかった。

そうだろう。人の世はそうでなくてはならないだろう。

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2006/03/18

雨の日は漢詩でも

仲春三月の雨である。

仕事場からは西に六甲山、東に生駒連山が望まれる。
ふだんから見晴らしだけはいいのだが、この時期になると山肌の色が日一日と明るいパステル調に変わっていくのがわかる。木々の芽がほころび始めているのだ。山笑うという季語を思いついた人は誰だろうか。

今日たまたま、読みかけの『宋詩選注(2)』銭鍾書(東洋文庫)に見つけた詩。
よく知られたものなのかどうか、不勉強にして知らない。
文字を眺めて中国の山や湖を想う。漢詩もいいものだ。
宋代詩文研究会による訳もつけておく。
丸写しになって多少気が引けるが、詩の愉しみを分かち合いたいという一心。どうか諒とせられよ。

唐庚(とうこう)
(1071-1121)

栖禅暮帰書所見  栖禅(せいぜん)より暮れに帰り見る所を書す

其の一
雨在時時黒    雨 在りて 時時 黒く
春帰処処青    春 帰りて 処処 青し
山深失小寺    山 深くして 小寺を失うも
湖尽得孤亭    湖 尽きて 孤亭を得たり

其の二
春着湖煙膩    春は湖煙に着きて膩(こま)やかに
晴揺野水光    晴れは野水に揺れて光る
草青仍過雨    草は青くして 仍(しき)りに過雨あり
山紫更斜陽    山は紫にして 更に斜陽あり


其の一
雨がなお降り続き、いつまでも暗いが、
春が戻り、いたる所、草木が青々としている。
山は奥深くなり、小さな寺はどこだか分からなくなったが、
湖が尽きたところで、ぽつんと建つ四阿(あずまや)を見つけた。

其の二
春になり、湖面のもやはしっとりと細やかになり、
空は晴れ、日差しは野を流れる小川の水面に輝き揺れる。
緑の草は、ひとしきり降った雨で青さを一層増し、
紫の山は、夕日を浴びて一段と紫に染まる

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2006/03/15

変哲さんの俳句

以前、「少年」や「冒険王」の話題にからんで、

 椎の実の降る夜少年倶楽部かな   変哲

という句を我善坊さんに教えていただいた。
(「小池光と靖国神社」参照)
変哲とは小沢昭一さんの俳号である。

岩波の「図書」3月号で、小沢昭一さんがこの俳号の由来を語っておられた。
聞き手は神崎宣武氏。「遊び続けて七十年(9)」と題するインタビューである。

小沢昭一さんは、やなぎ句会のお一人。この句会は、毎月一回みんなが集まってわいわいやることが目的で、もともと俳句にはさほど興味のなかった方々が俳句でもならってみるかと始められたらしいが、もう三十年以上も続いているというから立派なものだ。毎度、天地人の三つの賞を設けて総額三千円程度の賞品を争うという。まあ、もともと俳諧の運座というのはそんな風に賞品を争うものだったらしいから、ある意味では正統派の句会と言えるかもしれないなあ。メンバーは小沢さんのほかには、敬称略で永六輔、加藤武、大西信行、桂米朝、永井啓夫、柳家小三治、矢野誠一、江國滋、神吉拓郎、三田純市なんて方々。このなかで米朝師匠はさすがに毎月参加は無理だったらしいけど。

変哲の俳号の由来は、こういうことだった。

神崎 「変哲」という俳号は、どういうところからですか。
小沢 父親の川柳名を継いだんです。私の父親は哲男というんですが、街の商店主と一緒にそば屋の二階を使って、川柳の会をやってました。それで変哲という名前で川柳をつくっていました。ぼくとしては二代目変哲というつもりで使っています。
三十年も毎月欠かさず句会をやっていれば(五句の席題らしい)作品の数もばかにならないが——
しかし、これはぼくの性格でしょうが、句会でつくった句は、当夜の食事の箸袋なんぞに書いておくだけなんです。ですから、本屋さんから「句集を出したい」と言われても、おいそれとできないんです。箸袋を見つけるだけで大騒ぎ(笑)。一所懸命につくったものですから。もったいないような気もしています。でも、このようなことすべてが、その場しのぎのぼくの人生を象徴しているような気がいたしますね。野球でいうと、攻めばかりで守りがないという、つまり知的生産の技術というようなものが皆無なんですよ。
神崎 でも道楽というのは、そういうもんでしょう(笑)。
こういう俳句もまたいいもんである。

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2006/03/14

サイト内検索その他

サイドバーの下のほうにある獺亭的日常の中に、検索窓を設置しました。

小田島隆さんの「偉愚庵亭憮録」に参照元としてあがっていた「いかんともしがたい」さんの2003年12月8日の条にソースがあります。【ここ】これをそのまま使わせていただきました。どうもありがとうございました。

なお、このソースの作者はfacet-diversさんとのこと。
この方のブログを拝見すると、痒いところに手が届くようなやりかたで、ココログのカスタマイズをなさっているようですね。ココログ・ユーザーには、「へえ」と驚くようなつくりになっています。ゆっくり拝見して参考にしたいと思います。【ここ】

ところで、ブログのサイドバーに設置された検索窓というのは、普通、あまり使う必要がないものだと思います。わたし自身も、なにか調べようとする場合は、当然、ブラウザー(たいていはFirefoxですが)の検索窓を使いますから。
ただし、滅多にないのですが、自分のブログ内だけを検索するということになると、このサイト内検索は結構便利です。
たとえば、これまで拙ブログにコメントを寄せてくださったみなさんは、この「サイト内検索」のラジオボタンを「かわうそ亭」内検索にして、ご自分のハンドル名を入力してみてくださいませ。たぶん、お寄せいただいたコメントが検索結果に出てくると思います。

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2006/03/11

地獄で握手(3)

80万人とも言われるルワンダの大量虐殺の火蓋が切って落とされたのは、前回書いたように1994年4月6日の大統領機墜落事件以後だが、国連ルワンダ支援団(UNAMIR)のロメオ・ダレール司令官は、すでにその年の1月には、フツ族の民兵組織が大量の武器を隠匿しているという情報を内通者から得ていた。
ここで国連の部隊が先制攻撃をかけて武器を回収すれば、ツチ族の殲滅を民衆に煽動し、和平合意を危うくしているインテラハムウィ党(例によって発音は不確か。英語では Interahamwe と表記)の動きを封じて、国連が治安上の主導権を取り戻すことができるとダレール司令官は思った。

1月11日夜、彼はニューヨークの国連本部に翌日からの作戦行動を伝えるためにファックスを送った。
「それから寝たんだけど、考えてみると、一番いい眠りだったね、あの夜が」

ところが翌朝、目が覚めると至急の電文が入っていた。電文の表にはコーフィ・アナンのサインがあった。(このときの国連事務総長はブトロス・ガリ。現事務総長のアナンはこの時点では、平和維持活動担当の国連事務次官補から事務次長に昇格したころの筈だ)
「作戦行動の中止を命ずる。このような作戦行動は権限外である」とそこには書かれていた。

この1月11日のダレール司令官のファックスはのちに「ジェノサイド・ファックス」と関係者の間で呼ばれるようになる。差し迫ったジェノサイドを国際社会に警告したファックスという意味である。しかし、インタビューの中では、ロメオ・ダレールは「ジェノサイド」という言葉には慎重な姿勢を崩さない。
「それはちょっと違うんだ。たしかに、大規模な殺戮が差し迫っていることは警告していたけれど」と語っている。
いずれにしても、この1994年1月11日と12日が歴史のターニング・ポイントだったのかもしれない。

インテラハムウィ党の残虐行為は、ここでは書くのもためらわれる。しかし、ひとつだけ言えることは、この大虐殺は一時的なパニックに駆られた群衆が暴走したというような性質のものとはあきらかに異なるということだ。

歯止めのきかない大虐殺が続く中で、殺されてゆく人々を救うにはどうすればいいのか。
皮肉なことだが、そのためには、実力行使のできない第三者機関の人間は虐殺者と「友好関係」を築く必要がある。わずかでも人々を救う交渉をするには、彼らにすり寄るしか方法がない。
ロメオ・ダレール司令官はルワンダ国防次官のパゴソラ大佐に斡旋をたのみ、三人のインテラハムウィ党の幹部に会見する。

「国連のジェネラル」がわざわざ自分たちに敬意を表しにやって来たというわけで、パゴソラ大佐の紹介で三人は誇らしい顔で手を差し出す。
ダレルはそのとき、連中の服に点々と血しぶきが残ったままなのに気付く。
「そのときだ。突然、連中の姿は人間から別のものに変わったんだ。なにかが起こって、次の瞬間にはもうやつらは人間ではない、なにか別のモノに変わった。わたしは人間と話をしているのではなかった。わたしは悪魔と話をしていた。三人はルシファーの右腕だった。そしてルシファーは、パゴソラ大佐に他ならなかった。わたしは握手できなかったよ。
「本能的にわたしは腰のピストルを抜いて、このくそったれどもの眉間を撃ち抜こうとと思った。なぜならわたしはまさに悪そのものと顔を見合わせているのであり、そいつらは人間ではなく、わたしが破壊しなければならない何かだとわかったからだ。——それはまったく困難な倫理的な問題だった。わたしは人々を救うために、ほんとうに悪魔と取引をする気なのか。それとも、この場で、この畜生どもを撃つべきなのか。
じつのところ、いまでもその答えはわからない」

ルワンダとダレール司令官の話はとりあえずこれでおしまいにします。気の重いお話に最後までつきあっていただき感謝いたします。

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2006/03/08

地獄で握手(2)

ロメオ・ダレールの語るルワンダその二。
首相暗殺前後の出来事。

映画の中では、ホテル・ミル・コリンにフツ族の民兵のジープが走り込んできて、威嚇的な叫び声とともに、PKO部隊のヘルメットをオリバー大佐の足下に投げつける場面があった。「首相官邸の警護にあたらせていた部下たちが殺られた」とオリバー大佐がポールに顔をこわばらせて説明する。

1994年4月6日のハビャリマナ大統領(フツ族)の飛行機の墜落事件から、一気に首都キガリの情勢は流動化する。もともと危うい和平合意の上に成り立っていた政権基盤だったが、フツ族の過激派はこの事件をツチ族を中心勢力とするルワンダ愛国戦線(RPF)の武力攻撃であるとして、政権内のツチ族や穏健派のフツ族の粛正をはじめる。これが引き金となって、以後3ヶ月、歯止めのない大虐殺が幕をあける。

ロメオ・ダレールはこんな風に語る。(適当に端折ったりつないだりしていますので、正確に知りたい場合はかならず原文に当たってください)

「6日の夜だった。わたしは宿舎で部下や援助団体のメンバーと打ち合わせをしていた。8時30分に最初の電話が入った。キガリ空港の滑走路の先の方で大きな爆発があった。弾薬庫の爆発みたいだという。だがすぐに続報が入った。そうじゃない、大統領機が墜落したというんだ。
「やがて首相からの電話だ。墜落したのはたしかに大統領機ですと言った。これからどうなるのでしょう、警備の方は大丈夫でしょうかと、わたしのアドバイスを求めた。彼女は(獺亭注・この時の首相はアガサ・ウヴィリンギイマナという女性である。アフリカ大陸で初の女性総理。女性に教育の機会を平等に与えることを主張していた人らしい)治安の維持、とくに首都の安全を求めていた。その間にも何本もの電話があり、彼女は閣内の穏健派の同僚とまったく連絡がとれないと言う。だがそれ以上に気になるのは、強硬派の閣僚が、ひとり残らず姿を消したことだと、言ったんだ。全員が突然」

政変というのは、こんな風に起こるものなんだな、という緊迫した空気が伝わる証言だ。

「ルワンダ軍の連絡将校から電話があり、司令部で危機管理会議を開催するのでわたしにもぜひ出席してほしいと言ってきた・・・・われわれは司令部に向かった。その時点では市内はとても静かだった。会議にはルワンダ国防省の次官であるバゴソラ大佐が出ていた。(獺亭注・この人物は重要。現在ルワンダ国際刑事法廷において被告人)かれは軍は退役していたんだが、強硬派で有名な男だった。われわれは何回も意見交換をした。わたしは、ただちに首相のアガサを前面に出し政治的なリーダーに据えるべきだと言った。しかし、バゴソラは、アガサでは事態の収拾は無理だ、ごく一時的に軍に事態を掌握させて速やかに沈静化させ、それからまた民政に戻した方がいいと主張したんだ」

ロメオ・ダレールはこの時点ではまだクーデタの可能性までは考えていなかったようだ。
翌朝4月7日。

「わたしの計画は、とにかくアガサをしっかり警護して、ラジオ局かなにかに案内し、国民に冷静になるよう呼びかけてもらおうというものだった。とりあえず25人の国連軍部隊を首相官邸の警護にあたらせた。いろんな国からきた兵士だったがね。当面はこれでアガサの身の安全は保たれるだろうと思った」

流血の事態を避けるため、ロメオ・ダレール司令官はツチ族の反乱軍であるルワンダ愛国戦線側にも副官を送り、状況の説明をさせる一方、政府軍の動向把握のためパゴソラを探した。——だが、パゴソラはどこにも見つからなかった。
なお話が前後するが、ロメオ・ダレールは、ルワンダの情勢報告をニューヨークの国連本部にしていた。

「ニューヨークからの通達は明確だった。例の国連憲章第6章に定められた権限からいささかなりとも逸脱することは許さないというのだ。わたしは紛争に介入してはならない。武器の使用は厳密に自衛の場合にのみ許される。ソマリアの失敗が尾を引いていたんだ。わかるだろう。『持ち場を離れてはならない。貴官には紛争介入の権限はない』」

ロメオ・ダレールがパゴソラ大佐を探している間に、首相官邸は襲撃される。警護にあたっていた国連の兵士は、武器の使用は許されていなかったので、ルワンダ軍部隊と暴徒によってあっという間に武装解除され、一部(アフリカの他国籍の黒人兵士)は解放されたが、残りは殺された。
首相のアガサと夫と子供たちは、梯子をつかって塀を乗り越え、隣地の国連開発計画(UNDP)の施設に逃げ込んだ。しかし、暴徒に発見され、再び襲撃を受け、投げ込まれた手榴弾で首相とその夫は殺害された。
なお、一緒に逃げた子供たちはクローゼットに隠れて、生き延びた。

このときにこの首相の遺児の救出にあたった国連軍の大尉のことが記事に出てくる。名前をムバイエ・ダイアンという。(発音は違うかも知れない。Captain Mbaye Diagne という表記である)セネガルから派遣された国連の停戦監視団の一員だった。ムバイエ・ダイアン大尉は、この首相の遺児の救出にとどまらず、虐殺をおそれて隠れているツチ族を安全地帯に逃がすために、この間、たったひとり身を挺して命がけの救出活動を続けた。だが、これは、虐殺に対していかなる行動もしてはならないという国連本部の命令の完全な無視だった。かれは堂々と国連のUNマークのついたジープに怯える人々を何十人と詰め込み、フツ族の検問を持ち前の機転と度胸でいくつも突破してルワンダの国連部隊の伝説となった。

かれはセネガルの首都、ダカールの貧しい家庭の9人の兄弟姉妹の一人として生まれた。家族のなかではじめてカレッジに進み、軍に入った。だれよりも敬虔なムスリムであった。1994年5月31日、キガリ近郊で乗っていた車両の至近距離に迫撃弾が着弾し、車は大破、本人は即死した。

キガリ空港からダイアン大尉の遺体を母国に送るときのこと。インタビュアーが、空港でのセレモニーではあなたが棺を担いだそうですね、とロメオ・ダレールに訊ねる。
「ああ、でも、われわれには棺なんて用意できなかった。ボディ・バッグさえなかった。実際、難民が雨をしのぐためにかけてたカバー・シートを剥がさせてもらったんだからね。われわれは担架で水色のシートにくるんだ遺体をC−130ハーキュリーズに運んだ....あれはつらかったな、まったく」
(つづく)

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2006/03/07

地獄で握手(1)

rwanda「ホテル・ルワンダ」に関連すること。

オリバー大佐(ニック・ノルティ)のモデルとなったカナダの退役軍人ロメオ・ダレール中将は2003年に『Shake Hands with the Devil』という本を書いている。100日間で80万人(100万人とも)が虐殺されたルワンダのジェノサイドを目の当たりにした国連PKO部隊の指揮官の手記である。
カナダの2004年度のGovernor General's Literary Awardのノンフィクション部門賞を受賞した。(Governor Generalはカナダ総督。カナダの国家元首であるイギリスのエリザベス女王の名代として任命される事実上の国家元首。詳しくは【こちら】

読んでもいない本のことを書くのは主義に反するが、2003年の秋に4日間をかけて行われた、この本の内容をめぐってのインタビューがあるので、このインタビューの方をプリントアウトして一通り読んでみた。ルワンダ内戦や国連の平和維持活動についての専門的な知識はわたしにはないので、きちんと理解できたかどうか心もとないところもある。しかし、ロメオ・ダレールの語る言葉は、客観的な深い洞察と、人間としての生々しい憤怒があり、心を打つものだった。
かなり長い英文記事なので、どこかに翻訳があればいいのだが、いまのところみつけていない。インタビューのタイトルは"Ghosts of Rwanda"という。【ここ】

内容を要約するのは手に余るので、印象的な話だけを二、三回に分けて紹介する。

その一。
インタビューの後半にホテル・ミル・コリンのことが出てくる。(ただし、映画の主人公となったポール・ルセサバギナ氏についての言及はこの記事の中にはない)発言はミル・コリンにいた白人ビジネスマン家族の脱出の情景。こんな内容だ。(逐語的なきちんとした訳ではないので念のため)
「何年も子供を育ててくれた乳母を置き去りにして、バッグに衣類(本当は違う)をパンパンに詰め込んで、あまつさえ犬を連れて飛行機に乗りこむ——これは規則違反だ。しょうもないくずみたいなものは後生大事に抱えて、何年も忠実に仕えてきてくれた人々は見捨てるんだ」
映画でもたしか、空港に向かう脱出用のバスの窓に犬が見えたように思う。映画のマーケットはバスに乗る側の人々だからだろうか、映画ではそこに非難のニュアンスはあまり感じなかった。白人たちは良心の呵責と恥ずかしい気持ちでうつむいているという演出だった。
そうする以外に方法はなかったわけで、そこまで言うのは酷な気もする。愛犬を捨てることで自分の良心を証することにはならないからなあ。しかし、言っていることはわかる。
(この項つづく)

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2006/03/02

村越化石

「俳句研究」3月号でもうひとつわたしの目を引いたのは、村越化石さんの「大年」二十句である。とりあえず五句ほどを抜いてみる。

  一位の実ふふみて深空仰ぎみよ   村越化石
  世の端のその端に住み柿吊す
  日溜りへ落葉も吹かれきて溜る
  冬ごもり見えざるものを見て暮らす
  日脚やや伸びしを居間の畳知る

なぜ目を引いたのかといえば、たいへん申し訳のないことながら、この俳人がご健在であるとは思っていなかったからである。俳句雑誌はあまり熱心に読むほうではないので、おそらく、この間もずっと俳誌に作品を発表しておられたのだろうが、わたしはいままで気がつかなかった。

この俳人のことを知ったのは昨年。たしか岸本尚樹さんの本からだったように思う。

「俳句研究」に発表された二十句の冒頭はこのようなそっけないものだ。

「大年」  村越化石  (「濱」同人)

俳句という詩を味わうには、ただ俳句だけがあればよろしいというのは正論である。
たとえ作者不詳でも名句というのはありえるだろう。もしそうではないというなら、俳句第二芸術論を蒸し返される。たしかに作者の境涯を知らなければ俳句は鑑賞できないというものではないし、あまり過剰にそこに鑑賞の焦点を置くのはよいことではないとわたしも思う。
しかし、この村越さんという方は、やはりその境涯を知っているのと知らないのとでは、俳句の味わい方が大きく変わるように思う。
――ということで、出すぎた真似なのだが、俳句辞典から村越さんの項目を簡単に転記しておく。以下の略歴とリンク先の記事を読んで、もう一度、上の句に戻ってみてほしい。

 村越化石(むらこし・かせき)
  大正11年(1922)静岡県生まれ
  昭和16年(1941)栗生楽泉園に入園
  昭和24年(1949)大野林火に師事
           「濱」同人
  昭和33年(1958)第4回角川俳句賞
  昭和45年(1970)失明
  昭和49年(1974)第14回俳人協会賞
  昭和57年(1982)第17回蛇笏賞

3年ほど前のもののようだが、こちらの記事がわかりやすい。【ここ】

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凛然たる群像 正木浩一

休日。図書館で「俳句研究」3月号にざっと目を通す。
1月号から同時に連載の始まった、小川軽舟さんの「飯島晴子の句帳」と高柳克弘さんの「凛然たる群像」を毎月楽しみにしている。とくに高柳さんの連載は気合いのこもったとても素晴らしい文章だと思う。俳句のなかに老年の円熟した人生の達人の存在を認めるという視点は、これまでいくらもあったように思うが、高柳さんのこの連載のように俳句のなかに青春特有の繊細で豊かな感情を見いだして、これを積極的に評価するという視点は(俳壇の高齢化とともに)近年は少なかったように思う。

3月号の「凛然たる群像(3)」で取り上げられていたのは正木浩一。
高柳さんはこの人の俳句だけを取り上げて、この人がどういう人であったかについては、ただ、若くして亡くなったということしかあきらかにしていない。紙数の関係もあるだろうし、「俳句研究」の読者なら、あえて語らずともすでに多くの人の知っていることだろうという考えもあるかも知れない。いや、その人を語るのには、その俳句だけで十分ではないかという考えなのかもしれない。そのいずれであってもわたしはよしとするが、じつはこの正木浩一という人は俳人の正木ゆう子さんの兄だったはずだ。正木ゆう子さんの書かれたものの中に多く登場する。

 冬木の枝しだいに細し終に無し   正木浩一

この句の鑑賞を通じて高柳さんが寄せる正木浩一という人間への共感は、俳句というのはこのようにして読むのだという高貴な見本になっている。こんな風にどんな人の俳句でも読みたいものだ。
高柳さんが採った他の句もいくつかあげておこう。

 海側の席とれどただ冬の海
 子の声は光の類木の実山
 蜥蜴ゐし石に動悸の移りけり

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2006/03/01

2月に読んだ本

『新興俳人の群像「京大俳句」の光と影』田島和生(思文閣出版/2005)
『池内紀の仕事場2 〈ユダヤ人〉という存在』(みすず書房/2005)
『夢宮殿』イスマイル・カダレ/村上光彦訳(東京創元社/1994)
『森の紳士録—ぼくの出会った生き物たち』池内紀(岩波新書/2005)
『スピノザに倣いて』アラン/神谷幹夫訳(平凡社/1994)
『宋詩選注 (1)』銭鍾書/宋代詩文研究会・訳注(東洋文庫/平凡社/2004)
『Island: The Complete Stories』Alistair MacLeod (Vintage Books/2002)
『ハインリヒ・ベル小品集』谷山徹訳(円津喜屋/2003)
『わがこころの加藤楸邨』石寒太(紅書房/1998)
『本の背中 本の顔』出久根達郎(講談社/2001)
『明るき寂寥』前登志夫(岩波書店/2000)

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2月に観た映画

グレン・グールド エクスタシス(カナダ/1995)

ネバーランド(アメリカ・イギリス/2004)
監督:マーク・フォスター
出演:ジョニー・デップ、ケイト・ウィンスレット、ダスティン・ホフマン

THE 有頂天ホテル
監督/脚本:三谷幸喜
出演:役所広司、松たか子、佐藤浩市、香取慎吾、篠原涼子、戸田恵子、生瀬勝久、麻生久美子、堀内敬子、YOU、オダギリジョー、原田美枝子、唐沢寿明、津川雅彦、伊東四朗、西田敏行、角野卓造、寺島進、浅野和之、石井正則

ホテル・ルワンダ
監督/脚本:テリー・ジョージ
出演:ドン・チードル、ソフィー・オコネドー、 ニック・ノルティ、ホアキン・フェニックス

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