地獄で握手(2)
ロメオ・ダレールの語るルワンダその二。
首相暗殺前後の出来事。
映画の中では、ホテル・ミル・コリンにフツ族の民兵のジープが走り込んできて、威嚇的な叫び声とともに、PKO部隊のヘルメットをオリバー大佐の足下に投げつける場面があった。「首相官邸の警護にあたらせていた部下たちが殺られた」とオリバー大佐がポールに顔をこわばらせて説明する。
1994年4月6日のハビャリマナ大統領(フツ族)の飛行機の墜落事件から、一気に首都キガリの情勢は流動化する。もともと危うい和平合意の上に成り立っていた政権基盤だったが、フツ族の過激派はこの事件をツチ族を中心勢力とするルワンダ愛国戦線(RPF)の武力攻撃であるとして、政権内のツチ族や穏健派のフツ族の粛正をはじめる。これが引き金となって、以後3ヶ月、歯止めのない大虐殺が幕をあける。
ロメオ・ダレールはこんな風に語る。(適当に端折ったりつないだりしていますので、正確に知りたい場合はかならず原文に当たってください)
「6日の夜だった。わたしは宿舎で部下や援助団体のメンバーと打ち合わせをしていた。8時30分に最初の電話が入った。キガリ空港の滑走路の先の方で大きな爆発があった。弾薬庫の爆発みたいだという。だがすぐに続報が入った。そうじゃない、大統領機が墜落したというんだ。
「やがて首相からの電話だ。墜落したのはたしかに大統領機ですと言った。これからどうなるのでしょう、警備の方は大丈夫でしょうかと、わたしのアドバイスを求めた。彼女は(獺亭注・この時の首相はアガサ・ウヴィリンギイマナという女性である。アフリカ大陸で初の女性総理。女性に教育の機会を平等に与えることを主張していた人らしい)治安の維持、とくに首都の安全を求めていた。その間にも何本もの電話があり、彼女は閣内の穏健派の同僚とまったく連絡がとれないと言う。だがそれ以上に気になるのは、強硬派の閣僚が、ひとり残らず姿を消したことだと、言ったんだ。全員が突然」
政変というのは、こんな風に起こるものなんだな、という緊迫した空気が伝わる証言だ。
「ルワンダ軍の連絡将校から電話があり、司令部で危機管理会議を開催するのでわたしにもぜひ出席してほしいと言ってきた・・・・われわれは司令部に向かった。その時点では市内はとても静かだった。会議にはルワンダ国防省の次官であるバゴソラ大佐が出ていた。(獺亭注・この人物は重要。現在ルワンダ国際刑事法廷において被告人)かれは軍は退役していたんだが、強硬派で有名な男だった。われわれは何回も意見交換をした。わたしは、ただちに首相のアガサを前面に出し政治的なリーダーに据えるべきだと言った。しかし、バゴソラは、アガサでは事態の収拾は無理だ、ごく一時的に軍に事態を掌握させて速やかに沈静化させ、それからまた民政に戻した方がいいと主張したんだ」
ロメオ・ダレールはこの時点ではまだクーデタの可能性までは考えていなかったようだ。
翌朝4月7日。
「わたしの計画は、とにかくアガサをしっかり警護して、ラジオ局かなにかに案内し、国民に冷静になるよう呼びかけてもらおうというものだった。とりあえず25人の国連軍部隊を首相官邸の警護にあたらせた。いろんな国からきた兵士だったがね。当面はこれでアガサの身の安全は保たれるだろうと思った」
流血の事態を避けるため、ロメオ・ダレール司令官はツチ族の反乱軍であるルワンダ愛国戦線側にも副官を送り、状況の説明をさせる一方、政府軍の動向把握のためパゴソラを探した。——だが、パゴソラはどこにも見つからなかった。
なお話が前後するが、ロメオ・ダレールは、ルワンダの情勢報告をニューヨークの国連本部にしていた。
「ニューヨークからの通達は明確だった。例の国連憲章第6章に定められた権限からいささかなりとも逸脱することは許さないというのだ。わたしは紛争に介入してはならない。武器の使用は厳密に自衛の場合にのみ許される。ソマリアの失敗が尾を引いていたんだ。わかるだろう。『持ち場を離れてはならない。貴官には紛争介入の権限はない』」
ロメオ・ダレールがパゴソラ大佐を探している間に、首相官邸は襲撃される。警護にあたっていた国連の兵士は、武器の使用は許されていなかったので、ルワンダ軍部隊と暴徒によってあっという間に武装解除され、一部(アフリカの他国籍の黒人兵士)は解放されたが、残りは殺された。
首相のアガサと夫と子供たちは、梯子をつかって塀を乗り越え、隣地の国連開発計画(UNDP)の施設に逃げ込んだ。しかし、暴徒に発見され、再び襲撃を受け、投げ込まれた手榴弾で首相とその夫は殺害された。
なお、一緒に逃げた子供たちはクローゼットに隠れて、生き延びた。
このときにこの首相の遺児の救出にあたった国連軍の大尉のことが記事に出てくる。名前をムバイエ・ダイアンという。(発音は違うかも知れない。Captain Mbaye Diagne という表記である)セネガルから派遣された国連の停戦監視団の一員だった。ムバイエ・ダイアン大尉は、この首相の遺児の救出にとどまらず、虐殺をおそれて隠れているツチ族を安全地帯に逃がすために、この間、たったひとり身を挺して命がけの救出活動を続けた。だが、これは、虐殺に対していかなる行動もしてはならないという国連本部の命令の完全な無視だった。かれは堂々と国連のUNマークのついたジープに怯える人々を何十人と詰め込み、フツ族の検問を持ち前の機転と度胸でいくつも突破してルワンダの国連部隊の伝説となった。
かれはセネガルの首都、ダカールの貧しい家庭の9人の兄弟姉妹の一人として生まれた。家族のなかではじめてカレッジに進み、軍に入った。だれよりも敬虔なムスリムであった。1994年5月31日、キガリ近郊で乗っていた車両の至近距離に迫撃弾が着弾し、車は大破、本人は即死した。
キガリ空港からダイアン大尉の遺体を母国に送るときのこと。インタビュアーが、空港でのセレモニーではあなたが棺を担いだそうですね、とロメオ・ダレールに訊ねる。
「ああ、でも、われわれには棺なんて用意できなかった。ボディ・バッグさえなかった。実際、難民が雨をしのぐためにかけてたカバー・シートを剥がさせてもらったんだからね。われわれは担架で水色のシートにくるんだ遺体をC−130ハーキュリーズに運んだ....あれはつらかったな、まったく」
(つづく)
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