ヘップバーンの終わり
黛まどかさんが代表をつとめる結社の俳誌「月刊ヘップバーン」が先ごろ100号をもって終刊となった。「俳句で日本を素敵にする」というのが謳い文句であった。
べつに反感もないのだが、企業のPR誌かなにかと間違えるような俳誌らしくないデザインだったな。横書きのページめくりで、俳句もすべて横書きだったが、掲載される俳句は、黛さんのものも含めて新しさはあんまりなかったように思う。
そういえば、この俳誌には、わたせせいぞうのイラストのページが見開きであるのだが、俳句もまさに、このイラストの感じなんだなあ。毒にも薬にもならないというか、こういうのを、おしゃれでクールと思う人もいるだろうが、わたしはどちらかというと、薄っぺらでチープだと思っていた。(まあ、趣味の問題だから、お好きな方は気に障ったらごめんなさい)
晩年の桂信子はインタビューで「あれはあれでいいんですのよ。でもああいうのとわたしたちの(ほんとうの)俳句とを一緒にされると、ちょっと困るんです」なんてキツイことを言っていたが、まあ、これは仕方ないかもしれないなあ、と率直に思う。
何号か前から個人的にちょっと目をひいていたのが、筑紫磐井さんの講評のページ。ただしこれも中身はあんまり感心はしなかった。
「ヘップバーン」終刊号には多くの人が寄稿している。全部を比べたわけではないけれど、この内容は「月刊俳句界」(文學の森)3月号の特集と同じだな。使い回しの原稿を載せるようでは、せっかくの終刊号が泣くのではなかろうか。それとも、俳壇のセンセー方は同じ原稿を違うところに売るという習慣があるのかな。やれやれ。
おまけに金子兜太さんや坪内稔典さんは黛まどかさんのことを「俳句タレント」、「俳人タレント」と呼び、この結社を俳句タレント養成所(しかも上手く行かなかった)としてしか見ていなかったということをあけすけに書いていて、こんな文章を書かれてお礼も言わなきゃならんとは、情けないことであります。
金子兜太さんはこんな風に言う。
しかしマスメディアに流れる風の新鮮さほど、俳壇と称される主宰同人誌で形成され、それに俳句綜合誌なるものが乗っかってうろうろしている世界は新しいものに柔軟ではなかった。(いまでも同様)別に異論はないが、俳壇が物わかりよく、柔軟である必要はなかろう。そもそも、旧秩序や旧体制に保護され育成されなきゃならんような新しい芸術運動なら、土台くだらないものに決まっているのじゃなかろうか。
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コメント
この雑誌は存知上げませんでしたが、私、実を言うと詩や俳句はできるだけヨコ書きでは知りたくないほう。ネットならしかたないと思うんだけど、自分の一番好きな詩人の詩はブログにも書いてないんだ。どうしてもヨコにしちゃいけない詩なんだもん(笑)。だからってわけじゃないけど雑誌でまで俳句をヨコに読まされるのはパスだな。しかも、わたせせいぞうだとおおお?てやんでえ(^^;)。
投稿: 屁爆弾 | 2006/03/26 23:56
あはは。わたせせいぞう、ちょっとパスですなあ、わたしも。
ヨコにできない俳句は、たとえば高柳重信の多行式俳句なんかもそうですよね。
投稿: かわうそ亭 | 2006/03/28 00:50