虚子の結婚、碧梧桐の結婚(承前)
さて、お話はそれから三年ほどたった頃。
碧梧桐はあいかわらず無職でぶらぶら旅をしていたが、いつしか大阪は浪速の俳壇の人々とも親しくなっていた。この頃、子規=日本派に賛同するグループとして、大阪には大阪満月会があり、その若手の部会のように三日月会というのがあった。この三日月会の中心に居たのが、道修町の売薬点眼水、快通丸本舗のぼんぼんであった青木月兎(のちに月斗に改名)当時二十一歳であります。(桂信子が古くさくて嫌だと思った月斗にも若いときはあった)
明治32年10月、月兎が発行人となった俳誌「車百合」が創刊される。関西初の日本派の俳誌である。創刊号は袖珍版型62頁、表紙は下村為山筆の蜘蛛の巣の図柄であったが、浪速の満月会の大御所、水落露石の求めに応じて、子規をはじめとするホトトギス同人から祝句が届いた。(以下、引用部分は『明治俳壇史』より)
俳諧の西の奉行や月の秋 子規
初秋を百合咲いて花車の如し 鳴雪
御祝に渋柿やろか芋やろか 碧梧桐
何のせてひくや此花車百合 虚子
聞かばやと思ふ砧を打ち出しぬ 漱石
この「車百合」発刊とほぼ期を同じくして、浪速俳壇の新進として松瀬青々は第一銀行を退職し、ホトトギス編集員として上京した。このとき、三十一歳。もっとも、この松瀬青々のホトトギス入社は虚子の専断であったらしく、子規はこの採用にはあまりいい顔をしなかった。そのせいかどうか、青々は一年たらずでホトトギスを辞めて大阪に帰り大阪朝日新聞の会計課に入った。
さて、明治33年3月のことであったという。ある日、突然、大阪の青木月兎から碧梧桐に手紙が届いた。このように書かれてあった。
拝啓。突然に候へ共、小生の妹貴兄に恋し候に付、至てふ倚りように候へ共、女房に御もち被下候はず哉。他は多く申し上げず候。頓首。中程の「至てふ倚りよう」は「いたって不器量」ですな。妹があなたに恋をした、いたって器量は悪いが、どうかもらってやっていただくわけにはいきませんか、というのであります。月兎の妹の名前は繁栄(のちに茂栄、茂枝とも書いた)といいました。不器量とは兄の謙遜で、なかなかの美人であった、と村山古郷の『明治俳壇史』には書かれております。年頃の娘さんですから、方々から縁談が持ち込まれるのだが、どの縁談にも諾と言わない。どうしてだ、他に好きな人でもあるのかと、手を変え品をかえてしつこく問いつめると、ついに「碧梧桐さんに貰ってほしいの」と兄に打ち明けた。
ところが面白いのは、このとき、まだ繁栄さんは碧梧桐に会ったことはなかった、というのでありますね。
前年に碧梧桐が浪速に来遊したとき、兄の月兎や松瀬青々たちが親しくつきあった。その時の写真にあった碧梧桐や、根岸の子規庵で一同が会したときの写真のなかの碧梧桐を見ただけであった。それだけで、見ぬ恋にあこがれたわけだが、それにはやはり、兄の月兎が日頃から子規門下の俊秀の一人として碧梧桐の噂を語っていたことが影響していた。いまをときめく日本派の若きホープに対する崇拝。それに加えて、碧梧桐の失恋物語である。この碧梧桐の失意の日々にいたく心を痛め同情していたことも大きかった。
寒川鼠骨は後に、繁栄の碧梧桐に寄せる心情を「此君ならでは百年嫁せず」と評している。さて、困惑したのは碧梧桐である。見たことも会ったこともない女を嫁にどうか、というのは、この時代には別に珍しいことでもなんでもないが、なにせ無職でとても一家を構える身の上ではない。思いを寄せられたことに、心は弾んだが結婚には躊躇せざるを得なかった。
だが運のいいことに、このとき以前つとめていた「京華日報」が雑報記者として復職しないかと言って来た。就職が決まったことを知ると、繁栄と碧梧桐の縁談を積極的に押し進めたのは、前回紹介した虚子との因縁の下宿高田屋の主人、大畠豊水である。すなわち虚子の岳父にあたる。
大畠豊水は娘の糸子と虚子が結ばれることで碧梧桐をいたく傷つけていたことを知っていた。なんとか碧梧桐に好伴侶を、という強い思いがあった。碧梧桐に異存のないことを確かめると、ただちに大阪に走り、青木月兎に会い、万事を託されていた梅沢墨水にも会って、めでたくこの縁談を取りまとめたのであります。
かくして碧梧桐と繁栄の結婚式は明治33年10月21日、大阪北の静観楼で挙行された。
実際の仲人は墨水であったが、まだ独身であったので、東京から帰阪した松瀬青々・とめ女夫妻が挙式の媒酌人となった。碧梧桐は「京華日報」に復社したばかりで蓄えとてなく、社で前借りをして、やっと羽織と山高帽を整え、大阪に花嫁を迎えに行く始末であった。ずい分憐れな花婿ぶりであったと、後になって碧梧桐は述懐している。
このとき碧梧桐は数え二十八歳、繁栄二十一歳。結婚ということに、かくも世間が親身に世話をした時代の話であります。
| 固定リンク
「d)俳句」カテゴリの記事
- 蕪村句集講義のこと(2020.12.10)
- 『俳句の詩学・美学』から二題(2014.04.13)
- 蛇穴を出づ(2014.04.05)
- 農工商の子供たち補遺(2013.10.23)
- もの喰う虚子(2013.06.25)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
碧梧桐の失恋秘話は知りませんでした。興味深いお話ですね。少し前に、虚子の五女、晴子さんの著書で父虚子回顧談を読んだのですが、最晩年の虚子ご夫妻のお写真が、まるで「日本おとぎ話」に出て来るようなほのぼのゆったり系のお写真で、ああ、虚子っていい顔してるなあと思ったよ。人間、老いてからの顔立ちこそ重要なのかもね。
投稿: 屁爆弾 | 2006/03/22 17:12
虚子の年をとってからの写真はいいですね。あの人は、能もやっていたから、立ち姿なんかもぴたりと決まっていますし、無理な若づくりをして憫笑を買うようなみっともない真似もしないから、かえってオシャレに見えます。
投稿: かわうそ亭 | 2006/03/22 20:27
どうも。こちらにTBしようとあがいているんですが、うまくいきません。なんででしょう?
投稿: renqing | 2007/06/27 12:08
renqing さん どうも。ええと、この記事も、ほかの記事同様、TBは「受け付ける」という設定のままなんですが、たしかにTBは届いていないようです。
念のため、わたしも別のところからTBを打ってみたところ、おっしゃるようにうまくいきませんね。ココログのシステム上の不具合でしょうか。
ご迷惑をおかけして申し訳ない。
ニフティについてはシステムの信頼性はあまり高くないように思いますので、バックアップだけはとっておこうっと。(笑)
投稿: かわうそ亭 | 2007/06/27 18:56
了ー解です。(-_-d
投稿: renqing | 2007/06/28 02:57
博学なかわうそ亭さまは、この事実が、夏目漱石『こころ』のモデルという説を、真実と思われますか?
河東碧梧桐が友人Kで、主人公が虚子とすると、たしかに漱石は、一連を観察できる立場にいたわけです。
あくまでも仮説ですが、だとすると、近代日本文学最高峰と賞される純文学は、じつに卑近なゴシップ小説だった、というオチがつくのですが、いかがでしょう。
いつも頓珍漢なコメントですみません。
投稿: 黒子 | 2007/07/02 15:05
こんばんわ。
この件については、じつはわたくしの密かな研究課題(ってそんなおおげさなもんじゃないけど)でありまして、わたしも黒子さんと同じく強い疑いを年来もっているのです。残念ながら、いまだ「これだ!」という証拠にめぐりあっておりませんが、たぶんそうではないかと思うんだなあ。
投稿: かわうそ亭 | 2007/07/03 00:38
安心しました。
以前、名のある方々が集まった席で、座興と称し、相関図を(知ったかぶって)話し、挙句の果てに「これが『こころ』のモデルと愚考します」とオチをつけたところ、たいそう感心されました。
たまたまゲストが廣太郎さんだったのですが、さすがお身内に関する部分は、われわれのように読書からではなく、血脈としてご存知でしたね。「聞いたことあるで」と、否定も肯定もされませんでした。
では、おおらかに研究していくなかで、「これだ!」という証拠にめぐりあったら、お互いに知らせあうことにいたしましょう。
投稿: 黒子 | 2007/07/03 15:38
たびたびすみません、烏合です。
この記事の直前の「虚子の結婚、碧梧桐の結婚」を読んでいて「あ、『こころ』みたいだな」と思っていたら、こちらにはっきりとそのような説があるとの記述。
ひぇっ!!とびっくりしました。
漱石は身近な人間にモデルを見つけて小説の題材としていた作家のようにも思います。
きっとこのお説も真実に近いのではないでしょうか。
投稿: 烏合 | 2009/12/08 21:42
烏合さん はじめまして。
過去の拙文(替え歌は拙作か)もいくつか目を通していただいてどうもありがとうございます。この件(「こころ」のモデル)については、誰かがちゃんと漱石からそう聞いたよと書いているんじゃないかなあ、と漠然と思っているのですが、なかなかそういう証言にぶち当たりませんね。
お気づきになったことがあれば教えてください。今後ともどうぞよろしく。
投稿: かわうそ亭 | 2009/12/08 22:53