聖の青春
『聖の青春』 大崎善生(講談社文庫)はわたしのような将棋にはまったく縁のない人間でも、涙なしには読み通すことができない好著だ。
村山聖(むらやま さとし/1969年 - 1998年)は広島県安芸郡府中町出身のプロ棋士であった。
幼児のときに罹った腎臓ネフローゼで何回も入退院を繰り返しながら、病院のベッドで将棋を独学する。11歳のとき中国地区のこども将棋大会に出場して優勝、以後5回連続優勝を続け子供の部ではもはや聖にかなう相手はいなかった。小学6年生のとき、広島そごうのイベントで森安秀光の指導対局の機会を得る。森安は九段、そのときの棋聖位を保持していたトッププレイヤー。
「何枚落ちにしようか」と森安に聞かれた聖は「飛車落ちでお願いします」と臆することなく答えた。その瞬間、森安は首をひねった。どんな強い子供でも普通は飛車角落ちでもプロにはなかなか勝てない。まして自分はプロのなかでも頂点に立つタイトルホルダーである。
「それでいいの?」と森安はもう一度やさしい声で聖に問いかけた。「飛車落ちでお願いします」と聖は表情を一つも変えずに再び答えた。伸一はそのやりとりをどぎまぎしながら聞いていた。森安の顔が明らかにむっとしているように見えたからだ。
引用中、伸一とあるのは聖の父である。病身の聖の将棋のために父はどこへでも一緒に行ってやった。5面指しの指導対局がはじまると、ほかの将棋では苦もなく勝った森安も聖のところでは小考を繰り返した。
聖は上手の攻めを巧みにかわし、するすると上部への脱出を企てる。プロの九段の鋭くかつ的確な攻めに少しもひるむようすもない。そしてついに聖の王様は安全地帯にまで逃げ延びた。それから一転、聖は森安陣に猛攻を仕掛け、その姿からは想像もつかないようなふてぶてしい手つきであっという間に上手玉を仕留めてしまった。
指導を終え観戦していた大人たちが一斉にため息を漏らした。森安はまるで勝負将棋を負けたように不愉快さを隠そうともしなかった。小学生とはいえ聖の将棋には勝負に対する辛辣さがあり、子供への指導とのんびり構えていたプロを熱くさせる何かがあったのだ。
森安は一言も誉めなかった。ただこうすればどうするつもりだったかと聖に聞き、聖は間髪を入れずにそれに答えるのだった。
見事な文章である。
1982年、奨励会に文句なしに合格しながら将棋界の古い慣習(師匠を選ぶ上での行き違いから、京都の灘蓮照九段が入会にクレームをつけた)により、奨励会入りを認められず、1年後に再受験してやっと入会を許された。
このころにほぼ同年代の10代で奨励会にいたのが、「チャイルドブランド」と呼ばる羽生善治、佐藤康光、森内俊之たちである。
聖の師匠となったのは森信雄であるが、この師匠と弟子の関係こそ本書の白眉だろう。わたしはほとんど泣き通しであったことを告白せねばならない。
ちなみに森信雄さんのブログに行くと、村山聖の未整理の写真が何枚か公表されている。この羽生と並び称された天才棋士の無垢な表情をとらえた写真は一見の価値があります。
⇒憂いの聖
⇒笑顔の聖
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