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2006/04/18

再録「正義は目かくしをしている」

冤罪事件の報道などで、たとえば最高裁の玄関を、「無罪」なんてのぼりを抱えて走り出てくる映像はある意味では定番といってもいい図柄です。ただし、ぼくはあれがあまり好きではない。もちろん冤罪は許しがたく、それを許した風土は憎んであまりあるものですが、それにしてもなんとなくあの光景は居心地が悪いのですね。

欧米の法廷が出てくるミステリを読んだり、映画を見ていると、裁判というもののイメージがぼくらの感覚とずいぶん違うことに戸惑う。
その最大の原因は陪審員制度というものにあると思うのですが、考えてみるとこれはとても面白い制度ですね。
なにしろ、場合によっては人の生死を分けるような重大な決定を、無作為に選ばれたフツーのおじさんやおばさんが下すわけです。まことに入り組んだ経済、金融、医療、航空工学、なんであれ検察、弁護側双方が繰り出す一級の専門家の意見も聞いた上で、有罪か、あるいは有罪ではないかを最終的に判断するのは、超難関の司法試験をパスできる生来の記憶力と根気に恵まれた裁判官ではなく、くたびれたサラリーマンであるこのぼくや、マクドナルドでポテトを揚げている近所のパートのおばちゃんなのね。
だから、欧米の裁判はあてにならないよね、ほらO.J.シンプソンだって刑事裁判は「無罪」にしちゃったでしょ、などと言う人もいるけれど、ぼくはそうは思わないのね。
それは裁判というものをどう見るかということにかかっている。というのは、ぼくの見るところでは、彼らの裁判は、実はあれは「真実」を明らかにするところではないのですね。では、何をするところか。
勝ち負けをとりあえず決める場である、というのがぼくの見解。同じことでしょ?いいえ、不謹慎ながら、あれは、一種のスポーツだと見た方がいい。
Easteregg
すこし話が変わりますが、映画などを注意深く見ると、裁判所の正面に秤をもった女神がいることに気付きます。記憶に間違いがなければ、その女神は目かくしをしています。
目かくしの方は、いささか怪しいけれど、秤を持った女神は、これは「正義」の象徴で、必ずといっていいほど、古い裁判所の建物にはつきものなのですね。
秤は天秤のかたちをしています。つまり左右に錘(おもり)を載せる皿がぶら下がっている。
英米の裁判というものは、ちょうどこの秤のイメージなんですね。いま検察側が証拠という錘を一方の秤に載せようとします。その錘を使っていいかどうかを決定するのが、裁判官の役割です。たとえば法的な手順に問題があれば、いかにそれが決定的な証拠であれ法廷という「秤」に載せることは認められません。「陪審員の皆さんはいまの発言を判断の材料にしてはなりません。いいですね」などとよく判事が言いますね。彼らは裁判という仕組みとそれを成り立たせている法そのものの専門家であって、裁判というゲームを厳格なルールで進行させるための人なわけです。すなわちスポーツにおける審判そのもの。
さて検察側が証拠や証人の証言という錘を載せて秤が、ぐぐっと沈み込むと、今度は弁護側の反対訊問が始まります。
「ところで証人は普段は眼鏡をしているのではありませんか?」
「異議あり!判事閣下、本件とは無関係の質問です」
「異議を却下します。証人は質問に答えるように」
なんてやりとりで、証人の目撃証言が実はあやふやであることが明らかにされて、秤はまたバランスを取り戻す。
まあ、ざっとこんなやりとりですね。
さてここでもっとも大事なのは、弁護側は、この秤のバランスを取り戻しさえすればいいという点。反対に検察は、秤が検察側に傾いていることを「合理的な疑いの余地なく」陪審員たちに理解させなければならないということです。 そして、こういう仕組みであれば、純粋な秤を頭の中に描いてこの秤が検察に側に傾いている場合にのみ有罪と機械的に判断することは、これは東京大学法学部を出ている必要はまったくない。司法試験を受かる必要はさらさらない、ということはあきらかではないでしょうか。むしろ、純粋に秤の傾きを感じるためには普通の人が目かくしをしているくらいの方がいい。法廷の正義のシンボルが目かくしをしている理由はここにあるようです。

では、「真実」はどうなるのだ、と言われるかもしれない。
これに対するぼくの答えは、真実はおそらく神によってしか裁かれない。または、最後には神によって「真実」の裁きが下される以上、人間にできることはこの世の勝ち負けを決めるくらいなんだよ、という暗黙の考え方が根底にあるのだと思うのであります。
しかし、そりゃ、キリスト教的な価値観でしょうが、とまた言われるかもしれない。そうかも知れない。しかし、日本だってたとえば、山本夏彦さんは、昔は法の裁きなんぞ必要なかったとエッセイで喝破していましたね。
いわく、昔は化けて出れたからそれでよかったのである。

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コメント

(一応は法学部出身の端くれなのに)人が人を裁く、という考え方には昔から感覚的に馴染むことができませんでした。
それはおそらく、裁判が「真実」を追求するところであるとの大前提に立つからこそ生じる違和感なのでしょうね。
裁判は単純に「勝ち負けを決めるところ」と考えると、何だか肩の荷が軽くなったような。といって司法には何の関連性もないい仕事をしているのですけれどもね。

投稿: canary-london | 2006/04/19 07:19

法務省の「あなたも裁判員!」というサイトを見ると、「裁判員は,裁判官と一緒に,被告人が有罪か無罪かを決め,被告人が有罪であると判断した場合には「懲役○年」などのように刑の種類と刑の重さを決めます。」という説明になっています。こんな「あなたも人を裁けます!」みたいなことであれば、まともな人は忌避するのは当たり前だと思うのですけどね。
こちら↓
http://www.moj.go.jp/SAIBANIN/q1.html

投稿: かわうそ亭 | 2006/04/19 09:27

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