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2006/04/25

寺山修司と九條映子

図書館で「俳壇」5月号(本阿弥書店)にぱらぱらと目を通す。
今月の特集は「寺山修司‐われに五月を」である。特集に寄稿しているのは長部日出男、佐藤忠男、佐佐木幸綱、斎藤愼爾、三枝昴之、高柳克彦、大井恒行ほか十五人ばかり。
寺山が肝硬変で亡くなったのは47歳のとき。1983年の5月4日だった。

もっともこちらの特集のほうは斜め読み。どれもたいしたことない。
じつはこの雑誌を手に取ったのは表紙にあった「九條今日子」という名前が目にとまったからで、このインタビュー記事がお目当てであった。こっちはなかなか面白い内容だった。
「聞き書き‐詩歌の潮流/第5回・百年たったら帰っておいで」(聞き手:田中利夫)

たまたま数日前に、この方のお名前(ただし九條「映子」として)を別のところで篠田正浩さんが語っておられるのを目にしていたのである。彼女を寺山に頼まれて引き合わせたのは自分なんだ、という内容の話であった。

「俳壇」のインタビューでも、寺山との出会いのことが語られている。

当時、九條さんはSKD(松竹歌劇団)から松竹映画に引き抜かれ、やがて新興のテレビにも出るようになっていた。

テレビに出るちょっと前に、大船の篠田正浩監督がヌーベルバーグの一連の作品で、「乾いた湖」という映画を正式な監督として初めて撮ることになったんです。(1960年)寺山は作家として台本を書くことになったんだけど、「九條映子を紹介してくれるんだったら書くぞ」なんて偉そうなことを言ったらしく、篠田監督から電話がかかってきて、「いま、神楽坂の旅館で台本を書いているんだけれど、その作家が映子のファンで、会わせてくれ言ってるから陣中見舞いに来ないか」と言うんです。

やがて二人は結婚するが、寺山の母は最後まで反対であったとか。
その後二人は離婚してしまうが、離婚後も劇団の仕事はパートナーで、劇団員は彼女のことを奥さんと呼び続けた。知らない人は、彼女のことを「奥映子」という名前だと思った。

「青森県のせむし男」のとき、ニューヨークにいた寺山から電話が入り、美輪明宏(当時は丸山明宏)さんに出演交渉してくれと言ってきた。SKDのころから映子とは知り合いだったのである。役柄は醜悪な老女の役で、当時は誰より美しかった美輪さんだから駄目に決まっていると思いながら、銀巴里に会いに行った。

そうしたら美輪さんがすぐに台本を読んでくれて「やりたいわ」と言ったの。「あんた、いい人と結婚したわね。あんたは知らないだろうけれど、私は寺山修司の詩のファンなのよ」と言うのね。美輪さんはパラパラと台本を読んだだけで、台本を伏せて台詞を言ったりするのよ。「なんでそんなにすぐ覚えられるの」と尋ねたら、「あんた、わかんないの?寺山さんのこの本は七五調で書かれているから一回読めば頭に入っちゃうのよ」だって。美輪さんも寺山もどっちもすごいでしょ。

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