傑作はこれから、いしいしんじ
「わたしたちはずっと手をにぎってることはできませんのね」
「ぶらんこのりだからな」
だんなさんはからだをしならせながらいった。
「ずっとゆれているのがうんめいさ。けどどうだい、すこしだけでもこうして」
と手をにぎり、またはなれながら、
「おたがいにいのちがけで手をつなげるのは、ほかでもない、すてきなこととおもうんだよ」
ひとばんじゅう、ぶらんこはくりかえしくりかえしいききした。あらしがやんで、どうぶつたちがしずかにねむったあとも、ふたりのぶらんこのりはまっくらやみのなかでなんども手をにぎりあっていた。
『ぶらんこのり』
家にあった、いしいしんじさんの本をまとめて読んだ。
今回読んだのは、『トリツカレ男』、『ぶらんこ乗り』、『麦ふみクーツェ』、『プラネタリウムのふたご』、『ポーの話』の5冊。
才能豊かな物語作家だな。
どこかやるせないようなかなしさがあって、上質な小説を読んだときの静かな満足感を得る事ができる。わたしたちの人生もかなしみの連続である。なにも物語にまで、かなしみを求めなくてもいいようなものだが、わたしたちはなぜかかなしい物語にこころひかれる。それは、たぶん、わたしたちがいつかは死んでゆくものであり、わたしたちの存在の本質がかなしみであるからではないかと、わたしは思う。自分自身がかなしい存在であるからこそ、かなしい話に共感し、癒され、それを美しいと感じるのではないか。
いいかタットル、どんなかなしい、つらいはなしのなかにも、光の粒が、救いのかけらが、ほんのわずかにせよ含まれているものなんだよ。それをけして見のがしちゃならない。
『プラネタリウムのふたご』
5冊のなかでは、個人的には『ぶらんこ乗り』を一番に買うが(わたしの家人の評価は『プラネタリウムのふたご』がベストというものだったけれど)、率直に言うと、この作家のマスターピースはまだ書かれていないという気がするな。比較にはあまり意味がないが、たとえば最近の村上春樹の小説には、どんなとっぴなストーリー展開であっても、それがどこか人間の共通の記憶の源泉から正しく導かれたものだというような、作家の直感が、神話や古典的な人間の物語にきちんとつながっているようなオーソドックスな感じを受けるのだけれど、いしいしんじの小説には、まだそういう安心して読者が自分自身をゆだねることができるような安定感がないように思う。
作家自身ももしかしたら同じことを感じているのかもしれない。
「かなしくて、たいせつなもの、たくさんあります。そっちのほうが、おおいくらい。かなしいぶん、いっそうたいせつに、あつかわなくちゃいけない」
犬じじいのことばがよみがえる。わしら猟師は、死んだからだを、なにより大事に扱わなけりゃまらない。この世の、どんなものよりいちばん大切に。
「死んだからだは、かなしいのかな」
プロペラを見つめ、ポーはひとりごちる。
女人形は苦笑していう。
「かなしさ、あたまじゃわかりません。こころでもない。からだの、いちばんおくあたりでかんじるです。ポーはまだ、そこまでもぐっていませんからね」
『ポーの話』
この作家がさらに深く潜って、からだの一番奥で人間の共通の無意識の源泉につながったとき、そのときにこの作家の真の傑作が生まれるだろう。わたしたちは、それを期待して待つ甲斐がきっとあると思う。
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コメント
素敵なものがたりを教えていただいてありがとうございます。面白かった。
投稿: たまき | 2006/06/01 23:07
こんばんわ。そう言っていただけると、わたしもほんとうにうれしいです。
投稿: かわうそ亭 | 2006/06/01 23:22