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2006年6月

2006/06/30

石田波郷の俳句

「俳句研究」7月号の有馬朗人・長谷川櫂の対談は「切れ」がテーマ。
そのなかに石田波郷に関するやりとりがあるのだが、少し違和感を覚えたので書いてみる。
ことは戦時中、波郷が戦争をどう見ていたかということにかかわる。

今年の2月2日のエントリーで、わたしは『新興俳人の群像「京大俳句」の光と影』田島和生(思文閣出版/2005)という本を紹介した。 (こちら)
そのなかで、石田波郷の戦時中の作句の態度について以下のように書いている。

この「皇道主義、全体主義の上に立つ新しい文学理念」の俳句として、昭和十六年十二月八日(太平洋戦争の開戦日)の「感激を直接うたひあげた作品」が並ぶ。
 
 大詔煥発桶の山茶花静にも      渡辺水巴
 うてとのらすみことに冬日凛々たり  臼田亜浪
 かしこみて布子の膝に涙しぬ     富安風生
 冬霧にぬかづき祈る勝たせたまへ   水原秋櫻子

これに対して、同じ年鑑には、
 
 花ちるや瑞々しきは出羽の国     石田波郷
 ゆく雁の眼に見えずしてとゞまらず  山口誓子
 外套の裏は緋なりき明治の雪     山口青邨

などという後年の代表句のひとつにもなるような句もある。とくに石田波郷の句は見事だという外はない。時局に迎合し保身にこれつとめる先輩たちを尻目に、平生とまったくかわらぬ詠いぶり。

つまり、わたしは石田波郷はどちらかといえば時局、すなわち戦争遂行に対して醒めた目をもっていたのだろうと考えていたのである。批判的な考えをもっていたという意味ではない。戦には勝たねばならない、というのは当たり前のことである。しかし、そこに過剰な思い入れや熱情や感激をいだくようなタイプの人ではないだろうというのがわたしの理解であった。静かに戦争という現実を受け入れ、国土や人々を愛惜するというのがこの時期の波郷の作句態度だと思っていた。

ところが、今回、長谷川櫂と有馬朗人は、波郷が戦時の「時代精神」のなかにあったという意見で共通する。
その根拠として、長谷川櫂は、戦時中の波郷が「切れ」のことをしきりに言ったとして、以下のような句を取り上げる。

 鮎打つや天城に近くなりにけり
 松籟や秋刀魚の秋も了りけり
 大詔や寒屋を急ぎ出づ

俳句の実作をなさる方はよくご承知のように、切れ字の「や」と「かな」を一句の中に両方ともつかうことはまずない。同じように「や」と「けり」の併用も初心者はかならず先輩に戒められる。「降る雪や明治は遠くなりにけり」など、「や」「けり」併用の名句はたくさんあるが、これは素人が安易に真似をしてはいけないのであります。理由は、このまま読み進んでくだされば説明があります。

以下、長谷川櫂の発言。まず「大詔や寒屋を急ぎ出づ」について。(ちなみにこれは575のリズムからみて「おおみことのりや」と読むのかな。上記、昭和16年12月8日、大東亜戦争開戦の大詔煥発でありますね)

「や」で切った場合、終わりはふつうは弱い連用形になるのです。「出で」とか。でも、ここも強い終止形で言う。この句集(獺亭注:『風切』昭18)で象徴的なのは<霜柱俳句は切字ひびきけり>です。その次の句集が『病雁』(昭21)です。<雁やのこるものみな美しき>は「や」で切って連体形で終っている。ふつうは「雁やのこるものみな美しく」と連用形で終ります。つまり「や」という強い切字を使ったときは下は弱くする。これは原則ですが、そこを波郷は気迫で、両方ともつよい「切れ」を使っている。これは一体何か。彼の戦争に対する高揚心が「切れ」を重要視させていたところがあるのではないかと思うのですが。

これを受けての有馬の発言は以下の通り。

私の解釈は時代だと思う。まさにおっしゃったように時代精神。それともう一つは、波郷さんの作品は、そこまで深く見てないのだが保田与重郎たちの「コギト派」、ああいう時代の雰囲気がなかったかなという気がするのだがどうだろう。

うーん、日本浪漫派のことは詳しくないのだが、波郷の句と共通する雰囲気ってあるだろうか。

さらにこれを受けて長谷川櫂。

僕もそう思います。これはちゃんと調べなくちゃいけないんですが、<大詔や寒屋を急ぎ出づ>という句を見ていると、彼の戦争に対する燃える思い、それと俳句は古典と競い立たなくてはいけないというのが一体になっているのです。僕は波郷がすごく好きなのですが、このあたりはよく見ておかないといけないと思うんです。つまり、これは波郷にとって不幸であったと同時に俳句にとっても不幸だった。というのは、戦争に負けた後、戦争に対する高揚した思いで作っていた波郷の俳句がエネルギーを失っていくわけです。

わたしは有馬朗人も長谷川櫂も俳句に対する誠実ということでは信用できると思っている。
だからここで二人が語っていることには十分敬意を払う用意がある。しかし、波郷の戦前の俳句のエネルギーは戦争に対する高揚した思いからだったのですよ、と言われても、素直に「ああそうなんだ」とは納得しがたい。
波郷ファンのみなさんのご意見はどうだろうか。

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2006/06/28

作歌の上達に薦めたい古典

「短歌研究」7月号の特集をぱらぱらと読む。
第一線の歌人52人に対して「作歌の上達に薦めたい古典」を5冊選んでくださいというもの。
回答をいくつか。

  • 岡井隆   古事記・梁塵秘抄・閑吟集・松尾芭蕉集・与謝蕪村集
  • 河野裕子  徒然草・和泉式部日記・記紀歌謡・奥の細道・三冊子
  • 小島ゆかり 古事記・源氏物語・今昔物語集・伊勢物語・奥の細道
  • 永田和宏  古事記・源氏物語・奥の細道・三冊子・平家物語
  • 水原紫苑  源氏物語・風姿花伝・楊貴妃・桜姫東文章・心中天網島

回答としては水原紫苑のものが面白い。
ちなみに、「楊貴妃」は能(金春禅竹)、「桜姫東文章」は歌舞伎(鶴屋南北)であります。(ふたつともわたしは知らなかった)
ご本人いわく、鶴屋南北は学生時代に演劇博物館の図書館に通いつめて全集を読んだのだとか。「桜姫東文章」は——

大筋を貫いているのは、昔も今もない、ひとりの「女の子」の物語だ。「女の子」がお姫様であり、荒くれ男の情婦であり、高僧を破戒させる女であり、最下級の娼婦であり、夫とわが子を殺す女であり、やがてまた何事もなくお姫様に戻る。

うん、なかなか面白そうじゃないか。「作歌の上達に薦めたい古典」という設問にはなんとなく反則に近いような気もするが。(笑)

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2006/06/27

小泉時代の終わり

『サッチャー時代のイギリス』森島通夫(岩波新書)より。

たしかにマルクスが言ったように、ある経済体制(たとえば資本主義)は、それに相応する文化(ブルジョア文化)や行動様式を生み出す。しかしまた逆にマクス・ウェーバーが言ったように、ある経済体制(資本主義経済)は、それを支持するような精神(例えばプロテスタントの精神)を国民が持っていなければ、生まれてこない。(p.218)

ここから森島は「経済と精神のマルクス的およびウェーバー的関係」を次のように単純な図式にしてみせる。

Morisima
ここで「a」→「A」がウェーバー的関係であり「A」→「a’」がマルクス的関係というわけ。
森島はさらに話を進めて「a’」すなわち資本主義の上に咲くブルジョア精神から、別の社会体制「B」(たとえば社会主義?)が生まれるというのがシュンペーターの変換理論の骨子であると説明する。まあ、あれだ「売家と唐様で書く三代目」というヤツでありますな、これは。
はじめは無学であっても質実剛健で生命力に溢れ、勇気と気概をもって果敢にリスクに挑戦する時代精神が一等国をつくりあげる。やがて二代目、三代目になると学があって文化的には洗練され優美な振る舞いを身につけるが、懦弱になり前例主義になり官僚主義となって三等国への坂道を下っていくのであります。(ただし念のために書いておくが、それを単純に恐れるべきでないというのが森嶋の立場である)

さて森嶋は本書で、マガーレット・サッチャーの政治をシュンペーターの体制変換理論を逆回しにしようとする反革命であると位置づける。(この論文が書かれたのはサッチャー政権下であり同時代の政権批判であることが興味深い)

サッチャーのような協力な精神的指導者が現れて「信仰回復(リバイバル)」に成功すれば、a’はa(あるいはaの類似物)となるかも知れない。そして国民がaのイーソス(ethos)を回復すれば、ウェーバー的関係a→Aが作動しはじめ、Bに向かって進みつつあった経済体制は、Aに復帰しはじめるであろう。(p.230)

いまわたしが考えているのは、もちろんサッチャー時代のイギリスのことではなく、現在のわが国のことだが、だんだんめんどくさくなってきた。以下、自分用のメモとして。

  • 小泉「改革」の時代が資本主義の猛々しい活力を取り戻すための「信仰回復」として「この人を見よ」、と称揚したのは堀江貴文であり村上世彰であった。とすれば、このたびの権力闘争(すなわち検察の国策捜査)は反革命(a’をaに回復させる)の鎮圧ということになるのだろうか。竹中平蔵への報復ということなのか。
  • 民族国家(nation state)は、共同社会(ゲマインシャフト)たる民族と、利益社会(ゲゼルシャフト)たる「国家」の混合物であり、その比率は国によりあるいは時代により流動的に変化すると森嶋はいう。おそらくそのとおりだと思うが、サッチャー流の政治家(たとえば安倍晋三)がその支持基盤をつねに民族に置くのはなぜだろう。
  • あるいはこれは逆に考えた方がいいかも知れない。たとえば、次期首相については財界の希望は安倍晋三よりも福田康夫であるという。アジア外交あるいは東アジア経済圏のなかでの利潤の最大化を願う財界としてはよりましな選択ということなのか。

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2006/06/24

アリスの死生観

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一枚の古い写真がある。
アフリカの川辺にひざを抱えて座った少女のポートレートである。
探検家のリヴィングストンがかぶっていたような帽子は少し彼女には大きめだ。ほんとうなら屈託なく友達と家の近所を走り回っている年頃だが、この年で少女はいくつもの大陸の奥地に足を踏み入れている。幼い子供にとっては毎日が冒険と祝祭の日々だった。
しかしこの写真は、ひとりぼっちで、どこかさびしそうに見える。
少女の名前はアリスという。

父親は高名な弁護士にして探険家。母親は多作なライターにして狩猟家。両親ともにアメリカのゴールデンエイジの申し子で、幼いアリスを連れて1920年代の世界中を飛び回った。アフリカ大陸、中東、インド亜大陸、アジア、南アメリカ、行く先々で少女は異質な文明と異質な人々に取り囲まれた。
まだ未開という言葉が現実味を帯び、手探りで人々が互いを知ろうとしていた最後の時代である。

死について考えた最初の記憶は10歳のときだった、と後年彼女は語っている。
ある夜、ガンジスの岸辺で一人の男が母親を焼くのを眺めていた記憶だ。火はとても弱く、屍体はいつまでたってもうまく焼けないように見えた。貧しくて薪を買う金がないのだろうと彼女はぼんやり思った。男はついにあきらめて焼け切らない屍体をガンジスに投げ入れると、自分もざぶりと河に入った。そして、母親の頭蓋を抱え込んで金歯をこじり取った。それは母の願いだった。それは敬虔な行為だった。母親は自分の唯一の財産を息子に渡したかったのである・・・・
10歳の少女がそのとき人の死をそんな風に思えるものかどうかは問題ではない。アリスにとって死はそのようなものとしてとらえられていたのだと知ればよい。

大人になったアリスは最初画家として身を立て同時に絵画批評家になった。第二次大戦が始まると陸軍に志願してヨーロッパに渡り航空写真分析官になる。おなじく軍の情報将校ハンティントン・シェルダン大佐と恋におち結婚、戦争が終るとCIAの創設にあたって夫婦そろって情報組織の要員としてリクルートされる。以後、ヴァージニアに居を構えて守秘義務のある政府職員として暮らす。
やがて政府機関を辞して大学の博士課程に進み、実験心理学の博士号をとった。博士論文のテーマは、異なる環境での新奇な刺激に対して動物はいかに反応するか、といった感じのものだった。

ドクター・アリス・シェルダンは、しかし実験心理学や行動科学の分野で世間に知られたわけではない。博士になった彼女は、大好きだったSF小説を書き始めたのだ。それも本格的に。小説はエイリアンとのファーストコンタクト(博士論文のテーマ!)や後のサイバー・パンクや映画マトリクスのさきがけとなったような世界を描いて、たちまち1970年代のSF界の話題をさらい、重要な賞の候補になったり受賞したりした。

アリスは直接姿を世間に見せることはなかった。すべての作家活動は私書箱の手紙を通じて行われた。こうした秘密主義はさまざな憶測を呼んだ。とくにアリスの小説には情報関係の政府機関の雰囲気が色濃く漂っていたためにその経歴に関する質問が数多く寄せられた。アリスは守秘義務の範囲で率直に自らの子供時代の異文明体験を語り、情報分析官としてのキャリアを語った。だが、自分のジェンダーは決して明かさなかった。ある人はそのヘミングウェイを思わせる文体から、またある人は銃器や武器に関する正確な理解や軍の通信手順や組織の細部の描写などから、このSF作家は男性であると思った。

アリスのペンネームは、ジェームズ・ティプトリー・ジュニア(James Tiptree,Jr)という。ティプトリーの名前はマーマレードの壜からとった。

70年代の終わりに、ついにこの作家が本名を明らかにしたとき、SFファンは仰天した。
ジェームズ・ティプトリー・ジュニアが女だって、まさか!
だが、種を明かされたあとで読めば、なぜ彼女を男だと思い込んでいたのか、そちらのほうがむしろ不思議な気がする。

話をとりあえず終らせよう。
1987年5月のことだ。SFファンは、ふたたび驚愕のニューズにさらされる。
ジェームズ・ティプトリー・ジュニアとして知られるアリス・シェルダンが夫を射殺し、その後自分の頭を撃ち抜いて自殺しているのが発見されたというのだ。ふたりは仲良く手をつないでベッドに横たわっていた。アリスは71歳で心臓病が悪化していた。夫のハンティントンは84歳で介護を必要とし、また視力をほとんど失っていた。
枕元には数年前に書かれ、最後に必要になるときまで保管されていた遺書があり、すべては自分たち二人の意思であることが書かれていた。
これもひとつのラブストーリーだと言う人もいる。そうかも知れない。

Tiptree アリスの(この名前ではじめた文章だからこの名前で終らせよう)SF小説はハヤカワ文庫から何冊か出ている。今回読んだのはこの2冊。著者名はもちろんジェームズ・ティプトリー・ジュニアだ。

『愛はさだめ さだめは死』
『たったひとつの冴えたやりかた』

そう思って読むとどちらも題名が彼女の最期を暗示しているようで不思議な気がする。
いや、じつは不思議でもなんでもないのかもしれない。彼女の作品のモチーフには彼女の最期に通じる死というものに対するある共通した思いがいつもあるようだ。その思いは若いときからずっと同じだったのかも知れない。
ガンジスの男とその母親の死の意味を考えたときから。

(彼女の10歳の死の記憶やその他のエピソードは、以下の記事を参考にしました)

Love Was the Plan, the Plan was . . .
A True Story About James Tiptree, Jr.
Mark Siegel

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2006/06/21

句会

今日は月例の句会。たまたま参加者が四人と少なかったので、席題を次々出して二時間で三十句つくることに。四分間で一句つくる計算なり。ほぼ即吟に近し。楽しんでいるのか、苦しんでいるのかわからないが、たまにはこういうのも面白いかも。各自三十句から十五句を選んで出句、句会形式で競う。

なんとか句の体をなしているらしきものを「時々一句」に八句掲載しました。(右のサイドバーからリンクしています)
こちらにはそこから自選三句を。

 祭の夜ガラス細工の豚を買う    獺亭
 河骨や昭和は遠く北一輝
 毛虫焼く山の端赤く変はりけり

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飯島晴子の四S前後論

古本で買った昭和55年2月号の「角川俳句」の表紙には赤のサインペンで大きく「必要」という書き込みがしてあった。
どのご家庭でも雑誌類は適当な時期に処分されるものだが、元の持主がとくにこの号を必要とするなんらかの理由があって、長いこと処分もされず保管されていたのかも知れない。

さて、いまわたしの興味は飯島晴子の「四S前後」論である。
富士見書房から出ている『飯島晴子読本』に収録されていた俳論のなかに、この文章が入っていたかどうか残念ながら記憶がないのだが、例によって歯切れの良い論調。
飯島の立場は、もちろん虚子の「客観写生」を批判的に見るものだ。
四Sが台頭して来た頃の「ホトトギス」の巻頭から数人の句を挙げながら、飯島は虚子の選に疑問を投げかける。たとえば大正8年、9年頃の原月舟や西村泊雲たちの「ホトトギス」巻頭句などは、虚子の「客観写生」の志向を反映したものだと飯島は言う。

 花の白に柄の青薄し鳳仙花     月舟
 欠び猫の歯ぐきに浮ける蚤を見し
 底泥に水縦横や杜若        泊雲
 山影をかぶりて川面花の冷

これらに対する飯島の評。
「志の低い、クソリアリズム」。「リアリズムの手法を超えてその向こうに顕つ時空がない」。いやはや手厳しい。

こういうホトトギスの古株の句を巻頭近くに集めながら、しかし虚子は、秋櫻子や誓子の句もそのなかに混ぜてみせる。

 高嶺星蚕飼の村は寝しずまり    秋櫻子
 むさしのゝ空真青なる落ち葉かな
 流氷や宗谷の門波荒れやまず    誓子
 凍港や旧露の街はありとのみ 

こうした句は、虚子の「客観写生」論からははみ出すもので、自説には少々都合の悪いものであった筈だが、論は論として虚子もこれらを推奨した。飯島曰く「“詩”の何たるかを虚子が理解していなかったわけではないことを思わされる」。ははは、これまた、なんとも手厳しい。

さて、飯島の結論は、四Sは一括りにすべきではなく、俳句史の意義においては秋櫻子・誓子と、青畝・素十のふたつに分けて考えるべきだとする。この結論めいた箇所は長いが引用に値する。

青畝・素十はホトトギスの既成の路線の上に開いた一個の才華である。秋櫻子・誓子は既成の路線から分かれて新しく延長する可能性のある路線をつくつた人たちである。秋櫻子がホトトギスと袂別したとき、俳句の主流は、ホトトギスではなく、青畝・素十ではなく、秋櫻子・誓子を選んだのである。今日の俳句は、秋櫻子・誓子の路線の延長の上に在ると言ってもよい。新興俳句、人間探求派俳句、根源俳句、社会性俳句、前衛俳句、そして現在の衰弱状態——。
俳句が秋櫻子・誓子を選んだとき、その代償として俳句が大きく失つたものがあることは確かである。だが、半世紀を経た現在、結果だけを見てその選択が誤つていたと言うのは間違いである。秋櫻子・誓子の路線には、俳句に五十年間、とにかく次々と別の絵を描かせるエネルギーを含んでいたことは事実である。さまざまの試行錯誤の中から、表現様式をいろいろと異にして後に遺る作品のいくばくかを生産し、何人かの一人一人別の顔をした作家を生んだこともまた事実である。これが仮に五十年前、俳句がホトトギスを主流として選んでいたとしたら、これらの作品や作家が、或いはそれ以上の作品や作家が今日までに在り得たであろうか。青畝・素十はもちろん、他のホトトギス作家の何人かは、今日、近代に飽き、近代への不信を抱く目から見ると、たしかに非常に魅力的である。だがもし五十年前、秋櫻子・誓子ではなく青畝・素十を俳句が選んでいたとしたら、今日の俳句の衰弱は更にひどいことになっていただろう。クソリアリズム、トリビアリズム、日常性、想像力の禁断の中で、俳句は退屈のあまり死んでしまっただろう。青畝・素十、その他同時代のホトトギス直系の有力作家からは、ほとんど一人も次世代の作家らしい作家を出していないことが、このことの何より確かな物的証拠である。

基本的に、その通りと思う。

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購書日記のまねごと

今日、奈良の古本屋で買った本。

『句集 獵常記』夏石番矢(静地社)
『この世 この生』上田三四二(新潮社)
『俳句 昭和55年2月号』(角川書店)

夏石番矢の本は第一句集の再版。昭和58年に三百部発行した初版本は発売と同時に絶版となった。再版の本書も四百部の限定となっている。
巻頭から順番に三句抜いてみる。

 降る雪を仰げば昇天する如し
 赤犬を埋めて朝夕複葉機
 馬槽のにいにいぜみもわが白夜    ※馬槽(うまぶね)

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降る雪の句は十五歳のときの作品だとか。池澤夏樹が芥川賞をとったときの小説『スティル・ライフ』にも、同じような情景を抒情的に描いた場面があったのを思い出す。

上田三四二の本はよく考えたら、読んだことがあったのを思い出した。まあ箱入りのきれいな状態の本なので、いずれどなたかにプレゼントでもするとしようか。

たまたま25年ばかりむかしの角川『俳句』が棚に並んでいたので、適当にぱらぱら読んでこの一冊を選んだ。「特集・四S前後」の最初の俳論が飯島晴子によるもので、ほお、と思わずうなるような切れのよい文章であったからだ。この話はまた日をあらためてすることにしよう。

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2006/06/13

これはオススメ「間宮兄弟」

「ぼくの知っている限り、女性はいつも選択に忙しい」とバートは言葉を続けた。
「男が五人いる部屋に入って来たとするね。女性の心はすぐ事務機械のように働いて、その五人に順位をつける。第一志望、第二志望、まあまあ我慢できる、ひょっとしたら、絶対いや」
(アーウィン・ショウ『その時ぼくらは三人だった』)

「間宮兄弟」を梅田ガーデンシネマで見る。たのしい映画だった。
兄の明信はビール会社の研究員、弟の徹信は小学校の用務員。二人暮らしのマンションは、壁じゅうの本棚に整然と並んだ本やおもちゃや熱帯魚などに囲まれてなんとも快適そうである。二人とももう30を過ぎているのにどうやらこれまでちゃんとした恋愛体験がないらしい。

Mamiya_bro 兄(佐々木蔵之介)の方は、まあ現実なら「第一志望」か「第二志望」の順位が妥当なのだろうが、あくまで映画のなかでは「ひょっとしたら」というポジショニングだし、弟(ドランクドラゴンの塚地武雅が好演)の方は「絶対いや」——というというよりも、そもそも女性の目から見ると「対象外」という感じになるのだろう。もっとも本人にもそれはちゃんとわかっているらしい。ときどき、傷ついたツカジは新幹線の車両基地で新幹線を眺めながら泣くのである。そんな弟を兄はおどけながらなぐさめる。(ここのシークエンスは好きだなあ)

さてこの兄弟が、自宅でカレーライス・パーティを開くという口実であこがれのレンタル・ビデオ屋のアルバイト店員、直子(沢尻エリカ)と、弟の小学校の教師、葛原依子(常盤貴子)を招待する。なにしろ、本来は「対象外」の兄弟だから、それぞれ好奇心やら不倫の行き詰まりのもやもやから招待に応じたものの、女たちの方には、はなからそんな気はない。
ということで、この兄弟をめぐる人間関係が、発展するのか、しないのか・・・

監督は森田芳光で映像はわたしの好みである。
そして特筆すべきは沢尻エリカ。
いや、この新進女優はかわいいなあ、ファンクラブに入ろうかしら。「ことわる!」と言ってくれたら最高であります。——って、これは映画を見ていないとわからんか。

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2006/06/11

文革の幽霊

昨日のウェブ版のニューヨークタイムズに聶元梓の写真が掲載されていた。いま85歳、北京でペルシャ猫二匹とともに余生を送っているらしい。
タイトルは「Hearts Still Scarred 40 Years After China's Upheaval 」。
(もしかすると読むためにはサイン・インが必要かもしれないが、一応リンクを貼っておきます)

1966年北京大学の哲学系の助教(当時45歳)であった聶元梓(じょう・げんし/Nie Yuanzi)は、文化大革命の実質的な狼煙となった「大字報」の作者である。

Cultrev_1 ほとんどすべての国民を精神的な拷問にかけ、何百万という人間を殺し、または自殺に追い込んだ文化大革命。まさかこれほどの災厄を、自分が祖国にもたらすことになろうとはそのときは想像だにしていなかった、とこの女は語る。北京大学での反対派との武装闘争を組織し、1967年には北京市革命委員会の成立とともに副主任に就任、しかし、その後失脚し、下放、隔離審査を受け、毛沢東死後の文革終焉後の1978年に逮捕される。
インタビューでは、ずいぶんきれいごとやら泣き言を言っているようだが、あまり同情する気にはなれない。

それにしても、文化大革命40周年を、中国政府は、あたかもそんなことはなにも起こらなかったかのようにやり過ごすつもりらしい。なんともはや。

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2006/06/07

olympus e-330

デジタル一眼が欲しくなって、ここ二週間ほど、カタログを集めて、ああでもないこうでもないと、各社のスペックを比較検討していたのだが、こういう買い物がたいていそうであるように、結局は、店頭で「えいやっ」と決めてしまった。
買ったのはオリンパスのE-330である。
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衝動買いに近いようなものの、選択には多少理由もある。

同じように、いまデジタル一眼の購入を検討中の方もいらっしゃるかもしれないので、参考までに自分なりの判断理由と、実際の使用感を書いておきます。
選んだ理由は、結局ふたつ。

ひとつはこの機種だけにしかないライブビュー機能。
もうひとつはオリンパス製のデジタル一眼にしか搭載されていないダストリダクション機能。

まずライブビュー機能について。
デジタル一眼は、レンズ一体型のコンパクト・タイプとは撮影の方法が異なる。
コンパクト・タイプのデジカメの場合、撮影はカメラを顔から離して背面の液晶画面を見ながら構図を決めてシャッターを切るのがふつうであります。これに対してデジタル一眼はかつての一眼レフカメラと同じようにあくまでファインダーを覗きながらシャッターを切るようになっている。構造上の仕組みで、もともと液晶画面でフレームやフォーカシングを確認してから撮影するというようにつくられていないのでありますね。液晶画面は撮った直後の確認用です。
これが本機E-330の場合は、デジタル一眼でありながら、コンパクト・デジカメと同じように液晶を見ながらシャッターを押すこともできるようになっていて、これを同社ではライブビュー機能と呼んでおります。もちろん、こういう撮り方もできるということでありまして、本機でもふつうは液晶を使わずファインダーで撮影する方が一般的です。
わたしの場合は、用途のひとつとして粘土工房の作品撮影があるので、どっちにしても三脚でカメラを固定し、ゆっくり画像をチェックしながら撮影するのが便利なので、この機能はたいへん魅力的であった。この方式だと事前に画像を10倍拡大して狙った部分の焦点合わせもできたりして、マクロ撮影などには威力を発揮する。(と、カタログには書いてある)
実際の使用感をいうと、うーん、やっぱり、ファインダーでばんばん撮っていくことで十分かなあ、という感じである。ただ、このあたりはもう少し、このカメラの性能やクセに慣れて行くとやはり結構便利じゃん、となるかもしれない。

もうひとつの理由であるダストリダクション機能は、一眼レフの宿命として埃がカメラ内に入る可能性が高いのだが(レンズ交換時など)、この埃が撮像センサーに付着すると写真にゴミが出てしまうらしい。これを避けるために他のメーカーのカメラだと、埃を除去するメンテナンスをサービスセンターなどに依頼したなんて話題を目にしたが、オリンパスはカメラの起動時に超音波の振動波でこのゴミを振り落とす仕様となっている。メンテナンスは一切不要である。(と、カタログに書いてある)
ただし、ふつうのユーザーが写真にゴミが出るようになってサービスセンターに持ち込むなんてのは、かなりのヘビー・ユーザーの場合なんじゃないかなあ、という気はするので、これまたどっちかといえば、気分の問題といったところだろうか。

実際にいろんなものをデジタル一眼で撮ってみてあらためて思うのは、変な話なんだがいままで使っていたコンパクト・デジカメ(わたしの場合はコニカミノルタDimage X21)というのはじつによくできていたなあ、ということである。コンパクト・デジカメは、その機種のテイストがあらかじめ出来上がっていて、写せばそれなりのものがさして苦労もなしに出来上がる。
これに対してデジタル一眼の場合は、「自分の写真」ができるまで、ちょっと試行錯誤が必要のようだ。まあ、それが楽しいといえばいえるのだと思う。

写真は萬葉植物園、今日E-330で撮ったもの。

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2006/06/01

5月に読んだ本

『宋詩選注 (4)』銭鍾書/宋代詩文研究会・訳注(東洋文庫/平凡社/2005)
『シーザーの埋葬 新装版』レックス・スタウト/大村美根子訳(光文社文庫/2004)
『骨の島』アーロン・エルキンズ/青木久惠訳(ハヤカワ文庫/2005)
『人形佐七捕物帳』横溝正史(光文社時代小説文庫/2003)
『戦後ドイツ—その知的歴史』三島憲一(岩波新書/1991)
『芭蕉の門人』堀切実(岩波新書/1991)
『それゆけ、ジーヴス』P.G. ウッドハウス/森村たまき訳(国書刊行会/2005)
『よしきた、ジーヴス』P.G. ウッドハウス/森村たまき訳(国書刊行会/2005)
『植物知識』牧野富太郎(講談社学術文庫 /1981)
『The Closers』Michael Connelly (Warner Books/2006)
『博士の愛した数式』小川洋子( 新潮文庫/2005)
『トリツカレ男』いしいしんじ( 新潮文庫/2006)
『ぶらんこ乗り』いしいしんじ( 新潮文庫/2005)
『麦ふみクーツェ』いしいしんじ( 新潮文庫/2005)
『プラネタリウムのふたご』いしいしんじ( 講談社/2003)
『ポーの話』いしいしんじ( 新潮社/2005)

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5月に見た映画

かもめ食堂
監督・脚本:萩上直子
出演:小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ

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