小泉時代の終わり
『サッチャー時代のイギリス』森島通夫(岩波新書)より。
たしかにマルクスが言ったように、ある経済体制(たとえば資本主義)は、それに相応する文化(ブルジョア文化)や行動様式を生み出す。しかしまた逆にマクス・ウェーバーが言ったように、ある経済体制(資本主義経済)は、それを支持するような精神(例えばプロテスタントの精神)を国民が持っていなければ、生まれてこない。(p.218)
ここから森島は「経済と精神のマルクス的およびウェーバー的関係」を次のように単純な図式にしてみせる。
ここで「a」→「A」がウェーバー的関係であり「A」→「a’」がマルクス的関係というわけ。
森島はさらに話を進めて「a’」すなわち資本主義の上に咲くブルジョア精神から、別の社会体制「B」(たとえば社会主義?)が生まれるというのがシュンペーターの変換理論の骨子であると説明する。まあ、あれだ「売家と唐様で書く三代目」というヤツでありますな、これは。
はじめは無学であっても質実剛健で生命力に溢れ、勇気と気概をもって果敢にリスクに挑戦する時代精神が一等国をつくりあげる。やがて二代目、三代目になると学があって文化的には洗練され優美な振る舞いを身につけるが、懦弱になり前例主義になり官僚主義となって三等国への坂道を下っていくのであります。(ただし念のために書いておくが、それを単純に恐れるべきでないというのが森嶋の立場である)
さて森嶋は本書で、マガーレット・サッチャーの政治をシュンペーターの体制変換理論を逆回しにしようとする反革命であると位置づける。(この論文が書かれたのはサッチャー政権下であり同時代の政権批判であることが興味深い)
サッチャーのような協力な精神的指導者が現れて「信仰回復(リバイバル)」に成功すれば、a’はa(あるいはaの類似物)となるかも知れない。そして国民がaのイーソス(ethos)を回復すれば、ウェーバー的関係a→Aが作動しはじめ、Bに向かって進みつつあった経済体制は、Aに復帰しはじめるであろう。(p.230)
いまわたしが考えているのは、もちろんサッチャー時代のイギリスのことではなく、現在のわが国のことだが、だんだんめんどくさくなってきた。以下、自分用のメモとして。
- 小泉「改革」の時代が資本主義の猛々しい活力を取り戻すための「信仰回復」として「この人を見よ」、と称揚したのは堀江貴文であり村上世彰であった。とすれば、このたびの権力闘争(すなわち検察の国策捜査)は反革命(a’をaに回復させる)の鎮圧ということになるのだろうか。竹中平蔵への報復ということなのか。
- 民族国家(nation state)は、共同社会(ゲマインシャフト)たる民族と、利益社会(ゲゼルシャフト)たる「国家」の混合物であり、その比率は国によりあるいは時代により流動的に変化すると森嶋はいう。おそらくそのとおりだと思うが、サッチャー流の政治家(たとえば安倍晋三)がその支持基盤をつねに民族に置くのはなぜだろう。
- あるいはこれは逆に考えた方がいいかも知れない。たとえば、次期首相については財界の希望は安倍晋三よりも福田康夫であるという。アジア外交あるいは東アジア経済圏のなかでの利潤の最大化を願う財界としてはよりましな選択ということなのか。
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