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2006年7月

2006/07/30

小川洋子、マイブーム

小川洋子さんの『偶然の祝福』(角川文庫)という短編集がとても面白かった。

文庫なので、巻末にごく短い解説を川上弘美さんが書いておられる。
その2001年時点で書かれた解説によれば、川上さんは短編集なら本書、長編なら『ホテル・アイリス』が一番好きだとおっしゃる。

ふーん、と思いながら、仕事帰りにブックオフをのぞいたら、文庫の半額コーナーのほうに『ホテル・アイリス』、『やさしい訴え』、『寡黙な死骸 みだらな弔い』がたまたま並んでいたので、3冊ともゲット。そのままついでに『ホテル・アイリス』も読み終える。ただ、こっちは嗜虐的なボンデッジなどの性愛の描写にちとげんなり。いや、べつに上品ぶるつもりはないのだが、最近どうもこういうのは苦手なのであります。
暑いから?いや年でしょ、さすがに。(笑)

2006_0730 たぶん『博士の愛した数式』から読み始めた作家だったので、作風のイメージを読者のほうで勝手にきめこんでいたということなのでしょう。
もっとも、川上弘美さんが『ホテル・アイリス』を大好きだとおっしゃる理由もわからないではない。じつは川上さん自身の本『龍宮』なども、(まったく異質な作品ですが)どこかちょっと似たような雰囲気があるような気がするのですね。そして、わたしはこの本もまた苦手だったりする。

ただし、この苦手というのは、ダメだとか、きらいと言うのとも微妙に違っていて、どういうんだろう、読んでいて息が続かないような感じになるんだなあ。つまり、小説と言うのは、時間がゆるせばどんどん頁を繰って行く場合もあれば、すごく面白いのだが、なぜか数ページ読んでは本を伏せ、しばらくしてまた2、3ページ読んでは本を伏せ、というような状態になることがある。そうして、そういう風に一気に前に進めないような読み方になる場合、ああ、こういう「場面」がわたしは苦手なんだな、と思うのですね。

とは云うものの、小川洋子さんは、目下、マイブーム。
いい作家です。

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2006/07/25

抜粋黒板ふたたび

本を読んでいると、たいていはどこか一カ所くらいは気に入った文章や、覚えとしてメモをしておきたいような箇所があるものだ。ヒマがあれば、そういう一節をコンピュータに打ち込んで、自分だけの引用データベースをつくっている。手はかかるが、カネはかからない蒐集癖といえないこともない。
といっても、特別なソフトをつかっているわけではなくて、いまはフリーソフトのエディターに無造作に放り込んでいるだけなのだが。
現在つかっているエディターは「mi」で、ほかのソフトも同じだろうが、ファイルをまたいだ語の検索が簡単にできるので重宝である。

ブログに移行する前のサイトではホームページのトップに「抜粋黒板」というコーナーをつくって、更新のお知らせ代わりに、この引用データベースから適当に切り貼りをしていたので、自分が蒐集した引用をよく読み返したものだが、いまはあんまり読み返すことがない。
たまに読み返すと、結構、面白かったりするのだが。

ということで、今日は久しぶりに「抜粋黒板」の小さな花束を編みました。お楽しみいただければ幸いです。


だからどうだっていいじゃないか。人は成長して大人になる。大人になったら、昔の夢は高望みだったと自分を納得させるしかない。大人になれば、夢の機械に≪故障中≫という大きなプレートがぶらさがっていることも発見するのだから。
  スティーヴン・キング/白石朗訳
 『ドリームキャッチャー1』(新潮文庫)

**

わかいころ私たちは、あらゆることにおいて、自分の選択が、人生の曲がり目を決定して行くと信じていた。プラトンを読んだり、小説を書こうとしているジュゼッペにもそんな時代はあったはずだ。しかし人間はある年齢になると、自分の選択について、他人にも、自分にたいしてさえも、説明することをしなくなる。説明するにはあまりにも不合理なところで人生が進んで行くことを、いやというほど知らされているからである。
  須賀敦子「小説のなかの家族」エッセイ/1957〜1992
  『須賀敦子全集2』(河出書房新社)

***

「あきらめ」という文章に書いたように、俳句という詩は一応人生に対しあきらめの上に立って居るものとも言えるのであるが、しかしながらそればかりではない。冬が極まって春がきざすという天地自然の運行とともに、あきらめというものの果に自から勇気が湧いて来る、その勇気の上に立っているものとも言える。消滅滅已の人生とあきらめはするが、その底の方からほのぼのとして勇気が湧いて来て、それが四季の運行に心を止めて、それを諷詠するという積極的の行動である。あきらめきって何もしないのではない。あきらめた上に生じた勇気が俳句の行動となって現われ来るのである。俳句は消極的な文学ではなくて積極的な文学である。そうしてその勇気は人生に対する行動の上にも及ぶ。
  高浜虚子『立子へ抄』(岩波文庫)

**

どんなに一本の線のように見えても、ひとの生涯はたくさんの屈折を潜めている。ひとの生涯は、しばしばそのように語られます。けれども、実際はその逆で、たとえどんなにたくさんの屈折をひそめていようとも、ひとが後にのこすものは、結局そのひとの生きすじをありのままにしめす、一本の線のような人生です。
人生とよばれるものは、ひとが生涯に引く、人生という一本の線です。
  長田弘「アパラチア・ストーリー」
  『本という不思議』(みすず書房)

私はよく思うのですが、もし人生をやりなおすことができたら——それも今度ははっきり自覚してはじめることができたら、どうでしょう?もし今まですごしてきた人生がいわば下書きであり、二度目の人生が清書だとしたら!
  アントン・チェーホフ/小田島雄志訳
  『三人姉妹』(白水Uブックス)

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2006/07/22

目利きはきかない

『司馬遼太郎と三つの戦争 戊辰・日露・太平洋』(朝日選書 )は、司馬遼太郎の産経新聞時代の同僚であり、司馬遼太郎記念財団常務理事でもあった青木彰が、朝日カルチャーセンターで2000年から2001年にかけて計6回行った講演を中心に編集したものである。
わたしが読んだのは、図書館の本で、「2004年3月25日第1刷発行」の奥付がある。

司馬のごく近しかった人による講演録なのでたいへんおもしろく、とてもいい本なのだが、「あらら、これは」という間違いを発見。ただし重版になっていればその後、訂正されているかも知れません。
まあ、間違いといっても本質的なものではないし、あとで述べますが、本の著者となっている青木彰には責任はないものと思われます。

ことは司馬遼太郎の「海軍好き」に関する箇所。

司馬はよく知られているように戦車兵として戦争末期、陸軍に身を置いていました。青木彰は海軍でした。(ちなみに青木の父はミッドウェイー海戦の空母赤城の青木泰二郎艦長である)
司馬は、海軍は「文明」であり、陸軍は「文化」だっという。文化は普遍性がなくても、あるいはないがゆえに存在し、土着性が濃厚になる。それが司馬が陸軍をきらった理由だろうと青木は言い、司馬とのこんな会話を紹介します。

自分の所属していた陸軍が、文明から遠いところにあると感じたことが大きいのではないでしょうか。
たとえば、海軍士官は「スマートたれ」として、教育を受けます。
たしかに、私たちはそう教えられました。私たちの時代にはこういわれたのです。
「スマートで、目利きがきいて几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」
この話を聞いたときの司馬さんの喜びようは大変でした。
「そうだよ、それが文明だよ。普遍的な人間のあり方だよ」
と。

あれれ「目利きがきいて」は駄目ですよね。ここは、もちろん「目先がきいて」でなければならない。

じつは、この本には、ご丁寧にもういちど「目利きがきいて云々」という表現が出てきます。それは「あとがき」の最後の部分で、この「あとがき」を書いたのは朝日新聞北海道報道記者という肩書きの村井重俊さんという人物です。この「あとがき」によれば、この講演録は「週刊朝日」のフリーライターとして「司馬遼太郎からの手紙」を担当した日野雅子という人が講演のメモから原稿に書き起こし、村井氏が構成を担当したとのこと。じつはこの時点で青木は肺がんで入院中でゲラは渡したが、手を入れてもらうことはできなかったそうなんですね。「講演録の文責はわたしにある」と村井氏も書いておられるので、そうであろう。

いい本だと思うので、きびしいことを言うようだが、もうすこし、原稿起こしにしても構成担当にしても、文章のプロらしい仕事ができなかったのか。これでは泉下の青木が気の毒である。重版で訂正されていればいいのだが——。

正しくは、

わたしも実際に教えられたわけではないが、おそらくはこうではなかったか。

 スマートで、目先がきいて几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り。

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2006/07/19

フェイス・ブラインドネス

「皇帝ペンギン」や「wataridori」といった動物の記録映画を見ていて、不思議に思うのは、繁殖地で孵化したヒナのところに親鳥が餌を運ぶときに、何千、何万というヒナのなかから自分の子供をきちんと見分けているらしいことですね。間違って他所の子に餌をやったりはしない。
あれだけたくさんのヒナの中から、どうやって自分の子供を識別するのだろう。

「ペンギンのQ&A」というサイト(ここ)によれば、

ペンギンは、孵化の二,三日前から卵に穴があいて、中からヒナの鳴き声が聞こえますが、親はそれ以前から卵に向かって鳴きかけています。親子は孵化前後三,四日の間に、お互いの鳴き声を覚えると考えられています。

ということなので、どうもお互いの鳴き声で、親子の識別をしているらしい。

なるほど、それならわかるな。だってペンギンなんて見た目は全部同じだもの、と思っていたのだが、はたしてそうだろうか。たしかにペンギンの群れや海鳥の群れを映像で見ると、ぼくらの目には全部がまったく同じに見える。一羽、一羽の識別を視覚的におこなうことは絶対にできそうにない。しかし、だからといって、かれらも視覚的な個体識別ができないと決めてかかるのは早計かも知れない。

ニューヨークタイムズの7月18日版のサイエンス・セクションを読んでいたら、人の顔の識別ができないという症例の記事が出ていた。
正式には prosopagnosia というらしい。一般には face blindness 。
日本語ではどういうのだろうと検索したら、「ライフサイエンス辞書プロジェクト」というサイト(ちなみにここの英語教材はなかなかおもしろい)に「 (病名)顔貌失認, 相貌失認」と出ていました。

2006_0719このニューヨークタイムズの記事によれば、顔貌失認という病気は卒中などによる脳損傷の結果というのはまれで、多くは先天性もしくは発生上の障害であるというのですね。しかも従来考えられていたよりかなり広範にみられる病気なんだそうです。無作為に抽出した689人の学生を調査した結果2.47%がこれに該当した。
この病気の人は、たとえば本なら普通に筋を追うことができるのだけれど、映画やテレビだと、出て来る人が全部同じに見えてなにがどうなっているのかわからなくなっちゃうんだって。
たぶん、この病気のひとにとっては、ぼくらがペンギンの顔の違いがわからないような感じで人間の顔の違いがわからないんだろうと思う。
ただ、こういう病気の人は、相手の髪型だとか、声だとか、服装だとか、仕草などでその人が誰であるかを覚えるような「代償」を自然に身につけるので、大半の場合は社会生活にそれほど大きな支障はないようです。まあ、だからこれまではっきり「病気」だとは思われていなかったわけもそのへんにある。

最近の若いタレントは全部一緒に見える、と悪態をついているあなたも、もしかしたらこれかもしれませんよ。(笑)

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2006/07/07

草田男の守護天使

中村草田男が小野撫子(おの・ぶし)につけねらわれていたというのは、草田男の全集別巻の年譜などにもそういう意味の記述があることから確かなことだと思う。

では、なぜ小野は草田男を執拗に狙ったのか。

草田男の句がいわゆる花鳥諷詠の枠に収まらない、かなり自由主義の匂いのするものだったからだとかなんとか、そういうことはもちろんあるだろうが、わたしは小野は草田男を梃にして虚子を追い落とそうとしていたのだと考えている。

小野撫子という人物はほとんど学歴のようなものがないにも関わらず、大阪毎日新聞社、東京日々新聞社、さらに東京放送局(のちのNHK)に入り文芸部長をつとめたような人物である。
ただの刻苦勉励型の立志伝中の人物なのだろうか。
出典は忘れたが、小野の主宰誌「鶏頭陣」の門下であった永田耕衣が若い頃、おまえは主宰の不興を買っているようだと言われて、あわてて夜行で小野のもとに駆けつけ平身低頭して許しを乞うたというエピソードがある。
陰湿で機嫌を損ねるとなにをされるかわからないので、とりあえず自分はあなたの子分ですと、言わざるを得ないような小ボス。こういう人物、どの世界にもいますね。人を威圧して上にのし上がっていくタイプ。

あるいは時代劇でおなじみの、御用風を吹かす岡っ引きに擬してみる。

おう、ホトトギス屋の。お前ぇんとこの手代で草田男てぇ若いのがいるそうだな。最近なんでも御上の御威光を馬鹿にして、けしからんあてこすりを言ってるそうじゃねえか。

たとえば昭和15年の京大俳句事件がホトトギス本体に及んでいたら、どうだろう。
特高が動いて、草田男を検挙したら、おそらく虚子はただではすまなかっただろう。なぜなら、草田男の問題となるような花鳥諷詠(はいいんだ、と特高は京大俳句事件の検挙者に語っている)から外れた句を採って、あまつさえ巻頭に据えたのは他ならぬ虚子である。

だから、小野の狙いは、草田男を血祭りに上げてその責任追求で虚子を俳壇から引退させ、かわりに自分が虚子の椅子を奪う、というクーデタではなかったかとわたしは空想するのである。
しかし、実際は俳句弾圧事件は草田男の上を通り過ぎて行った。小野が付け狙っていたとすれば、これはかなり注目に値するのではないか。なぜだろう。

じつは今回、いろいろ調べものをしているうちに、井本農一の「志の高かった人——中村さんと私のことなど」という比較的短い文章に出会ったのでありますね。(『中村草田男:人と作品』愛媛新聞社収録)ちなみに井本農一は国文学者で俳文学についての権威です。

こういう内容です。
井本が中村に初めて会ったのは昭和8年、井本は旧制成蹊高校を卒業して東京帝大国文科の合格が決まったとき、中村は逆に東大からこの成蹊高校への就職で赴任したときだった。だからほんとうはこのふたりはすれ違っているはずなのですが、井本は中村の消息をよく耳にしたというのですね。なぜかというと、成蹊高校の尋常科で中村は梅地慎三という物理の先生に大変かわいがられるのですが、この梅地先生と井本の父親が同郷の古い友人で、ふた月に一回くらいは井本の家にきては中村の噂をしていたからである、ト。
さて、以下は重要な証言なので、原文を引きます。

俳句に限って言えば、第二次世界大戦の激化に伴い、周知の俳句弾圧事件が起こり、中村さんにも、私的にではあるが警告が発せられ、弾圧が及ぼうとしたとき、当時の安倍源基警保局長に会い、その非なることを力説したのは梅地先生である。梅地先生は安倍警保局長とも同郷の友人であったので、気楽に話のできる立場であった。梅地先生は私の家に来て、安倍が大丈夫だと言ったから大丈夫だと思うと語っておられた。

ああ、警察関係の上の方とコネがあったのね、と気楽に読まれたかもしれない。だが、ここで安倍源基という名前が出たことにぎょっとする人もあるだろう。ただのコネじゃないんだな、これが。

少し解説する。
その1)
井本農一の父とは、作家の青木健作。(1883-1964)山口県出身で旧制山口高校から東大哲学科に進み、明治43年に発表した「虻」という小説で漱石の絶賛を浴びる。「名声ある大家の作と比べて遜色のないもの、あるいはある意味から言って、それより優れているもの」という評であった。なお、この「虻」の発表誌は「ホトトギス」だった。

その2)
この井本農一の父君と友人だった梅地慎三については、ググると数件ヒットするがどういう人だったかはよくわからない。なおその検索結果が正しければ生没年は1885-1968である。

その3)
その梅地先生の同郷(山口県)の友人という安倍源基(1894-1989)は、これはインターネットでぜひ検索していただきたい。一番、注目をひくのはもちろん小林多喜二虐殺に関わる件だろう。特高がもっとも先鋭な思想警察の牙を国民に剥いた時代の特高部長、警保局長のちに警視総監、敗戦時の(最後の)内務大臣で閣議で一億玉砕を主張したとかいういわくつきの人物である。

ここから読み取れること。
上のたとえで小野撫子が「御用聞き」だとすれば、安倍源基は「町奉行」クラスでありますね。これでは、お話にならない。まして、この安倍というのは、特高を直接指揮して思想犯の署内での拷問を行った人物であり、多くの虐殺に対して責任者の立場であった。
上記で、井本が「安倍が大丈夫だと言ったから大丈夫だと思う」と聞いたのは、つまりはそういうことでありました。

なんだかんだ言っても、命も結局はコネかよ、という嘆息が聞こえてきそうではありますね。

なお、山口県で安倍とくれば、やや、もしかして安倍晋三の岸信介じゃないほうのじいさんかいなと早とちりするする方がいてはいけないので一言。安倍晋三の祖父は安倍寛(1894-1946)といいまして、この特高部長ー内務大臣の安倍源基と同時代人ですが、まったく別人です。

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2006/07/05

俳句安楽椅子探偵の半日

今年の2月11日に書いた中村草田男の「金魚手向けん」の句に関連するエントリー(こちら)に関して。
そのなかで、わたしはこう書いた。

そしてこの句を含む出句が草田男のホトトギスへの最後であり、虚子はこれを巻頭に据えたのだ。

今日、俳句友だちから、メールをもらって、年譜では昭和18年にホトトギスを去るとあるけど14年の金魚手向けんが最後で18年までは投句しなかったのでしょうか、と聞かれて、あれれ、と思った。そういえば、これはちょっと変だぞ。

というわけで、たまたま休みだったので、国会図書館に行って草田男関係の文献10冊ばかりを調べてみた。(これ以外にも、派生的な発見があるので書いておく)

まず、わたしの文章のもとになったのは、『新興俳人の群像—「京大俳句」の光と影 』田島和生(思文閣出版/2005)の199頁から200頁にかけての文章。

一方、「ホトトギス」同人の草田男は昭和十四年代、俳壇の空気が右傾化する中で、相変わらず、批判精神の盛んな作品を発表していた。
虚子は、昭和十四年六月、七月号の「ホトトギス」雑詠に、草田男の作品を巻頭に据える。七月号作品は、草田男にとって「ホトトギス」最後の発表となるが、花鳥諷詠主義とは程遠い作風。太っ腹な虚子の大胆な選ともいえる。(下線:獺亭)

結論からいえば、これはたぶん間違いですね。おそらく「巻頭はこれが最後となる」(のは確認)、とでも書くべきところだったのでしょう。
間違いだと思う根拠は、『虚子選ホトトギス雑詠選集(春夏)』(新潮社/1962)である。この本には、何月号かまでは書いてないけれど、何年の「ホトトギス」雑詠欄から採ったかが記されている。ここから草田男の句を探して、それが何年であったかを見ればいい。
関西館には秋冬の版は収蔵してないようなので、とりあえず春夏だけだが、昭和15年以後に少なくとも4句が採られていました。

  落第の弟きのうふもけふも哀れ  (昭和15年)
  虹に謝す妻よりほかに女知らず  (昭和15年)
  片陰ゆくつひに追ひくる市電なし (昭和15年)
  口笛をやめては答へ春惜しむ   (昭和17年)

この本も全てを網羅しているわけではないから、春夏だけでもほんとうはもっと多いでしょう。
みすず書房発行の全集の別巻にある年譜をみても、「ホトトギスへの投句をやめる」とあるのは昭和18年となっています。
「ちゃんと調べてから書けよな」と如月真菜を罵倒しておきながら、そういう自分もちゃんと調べてなかったというお粗末。反省。(笑)

しかし、俳句の書誌学的な作業というのは意外と進んでいないのかなと思ったなあ。

というのは、たまたま(つまりこれから先が別件の発見になるのだが)『新編草田男俳句365日』宮脇白夜(本阿弥書店/2005)という本も参照したのだが、そこには「金魚手向けん」の解説としてこんなことが書かれているのだ。

昭和十四年六月号の「ホトトギス」でこの句は「月ゆ声あり汝は母が子か妻が子か」の句など共に巻頭を占めた。虚子選の端倪すべからざる事の証として、その事はしばしば話題となった。(下線:獺亭)

ところがですねえ、俳句安楽椅子探偵のわたしはもちろん、まず「金魚手向けん」がほんとうに「ホトトギス」の巻頭だったのかどうかまっ先にチェックしています。そのために参照したのは『創刊百年記念ホトトギス巻頭句集』稲畑汀子監修(小学館/1995)。
こうあります。

 昭和十四年七月号(515号)
  響呼んで来る夜番より吾は惨め  中村草田男
  枯枝婆娑心労斯くては肺いかに
  人あり一と冬吾を鉄片を虐げし
  金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り

ね、「月ゆ声あり」はこの時じゃないでしょ。

じつは、『創刊百年記念ホトトギス巻頭句集』によれば(これはさすがに間違いないでしょう)この句はたしかに昭和十四年六月号巻頭のうちの一句なんです。(つまり草田男は二連続巻頭だったわけだ)そのときの句。

 月ゆ声あり汝は母が子か妻が子か
 居りながら居ぬといふ家の冬薔薇蹴る
 火見櫓曇天を冬の刻移る
 教師立ちて茶色の光大試験

やれやれ、『新編草田男俳句365日』って、装幀はすごく立派なんですけどねえ。

そのほかにも、今日の調べもので、草田男が小野撫子あたりにつけねらわれていたのに、なんとか京大俳句事件の犠牲者のような目に合わなかったひとつの(もちろん全部ではないが)理由がわかったのだが、長くなったのでこの話はまた別の機会に。

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レオナール・フジタ

藤田の戦時下から敗戦をへてフランスへの帰化までの経緯をテーマとした本書(獺亭注:近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』)において、戦争画についての姿勢が紋切り型に終始していることは致命的です。戦争協力をした画家は藤田だけではないとか、画家たちの戦争責任を誰も追及していない、などというような話はどうでもいいのです。『サイパン島同胞臣節を完うす』や『アッツ島玉砕』などの大戦下の作品は、藤田のみならず、高橋由一にはじまった近代日本美術の最高峰であり、とてつもない傑作であること、それを認めるところ以外から藤田を語って何の意味があるのか。なかなか展観されない作品ですが、見る人誰もを戦慄させずにはおかない崇高美を現出させた不世出の作品を、軍国主義うんぬんの決まり文句で語ることの貧しさ、つまらなさ。
(福田和也『晴れ時々戦争いつも読書とシネマ』)

というわけで、京都国立近代美術館で開催中の「生誕120年・藤田嗣治展」に行ってきました。とても面白い展覧会でした。

問題の戦争画には一室が当てられていた。
「神兵の救出到る」
「シンガポール最後の日(ブキテマ高地)」
「アッツ島玉砕」
「サイパン島同胞臣節を完うす」
の4作品。(東京会場では「血戦ガダルカナル」を加えた5作が展示されたと聞いている)

あとから考えるとこの部屋だけが照明が暗かったように感じられた。あるいは絵の印象のせいで、そう思っただけかもしれない。
「アッツ島玉砕」は1943年9月の国民総力決戦美術展に出品された。当時、絵の前には賽銭箱が置かれていたと2006年4月号の「芸術新潮」の特集にある。

Foujita フジタの裸婦の肌の美し過ぎる乳白色と、赤錆のような色彩の戦争画と、あまりの振幅に目眩を覚える。しかしそういう振幅の果てに、最後は一人のカトリック信者として救済を得ることが出来たのだろうか。よくわからない。

個人的には、フランスの名物を48枚のカードに描いてモザイクにした「フランスの富」(1962)あたりの(まあ、遊び半分といってもいいだろうなあ)小品が眺めていて楽しいと思ったが、我ながら志の低いことではあります。

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2006/07/01

6月に読んだ本

『龍宮』川上弘美(文春文庫/2005)
『芭蕉』安東次男(中公文庫/1979)
『ダライ・ラマ自伝』山際素男訳(文春文庫/2001)
『奇術探偵曾我佳城全集 秘の巻』泡坂妻夫(講談社文庫/2003)
『奇術探偵曾我佳城全集 戯の巻』泡坂妻夫(講談社文庫/2003)
『文學大概』石川淳(中公文庫/1976)
『薬指の標本』小川洋子(新潮文庫)
『愛はさだめ、さだめは死』ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア/伊藤典夫・浅倉久志訳(ハヤカワ文庫)
『句集 獵常記』夏石番矢(静地社/1986)
『たったひとつの冴えたやりかた』ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア/浅倉久志訳(ハヤカワ文庫)
『この世 この生』上田三四二(新潮社/1994)〈再読〉
『サッチャー時代のイギリス—その政治、経済、教育』森嶋通夫(岩波新書/1993)
『すばる歌仙』丸谷才一・岡野弘彦・大岡信(集英社/2005)
『貴婦人Aの蘇生』小川洋子(朝日文庫/2005)
『新・艶の美学』小沢克己(本阿弥書店/2002)

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6月に見た映画

間宮兄弟
監督:森田芳光
出演:佐々木蔵之介 、塚地武雅 、常盤貴子 、沢尻エリカ 、北川景子

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