抜粋黒板ふたたび
本を読んでいると、たいていはどこか一カ所くらいは気に入った文章や、覚えとしてメモをしておきたいような箇所があるものだ。ヒマがあれば、そういう一節をコンピュータに打ち込んで、自分だけの引用データベースをつくっている。手はかかるが、カネはかからない蒐集癖といえないこともない。
といっても、特別なソフトをつかっているわけではなくて、いまはフリーソフトのエディターに無造作に放り込んでいるだけなのだが。
現在つかっているエディターは「mi」で、ほかのソフトも同じだろうが、ファイルをまたいだ語の検索が簡単にできるので重宝である。
ブログに移行する前のサイトではホームページのトップに「抜粋黒板」というコーナーをつくって、更新のお知らせ代わりに、この引用データベースから適当に切り貼りをしていたので、自分が蒐集した引用をよく読み返したものだが、いまはあんまり読み返すことがない。
たまに読み返すと、結構、面白かったりするのだが。
ということで、今日は久しぶりに「抜粋黒板」の小さな花束を編みました。お楽しみいただければ幸いです。
だからどうだっていいじゃないか。人は成長して大人になる。大人になったら、昔の夢は高望みだったと自分を納得させるしかない。大人になれば、夢の機械に≪故障中≫という大きなプレートがぶらさがっていることも発見するのだから。
スティーヴン・キング/白石朗訳
『ドリームキャッチャー1』(新潮文庫)
わかいころ私たちは、あらゆることにおいて、自分の選択が、人生の曲がり目を決定して行くと信じていた。プラトンを読んだり、小説を書こうとしているジュゼッペにもそんな時代はあったはずだ。しかし人間はある年齢になると、自分の選択について、他人にも、自分にたいしてさえも、説明することをしなくなる。説明するにはあまりにも不合理なところで人生が進んで行くことを、いやというほど知らされているからである。
須賀敦子「小説のなかの家族」エッセイ/1957〜1992
『須賀敦子全集2』(河出書房新社)
「あきらめ」という文章に書いたように、俳句という詩は一応人生に対しあきらめの上に立って居るものとも言えるのであるが、しかしながらそればかりではない。冬が極まって春がきざすという天地自然の運行とともに、あきらめというものの果に自から勇気が湧いて来る、その勇気の上に立っているものとも言える。消滅滅已の人生とあきらめはするが、その底の方からほのぼのとして勇気が湧いて来て、それが四季の運行に心を止めて、それを諷詠するという積極的の行動である。あきらめきって何もしないのではない。あきらめた上に生じた勇気が俳句の行動となって現われ来るのである。俳句は消極的な文学ではなくて積極的な文学である。そうしてその勇気は人生に対する行動の上にも及ぶ。
高浜虚子『立子へ抄』(岩波文庫)
どんなに一本の線のように見えても、ひとの生涯はたくさんの屈折を潜めている。ひとの生涯は、しばしばそのように語られます。けれども、実際はその逆で、たとえどんなにたくさんの屈折をひそめていようとも、ひとが後にのこすものは、結局そのひとの生きすじをありのままにしめす、一本の線のような人生です。
人生とよばれるものは、ひとが生涯に引く、人生という一本の線です。
長田弘「アパラチア・ストーリー」
『本という不思議』(みすず書房)
私はよく思うのですが、もし人生をやりなおすことができたら——それも今度ははっきり自覚してはじめることができたら、どうでしょう?もし今まですごしてきた人生がいわば下書きであり、二度目の人生が清書だとしたら!
アントン・チェーホフ/小田島雄志訳
『三人姉妹』(白水Uブックス)
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