« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »

2006年8月

2006/08/31

或る最終楽章(2)

今回興味をもって調べてみてはじめて知ったことですが、近藤とし子さんも歌人なんですね。

平成18年版の「短歌年鑑」を繰ってみると、近藤芳美と近藤とし子は、二人並んで人名録に掲載されています。本来、この名簿は氏名の五十音順だと思うのですが、このお二人は隣りあわせで、しかも近藤芳美の方を前にして掲載されています。単純な五十音ならばこういう並び方にはならないはずですが、たぶん編集上の慣行なのでしょう。
もちろんこの方が自然で好ましい。

ところで「短歌年鑑」には、角川の「短歌」と短歌研究社の「短歌研究」の二種類があります。どちらもこのお二人については同じ並べ方で、当然ながら、生年月日、住所なども同じ内容です。ただし、不思議なことにお二人の出生地が両誌で異なる。

 近藤芳美  T2.5.5   (角川:広島生  短歌研究社:朝鮮生)
 近藤とし子 T7.3.26 (角川:東京生  短歌研究社:台湾生)

前回取り上げた岡井隆さんたちの座談会のなかでも、近藤芳美が、こせこせ、ちまちましたことが大嫌いな性格で、とにかく大陸的なスケールの大きなものが好きだった理由は、近藤が朝鮮生まれだったから、なんて話題があるので、たぶん短歌研究社の方が正確なのかなという気がします。朝鮮や台湾という旧植民地生まれという記述は、角川はあえて避けたいということなのかもしれませんね。

いけない、いけない。こうしてのんびり書いてたら、いっこうに本題に入れないや。(笑)

ええと、先の座談会のなかで、いちばん印象に残ったのは、近藤芳美が亡くなる数ヶ月前のご様子のことでした。

三月のころのことだそうです。
ご夫妻は成城のケアハウスにいらしたらしいのですが、近藤芳美はこんな歌を詠んでいます。

 マタイ受難曲そのゆたけさに豊穣に深夜はありぬ純粋のとき
  「未来」6月号

座談会の中で佐佐木幸綱が(近藤さんは)「洗礼を受けられたそうですね」と言うと「そうです」と岡井隆が答えている。
マタイ受難曲を聴きながら最期の日々を送っておられた。
そして、座談会のなかでとし子夫人の「老耄」という少しショッキングな言葉が出てきます。妻の老耄を「無心」と表現して歌を詠んでおられたと言うのであります。
こういう歌です。

 くり返す放心を無心の思いとし君におさなきときはめぐりつ

 君にしばし留まる心を無心とし空にかすみて残る夕映え

戦中に詠んだ『早春歌』の「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思いき」で君と呼びかけられたその人のことを思うと、なんと遠いところまで、このご夫婦は歩んで来られたことか。93歳の歌人は最後まで、歌の中では88歳の彼女を君と呼びかけていたのですね。

なんだか胸がじんとなりました。

もう少し、書きたいことがあるので、さらに次回に続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/30

或る最終楽章(1)

「短歌研究」9月号で近藤芳美の追悼座談会を読む。岡井隆、馬場あき子、佐佐木幸綱、篠弘(司会)という構成。
一緒にはじめた「未来」から高安国世が抜けて「塔」をつくったいきさつだとか、近藤が宮中の召人になったのを杉浦明平がかんかんになって怒って「未来」から出て行った話だとか、なかなか面白い話がある。近藤と高安については、以前読んだ 上田三四二の『戦後短歌史』で知っていたが、岡井によれば、「未来」はこの二人と杉浦明平の「三頭立て」で出発したのだという。この当時、杉浦は共産党員だったから、宮中に呼ばれてそれに応じる近藤に裏切られたような感じをもったのだろうな。

それはそれとして、今日書こうと思ったのは、そういう現代短歌史にかかることではない。

 たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき

わたしが諳誦できる近藤芳美の歌は、『早春歌』のこの一首だけだが、これはたぶん短歌にそれほど興味のない人でも、どこかで読んだり聞いたりしたことがあるのではないかなあ。戦後の短歌を代表するもののひとつと言っても過言ではないでしょう。
そして、これはわたし自身が誤解をしていたことなので、あるいは多くの人が同じ間違いをされているのではないかとも思う。
それは、近藤芳美はこの歌をいつ頃詠んだのかということである。

わたしは、てっきりこれは戦後のリリカルな恋愛歌だとばかり思っていたのですね。
ところがそうではないようです。
この歌がつくられたのは戦時のことだった。
近藤は大東亜戦争大詔渙発の日、すなわち昭和十六年十二月八日に二度目の応召をします。この歌はその頃につくられたものであるらしい。
このときに近藤は、同じく『早春歌』にあるこんな歌を詠んだ。

 吾は吾一人の行きつきし解釈にこの戦ひの中に死ぬべし

この戦さがどういうものであれ、その中に自分の身を捧げることは当然であるという「解釈」をしたと同じころ、「或る楽章」の歌もつくられたとすれば、その「解釈」がなんであったかは、誰にも自明ではないでしょうか。

近藤芳美が「君の姿を霧とざし」と詠んだ「君」は、妻の近藤とし子です。
こんな歌もあります。

 あらはなるうなじに流れ雪ふればささやき告ぐる妹の如しと 
  『早春歌』
 すでにして寝ねたる妻よいだくとき少年に似てあはれなるかな
  『静かなる意志』 

この話、もう少し続けることにします。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/08/26

徘徊俳人替え歌集 其の八

久しぶりに替え歌の新作など。
世襲制度で立ち行かなくなった俳句結社の番頭格の幹部が、ひそかに愛しつづけた主宰とその息子を見守る歌。前書きが長いね。(笑)

 「なごり惜し」(なごり雪のメロディーで)

 寄付を待つ君の横で ぼくは会計を気にしてる
 調子はずれの 選で食ってく?
 講評で見る弟子は これが最後ねと
 さみしそうに 君がつぶやく

 なごり惜しまれ 主宰辞めて
 ふざけまわる 息子に継がしゃ
 今 彼が来て 「俳句はきらいになった
 去年よりずっと きらいになった」

 ゆるみ始めた結社のたがを 締め直せずに
 君は何か 言おうとしている
 君のくちびるが 「もう廃刊ね」と動くことが
 こわくて 下をむいてた

 時がゆけば 幼い孫も
 主宰になると 気づかないまま
 今 彼が来て 「俳句はきらいになった
 去年よりずっと きらいになった」

 弟子が去った 結社にのこり
 世襲の息子の 廃業見ていた
 今 彼が来て 「俳句はきらいになった
 去年よりずっと きらいになった」

| | コメント (1) | トラックバック (0)

プルートの使者

「ソーラー・システム」というと、テレビCMでおなじみの朝日ソーラーだとか、シャープの太陽光発電のことかいなと、どうしても思ってしまうのは、わたしだけかもしれないが、ちゃんとした英語の場合は、もちろんこれは「太陽系」のことである。

わたしが子供の時は、「水金地火木土天海冥」と覚えたものだが、あるとき、しばらくこれから最後のところは「天冥海」にするけんねと言われて、急にそんなこと言われても困るよなあ、なんて嘆いたもんであります。みなさんはそんなことなかったですか。(笑)

冥王星が一時的に海王星の軌道の内側に入ったのは1979年から1999年までの20年間だけだったそうで、また200年くらいは「天海冥」でええけんね、というわけですっかり安心して、油断していたら、今回の国際天文学連合の総会騒ぎである。

「矮惑星 (dwarf planet)」という新しいカテゴリをつくって、いままで太陽系第9惑星とされていた冥王星を降格するという。冥王星というくらいですから、これは冥府の王様の領土であります。こんな降格人事、わたしは、ぜったい祟りがあると思うぞ。(笑)来月あたり、地球に衝突する軌道の彗星が急に発見されたりして。プルートの使者、なんて。(笑)

Wikipediaで調べてみると、もう、今回の騒動の詳しい解説が書いてあります。(こちら)
これによると和名の「冥王星」は野尻抱影が命名者なんですね。納得。

ところで、この関連ですが、冥王星の発見者はアメリカ人のクライド・ウィリアム・トンボー(Clyde William Tombaugh, 1906 - 1997)という天文学者。いかにもアメリカ人の好きな、苦学、努力の末に名声をつかんだ人のようですが、同じくWikipediaにこんな記事があって、なんだか「ふーん」と思ったなあ。

彼は生涯に14の小惑星を発見した。また、UFOにも関心を持っていた。
彼の遺灰の一部は、2006年に打ち上げられた冥王星探査機ニュー・ホライズンズに収められた。 冥王星が「惑星ではない」と定義された、2006年は奇しくも彼の生誕100年であった。

2006_0825 なんでもこの人、1949年に家族と葉巻型のUFOの目撃をしたらしい。
著名な科学者の証言として、その筋ではなかなか有名なんだそうです。それと今回の冥王星の惑星降格が関係があるのか、どうか知りませんが、まあこういうところでもアメリカ人は世界で嫌われているようで、少々気の毒な気もするなあ。

写真(APL)は冥王星探査機ニュー・ホライズンズに搭載されたトンボーの遺灰の容器だそうです。2015年の7月14日に冥王星に到着予定。まさか、飛行中にこんなことになるとは思わなかっただろうなあ。ますます祟りが心配。(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006/08/24

朝日新聞、まちごうてはる

2006_0823a 『論語語論』一海知義(藤原書店)の題字はご覧のとおり、上から三つめの「語」の字が斜めに傾いでいる。
論語は固い本ですけれど、わたしのはまあ気楽にゴロンと寝転んで読んでくださいな、ということのようです。(あるいは、ちょっとずっこけているように見えなくもないね)

本書は2003年6月から2004年9月にかけて藤原書店が行った全6回の講義の記録なのですが、ご本人が、講義のなかで、「今日の漫談は」なんておっしゃっているように、なんとも愉快な講義(毎回のように脱線していくところもきちんと編集してあるのが嬉しい)ぶりで、しかも、一海知義さんは吉川幸次郎門下の高足ですから、学問の厚みが違う。面白くないわけがないのであります。

たとえば、わたしが大笑いしたところを紹介してみようか。本論からはずれるお話は罫でかこってコラムのように編集してある。

篆書と隷書の説明である。

2006_0823b_1

篆書は秦の始皇帝のころの字体ですが、これでは煩雑にすぎる。天下統一後の役人の書類仕事を、この篆書の文字でやるのはとてもやってられませんから、役人たちが自分たちで合理的な字、簡略化した字をつくった。これが隷書。「隷」は奴隷の隷。下っ端の役人のつくった字である、ト。
この隷書は、だいたいいまの楷書に近いのですが、ところどころ微妙に異なっています、という風に話は進む。
そこで先生が例としてあげたのが朝日新聞。
「朝」の「十」は突き抜けず、月も中の横棒が離れている。「新」の字も「立」の下は「木」でなくて「未」。以下先生の「漫談」——

それで小学生がこれを見て、おかあちゃん、朝日新聞、間違っていると(笑)。おかあちゃんが見てみたら、ほんまや、まちごうとる。それは教えてあげんとあかんわと、朝日新聞に電話をかける。出てきた新聞記者が若い者だから、隷書をしらないんです。あ、ほんまや、うちの新聞まちごうとると(笑)。それですぐに社長に電話する。社長もこのごろ若い者ですから知らん。ほんまやな、これは直さんとあかんと。この話はうそですけれどね。
だから日常的に隷書はいまでも生きているんです、ぼくらの生活のなかで。いまの楷書とちょっとずつ違うだけです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/08/23

掃苔録補遺

霊山護国神社の入江杉蔵の墓の続き。
前の記事で、松下村塾四天王の三人が一緒に祭られている場所があることを書いた。久坂玄瑞、高杉晋作、入江杉蔵である。別に「四天王」が揃う必要はないのだろうが、なんで吉田稔麿はここにいないのだろう、とふと疑問に思った。
なんか変である。
こういうときは、視点を変えた方がよい。そもそも、この場所はどういう人を祀ったところであるのか。

入江、久坂、高杉はわかるが、ほかの志士は知らない。
前の記事の写真をクリックしていただくと、拡大されるので名前が読み取れるかもしれない。一応、ここにその名前を挙げてみよう。左から——

 有吉熊次郎良明
 入江九市弘毅
 寺島忠三郎昌明
 久坂義助通武
 來島又兵衛政久
 高杉晋作源暢夫

こういうときにインターネットというのは実にその威力を発揮しますね。検索すると、たちどころに知らなかった人たちについても多少のことはわかる。
そして、ただちにこの場所の意味が明らかになります。高杉晋作を除くと全員が禁門の変(蛤御門の変)で戦死しています。
すなわち、この場所はもともと蛤御門の変で戦死した人を祀った場所なんですね。
だから、池田屋事件で殉死した吉田稔麿はここにはいないのです。
そう知ってからもう一度写真を見てください。高杉の墓石だけがあきらかにほかの志士のそれとは異なっているのがわかります。

ということで、例によって安楽椅子探偵ごっこをやりますと、この高杉の墓石はあとから「合祀」されたものに違いない。高杉は1867年に病死していますから、本来はここに祀られる人ではないはずです。

じつは証拠があります。

2006_0822b この写真は杉蔵の墓の位置をメモ代わりにしようと、官修墳墓の入り口にある案内看板をデジカメに撮っていたものですが、よくご覧下さい、高杉晋作がないでしょう。この看板を作成した時点では、この場所には高杉の墓はなかったことが明らかです。
まあ、高杉も一人じゃさびしいだろうから、どっかに「合祀」してやろう、どこがいいかなあ、そうだやっぱり久坂玄瑞たちの禁門の連中の場所がよかろう、なんてことではなかったかと思うのですが、どうでしょうか。

ところで、インターネットで調べると知らなかった志士のことが多少わかると書きました。やってみましたか?
びっくりしました。有吉熊次郎良明は、なんと有吉佐和子の祖父なんですね。私的には今日、一番驚いたことです。85へえは行く。(笑)

そうと知ってりゃ、もっときちんとご挨拶してくるんだった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/08/22

掃苔録・入江杉蔵

京都で簡単に片付く用事が二つばかりあったので、さっさと済ませて、ちょうどいいやと霊山護国神社の官修墳墓まで足をのばしました。
掃苔というほどのことでもないのですが、昨日紹介した入江杉蔵の墓がここにもあるのです。
霊山護国神社というのは、靖国神社の母体みたいなものですから、維新の殉難志士の霊を祭りここに招魂してあります。入江は蛤御門の変で討ち死にしていますので、当然ここに墓があるわけ。

蛤御門の変は元治元年(1864)七月十九日の出来事ですが、この日付は旧暦ですから、新暦でいうとちょうど今時分、八月の下旬の事件であったことになります。
京都は今日も猛暑。140年ばかり昔のこのいくさの日も暑かったのでしょうか。

さて汗だくになって、うろうろ杉蔵の墓を探していると、これはいかに、一天にわかにかき曇り、猛烈な雷雨に見舞われました。
さいわい、山の中腹に屋根付きのしっかりした休憩所があったので、小一時間ばかり雨宿りして無事に過ごしましたが、いやものすごい雷だった。

雨があがって、もう一度、杉蔵の墓を探し始めると、なんのことはない、休憩所の上のあたりの場所がそうであった。

2006_0822 写真は左から二番目が入江杉蔵の墓であります。碑銘は表が「入江九市弘毅之墓」、右側面に「長州」、裏は摩耗して読み取りにくかったが「元治元年◯七月十九日戦死」となっておりました。
美しいバラが捧げられているのは久坂玄瑞の墓。久坂も蛤御門の変で戦死していますので、ちょうど今日あたりが命日になります。どなたかファンの、おそらくはうら若き乙女がお参りになったのでありましょう。
そんなん、わからへんやないの、オバハンやったらあかんの、と言われても困る。ここは、ぜひ、うら若き乙女にしておいていただきたい。(笑)
いや、冗談ではなく、この写真を撮っているときに十代とおぼしき少女二人が熱心にこの場所で、それぞれの墓に手を合わせていたのであります。花は、この子達のものではなかったが、なんにせよ感心なことである。志士のみなさんんも、おっさんやオバハンに拝まれるよりは乙女の祈りのほうがよいに違いない。
ちなみに写真、一番右が高杉晋作の墓です。松下村塾四天王の三人がここに祭られていることになりますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/21

杉蔵往け!

古川薫さんの訳注と史伝を併わせ収録した『吉田松陰 留魂録』(講談社学術文庫)より。

吉田松陰は、天性、根っからの教師というタイプの人であったらしく、松下村塾を巣立って行く塾生のひとりひとりに、自分との出会い、その弟子の性格、資質のなかのよろしきところ、憂うべき時勢のなかで国事に奔走する志士たるものはいかに身を処すべきかなどを、訣別の言葉として与えていたのだそうです。

これを「送叙」と呼ぶ。

愛弟子の入江杉蔵に宛てた送叙(文末のところだけだが)が面白かったので、ここにメモをしておきます。
ちなみに入江杉蔵は「留魂録」には子遠という字で何度か登場しますね。なんとなく孔子と子路を連想するが、実際、松陰も学問よりその一本気な性格を愛していたらしい。久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と並んで松下村塾四天王の一人。しかし、この四人とも明治を迎えることなく二十代でこの世を去っている。杉蔵は1864年の蛤御門の変の戦死です。

杉蔵往け、月白く風清し、飄然馬に上りて三百程、十数日、酒も飲むべし、詩も賦すべし。今日の事誠に急なり。然も天下は大物なり。一朝奮激の能く動かす所に非ず。それ唯だ積誠もて之れを動かし、然して後動くあるのみ。

大阪なんぞで長く生きてきたもんだから、ついつい「あんた遊びなはれ、酒も飲みなはれ」の「浪速恋しぐれ」でもってちゃかしたくなるが(笑)、まあ、それではさすがに具合が悪かろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/17

蘭亭序(4)

正攻法では蘭亭が手に入らないのであれば仕方がない、ここは知略を用いよ、ということで選ばれたのが御史の蕭翼(しょうよく)という人でありました。
いまならさしずめ特命捜査官てな感じかしら、よく知らないけれど。

さて、ここでみなさんちょっと疑問にお思いにならないだろうか。

だって、大唐帝国の皇帝でありますよ。欲しいものがあれば、「勅命である」と言って召し上げればよい。今回のように「あれは紛失をいたしました」と相手が言い逃れをするなら、「きっと左様か」と詰問し、場合によっては長安に召還するぞと脅し、それでも白を切るなら捕らえて拷問にでもかければ白状するもんじゃないの、とは思われませんか。わたしは、そう思いましたね。
これについては、長尾雨山はなにも書いておりません。当然そういうものである、といわんばかり。わからん。

そこでわたしは考えた。
ヒントになったのは、小島毅さんの『東アジアの儒教と礼』(山川出版社)の次のような一節。

秦の統一以来、皇帝一人が万人に君臨する専制政治がおこなわれていたことになる。そこには西欧のような議会も社団もない(中略)。しかし、国の隅々まで皇帝の威令が届いているかというとそうではなく、各人の行動様式や行為規範は官僚機構とはほとんど関わりなく選択されている。その意味では帝国には自由があふれている。「専制と自由」を二項対立図式でみようとすると、この矛盾に悩まされることになる。しかし、そもそも東アジアの思想伝統では、専制と自由は二律背反しない。正確には、そうした軸を立てて思考しない。そこで問われたのはつねに礼の有無であった。

2006_817 つまり、ここで皇帝の専制権力を行使してしまったら、自らの徳のなさをさらすようなものですね。それじゃ、あんたはまるで悪逆非道の紂王みたいなもんじゃんかと言われる。いまなら、あんたキム・ジョンイルか、てなもんでありますな。本物の皇帝はつらいよ、であります。
そもそも太宗という方は、唐王朝を開いた李淵の長男ではない。太宗は李世民といいまして次男坊。父李淵を表に立てて実力で天下平定をなしとげた武闘派なんですね。皇太子である兄、李建成を殺して自らが二代目となったという、はなはだ具合の悪い経歴の持ち主です。儒教と礼の世界では、それでなくとも大きな負い目があります。
ここで、たかが王羲之の真蹟ごときを手に入れるために暴虐なことをなしたとはさすがに言われたくはなかったでありましょう。さすがの太宗も表向きは手が出せなかったのではないかしら。

さて、話はだいたい見えたと思うが(笑)、蕭翼の方に戻りましょう。再び、長尾の講演録から――。

蕭翼は委細承知いたしましたが、それについては内府にあるところの王羲之の眞蹟を二、三拝借を願いたいとということで、それも承知したというので、皇帝から眞蹟を二、三種お貸下になりました。

こうして蕭翼は繭商人に身を変えてはるばる長安から會稽山の永欣寺までやってまいります。あとは巧みに辨才に近づくと、なにしろ皇帝の密命を帯びて任務につくような男ですから、これは人物である。才あり、学問あり、魅力に富む。辨才もすっかりその才に惚れ込んでしまって、互いに詩を交換し、終夜、詩をつくったり酒を飲んだりして歓を尽くし、すっかり信用してしまったのです。

そのときは蕭翼は黙って別れましたが、また酒を持参して和尚の所に出掛けました。その時分はかねて太宗皇帝から拝借しておる王羲之の眞蹟を懐ろにして辨才の所に出掛けて行きました。だんだんこんどは話を廻らして、王羲之のことについて論じ始めた。

いやどうも王羲之の遺墨というものは多くは後人の臨書によるもので眞蹟はないものです。じつはわたしはこれこのとおり真蹟をもっているのであなたにも見せてあげるが、どうです、まあ、はっきり申し上げてこれに優るものはまず天下にはございませんよ、なあんて吹くわ吹くわ。

これはたまらんよね。(笑)
なんせ、辨才はホンモノの蘭亭を隠し持っているんだもの。

蕭翼のことを信用してしまったこともあり、とうとう辨才さん我慢が出来なくなった。

辨才はそれを見まして、いやこんなものではない、實はだれにもいわんが、自分の所には王羲之の蘭亭の眞蹟がある、決してこんなものでないとうっかりそれをしゃべってしまった。蕭翼は、いやそれはとてもそんなものがあるはずがない、必ず贋物だといってそれを是認しない。それでいよいよ辨才はむきになって、そんなら出して見せるといって梁に隠してあったのを引っ張り出して見せました。

あー、やっちゃった、ですねえ。(笑)
このあと蕭翼が蘭亭を黙って持ち去るあたりの細かないきさつはあるのですが、そこは端折ってしまうと、蕭翼が蘭亭を現に手にしていれば、さすがに辨才ももはやこれまでであります。

ただちにその地方の官に行って、自分は御史の蕭翼だというので、本格をもって地方官に告げたものでありますから、地方官も驚いて、それからただちに御史官相當な本格の待遇をすることになった。そうして今實は皇帝の勅命を以ってかようかようの勅書がある、それによってここに来たのであるから、辨才を呼べというので呼び出した。辨才が出掛けて行ったところが、皇帝の勅命によりかようかようであなたの所の蘭亭はここにこのとおり持って來たといわれて、辨才は非常に驚いたけれどもいかんともしようがない。それから蕭翼はこれを持って皇帝にこのとおり手に入りましたということを申し上げたら、皇帝の叡感ななめならず、いろいろ澤山の賜物があった。一方辨才和尚は、それがために鬱々として一年餘りにして死んでしまった、ということを何延之の記事には詳しく書いてあります。

以上は「賺蘭亭(たんらんてい)」という有名なオハナシなんだそうです。「賺」というのは騙して取るという意味。

たぶん、こういうのは、むかしは多少学問のあるじいちゃんなんかがいて、お盆に訪ねて来た孫たちのなかから要領の悪い逃げ遅れたやつかなんかをつかまえて「うん、これについてはオモシロイはなしがあってな、よくお聞き」なんてやってたのではないかと思うなあ。じいちゃんの話はあまり面白くはないが、まあ、年に一回のことだから、孫も我慢して聞いてやってて、大きくなって、ああこれどっかで聞いたことがある、なんて感じになっていたのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/08/16

蘭亭序(3)

王羲之がこの「蘭亭序」を書いたのが、西暦353年といいますから、いずれにしても古いオハナシではあります。最初に紹介したように、この「蘭亭序」はもともと草稿であったのですが、その後、いくら清書してもこれを超えるものが出来なかった。書聖と称される王羲之としてもこの「蘭亭序」の原本は自慢の作である。当然のこととして、おそろしく有名になり、所望する人はきわめて多かったのですが、王羲之はこれを他人には渡さず子孫に伝えたということになっています。

さて世は移り、唐王朝の二代目、太宗皇帝(在位626年 - 649年)の即位前後のころです。王羲之の時代からざっと3世紀ばかり下ったときのこと。
太宗は、中国史上でも最高の名君の一人といわれる皇帝ですが、このお方は王羲之の書をたいへん愛した人で、王羲之の墨蹟を出来る限り蒐めて内府に秘蔵しておられた。しかし、最高傑作といわれる「蘭亭序」の真筆だけが、いくら探し求めても手に入らない。いろいろ手を尽くして調べていくうちに、とうとう王羲之から数えて七代目にあたる子孫であるところの智永禪師という人物がこれを宝蔵しておることをつきとめた。

智永禪師というのは王羲之の長男(本家)の系統ではなく、王羲之の五男である王徽之という人の子孫でありました。なにしろこのときはすでに王羲之から七代目ですからね、この間の一族の数は厖大なものになっていたと思われます。太宗さんはこれをしらみつぶしに内偵していったのでしょうねえ。執着のほどがわかる。

さてこの智永禪師という方も、さすがに王羲之の血を引いているということなのでしょうか、この時代の能筆家の一人だったようです。會稽山の永欣寺の住職でありましたが、この坊さんの書を求める人がひきもきらず、門の敷居が摩耗するため鉄で敷居を包んだところ、人が鐵門限と呼んだとか。

こうしてこの智永禪師に「蘭亭序」が伝わったことがわかったのですが、やがて智永禪師が亡くなりまして、「蘭亭序」は弟子の辨才(べんさい)というものに譲られた。
以下、長尾雨山の講演録を引きます。この語り口の妙を味わってくださいませ。

ところが辨才は師匠の智永以上に蘭亭の巻をすこぶる大切にしました。もし萬一のことがあってはならぬというので、屋根裏の梁の中を刳貫いて、その蘭亭の巻をさらに箱に入れて、そうして刳貫いた梁の中に隠しておいたということであります。だれも氣づかぬようにして大切にしておいた。そのことを唐の太宗皇帝が聞き出して、何とかこれを手に入れたいということで、差し出すように命を下されたところが、辨才なかなかそれを惜しんで承知をしませぬ。しかし皇帝の勅命ですからいやだともいえませぬ。ゆえにあの蘭亭はいつか紛失をしてただ今ではどこにあるかわかりませぬといって逃れたのであります。けれどもどうもそれは怪しい、どうかしてこれを取り出す工夫がないかということを時の大臣に相談になった。當時はまだ太宗皇帝は天子になっておらぬときである。高祖の武徳年間のときで房玄齢という大臣が、それは一つ機轉の利いた人をやって旨く取り出すほうがよかろうということを申し出た。

以下次号(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/15

蘭亭序(2)

Thumb 長尾雨山の「蘭亭序」の説明を追ってみる。
まずこの蘭亭は地名である。蘭亭の文に「會稽山陰ノ蘭亭ニ會ス」とあるように、王羲之とともに四十二人の詩人が厄払い(禊事ヲ修ス)のためにこの蘭亭という場所に集った。

「會稽山陰」と二つの地名を合わせているが、当時は會稽郡の山陰県という意味であります。(山陰は先日魯迅の正妻の出身地だと紹介した)このあたりは、春秋時代に越王勾践と呉王夫差が争った呉越の大戦争、その越王勾践の居城があった浙江省紹興府の近くであります。勾践さんは、ここら一帯に蘭をたくさん植えたのだそうですね。この紹興府に王羲之は會稽内史(だいし)という官であった時分に住んでおりました。

蘭亭の「亭」というのは、わが獺亭ともまったく無関係の気がしないのでありますが、もともとは宿次の意味なんだそうで、たとえば東海道五十三次といっても、これを五十三亭といっても同じ意味になるようであります。
すなわち山陰道中にある宿次の名称を、そのあたりの名物であった勾践の蘭にちなんで蘭亭と名付けたわけであります。

さて、以上は長尾雨山の蘭亭の説明のおよそ三頁ばかりの、ごくごく一部を紹介したものにすぎませんが、内容を要約しようとして、わたしはもうほとんどお手上げ状態に陥った。いやはや、その説明の微に入り細に入って緊密に構成されていること、これはとても手に負えない。

なので、このあと王羲之たちが行った曲水の宴の模様や、そのときに興にまかせて王羲之が「蘭亭序」を起稿したときに用いた筆や紙についての蘊蓄、「蘭亭序」の伝来についての考証などは、これを紹介するには、ほとんど全部を丸写しにするくらいしか知恵がわかないので断念する。
ただ、ひとつだけ、昨日のエントリーで書いた、王羲之のコレクターだった唐の太宗皇帝がこの王羲之の真筆「蘭亭序」をいかにして手に入れたかのオハナシがなかなか面白いので、ここにメモしておこうと思うのだ。

(この頁、さらに続く)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

蘭亭序(1)

わたしは情けないことに、まるで字が書けない。しかし、だから余計に書の世界には強い憧れがある。若いときにもう少しきちんと習っておけばよかったと今になってつくづく思う。
一度、社会人になってからのことだが、職場の仲間で、たまたま仕事場におられた書の専門家に習う機会があったのだが、その頃はみんな時間的な余裕もなく、二、三回でなしくずしにその会は解散してしまった。
そのとき先生をつとめてくださった方がテキストとして指定されたのが楮遂良による「雁塔聖教序」だったように記憶している。
書を学ぶ人が楷書をやろうと思えば、まず必修の教本はこの「雁塔聖教序」や「蘭亭序」ということになるようだ。
そういえば、数年前に石川九楊の編集した『一日一書』(ニ玄社)という本に河東碧梧桐筆の「蘭亭序」があって、これがやたら面白かった。

『中國書畫話』長尾雨山(筑摩叢書)という本を読んでいたら、この「蘭亭序」について詳しく一章を設けて解説がしてあった。
長尾雨山という人は、同書の吉川幸次郎の解説によれば、これまた、ものすごい人物のようだが、長くなるのでいまはおく。興味のある方は、松岡正剛さんのこちらの「千夜千冊」をお読みください。わたしがこの本を手に取ったのも、松岡さんのこの文章がきっかけでした。

さて「蘭亭序」である。
長尾雨山は、まず蘭亭についてその起源からはじめています。ただし、これは昭和十二年にかれが平安書道會において行った講演の筆記録でありますから、聴衆は「蘭亭序」が何かは予め知っている。一方わたしは何にも知らなかったので、まず基本的なことを書いておきます。
「蘭亭序」は書聖・王羲之が永和九年(353)——東晋は穆宗の時代——に作った詩集の序文の草稿のことであります。あくまで草稿として書いたのだが、あとで清書してみたが、どれもこの草稿を超えるものがなかった。東晋の後の南北朝、隋、唐と伝わり、王羲之の書を愛しこれを蒐集した唐の太宗皇帝が入手して、最後にはこれを自分の昭陵に副葬して現物はこの世から失われたと言われています。しかし太宗が唐代の能筆に臨書させたものが、碑文の拓本やら集帖のかたちで現代にまで伝わっているのでありますね。

というところで、この頁続く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/10

島は悲しき

「文藝春秋」8月号、「慰霊の旅と失語症回復の真実—美智子皇后と硫黄島奇跡の祈り」は、なんだか女性週刊誌の吊り広告にあるような題名で、はじめはあんまり読む気になれなかったのだが、藤田嗣二の「サイパン島同胞臣節を完うす」の話題から入る導入で、引きこまれて読んでみるとなかなかいい記事だった。
執筆は梯久美子さん。(梯は「かけはし」と読む)
最近本屋で見かける『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』の作者 である。この本の取材のサブストーリーのような記事だが、所々で思わずまぶたが熱くなった。

 皇后御歌
 いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし

この皇后陛下の御歌と藤田嗣治の「サイパン島同胞臣節を完うす」の前で号泣する老人は深いところでつながっている。

両陛下がサイパン島をはじめとする戦没者慰霊の旅に出られたのは昨年のことだった。

硫黄島総指揮官、栗林忠道中将の辞世は最後の総攻撃を前にしてしたためた決別電報に添えられていた。

 国の為重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき

しかし大本営はこの歌の末尾の「悲しき」を「口惜し」と変えて新聞発表した。
「悲しき」と嘆じることは、当時の軍人にとってタブーであったという。
わたしはこの記事を読むまで知らなかったが、この大本営の姑息な改竄は戦史にも必ずといってよいほど記されていることなのだそうだ。
両陛下は当然このエピソードをよくご存知であった。
この旅で、両陛下が硫黄島を読まれた歌は次のようなものだった。

 御製
 精魂を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき

 皇后御歌
 銀ネムの木木茂りゐるこの島に五十年眠るみ魂かなしき

ふたつの御歌ともに「悲しき」で終わっていることは、偶然ではないのではないか、と梯さんは控えめに書いている。
たぶんそうだろう。
大本営の参謀たちが握りつぶした「悲しき」をあえて蘇らせて祈りに代えた、これは戦没者達への返歌なのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/09

莫言、魯迅、ハジン

「群像」の8月号に「中国、そして現代文学へ」と題する、リービ英雄と莫言の対談が掲載されています。
そのなかでわたしの印象に残ったのは、二つ以上の共同体、あるいは二つ以上の言語を一人の作家が抱えているような世界文学の流れが出てきたのではないかというリービ英雄の発言に対して、莫言がハジンを例にあげて答えている箇所でした。

莫言 一人の作家が創作を始める前というのは、必ずしもそんなに世界文学だとか民族だとか、そういうことをすべてきっちり考えてから書き始めるわけではないと思うんですよね。今挙ったナイポールだとか、ラシュディの流れに位置づけられると思うんですが、中国の作家にも、アメリカで創作を始めた人たちが出てきています。
その中の一人、哈金(ハジン)は英語で創作を始めた人なんです。中国語では書かない。英語で中国のことを書いているわけです。亡命というのとは違いますが、流亡の文学という形で祖国のことを書いているわけです。暮らしている環境は外国にあって、しかし書かれている内容は中国のことである。彼らは現在の自分たちが住んでいる場と記憶の中の中国というものを対照させながら、その中から新しいものを見出して、鮮明な違いというものを拡大して見せてくれる。そういう意味では、我々が中国で書いてきた作品の中では、必ずしも明快に見られなかったような部分というものを、新しい環境に身を置くことによって描いてみせている。

この莫言の話は、リービ英雄の望むような応答ではなかった様子ですが(それは単に中国にも国際的作家が出たということでしょ、とさらっと流している)、わたしには莫言がハジンを評価していたというのがなかなか興味深かった。

ハジンについては、『Waiting』がアメリカで賞を受けたときに読んで感心した記憶があります。(そのときの感想はこちら

210846942_0bbcd65750 じつはハジンのことをたまたま別の本から思い出していたのです。
竹内好の「魯迅と許広平」という文章。(『竹内好集』(影書房)収録)
魯迅は日本に留学し仙臺醫學専門學校で医学を勉強していたのですが、ここで手酷い中国人蔑視に曝されました。年譜によれば26歳のときに日本から一旦中国に帰国し、山陰(紹興)の朱女士と結婚しています。ところがすぐに弟の周作人を伴って日本に戻り、医学から今度は文学研究に転じたのですね。
ここで、竹内は魯迅の結婚を本人の意思によるものではなかったのだろうと推測し、愛はもちろん、もしかしたら肉体的な関係も魯迅はもたなかったのではないかとさえ言います。
魯迅にとっての人間らしい恋愛は45歳のときにはじまる教え子の女子学生許広平との関係であり、それも自分から関係をつくったというより、あくまで受け身の形ではじまり、政治的な逃亡という外部からの圧力がなければ事実上の結婚というかたちには決してならなかったものかもしれません。
許広平の回想録には、広州を去るときに魯迅が許広平に言った言葉が記されています。

「一緒に出かけよう!なんの未練があるものか』と。
こうしてついにわたしたちは、一九二七年九月二十七日、広州を去り、ともに未来の戦線——上海に向かった。
『魯迅回想』許広平/松井博光訳(筑摩叢書)

魯迅の結婚については、神戸大学のサイトに分かりやすい説明がありました。(こちら

しかし、いずれにしても、このような自分自身が古い封建制、旧社会の悪弊にどっぷりと漬かっている存在であるという自覚は、魯迅にとっていわば「原罪」のようなものであり、それに対する「贖罪」として魯迅の文学を考えるというのは、たいへんわかりやすい説明のような気がします。

さて、そこで思い出したのが、ハジンの『Waiting』でした。
ここで描かれたのは、親の命じた結婚相手が旧弊の因習の象徴のごとき女で、とても愛を抱くことができず、形だけの結婚はしているもの、別居して、別の愛人と暮らす医師が、ひたすら自然離婚の成立を待ちつづけるというオハナシ。

6年前に読んだときは、だめな主人公への共感というところにしか思いがいかなかったのですが、いま考えると、もしかしてハジンは、この作品のアイデアを魯迅の結婚から得たのではないかしら、という気がどうもするのですね。そしてそれは、莫言がハジンを「彼らは現在の自分たちが住んでいる場と記憶の中の中国というものを対照させながら、その中から新しいものを見出して、鮮明な違いというものを拡大して見せてくれる。」と評価していることから、補強されるような気がするのでありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/02

プラド美術館展から

大阪市立美術館で開催中のプラド美術館展に行った。
「スペインの誇り、巨匠たちの殿堂——ティツィアーノ、エル・グレコ、ルーベンス、ベラスケス、ムリーリョ、ゴヤ」というのが、案内ポスターやチラシのキャッチフレーズ。52作家81点を見ることができる。

個人的に面白かったのはスペインにおけるハプスブルク王家累代の肖像画だった。
べつに西洋史に詳しいというわけではないのだが、ブローデルの『地中海』を通読して、この王家の人々になんとなく親近感のようなものを抱いていたのだと思う。ああ、あなたがあのフィリペ2世でしたか、なんて感じで挨拶を交わすような楽しみがあった。

出品作品で言うと、こんな感じだ。

「皇帝カール5世と猟犬」ティツィアーノ〈1533〉
「フェリペ2世」ティツィアーノ(および工房)〈1552-1553〉
「フェリペ3世の教育の寓意」ティール〈1590頃〉
「フェリペ4世」ベラスケス〈1653-1657頃〉
「カルロス2世騎馬像」ジョルダーノ〈1693-1694頃〉

これらの肖像画は、なにより描かれた本人や一族の人々によって何度も何度も見つめられたはずである。かれらが何かの思いで見つめたものと同じものを、現在のわたしの目がいま見つめているのだと思うと、400年という時間の隔たりが一瞬消え失せる。肖像画が一枚の扉のように現在と過去を結びつけている、そんな錯覚が生まれる。

ブルゴーニュ侯カールがカルロス1世としてスペイン王位についたのが、1516年、スペインにおけるハプスブルク王朝の成立である。ルターの宗教改革がはじまった時代。その後、神聖ローマ帝国皇帝に選出される。やがてハプスブルク家はスペイン領とオーストリア領に分裂。
イエズス会が承認され、コペルニクスの弾圧、フランシスコ・ザビエルが日本に到着したのが1549年頃。

20060802 カール5世の後を継いでスペイン王となったのがフェリペ2世。カトリックの盟主として、この時代を代表する君主となる。ネーデルラントの反乱、レパントの海戦、天正少年使節との謁見、エリザベス女王との確執、アルマダの海戦など、わたしの大好きな時代のひとつである。

フェリペ3世は、この肖像画ではまさに3代目の駄目坊主の雰囲気を見せているし、ベラスケス描くフェリペ4世にいたっては、自分のコントールを離れて事態が進んで行くときに人が見せるような苦悩の表情を無防備に肖像画に曝しているようだ。
精彩のない騎馬像のカルロス2世がスペイン・ハプスブルク家の最後である。このあと王位はルイ14世の孫に移り、スペインはブルボン王朝に入る。1700年のことでありました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/08/01

7月に読んだ本

『晴れ時々戦争いつも読書とシネマ』福田和也(新潮社/2004)
『一ノ関忠人集    セレクション歌人 (1)』(邑書林/2005)
『近代詩から現代詩へ—明治、大正、昭和の詩人』鮎川信夫(思潮社/2004)
『ハプスブルクの旗のもとに』池内紀(NTT出版 /1995)
『半七捕物帳(3)新装版』岡本綺堂(光文社時代小説文庫/2002)
『内藤明集    セレクション歌人 (21)』(邑書林/2005)
『俳句と詩の交差点』小沢克己(東京四季出版 /2003)
『乙女の悲劇』ルース・レンデル /深町眞理子訳(角川文庫/1988)
『果心居士の幻術』司馬遼太郎(新潮文庫)
『盲目の理髪師』ディクスン・カー/井上一夫訳(創元推理文庫 /1962)
『司馬遼太郎と三つの戦争 戊辰・日露・太平洋』青木彰(朝日新聞社 /2004)
『世田谷一家殺人事件—侵入者たちの告白』斉藤寅(草思社 /2006)
『世界共和国へ—資本=ネーション=国家を超えて』柄谷行人(岩波新書/2006)
『英語力を鍛える』鈴木寛次(日本放送出版協会/2005)
『俳句的生活』長谷川櫂(中公新書/2004)〈再読〉
『現代ドイツ—統一後の知的軌跡』三島憲一(岩波新書/2006)
『偶然の祝福』小川洋子(角川文庫/2004)
『ホテル・アイリス』小川洋子(幻冬舎文庫/2005)

| | コメント (2) | トラックバック (1)

7月に見た映画

Mr.&Mrs. スミス(2005)
監督:ダグ・リーマン
出演:アンジェリーナ・ジョリー、ブラッド・ピット

スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 (2005)
監督:ジョージ・ルーカス
出演:ユアン・マクレガー、ナタリー・ポートマン、ヘイデン・クリステンセン

パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち (2003)
監督:ゴア・ヴァービンスキー
出演:ジョニー・デップ、ジェフリー・ラッシュ、キーラ・ナイトレイ、オーランド・ブルーム

ドミノ(2005)
監督:トニー・スコット      
出演:     キーラ・ナイトレイ、ミッキー・ローク、ルーシー・リュー、クリストファー・ウォーケン 、ジャクリーン・ビセット

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »