正攻法では蘭亭が手に入らないのであれば仕方がない、ここは知略を用いよ、ということで選ばれたのが御史の蕭翼(しょうよく)という人でありました。
いまならさしずめ特命捜査官てな感じかしら、よく知らないけれど。
さて、ここでみなさんちょっと疑問にお思いにならないだろうか。
だって、大唐帝国の皇帝でありますよ。欲しいものがあれば、「勅命である」と言って召し上げればよい。今回のように「あれは紛失をいたしました」と相手が言い逃れをするなら、「きっと左様か」と詰問し、場合によっては長安に召還するぞと脅し、それでも白を切るなら捕らえて拷問にでもかければ白状するもんじゃないの、とは思われませんか。わたしは、そう思いましたね。
これについては、長尾雨山はなにも書いておりません。当然そういうものである、といわんばかり。わからん。
そこでわたしは考えた。
ヒントになったのは、小島毅さんの『東アジアの儒教と礼』(山川出版社)の次のような一節。
秦の統一以来、皇帝一人が万人に君臨する専制政治がおこなわれていたことになる。そこには西欧のような議会も社団もない(中略)。しかし、国の隅々まで皇帝の威令が届いているかというとそうではなく、各人の行動様式や行為規範は官僚機構とはほとんど関わりなく選択されている。その意味では帝国には自由があふれている。「専制と自由」を二項対立図式でみようとすると、この矛盾に悩まされることになる。しかし、そもそも東アジアの思想伝統では、専制と自由は二律背反しない。正確には、そうした軸を立てて思考しない。そこで問われたのはつねに礼の有無であった。
つまり、ここで皇帝の専制権力を行使してしまったら、自らの徳のなさをさらすようなものですね。それじゃ、あんたはまるで悪逆非道の紂王みたいなもんじゃんかと言われる。いまなら、あんたキム・ジョンイルか、てなもんでありますな。本物の皇帝はつらいよ、であります。
そもそも太宗という方は、唐王朝を開いた李淵の長男ではない。太宗は李世民といいまして次男坊。父李淵を表に立てて実力で天下平定をなしとげた武闘派なんですね。皇太子である兄、李建成を殺して自らが二代目となったという、はなはだ具合の悪い経歴の持ち主です。儒教と礼の世界では、それでなくとも大きな負い目があります。
ここで、たかが王羲之の真蹟ごときを手に入れるために暴虐なことをなしたとはさすがに言われたくはなかったでありましょう。さすがの太宗も表向きは手が出せなかったのではないかしら。
さて、話はだいたい見えたと思うが(笑)、蕭翼の方に戻りましょう。再び、長尾の講演録から――。
蕭翼は委細承知いたしましたが、それについては内府にあるところの王羲之の眞蹟を二、三拝借を願いたいとということで、それも承知したというので、皇帝から眞蹟を二、三種お貸下になりました。
こうして蕭翼は繭商人に身を変えてはるばる長安から會稽山の永欣寺までやってまいります。あとは巧みに辨才に近づくと、なにしろ皇帝の密命を帯びて任務につくような男ですから、これは人物である。才あり、学問あり、魅力に富む。辨才もすっかりその才に惚れ込んでしまって、互いに詩を交換し、終夜、詩をつくったり酒を飲んだりして歓を尽くし、すっかり信用してしまったのです。
そのときは蕭翼は黙って別れましたが、また酒を持参して和尚の所に出掛けました。その時分はかねて太宗皇帝から拝借しておる王羲之の眞蹟を懐ろにして辨才の所に出掛けて行きました。だんだんこんどは話を廻らして、王羲之のことについて論じ始めた。
いやどうも王羲之の遺墨というものは多くは後人の臨書によるもので眞蹟はないものです。じつはわたしはこれこのとおり真蹟をもっているのであなたにも見せてあげるが、どうです、まあ、はっきり申し上げてこれに優るものはまず天下にはございませんよ、なあんて吹くわ吹くわ。
これはたまらんよね。(笑)
なんせ、辨才はホンモノの蘭亭を隠し持っているんだもの。
蕭翼のことを信用してしまったこともあり、とうとう辨才さん我慢が出来なくなった。
辨才はそれを見まして、いやこんなものではない、實はだれにもいわんが、自分の所には王羲之の蘭亭の眞蹟がある、決してこんなものでないとうっかりそれをしゃべってしまった。蕭翼は、いやそれはとてもそんなものがあるはずがない、必ず贋物だといってそれを是認しない。それでいよいよ辨才はむきになって、そんなら出して見せるといって梁に隠してあったのを引っ張り出して見せました。
あー、やっちゃった、ですねえ。(笑)
このあと蕭翼が蘭亭を黙って持ち去るあたりの細かないきさつはあるのですが、そこは端折ってしまうと、蕭翼が蘭亭を現に手にしていれば、さすがに辨才ももはやこれまでであります。
ただちにその地方の官に行って、自分は御史の蕭翼だというので、本格をもって地方官に告げたものでありますから、地方官も驚いて、それからただちに御史官相當な本格の待遇をすることになった。そうして今實は皇帝の勅命を以ってかようかようの勅書がある、それによってここに来たのであるから、辨才を呼べというので呼び出した。辨才が出掛けて行ったところが、皇帝の勅命によりかようかようであなたの所の蘭亭はここにこのとおり持って來たといわれて、辨才は非常に驚いたけれどもいかんともしようがない。それから蕭翼はこれを持って皇帝にこのとおり手に入りましたということを申し上げたら、皇帝の叡感ななめならず、いろいろ澤山の賜物があった。一方辨才和尚は、それがために鬱々として一年餘りにして死んでしまった、ということを何延之の記事には詳しく書いてあります。
以上は「賺蘭亭(たんらんてい)」という有名なオハナシなんだそうです。「賺」というのは騙して取るという意味。
たぶん、こういうのは、むかしは多少学問のあるじいちゃんなんかがいて、お盆に訪ねて来た孫たちのなかから要領の悪い逃げ遅れたやつかなんかをつかまえて「うん、これについてはオモシロイはなしがあってな、よくお聞き」なんてやってたのではないかと思うなあ。じいちゃんの話はあまり面白くはないが、まあ、年に一回のことだから、孫も我慢して聞いてやってて、大きくなって、ああこれどっかで聞いたことがある、なんて感じになっていたのではないでしょうか。
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