或る最終楽章(2)
今回興味をもって調べてみてはじめて知ったことですが、近藤とし子さんも歌人なんですね。
平成18年版の「短歌年鑑」を繰ってみると、近藤芳美と近藤とし子は、二人並んで人名録に掲載されています。本来、この名簿は氏名の五十音順だと思うのですが、このお二人は隣りあわせで、しかも近藤芳美の方を前にして掲載されています。単純な五十音ならばこういう並び方にはならないはずですが、たぶん編集上の慣行なのでしょう。
もちろんこの方が自然で好ましい。
ところで「短歌年鑑」には、角川の「短歌」と短歌研究社の「短歌研究」の二種類があります。どちらもこのお二人については同じ並べ方で、当然ながら、生年月日、住所なども同じ内容です。ただし、不思議なことにお二人の出生地が両誌で異なる。
近藤芳美 T2.5.5 (角川:広島生 短歌研究社:朝鮮生)
近藤とし子 T7.3.26 (角川:東京生 短歌研究社:台湾生)
前回取り上げた岡井隆さんたちの座談会のなかでも、近藤芳美が、こせこせ、ちまちましたことが大嫌いな性格で、とにかく大陸的なスケールの大きなものが好きだった理由は、近藤が朝鮮生まれだったから、なんて話題があるので、たぶん短歌研究社の方が正確なのかなという気がします。朝鮮や台湾という旧植民地生まれという記述は、角川はあえて避けたいということなのかもしれませんね。
いけない、いけない。こうしてのんびり書いてたら、いっこうに本題に入れないや。(笑)
ええと、先の座談会のなかで、いちばん印象に残ったのは、近藤芳美が亡くなる数ヶ月前のご様子のことでした。
三月のころのことだそうです。
ご夫妻は成城のケアハウスにいらしたらしいのですが、近藤芳美はこんな歌を詠んでいます。
マタイ受難曲そのゆたけさに豊穣に深夜はありぬ純粋のとき
「未来」6月号
座談会の中で佐佐木幸綱が(近藤さんは)「洗礼を受けられたそうですね」と言うと「そうです」と岡井隆が答えている。
マタイ受難曲を聴きながら最期の日々を送っておられた。
そして、座談会のなかでとし子夫人の「老耄」という少しショッキングな言葉が出てきます。妻の老耄を「無心」と表現して歌を詠んでおられたと言うのであります。
こういう歌です。
くり返す放心を無心の思いとし君におさなきときはめぐりつ
君にしばし留まる心を無心とし空にかすみて残る夕映え
戦中に詠んだ『早春歌』の「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思いき」で君と呼びかけられたその人のことを思うと、なんと遠いところまで、このご夫婦は歩んで来られたことか。93歳の歌人は最後まで、歌の中では88歳の彼女を君と呼びかけていたのですね。
なんだか胸がじんとなりました。
もう少し、書きたいことがあるので、さらに次回に続きます。
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