莫言、魯迅、ハジン
「群像」の8月号に「中国、そして現代文学へ」と題する、リービ英雄と莫言の対談が掲載されています。
そのなかでわたしの印象に残ったのは、二つ以上の共同体、あるいは二つ以上の言語を一人の作家が抱えているような世界文学の流れが出てきたのではないかというリービ英雄の発言に対して、莫言がハジンを例にあげて答えている箇所でした。
莫言 一人の作家が創作を始める前というのは、必ずしもそんなに世界文学だとか民族だとか、そういうことをすべてきっちり考えてから書き始めるわけではないと思うんですよね。今挙ったナイポールだとか、ラシュディの流れに位置づけられると思うんですが、中国の作家にも、アメリカで創作を始めた人たちが出てきています。
その中の一人、哈金(ハジン)は英語で創作を始めた人なんです。中国語では書かない。英語で中国のことを書いているわけです。亡命というのとは違いますが、流亡の文学という形で祖国のことを書いているわけです。暮らしている環境は外国にあって、しかし書かれている内容は中国のことである。彼らは現在の自分たちが住んでいる場と記憶の中の中国というものを対照させながら、その中から新しいものを見出して、鮮明な違いというものを拡大して見せてくれる。そういう意味では、我々が中国で書いてきた作品の中では、必ずしも明快に見られなかったような部分というものを、新しい環境に身を置くことによって描いてみせている。
この莫言の話は、リービ英雄の望むような応答ではなかった様子ですが(それは単に中国にも国際的作家が出たということでしょ、とさらっと流している)、わたしには莫言がハジンを評価していたというのがなかなか興味深かった。
ハジンについては、『Waiting』がアメリカで賞を受けたときに読んで感心した記憶があります。(そのときの感想はこちら)
じつはハジンのことをたまたま別の本から思い出していたのです。
竹内好の「魯迅と許広平」という文章。(『竹内好集』(影書房)収録)
魯迅は日本に留学し仙臺醫學専門學校で医学を勉強していたのですが、ここで手酷い中国人蔑視に曝されました。年譜によれば26歳のときに日本から一旦中国に帰国し、山陰(紹興)の朱女士と結婚しています。ところがすぐに弟の周作人を伴って日本に戻り、医学から今度は文学研究に転じたのですね。
ここで、竹内は魯迅の結婚を本人の意思によるものではなかったのだろうと推測し、愛はもちろん、もしかしたら肉体的な関係も魯迅はもたなかったのではないかとさえ言います。
魯迅にとっての人間らしい恋愛は45歳のときにはじまる教え子の女子学生許広平との関係であり、それも自分から関係をつくったというより、あくまで受け身の形ではじまり、政治的な逃亡という外部からの圧力がなければ事実上の結婚というかたちには決してならなかったものかもしれません。
許広平の回想録には、広州を去るときに魯迅が許広平に言った言葉が記されています。
「一緒に出かけよう!なんの未練があるものか』と。
こうしてついにわたしたちは、一九二七年九月二十七日、広州を去り、ともに未来の戦線——上海に向かった。
『魯迅回想』許広平/松井博光訳(筑摩叢書)
魯迅の結婚については、神戸大学のサイトに分かりやすい説明がありました。(こちら)
しかし、いずれにしても、このような自分自身が古い封建制、旧社会の悪弊にどっぷりと漬かっている存在であるという自覚は、魯迅にとっていわば「原罪」のようなものであり、それに対する「贖罪」として魯迅の文学を考えるというのは、たいへんわかりやすい説明のような気がします。
さて、そこで思い出したのが、ハジンの『Waiting』でした。
ここで描かれたのは、親の命じた結婚相手が旧弊の因習の象徴のごとき女で、とても愛を抱くことができず、形だけの結婚はしているもの、別居して、別の愛人と暮らす医師が、ひたすら自然離婚の成立を待ちつづけるというオハナシ。
6年前に読んだときは、だめな主人公への共感というところにしか思いがいかなかったのですが、いま考えると、もしかしてハジンは、この作品のアイデアを魯迅の結婚から得たのではないかしら、という気がどうもするのですね。そしてそれは、莫言がハジンを「彼らは現在の自分たちが住んでいる場と記憶の中の中国というものを対照させながら、その中から新しいものを見出して、鮮明な違いというものを拡大して見せてくれる。」と評価していることから、補強されるような気がするのでありました。
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