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2006/08/16

蘭亭序(3)

王羲之がこの「蘭亭序」を書いたのが、西暦353年といいますから、いずれにしても古いオハナシではあります。最初に紹介したように、この「蘭亭序」はもともと草稿であったのですが、その後、いくら清書してもこれを超えるものが出来なかった。書聖と称される王羲之としてもこの「蘭亭序」の原本は自慢の作である。当然のこととして、おそろしく有名になり、所望する人はきわめて多かったのですが、王羲之はこれを他人には渡さず子孫に伝えたということになっています。

さて世は移り、唐王朝の二代目、太宗皇帝(在位626年 - 649年)の即位前後のころです。王羲之の時代からざっと3世紀ばかり下ったときのこと。
太宗は、中国史上でも最高の名君の一人といわれる皇帝ですが、このお方は王羲之の書をたいへん愛した人で、王羲之の墨蹟を出来る限り蒐めて内府に秘蔵しておられた。しかし、最高傑作といわれる「蘭亭序」の真筆だけが、いくら探し求めても手に入らない。いろいろ手を尽くして調べていくうちに、とうとう王羲之から数えて七代目にあたる子孫であるところの智永禪師という人物がこれを宝蔵しておることをつきとめた。

智永禪師というのは王羲之の長男(本家)の系統ではなく、王羲之の五男である王徽之という人の子孫でありました。なにしろこのときはすでに王羲之から七代目ですからね、この間の一族の数は厖大なものになっていたと思われます。太宗さんはこれをしらみつぶしに内偵していったのでしょうねえ。執着のほどがわかる。

さてこの智永禪師という方も、さすがに王羲之の血を引いているということなのでしょうか、この時代の能筆家の一人だったようです。會稽山の永欣寺の住職でありましたが、この坊さんの書を求める人がひきもきらず、門の敷居が摩耗するため鉄で敷居を包んだところ、人が鐵門限と呼んだとか。

こうしてこの智永禪師に「蘭亭序」が伝わったことがわかったのですが、やがて智永禪師が亡くなりまして、「蘭亭序」は弟子の辨才(べんさい)というものに譲られた。
以下、長尾雨山の講演録を引きます。この語り口の妙を味わってくださいませ。

ところが辨才は師匠の智永以上に蘭亭の巻をすこぶる大切にしました。もし萬一のことがあってはならぬというので、屋根裏の梁の中を刳貫いて、その蘭亭の巻をさらに箱に入れて、そうして刳貫いた梁の中に隠しておいたということであります。だれも氣づかぬようにして大切にしておいた。そのことを唐の太宗皇帝が聞き出して、何とかこれを手に入れたいということで、差し出すように命を下されたところが、辨才なかなかそれを惜しんで承知をしませぬ。しかし皇帝の勅命ですからいやだともいえませぬ。ゆえにあの蘭亭はいつか紛失をしてただ今ではどこにあるかわかりませぬといって逃れたのであります。けれどもどうもそれは怪しい、どうかしてこれを取り出す工夫がないかということを時の大臣に相談になった。當時はまだ太宗皇帝は天子になっておらぬときである。高祖の武徳年間のときで房玄齢という大臣が、それは一つ機轉の利いた人をやって旨く取り出すほうがよかろうということを申し出た。

以下次号(笑)

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