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2006年9月

2006/09/29

Saving Fish From Drowning

先日読み終えた『Saving Fish From Drowning』Amy Tan(Random House)について。
エイミ・タン、中国語では譚恩美。
この作家、なにしろ天性のストーリー・テラー。 中国系米人綺譚といった感じの小説を書かせると抜群の名手である。
だからその名前が「譚」とはちとできすぎている。ペンネームだろうと思うのだが、いくつか中国語のサイトもあたってみたが、本名が別にあるというような記述はないみたい。
ちなみに手元の中国語辞典にあたると、中国人の姓のなかには、たしかに「譚(tan)」というのはあるようだ。もしかしたら、ペンネームじゃなくて本当にそういう名前なんだろうか。そうだとしたら面白い。

253977351_e69683a389 さて本書の中身は、前にも少しだけ紹介したが、12人からなるアメリカ人観光団体が、中国の雲南省の奥地からビルマにかけての仏教美術に出会う旅といった感じのパック旅行のなかで少々風変わりなトラブルに巻き込まれるという物語。実際のトラブルは、むしろ牧歌的なものだったのですが、表面的にはかれらは悪名高い軍事政権下のミャンマーで行方不明になるので、メディアがこれをとらえて、大騒ぎをはじめる。一方ミャンマーの将軍連中はワシントンDCに本拠を置くコンサルティング会社のアドバイスで、これを逆に利用して、行方不明の11人(一人は二日酔いでトラブルを逃れているのですね)の救出ドラマにかこつけてビルマ各地の観光宣伝をもくろむというドタバタ喜劇が繰り広げられる。

面白いのは、このオハナシの語り手のヒロインは、本来この旅行を引率する筈だった中国生まれの美術愛好家なんですが、物語の冒頭でいきなり謎の死をとげてしまって、死後の霊魂として旅に同行しているという趣向なんですね。そして、交霊師が書きとめた口述筆記を、作者が偶然発見するというのが小説の滑り出しの枠組みになっています。
まあ、現代小説と言うのは、こういう「語り」の構造がどうも必要なようでありますね。

それはともかく、この作品の題名「Saving Fish From Drowning」について、エピグラフでこんな笑話が掲げてある。

A pious man explained to his followers: "It is evil to take lives and noble to save them. Each day I pledge to save a hundred lives. I drop my net in the lake and scoop out a hundred fishes. I place the fishes on the bank, where they flop and twirl. "Don't be scared," I tell those fishes. "I am saving you from drowning."  Soon enough, the fishes grow calm and lie still.
Yet, sad to say, I am always too late. The fishes expire. And because it is evil to waste anything,  I take those dead fishes to market and I sell them for a good price. With the money I receive, I buy more nets so I can save more fishes.
--ANONYMOUS

いのち奪うは邪悪なり。いのち救うは尊きなり。我、日に百のいのちを救わんと発心し、毎日網うち、魚どもを溺れ死にから救わんとす。悲しいかな、常に遅れたり。魚ども死にき。我、これを市場にて売り、いささかの金を得ん。我、この金もてさらに多くの網を買わんとす。次こそさらに多くの魚どもを溺れ死にから救わんがため——てな感じかな。

ところが、小説の中ほどにやはり「Saving Fish From Drowning」という章が設けてある。場面は、アメリカ人の観光客が現地の市場で大きな鯉を見ながらおしゃべりをするところ。魚ってのはさ、水のなかで鰓呼吸するんだから、いくら口をぱくぱくやってて可哀想だからって、水から揚げてしまったら、逆に窒息しちゃうんだよね、なんてぺちゃくちゃ言ってるのですね。
魚の生態を知らず、溺れ死にしないよう、ほんとうに善意でかれらを掬い上げて殺ちゃったらお笑いだよね、というのですが、一行のなかに皮肉屋がおりまして、こんな意見を言う。
前後を引用します。

"It's horrible," she said at last. "It's worse than if they just killed them outright rather than justifying it as an act of kindness."
"No worse than what we do in other countries," Dwight said.
"What are you talking about?"Moff said.
"Saving people for their own good," he replied. "Invading countries, having them suffer collateral damage,as we call it. Killing them as an unfortunate consequence of helping them. You know, like Vietnam, Bosnia."
(p.170)

それってさ、おれたちアメリカ人がいつもよその国にやってることじゃん。(笑)
ははは、かれらもよくわかってはいるのですね。しかし、だから、もうおれたちは手を引くよと言われてもこれまた困ってしまうのだが。

中国語のサイトではこの作品の題名は「拯救溺水魚」あるいは「救魚不淹死」と翻訳されています。異なる訳があるということは、もともと中国の故事成語ではないのかもしれませんね。

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2006/09/28

古本市

大阪天満宮の古本市に行ったら、カンニング竹山クンが何かの番組のレポーターで来ていた。撮影クルーのカメラにはABCと入っていたような気がするので「探偵!ナイトスクープ」の収録かなにかであろう。
街中なら黒山の人だかり、女子高生にケータイで撮られまくりになるのだろうが、さすがおっさんだらけの古本市、だれ一人として興味を示さない。ホントです。わたしひとりが嬉しがってカメラを向けてたら、撮影クルーの青年に「すみませんやめてください」と手のひらで遮られてしまった。ああ、恥ずかしい。(笑)

2006_0926 今日買ったのは、昭和55年の角川俳句「西東三鬼読本」、昭和17年新年号ほか同年の四冊の改造社「俳句研究」、それにちと用途を明らかに出来ない謡曲本が二冊ばかり。

昭和17年新年号というのは、なにしろ昭和16年12月の開戦直後なので、最初に詔勅を拝してとして、「俳句も起つ」(富安風生)、続いて「民族詩高揚の秋」(飯田蛇笏)という文章が並ぶ。宣戦作品として最初に登場するのは前田普羅、続いてやはり富安風生である。前田普羅は14句ばかりを連ねるが、あんまり痛ましくて転記する気にもなれぬ。題名として「今ぞ撃たん」というのを掲げているところから内容は推して知るべし。
ほかにもいくつか興味深い内容もあるので、別の機会に紹介するかもしれない。

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2006/09/23

信仰と理性

カトリック中央協議会のサイトにベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学における講演の全訳が掲載されていたので、プリントアウトして二回ばかり熟読してみたのだけれど、正直に云うと、少なからずわたしにはよく理解できない箇所があった。
この講演は9月12日に南ドイツを訪問していた教皇が、かつて副学長を務めていた大学で行ったもので、「信仰、理性、大学——回顧と考察」と題する。

この講演のなかで教皇が引用したビザンチンのマヌエル二世の言葉がイスラム世界に憤激をもたらし、バチカンは苦しい(とわたしには思える)弁明を繰り返しているわけです。

マヌエル二世がどのような人物であるのか、この言葉がどのような状況化で発せられたものであるかはもちろん重要なことだと思いますが、それをあえて無視して教皇が実際に引用した文言を事実として記しておけば、次のようなものであります。

ムハンマドが新しいこととしてもたらしたものをわたしに示してください。あなたはそこに悪と非人間性しか見いだすことができません。たとえば、ムハンマドが、自分の説いた信仰を剣によって広めよと命じたことです。

バチカン側は、講演の全体の文脈を見ようとせずに、この部分だけを取り出して、あたかもこれが教皇の個人の考えであるかのように批判するのは間違っているという。
それは正しい指摘だが、同時に空しい指摘でもある。
日本ではいろは骨牌にさえ「綸言汗のごとし」という言葉がある。
まして、この講演は慎重に検討され準備されたものであるのは、ほかならぬバチカン側がきちんと読んでくれよ、と言っている全体の文脈の高度に組み立てられたロジックからあきらかだと思えます。

そこで、この講演の全体の文脈はどういうものであるか、ということですが、これがわたしにはいまひとつよくわからない難解なものだったというわけであります。
ひとつには神学というものがどういうものであるかという基本的なことが正しく理解できていないということがあると思います。
講演は、レーゲンスブルク大学という「二つの神学部を備えていることを誇りとしてきた」大学の関係者に向けて語られたものですから、そういう基本的なことは当然わかっているという前提で語られているのだと思います。

以下は、わたしがとりあえず「言わんとするのはこういうことかしら」と考えたことですが、たぶん中途半端な「理解」だと思いますし、まったくの「誤解」かもしれません。

まず信仰と理性とは相反するものだろうか、ということ。

聖典に記された言葉は、すべて神の言葉であり、これらは絶対的な真実であり、これらを疑うなどということはそもそもあり得ない、というのがたとえば信仰であるとする。

これに対して、真実はたしかに存在するが、それは聖典などというかたちで最初から与えられてはおらず、人間の力で明らかになるのではないかと考える。聖典を記したのは人間かもしれず(人間に決まっているが)、これを疑うこと自体には何の問題もないばかりか、このような疑いをいだき、実証を重ねることでより真実に近づいてゆくことができるというのをたとえば理性とする。

すると信仰と理性は単純には相反するもののごとく思える。信仰を守るためには、理性を圧殺せねばならず、理性の側からみれば信仰は度し難い暗愚、蒙昧、解放すべき人間の桎梏としか見えない。
おそらくこれが、いまのイスラーム世界と非イスラーム世界の対立軸なのだと思う。

一方、ヨーロッパにおけるキリスト教はギリシア的なものと合体したときにこの信仰と理性の相反性、ジレンマの問題を内部に取り込み一種のエネルギーにしたと考えられる。細胞のなかのミトコンドリアみたいなものかな。
ベネディクト十六世の言葉を聞こう。

わたしの考えでは、ここにわたしたちは、最高の意味でのギリシア的なものと、聖書に基づく神への信仰の間の、深い一致を認めることができます。創世記の最初の節、すなわち聖書全体の最初の節に基づいて、ヨハネはその福音書の序言を次のことばで始めます。「初めにことば(ロゴス)があった」。

つまり、教皇の言いたいことは、キリスト教は(たぶん、より厳密にはカトリックは)、人間の理性は、そのあいだにどれほどのへだたりがあろうとも神という存在そのものとの類比が可能なのだ、したがって、信仰と理性の間にジレンマがあるのではなく、このふたつの間でおこる運動によって人間は、その認識の地平を広げ、現在のわたしたちが享受している科学的な成果や人類の進歩を手にしたのだ、ということであるように思えます。
神学というのは人間の思惟がもし「科学的」なものに限定されてしまえば、むしろ理性の範囲を縮小し、人間性を卑小なものにしてしまうところを、「神への問い」というかたちで、常に反対の運動体として機能することにより、人間の認識を深めてきたのだと言いたいのではないでしょうか。

しかし、じつはより重要なことは、教皇はここで、現代の西側社会はこれまでの歴史のなかでの信仰と理性の力関係が逆転してしまい、理性が信仰を、単なるサブカルチャー的なものに貶めたり、信仰をもつという人間のすぐれて崇高な行いを馬鹿にするために用いられてはいないですか、と問いかけているのですね、きっと。
つまり、信仰をもつ人々(ここではイスラーム世界)にもっと敬意をもちなさい。むしろ、自分たち西側の人間がそれを捨てて恥じないような醜い姿をさらしていることをきちんと知りなさい。かれらを暗愚から覚まそうと、かれらを信仰の桎梏から解放しようなどとはなんと傲慢なことか、いまやキリスト教徒(あるいはアメリカ)が、「新しいこととしてもたらしたもの」として「悪と非人間性しか見いだすことができません」という具合に読み取ろうと思えば読み取れないこともありません。

ただし、もちろん、このような高度なレトリックは、大学という言説の高度に知的な操作を日常とする人々には通用しても、わたしたちのような普通の人間には、ちと理解が及びません。

そして、わたしの気持ちのなかの一部には、上記のような好意的な教皇への「惻隠の情」とは別に、あれれ、これ(イスラーム=暴力)はもしかして、確信犯かしらという疑いもなきにしもあらずなのであります。イスラーム世界が憤っているのも、たぶんそう思うからなのではないでしょうか。

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2006/09/19

俳句の三千家

「すばる」10月号の特集「鼎談・短詩形文学の試み——切れと近代」から。
参加者は金子兜太、熊倉功夫、高橋睦郎、石寒太(司会)という顔ぶれ。熊倉功夫さんが参加しておられるので、話は当然のように茶道に及ぶ。高橋さんのコメントに大笑いする。

熊倉 そこはまさに虚子を跡継ぎにしようとした意識かもしれないですね。断られたから、しようがなかったけれど、本当はちゃんと後継者があれば、子規は家元制の利休さんになったかもしれない。

高橋 で、紹鴎になった。というか、されちゃった。子規は虚子以降、あるいは反虚子というべき人びとにも重大な影響を与えたし、いまなお与えつづけていますが、家元にはならなかった。

金子 虚子はそれでちゃんと家元をつくった。虚子の意識というのは子規にもあったと思いますね。

高橋 虚子としては、子規から家元を継承しないで、最初の家元になるぞと。

熊倉 紹鴎にしちゃったわけだ。

高橋 子規を紹鴎にして、自分は利休になり、子孫は千家になった。いまは「ホトトギス」の稲畑家が表千家。「玉藻」の星野家が裏千家。「花鳥」の坊城家が官休庵かな。ただ、同じく子規から出ても、短歌には虚子のような超絶した経営者的人物はいなかったから、「アララギ」はのちに絶える。(後略)

子規を武野紹鴎になぞらえるのはともかく、「ホトトギス」が表千家で「玉藻」が裏千家とすると、まあ、家元の格から言えばそうなんだろうが、なにしろ裏と表とでは圧倒的に裏千家の勢力が強いので、なんとなく「ホトトギス」凋落の図式を暗に含んでいるようだ。高橋さんもなかなか悪意の籠った発言で、これはホトトギスの人は怒るだろうなあ。(笑)

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2006/09/13

最悪の総理

読みかけのエイミ・タンの『SAVING FISH FROM DROWNING』から。
語っている主人公は幽霊なんだけど、まあ、それは別にどうでもよくて、雲南地方の奥地からビルマへ向かうアメリカ人観光団のオハナシ。まったく無能な現地ガイドからできるツアーガイドに変わったときの主人公の独白。

I, too, thought she was an ideal guide. She had an aura of assurance matched by competence. This is the best combination, much better than nervousness and incompetence, as in the last guide. The worst, I think, is the complete confidence matched by complete incompetence. I have experienced it all too often, not just in tour guides, but in marcketing consultants and art experts at auction houses. And you find it in plenty of world leaders. Yes, and they all lead you to the same place, trouble.

完全な自信と完全な無能の組み合わせ、というのはもしかして次の総理大臣になるあの人のことか。そうか、連れて行かれるところは、トラブルなのね。マジで怖い。

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2006/09/12

詩人とヴァニティ(3)

「天狼」の二十六年九月号に、平畑静塔の「紅絲のなげき」という批評が載った。その中で静塔は、「紅絲の一大特色は嘆きである」として、その嘆きは「貴族臭を帯び女王調をもつ」と書いた。さらには「紅絲の嘆きの中には一種の虚栄(ヴァニティ)がある」との決定的な言葉を発したのである。このことは多佳子を憤慨させた。「虚栄」の一言にひどくプライドが傷ついたこともあるが、日吉句会以来のいわば同志であり、「天狼」創刊のために力を合わせた、あの静塔に、なぜそのような批判の言葉を浴びせられなければならなかったのか、それが口惜しかったにちがいない。
(『12の現代俳人論(下)』p.110)

このように片山由美子さんはこの「ヴァニティ事件」のことを紹介し、さらにつづけて静塔が多佳子の没後に書いた「俳人多佳子」(「俳句」38年8月号)という追悼特集の文章と『橋本多佳子全集』の栞に書いた「多佳子と私」というエッセイを取り上げる。

片山さんの意見によれば、昭和38年の追悼号の文章にはまだ当初の「いささかの悪意」がにじんでいる。たとえば、「俳句を借りての嘆きの自己顕揚の衝動をみとめる外ないものとして『ヴァニチー』と言ったのが、多佳子をこよなく嘆かしめたのであった。」というあたりがそうだろう。

これに対して、数十年を経た全集の栞の文章は「自己弁護の謗りを受けても仕方がない」ようなもので、かつての悪意を「隠すのに必死といった印象」だと片山さんは言う。これはたとえば、「多佳子はヴァニティの言葉の持っている、華麗、贅沢、優遊と云った美質を考えなかったようである。」というあたりの言葉がそれにあたる。

おそらく片山さんの言いたいことは、この事件に関して静塔の側にははじめから「悪意」があり、そういう「悪意」をもって人を批判することは、人間としてどうよ、ということではないかと思う。片山さんの多佳子論「戦い続けて」という副題は、つまりは多佳子がそういう悪意、男性俳人の側にある意地の悪さ偏狭さと戦い続けた人であるという切り口を示す。静塔の外には、波郷、三鬼も多佳子を貶めようとした人物としての側面があるという見方だ。

これについては、わたし自身は、たしかにそうだろうな、と思う。片山さんはそこまで書いてはいないが、深読みをすれば静塔の「悪意」の背後にはたぶん嫉妬があるだろう。波郷には男権主義の匂いがあるだろう。三鬼は、う〜ん、これはちと下司の勘ぐりだからここには書かない。(ということで分かる方には分かる)

ところで、この話の冒頭で、片山さんの多佳子論はすぐれたものだが、多少ひかかるところもある、と書いた。そのことを記して、終えることにしよう。
静塔の批判は悪意から発したものであるという見方、これはその通りだと思う。そしてその悪意の背後になにがあったにしろ、そういう悪意を後から理屈をつけて正当化してみせようとするのは、みっともないことだ、というのもそのとおりだと思う。
静塔が「ヴァニティなんて言ったのは負け惜しみだな。自分にはあんな句はつくれないから、こんちくしょうと思ったんだよ。なにしろああ言えば多佳子が一番傷つくことを知っていたから、ついやっちゃたんだな。悪いことをしたよ」なんて言えば(絶対言わないだろうけど)たしかに腑に落ちるところだと、わたしは思う。

だが、それでもひとつの疑問は残る。そしてこのことに片山さんはわざと踏み込んでいないと思う。

それは、では多佳子の俳句にヴァニティはないのか、という単純な疑問の答えである。
わたしは「ある」と思う。その意味では、静塔の冷酷非情な目は本質を突いている。多佳子の句には自己陶酔があり、読者の目を意識した演技があるとわたしは思う。それを一言で言えばヴァニティがあるということになるだろう。
だが、それでいいのだと思う。
詩人にとってヴァニティがあるというのは、魚に鰓があるというのと同じようなものである。

ただ専門の俳人にとって不幸なのは、俳句というのは、いかにそういう虚栄から自由になって人生や自然の真実、根源に触れているかを表そうとする文芸だということだ。

しかし、これも倒錯した一種のヴァニティだろう。

テレビに出て来るセレブとやらの肥だめ臭い虚栄とは正反対の方向を向いているが、俳人として生計を立てているような人は、普通の人にはたどり着けないような境地、それがなんらかの悟達であれ、嘆きであれ、飄逸さであれ、風狂であれ、そういう地点におのれは立っているという「自己顕揚の衝動」があるのではないかと思う。

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2006/09/10

詩人とヴァニティ(2)

昭和4年(1929)、豊次郎の父、料左衛門が亡くなったのを機に、夫婦は大阪の帝塚山に移住、「櫓山荘」時代に別れをつげる。大阪で多佳子が師事するようになったのが山口誓子である。
やがて、豊次郎は結核で寝込むようになり、ついに昭和12年(1937)に急逝する。
このとき多佳子は三十八歳だった。この時代の多佳子を、片山由美子さんはこんな風に点描する。

多佳子にはもともと、男性と渡り合って一歩も引かない強さと能力が備わっていたと思われる。そのことに、夫の庇護の下で何の苦労もなく生活していた間は多佳子自身さえ気づかなかったかもしれないが、四十歳を前に夫と死別し、遺された四人の娘たちを育て上げなければならない立場に立って以来、橋本家の女主人としてその手腕は遺憾なく発揮された。それはあたかも、ジェーン・オースティンの小説にでも登場しそうな聡明な英国婦人を思わせ、亡夫・豊次郎が理想としたイギリスの家庭の中心人物を髣髴させる。
(『12の現代俳人論(下)』p.99)

いや、カッコいいですな。
戦争が激しくなると、空襲を逃れるため、多佳子は奈良のあやめ池に移った。ここで慣れない畑仕事もしたらしい。そして敗戦。
2006_0910_1 戦後の多佳子について、一番よく知られたエピソードは、奈良句会(日吉館句会)だろう。
奈良の登大路の日吉館といえば、名物おかみで知られた旅館。かつて会津八一、亀井勝一郎、和辻哲郎、広津和郎らが常連客であり、熱心な学生や研究者は泊めてもらえるが、遊び気分の観光客は追い返されるようなところであった。(残念ながらいまは廃業して建物も風前の灯といった感じですが。写真は今年7月のもの)
ここで、昭和21年から橋本多佳子は西東三鬼、平畑静塔と合宿形式で、のちのちまで語りつがれるような凄まじい俳句の鍛錬をしたというのでありますね。
このときのメンバーが中心になり、かれらに担ぎ出されるかたちで山口誓子が「天狼」をはじめる。
この「天狼」は、戦中に弾圧された新興俳句運動の系譜につならる性格を有しているとみてよい。「馬酔木」から山口誓子、橋本多佳子、榎本冬一郎、谷津予志といった有力な作家が「天狼」に移り、新興俳句からは西東三鬼、平畑静塔、秋元不死男、高屋窓秋、三谷昭などが参加しているからだ。

あやめ池といい奈良の日吉館といい、わたしにとってはどちらも、まったくご近所と言ってもいい場所なので、このあたりの話は、とても親しみを感じる。

多佳子といえば、おそらく俳句好きの人は次のような句をたちどころにあげるだろう。

  乳母車夏の怒涛によこむきに
  いなびかり北よりすれば北をみる
  雪はげし抱かれて息のつまりしこと
  雄鹿の前吾もあらあらしき息す
  夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

どれもすばらしい情感と気品に満ちている。わたしも大好きな句である。

じつは、これらはすべて前回の冒頭で紹介した第三句集『紅絲』のなかにおさめられているものであり、いくつは日吉句会で得られた佳什である。

そして、前回の振り出しに戻るが、これらの句の批評として、平畑静塔が「虚栄(ヴァニティ)がある」としたという話になるのであります。

くたびれたから、以下次号。

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2006/09/09

詩人とヴァニティ(1)

『12の現代俳人論(下)』(角川選書)に、片山由美子さんが「戦い続けて」と題する橋本多佳子論を書いておられる。たいへんすぐれた俳論である。しかし、多少ひかかるところもある。
この中で橋本多佳子と平畑静塔との間でおこった「ヴァニティ事件」というものが出て来る。あるいは何かで読んだことがあったかもしれないが、そうであればわたしは忘れていたし、おそらくは今回の片山さんの文章ではじめて知ったことだと思う。

「事件」といっても、実際の行為としては別に大したことではない。

昭和26年に出た橋本多佳子の第三句集『紅絲』に対する批評として、平畑静塔が「紅絲の嘆きの中には一種の虚栄がある」(「虚栄」にヴァニティというルビを振った)という一文を「天狼」9月号に載せたというものだ。

だが、いまこれを読んでくださっている方は、現代俳句や俳人の経歴になじみのある方ばかりではないだろうから、この話をする前に、一応、橋本多佳子がどういう俳人であるのか、その作品はどういうものなのかを、かいつまんで書いておいたほうがいいだろう。

橋本多佳子(1899-1963)は十八歳のときに橋本豊次郎という人物と結婚する。このとき豊次郎は二十九歳だった。
豊次郎は大阪難波の地下鉄工事などで力をつけた請負業、橋本組の息子で、十九歳で渡米して土木建築を学んだというなかなか気骨のある人物である。片山さんが編んだ多佳子の略歴によれば、最初の新居は大阪であったようだが、橋本組は当時景気のよかった九州に進出するためアメリカ帰りの豊次郎を小倉に駐在させた。多佳子は美しい若妻として、九州に赴いたのであります。
この豊次郎、いささか荒っぽい業界のボンにしては珍しく、というか、この時代の実業家の嗜みだったのかもしれないが、文化や芸術を深く愛好したというから、昨今の「ヒルズ砦の三悪人」とはひと味違う。(笑)
2006_0909 結婚と同時に大分に10万坪の農園を購入し、また三年後には小倉に自ら設計した「櫓山荘(ろざんそう)」という洋館を建て、ここをサロンとして高雅な生活を営んだという。「櫓山荘」というネーミングの由来は、むかしここに小笠原藩が玄界灘、関門海峡の見張番所の櫓を建てていたことによるらしい。

でも所詮は地方文化でしょ、なんて侮ってはいけない。いまでも、福岡の麻生グループなどは、地元で絶大な力を誇っているわけだけれど、戦前はとくに、門司港が欧州航路や大陸航路の玄関口だったこともあり、政財界の本格的な社交場がこの地にあった。門司駅前には(これは移築されたものですが)いまでも三井倶楽部という瀟洒な建物が残っていますな。

というわけで、橋本多佳子は北九州に「櫓山荘」ありと知られた有名なサロンの女主人であった、ト。
そんな多佳子が本格的に俳句に触れたのは、大正11年(1922)のこと、高浜虚子を迎えてここで九州のホトトギス会員が句会を開いたのですが、虚子は多佳子の女主人振りをこう一句に仕立てた。

 落椿投げて暖炉の火の上に 虚子

言い伝えでは、このとき接待に出た多佳子が、風に煽られ暖炉の上の花瓶から青い絨毯の上に落ちた深紅の椿を、炎のなかに投げ込んだときの嘱目だといいます。自分の姿を句に刻み込まれた多佳子はこのとき俳句に魅せられたということになっていますが、どうも出来すぎていますね。ま、これも俳句の伝説のひとつですな。
それはともかくこの「櫓山荘」の句会のもう一人の主役は杉田久女です。このあたりのことは 田辺聖子の『花衣ぬぐやまつわる・・・・・・』にも書かれていたはずです。(忘れたけど)この日がこの師弟の初対面の日で、夫の豊次郎が、そんなに俳句に興味をもったのだったら、久女さんに来て教えていただいたらどうだ、とすすめた。
そんなわけで、橋本多佳子は杉田久女について俳句をはじめる。

この項つづく。

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2006/09/05

小川洋子、ストットルマイヤー警部

今頃何を、というような話題ですが、DVDを見ながら自分で気づいたことはなんとなく嬉しいもので。

その1
映画「博士の愛した数式」の薪能の場面(原作にはたしかなかったはずですが)に、観客の一人として小川洋子さんが出ておられますね。かなり大きなアップですので、びっくりしました。なかなか、お茶目でかわいらしい。(笑)

その2
Tedch09 家族が「羊たちの沈黙」のメイキングビデオの出演者インタビューを見ていたので、なんとなく横目で見ていたら、どこかで見たような顔が。あれ、これってもしかしたら・・・
「羊」で犯人バッファロー・ビルを演じたのは、テッド・レヴィン。調べてみたら、やっぱりそうでした。TVシリーズの「名探偵モンク」のサンフランシスコ市警、リーランド・ストットルマイヤー警部じゃないですか。
「羊たちの沈黙」はビデオやテレビ放送で何回も見ているし、「名探偵モンク」はわたしのお気に入りのシリーズなので、シーズン1、2ともほぼ毎週かかさず見ていたのに、いままで全然気がつかなかった。ああ、びっくりした。

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2006/09/02

或る最終楽章(3)

今回、近藤とし子さんのことを知りたいと思って、図書館で「短歌研究」のバックナンバーに目を通していくうちに、あることに気づきました。
いや、別にたいしたことではないのですが、「短歌研究」という雑誌は毎年3月号で、「現代代表女流歌人作品集」という特集を定番にしているようなんですね。毎年、お一人につき七首の歌が並んでいます。なんでこの月に女流の特集かと言えば、たぶん雛祭りにちなんでいるのだと思う。

この「現代代表女流歌人作品集」という特集を調べると、2002年、2003年、2004年に近藤とし子さんの詠草があります。(それ以前は調べていません。※補注コメント参照)各年号から、ご夫妻の日常が伺えそうな作品を少し抜いて見ます。

 2002年「小公園」より
 ナンキンハゼ紅色の葉の散り敷ける小公園は君と来る道
 日溜りの椅子に暫しを来て憩うを小さき喜びとする一つ生
 老いの日を微かの希い秘めて来し五十年住み古りし家を離れて
 南より射す日は二人の部屋に満ちひと日そのまま仕合せのごと
 ソウルに逢いて六十五年共に行きし滝つ瀬の音幻に聞く

 2003年「白鷲」より
 病みあとの君を置き来し朝川に白鷲一羽立ちいるしじま
 岩に立つ白鷲の影静かなる小波に揺れている長き時

 2004年「冬の鴨たち」より
 小さく鳴き合い流れを遡りゆく鴨ら夕昏るる光にわが帰るべし
 昏れぐれとなりてゆく道足痛しと君の待ちますマンション灯る
 昏るる光に群れつつ流れを登りゆきし今宵鴨たち何処に眠る

じつは2002年3月号の「短歌研究」には、散文も書かれています。
淡々として味わい深い文章ですが、部分的な引用をすると、かえってお気持ちを損なうような気がいたしますのと、さほど長いものでもないので、全文を転記いたします。いまの世の中は、激しく変わっていくものだけが生き残れるという阿呆丸出しの処世術が溢れていますので、わたしなどはこうした文章を読むとほんとうに心からほっとして、もう少し生きてみるのも悪くないかなと勇気づけられるのです。
また、今回は近藤芳美の追悼からはじまったお話でしたので、これを締めくくるにも、ふさわしい一文だと思います。

変らない私

旧制第八高等学校の正門の前を通り、滝子から吹上に向かって一本の郡道が続いていました。その道に沿う日本家屋に、私達姉妹八人は十五年近く住みました。父が八校に勤めていた為でした。鐘が鳴ってから走って行っても間に合う程近い御器所尋常高等小学校に通い、姉達三人から四番目の私は、すべて姉達に倣うようにして、それを不思議に思わなかったのかも知れません。
卒業と同時に、父が先に移り住んでいました京城(今のソウル)に行き、その京城での五年の間にアララギを知りました。父と同じ京城帝国大学予科のドイツ語教授がアララギ会員で、御紹介いただいた為でした。
京城アララギ会で、土屋文明先生を金剛山にお招きし、安居会のあと外金剛から内金剛への嶮しい山越えを先生と御一緒にしました。この会で初めて夫とも逢いました。父が旧制新潟高等学校長になりました為、私共は結婚式を早めて、京城に残りました。慌しいことに今度は夫の勤めが京城支店から東京本社となり、私共は上京しました。そして私は肋膜炎になり新潟の両親の許に行き、その直後夫に召集令状が来て出征しました。中支で負傷し、紙一重で命拾いをし還ることが出来ました。病後の身を労わりながら住んだ東伏見に空襲が激しくなり、定年後の両親の住む浦和に疎開し、終戦を迎えました。
浦和から東京の千歳船橋に移って七年、その間に「未来」の創刊などがありました。昭和二十八年、山小屋のような家を建てて豊島園に住み、五十年が過ぎました。そして再び世田谷の成城に老後を住み始めました。
今こうして、少女からの日々を振り返る時、ありのままに生きて来たに過ぎない、何一つ変わらない自分に気付きます。そして、何も変わろうとしなかった自分であったように思われます。
きっとそれは、その儘に続くひと生かもしれません。

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2006/09/01

8月に読んだ本

『やさしい訴え』小川洋子(文春文庫/2005)
『歌集 青童子』前登志夫(短歌研究社/1997)
『寡黙な死骸 みだらな弔い』小川洋子(中公文庫/2003)
『竹内好「日本のアジア主義」精読』松本健一(岩波現代文庫/2000)
『文明の内なる衝突—テロ後の世界を考える』大澤真幸( 日本放送出版協会/2002)
『パレスチナとは何か』エドワード・W.サイード/ジャン・モア(写真)/島弘之訳(岩波現代文庫/2005)
『竹内好集 戦後文学エッセイ選4』(影書房/2005)
『中國書畫話』長尾雨山(筑摩叢書/1973)
『歌集 鳥總立』前登志夫(砂子屋書房/2003)
『東アジアの儒教と礼』小島毅(山川出版社/2004)
『吉田松陰・留魂録』古川薫・訳注(講談社学術文庫/2002)
『論語語論』一海知義(藤原書店/2006)
『写生の物語』 吉本隆明(講談社/2000)
『クーデンホーフ光子の手記』シュミット村木真寿美(河出書房新社 /1998)
『クローディアの秘密』E.L.カニグズバーグ /松永ふみ子訳(岩波少年文庫/2006)
『高丘親王航海記』渋澤龍彦(文春文庫/2002)

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8月に見た映画

The Forgotten (2004)
監督:ジョセフ・ルーベン
出演:ジュリアン・ムーア、ドミニク・ウェスト、アンソニー・エドワーズ

マダムと奇人と殺人と(2004/ベルギー/フランス)
監督・脚本 : ナディーヌ・モンフィス
出演 : ミシェル・ブラン 、 ディディエ・ブルドン 、 ジョジアーヌ・バラスコ

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