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2006/09/23

信仰と理性

カトリック中央協議会のサイトにベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学における講演の全訳が掲載されていたので、プリントアウトして二回ばかり熟読してみたのだけれど、正直に云うと、少なからずわたしにはよく理解できない箇所があった。
この講演は9月12日に南ドイツを訪問していた教皇が、かつて副学長を務めていた大学で行ったもので、「信仰、理性、大学——回顧と考察」と題する。

この講演のなかで教皇が引用したビザンチンのマヌエル二世の言葉がイスラム世界に憤激をもたらし、バチカンは苦しい(とわたしには思える)弁明を繰り返しているわけです。

マヌエル二世がどのような人物であるのか、この言葉がどのような状況化で発せられたものであるかはもちろん重要なことだと思いますが、それをあえて無視して教皇が実際に引用した文言を事実として記しておけば、次のようなものであります。

ムハンマドが新しいこととしてもたらしたものをわたしに示してください。あなたはそこに悪と非人間性しか見いだすことができません。たとえば、ムハンマドが、自分の説いた信仰を剣によって広めよと命じたことです。

バチカン側は、講演の全体の文脈を見ようとせずに、この部分だけを取り出して、あたかもこれが教皇の個人の考えであるかのように批判するのは間違っているという。
それは正しい指摘だが、同時に空しい指摘でもある。
日本ではいろは骨牌にさえ「綸言汗のごとし」という言葉がある。
まして、この講演は慎重に検討され準備されたものであるのは、ほかならぬバチカン側がきちんと読んでくれよ、と言っている全体の文脈の高度に組み立てられたロジックからあきらかだと思えます。

そこで、この講演の全体の文脈はどういうものであるか、ということですが、これがわたしにはいまひとつよくわからない難解なものだったというわけであります。
ひとつには神学というものがどういうものであるかという基本的なことが正しく理解できていないということがあると思います。
講演は、レーゲンスブルク大学という「二つの神学部を備えていることを誇りとしてきた」大学の関係者に向けて語られたものですから、そういう基本的なことは当然わかっているという前提で語られているのだと思います。

以下は、わたしがとりあえず「言わんとするのはこういうことかしら」と考えたことですが、たぶん中途半端な「理解」だと思いますし、まったくの「誤解」かもしれません。

まず信仰と理性とは相反するものだろうか、ということ。

聖典に記された言葉は、すべて神の言葉であり、これらは絶対的な真実であり、これらを疑うなどということはそもそもあり得ない、というのがたとえば信仰であるとする。

これに対して、真実はたしかに存在するが、それは聖典などというかたちで最初から与えられてはおらず、人間の力で明らかになるのではないかと考える。聖典を記したのは人間かもしれず(人間に決まっているが)、これを疑うこと自体には何の問題もないばかりか、このような疑いをいだき、実証を重ねることでより真実に近づいてゆくことができるというのをたとえば理性とする。

すると信仰と理性は単純には相反するもののごとく思える。信仰を守るためには、理性を圧殺せねばならず、理性の側からみれば信仰は度し難い暗愚、蒙昧、解放すべき人間の桎梏としか見えない。
おそらくこれが、いまのイスラーム世界と非イスラーム世界の対立軸なのだと思う。

一方、ヨーロッパにおけるキリスト教はギリシア的なものと合体したときにこの信仰と理性の相反性、ジレンマの問題を内部に取り込み一種のエネルギーにしたと考えられる。細胞のなかのミトコンドリアみたいなものかな。
ベネディクト十六世の言葉を聞こう。

わたしの考えでは、ここにわたしたちは、最高の意味でのギリシア的なものと、聖書に基づく神への信仰の間の、深い一致を認めることができます。創世記の最初の節、すなわち聖書全体の最初の節に基づいて、ヨハネはその福音書の序言を次のことばで始めます。「初めにことば(ロゴス)があった」。

つまり、教皇の言いたいことは、キリスト教は(たぶん、より厳密にはカトリックは)、人間の理性は、そのあいだにどれほどのへだたりがあろうとも神という存在そのものとの類比が可能なのだ、したがって、信仰と理性の間にジレンマがあるのではなく、このふたつの間でおこる運動によって人間は、その認識の地平を広げ、現在のわたしたちが享受している科学的な成果や人類の進歩を手にしたのだ、ということであるように思えます。
神学というのは人間の思惟がもし「科学的」なものに限定されてしまえば、むしろ理性の範囲を縮小し、人間性を卑小なものにしてしまうところを、「神への問い」というかたちで、常に反対の運動体として機能することにより、人間の認識を深めてきたのだと言いたいのではないでしょうか。

しかし、じつはより重要なことは、教皇はここで、現代の西側社会はこれまでの歴史のなかでの信仰と理性の力関係が逆転してしまい、理性が信仰を、単なるサブカルチャー的なものに貶めたり、信仰をもつという人間のすぐれて崇高な行いを馬鹿にするために用いられてはいないですか、と問いかけているのですね、きっと。
つまり、信仰をもつ人々(ここではイスラーム世界)にもっと敬意をもちなさい。むしろ、自分たち西側の人間がそれを捨てて恥じないような醜い姿をさらしていることをきちんと知りなさい。かれらを暗愚から覚まそうと、かれらを信仰の桎梏から解放しようなどとはなんと傲慢なことか、いまやキリスト教徒(あるいはアメリカ)が、「新しいこととしてもたらしたもの」として「悪と非人間性しか見いだすことができません」という具合に読み取ろうと思えば読み取れないこともありません。

ただし、もちろん、このような高度なレトリックは、大学という言説の高度に知的な操作を日常とする人々には通用しても、わたしたちのような普通の人間には、ちと理解が及びません。

そして、わたしの気持ちのなかの一部には、上記のような好意的な教皇への「惻隠の情」とは別に、あれれ、これ(イスラーム=暴力)はもしかして、確信犯かしらという疑いもなきにしもあらずなのであります。イスラーム世界が憤っているのも、たぶんそう思うからなのではないでしょうか。

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f)国際・政治・経済」カテゴリの記事

コメント

「これ(イスラーム=暴力)はもしかして、確信犯かしらという疑い」―

「信仰と理性」を網羅した後でこうしてするすると抜け落ちてていく意思が、今の現象を映し出すと共に広義な政治的意味を持つのでしょう。それも世界メディアと言う現象を示すかたちでもって伝播した。話し手自身は、「身内」になされた講演内容が過剰反応されて、議論されるかを、何処までどのように具体的に計算していたのでしょうか。

少なくともこうして講演内容が検討されて、メディアにおける伝言ゲームのような大実験が実証的になされた。

投稿: pfaelzerwein | 2006/09/25 06:51

pfaelzerwein さん

どうもこの箇所は身内相手ということで油断があったと見るべきか、それともしっかり計算されたものであったのか、判断に迷います。
ところで貴ブログの以下のふたつのエントリーとそれに寄せられたコメントがたいへん興味深いものでした。ありがとうございました。

「ミュンヘンでのミサ」
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/32b1b243370118292b7715e20a479454

皇帝のモハメッド批判
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/1c70345314953005abf31e51d3f5068f

投稿: かわうそ亭 | 2006/09/25 21:30

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