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2006/09/12

詩人とヴァニティ(3)

「天狼」の二十六年九月号に、平畑静塔の「紅絲のなげき」という批評が載った。その中で静塔は、「紅絲の一大特色は嘆きである」として、その嘆きは「貴族臭を帯び女王調をもつ」と書いた。さらには「紅絲の嘆きの中には一種の虚栄(ヴァニティ)がある」との決定的な言葉を発したのである。このことは多佳子を憤慨させた。「虚栄」の一言にひどくプライドが傷ついたこともあるが、日吉句会以来のいわば同志であり、「天狼」創刊のために力を合わせた、あの静塔に、なぜそのような批判の言葉を浴びせられなければならなかったのか、それが口惜しかったにちがいない。
(『12の現代俳人論(下)』p.110)

このように片山由美子さんはこの「ヴァニティ事件」のことを紹介し、さらにつづけて静塔が多佳子の没後に書いた「俳人多佳子」(「俳句」38年8月号)という追悼特集の文章と『橋本多佳子全集』の栞に書いた「多佳子と私」というエッセイを取り上げる。

片山さんの意見によれば、昭和38年の追悼号の文章にはまだ当初の「いささかの悪意」がにじんでいる。たとえば、「俳句を借りての嘆きの自己顕揚の衝動をみとめる外ないものとして『ヴァニチー』と言ったのが、多佳子をこよなく嘆かしめたのであった。」というあたりがそうだろう。

これに対して、数十年を経た全集の栞の文章は「自己弁護の謗りを受けても仕方がない」ようなもので、かつての悪意を「隠すのに必死といった印象」だと片山さんは言う。これはたとえば、「多佳子はヴァニティの言葉の持っている、華麗、贅沢、優遊と云った美質を考えなかったようである。」というあたりの言葉がそれにあたる。

おそらく片山さんの言いたいことは、この事件に関して静塔の側にははじめから「悪意」があり、そういう「悪意」をもって人を批判することは、人間としてどうよ、ということではないかと思う。片山さんの多佳子論「戦い続けて」という副題は、つまりは多佳子がそういう悪意、男性俳人の側にある意地の悪さ偏狭さと戦い続けた人であるという切り口を示す。静塔の外には、波郷、三鬼も多佳子を貶めようとした人物としての側面があるという見方だ。

これについては、わたし自身は、たしかにそうだろうな、と思う。片山さんはそこまで書いてはいないが、深読みをすれば静塔の「悪意」の背後にはたぶん嫉妬があるだろう。波郷には男権主義の匂いがあるだろう。三鬼は、う〜ん、これはちと下司の勘ぐりだからここには書かない。(ということで分かる方には分かる)

ところで、この話の冒頭で、片山さんの多佳子論はすぐれたものだが、多少ひかかるところもある、と書いた。そのことを記して、終えることにしよう。
静塔の批判は悪意から発したものであるという見方、これはその通りだと思う。そしてその悪意の背後になにがあったにしろ、そういう悪意を後から理屈をつけて正当化してみせようとするのは、みっともないことだ、というのもそのとおりだと思う。
静塔が「ヴァニティなんて言ったのは負け惜しみだな。自分にはあんな句はつくれないから、こんちくしょうと思ったんだよ。なにしろああ言えば多佳子が一番傷つくことを知っていたから、ついやっちゃたんだな。悪いことをしたよ」なんて言えば(絶対言わないだろうけど)たしかに腑に落ちるところだと、わたしは思う。

だが、それでもひとつの疑問は残る。そしてこのことに片山さんはわざと踏み込んでいないと思う。

それは、では多佳子の俳句にヴァニティはないのか、という単純な疑問の答えである。
わたしは「ある」と思う。その意味では、静塔の冷酷非情な目は本質を突いている。多佳子の句には自己陶酔があり、読者の目を意識した演技があるとわたしは思う。それを一言で言えばヴァニティがあるということになるだろう。
だが、それでいいのだと思う。
詩人にとってヴァニティがあるというのは、魚に鰓があるというのと同じようなものである。

ただ専門の俳人にとって不幸なのは、俳句というのは、いかにそういう虚栄から自由になって人生や自然の真実、根源に触れているかを表そうとする文芸だということだ。

しかし、これも倒錯した一種のヴァニティだろう。

テレビに出て来るセレブとやらの肥だめ臭い虚栄とは正反対の方向を向いているが、俳人として生計を立てているような人は、普通の人にはたどり着けないような境地、それがなんらかの悟達であれ、嘆きであれ、飄逸さであれ、風狂であれ、そういう地点におのれは立っているという「自己顕揚の衝動」があるのではないかと思う。

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コメント

ごぶさたしています。雑報告です。

松本清張に「月光」(初出時「花衣」)という多佳子を扱った短編があり、きのう読みました。(松本清張初文庫化作品集4〔双葉文庫/2660.4〕所収)
清張らしい嗅覚の作品でした。

投稿: かぐら川 | 2006/09/18 08:55

こんばんわ。松本清張の年譜と橋本多佳子の年譜を重ねると、清張が尋常小学校を出て給仕だとか見習工をしながら社会の底辺で必死に勉強していた15の頃、多佳子は24、5歳、櫓山荘の美しい女主人。たぶん、清張はその時代から多佳子のことは耳にしていたと思いますね。
「嗅覚の作品」とは意味深ですが、誓子や三鬼とのことを考えてなんとなく想像はつくような気がします。

投稿: かわうそ亭 | 2006/09/18 19:59

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