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2006/09/09

詩人とヴァニティ(1)

『12の現代俳人論(下)』(角川選書)に、片山由美子さんが「戦い続けて」と題する橋本多佳子論を書いておられる。たいへんすぐれた俳論である。しかし、多少ひかかるところもある。
この中で橋本多佳子と平畑静塔との間でおこった「ヴァニティ事件」というものが出て来る。あるいは何かで読んだことがあったかもしれないが、そうであればわたしは忘れていたし、おそらくは今回の片山さんの文章ではじめて知ったことだと思う。

「事件」といっても、実際の行為としては別に大したことではない。

昭和26年に出た橋本多佳子の第三句集『紅絲』に対する批評として、平畑静塔が「紅絲の嘆きの中には一種の虚栄がある」(「虚栄」にヴァニティというルビを振った)という一文を「天狼」9月号に載せたというものだ。

だが、いまこれを読んでくださっている方は、現代俳句や俳人の経歴になじみのある方ばかりではないだろうから、この話をする前に、一応、橋本多佳子がどういう俳人であるのか、その作品はどういうものなのかを、かいつまんで書いておいたほうがいいだろう。

橋本多佳子(1899-1963)は十八歳のときに橋本豊次郎という人物と結婚する。このとき豊次郎は二十九歳だった。
豊次郎は大阪難波の地下鉄工事などで力をつけた請負業、橋本組の息子で、十九歳で渡米して土木建築を学んだというなかなか気骨のある人物である。片山さんが編んだ多佳子の略歴によれば、最初の新居は大阪であったようだが、橋本組は当時景気のよかった九州に進出するためアメリカ帰りの豊次郎を小倉に駐在させた。多佳子は美しい若妻として、九州に赴いたのであります。
この豊次郎、いささか荒っぽい業界のボンにしては珍しく、というか、この時代の実業家の嗜みだったのかもしれないが、文化や芸術を深く愛好したというから、昨今の「ヒルズ砦の三悪人」とはひと味違う。(笑)
2006_0909 結婚と同時に大分に10万坪の農園を購入し、また三年後には小倉に自ら設計した「櫓山荘(ろざんそう)」という洋館を建て、ここをサロンとして高雅な生活を営んだという。「櫓山荘」というネーミングの由来は、むかしここに小笠原藩が玄界灘、関門海峡の見張番所の櫓を建てていたことによるらしい。

でも所詮は地方文化でしょ、なんて侮ってはいけない。いまでも、福岡の麻生グループなどは、地元で絶大な力を誇っているわけだけれど、戦前はとくに、門司港が欧州航路や大陸航路の玄関口だったこともあり、政財界の本格的な社交場がこの地にあった。門司駅前には(これは移築されたものですが)いまでも三井倶楽部という瀟洒な建物が残っていますな。

というわけで、橋本多佳子は北九州に「櫓山荘」ありと知られた有名なサロンの女主人であった、ト。
そんな多佳子が本格的に俳句に触れたのは、大正11年(1922)のこと、高浜虚子を迎えてここで九州のホトトギス会員が句会を開いたのですが、虚子は多佳子の女主人振りをこう一句に仕立てた。

 落椿投げて暖炉の火の上に 虚子

言い伝えでは、このとき接待に出た多佳子が、風に煽られ暖炉の上の花瓶から青い絨毯の上に落ちた深紅の椿を、炎のなかに投げ込んだときの嘱目だといいます。自分の姿を句に刻み込まれた多佳子はこのとき俳句に魅せられたということになっていますが、どうも出来すぎていますね。ま、これも俳句の伝説のひとつですな。
それはともかくこの「櫓山荘」の句会のもう一人の主役は杉田久女です。このあたりのことは 田辺聖子の『花衣ぬぐやまつわる・・・・・・』にも書かれていたはずです。(忘れたけど)この日がこの師弟の初対面の日で、夫の豊次郎が、そんなに俳句に興味をもったのだったら、久女さんに来て教えていただいたらどうだ、とすすめた。
そんなわけで、橋本多佳子は杉田久女について俳句をはじめる。

この項つづく。

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