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2006/09/10

詩人とヴァニティ(2)

昭和4年(1929)、豊次郎の父、料左衛門が亡くなったのを機に、夫婦は大阪の帝塚山に移住、「櫓山荘」時代に別れをつげる。大阪で多佳子が師事するようになったのが山口誓子である。
やがて、豊次郎は結核で寝込むようになり、ついに昭和12年(1937)に急逝する。
このとき多佳子は三十八歳だった。この時代の多佳子を、片山由美子さんはこんな風に点描する。

多佳子にはもともと、男性と渡り合って一歩も引かない強さと能力が備わっていたと思われる。そのことに、夫の庇護の下で何の苦労もなく生活していた間は多佳子自身さえ気づかなかったかもしれないが、四十歳を前に夫と死別し、遺された四人の娘たちを育て上げなければならない立場に立って以来、橋本家の女主人としてその手腕は遺憾なく発揮された。それはあたかも、ジェーン・オースティンの小説にでも登場しそうな聡明な英国婦人を思わせ、亡夫・豊次郎が理想としたイギリスの家庭の中心人物を髣髴させる。
(『12の現代俳人論(下)』p.99)

いや、カッコいいですな。
戦争が激しくなると、空襲を逃れるため、多佳子は奈良のあやめ池に移った。ここで慣れない畑仕事もしたらしい。そして敗戦。
2006_0910_1 戦後の多佳子について、一番よく知られたエピソードは、奈良句会(日吉館句会)だろう。
奈良の登大路の日吉館といえば、名物おかみで知られた旅館。かつて会津八一、亀井勝一郎、和辻哲郎、広津和郎らが常連客であり、熱心な学生や研究者は泊めてもらえるが、遊び気分の観光客は追い返されるようなところであった。(残念ながらいまは廃業して建物も風前の灯といった感じですが。写真は今年7月のもの)
ここで、昭和21年から橋本多佳子は西東三鬼、平畑静塔と合宿形式で、のちのちまで語りつがれるような凄まじい俳句の鍛錬をしたというのでありますね。
このときのメンバーが中心になり、かれらに担ぎ出されるかたちで山口誓子が「天狼」をはじめる。
この「天狼」は、戦中に弾圧された新興俳句運動の系譜につならる性格を有しているとみてよい。「馬酔木」から山口誓子、橋本多佳子、榎本冬一郎、谷津予志といった有力な作家が「天狼」に移り、新興俳句からは西東三鬼、平畑静塔、秋元不死男、高屋窓秋、三谷昭などが参加しているからだ。

あやめ池といい奈良の日吉館といい、わたしにとってはどちらも、まったくご近所と言ってもいい場所なので、このあたりの話は、とても親しみを感じる。

多佳子といえば、おそらく俳句好きの人は次のような句をたちどころにあげるだろう。

  乳母車夏の怒涛によこむきに
  いなびかり北よりすれば北をみる
  雪はげし抱かれて息のつまりしこと
  雄鹿の前吾もあらあらしき息す
  夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

どれもすばらしい情感と気品に満ちている。わたしも大好きな句である。

じつは、これらはすべて前回の冒頭で紹介した第三句集『紅絲』のなかにおさめられているものであり、いくつは日吉句会で得られた佳什である。

そして、前回の振り出しに戻るが、これらの句の批評として、平畑静塔が「虚栄(ヴァニティ)がある」としたという話になるのであります。

くたびれたから、以下次号。

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