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2006年10月

2006/10/31

カワウソ暮らし

2006_1030 梨木香歩さんの『家守綺譚』(新潮文庫)は、以前に紹介した今市子さんの「百鬼夜行抄」のようなお話。
異界とこの世は重なりあっているのだから、死んだ親友が床の間の掛け軸の中から出てきても、「どうした高堂、逝ってしまったのではなかったか」ですんでしまう。カッパがでたり、龍が昇天したり、狐や狸が人を誑かす古き良き時代。
そんな話のなかに、主人公の綿貫征四郎がたまたま行き合ったカワウソに気に入られて、家に鮎を届けられるエピソードがある。
少々の怪異や「もののけ」には寛容な隣家のおかみさんも、カワウソなんかに魅入られてしまってはあぶない、あぶないと主人公を諭すのであります。カワウソに見込まれると、かれが人に化けて魚を釣るのを、一日中、ぼうっと見物させらる。命に別状はなくとも、そんなことに毎日付き合わされてしまっては、人間、生活というものがなりたちませんよ、あなた・・・
そんな忠告にも関わらず、主人公が家に帰ると流しに鮎が数匹おいてあるではないか。ははあ、カワウソの奴、つけてきたのか。

次の朝、いつものように家の前を掃いていたおかみさんに、鮎の話をすると、ひえっと、露骨に禍々しいことを聞いたような顔をされた。
——それで、まだ食べてないんですね。
——はあ、まだです。
——それは不幸中の幸い。きっとカワウソに、同類と見込まれたんですよ。大変だ。またきますよ。取り憑かれたら、一生、カワウソ暮らしだ。
実を云うと、私はこのとき、その「カワウソ暮らし」という語に激しく引かれる気持ちと、おかみさんの云うとおり、大変だ、という気持ちの二つを同時に感じたのだった。

ははは、一生カワウソ暮らし、いいではないか。ねえ。(笑)

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2006/10/27

テディ・ベアの日?

今日、10月27日は「テディ・ベアの日」だとかいう記事を見かけたので、へえと思って調べてみたのだが、要はセオドア・ルーズベルトの誕生日だということなのね。
あの愛らしいクマ人形が、なんでルーズベルトの愛称をつけられたかは、わたしも知らなかったのだが、もともとはワシントン・ポストに載った一コマ漫画がそのきっかけになったらしい。くわしい内容が知りたい方は、こちらの日本語の記事、あるいはこちらの英文の記事をお読みくださいませ。

ただし、読み比べてもらえばわかるように、この両者、状況説明がかなり異なる。

日本語の解説では、大統領が獲物を仕留められない場合に備えて、狩りの主催者側が確保しておいた子グマだったので、そんなものを殺す趣味はないよとルーズベルトが逃がしてやったという内容になっているのに対して、アメリカ人の説明によれば、たまたま怪我を負った若い熊に行き会ったので安楽死させてやった(ordered the mercy killing of the animal. )という内容になっておりますな。

Tr で、その漫画ってどういうものだったのかしら、と探してみたら、便利な世の中でありますね、クリフォード・ベリーマンの「Drawing the Line in Mississippi」が、ちゃんとみつかりました。
この漫画で見る限りは、日本語の解説の状況に見えますが、もちろん、この一コマ漫画に料理される時点で事実がすり替えられたものかもしれませんね。

まあ、どっちが正しいのかわかりませんが、お子様向けには、アメリカ人の解説はちとハードボイルドにすぎるかもね。(笑)

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2006/10/26

Flickr 最近のFavorites

ひさしぶりに、Flickrの「お気に入り」写真など。
なんということなく秋の景色をクリッピングしていることが多いようだ。直近の25枚をモザイクにしてみた。

2006_1026

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2006/10/22

ビルマで死んだ詩人、森川義信

『現代詩との出合い―わが名詩選』(思潮社)を読んでいたら、ひどくこころにひびく詩があった。
詩人の名前は森川義信。鮎川信夫の学生時代の詩仲間であり、もっとも親しい友人だったという。鮎川はふたつの詩作品を紹介しているが、わたしがとくにいいものだと思ったのは「哀歌」という詩である。

 「哀歌」   森川義信

 枝を折るのは誰だろう
 あわただしく飛びたつ影は何であろう
 ふかい吃水のほとりから
 そこここの傷痕から
 ながれるものは流れつくし
 かつてあったままに暮れていった

 いちどゆけばもはや帰れない
 歩みゆくものの遅速に
 思いをひそめ
 思いのかぎりをこめ
 いくたびこの頂に立ったことか
 しずかな推移に照り翳り
 風影はどこまで暮れてゆくのか
 みずからの哀しみを捉えて佇むと
 ふと
 こころの侘しい断面から
 わたしのなかから
 風がおこり
 その風は
 何を貫いて吹くのであろう

この詩は、このまま読んでも、青年の孤独や近い未来の不確かさに対する不安が伝わってきて、どんな時代でも共感を得るものだと思うが、以下の鮎川の文章を併せて読むと、この詩のなかに詠われた哀しみの姿がより鮮明に身に迫ってくるのではないだろうか。

(森川義信は)学校を落第していたので、早めに軍隊にとられ、仏印進駐からビルマへまわり、昭和十七年八月十三日ミイートキーナで戦病死してしまった。故郷丸亀の役場に委託していったという簡単な走り書きの遺書が、母親アサさんの手紙と一緒にとどいた。私の入隊も一ヵ月後に迫っていたので、感無量であった。もう一人のM、茂木徳重が、私の留守中、柏木の家に立寄り、森川の死を聞き、声を出して泣いたそうである。彼も、

 僕たち ひとつの精神族
 明日 よい時代がくるであろうか?
 何のあたりから僕らの希みは再び胎むであろうか?

と便箋に書き残していったが、けっきょく森川のあとを追ってビルマで戦死してしまった。

鮎川はミイートキーナと表記しているが、古山高麗雄の戦争三部作のひとつ『フーコン戦記』などには、ミイトキーナの攻防戦、そして壊滅として名前があがっていたかと思う。(ただしミイトキーナ陥落は昭和19年7月だから、森川が戦病死したのはこの戦闘ではない)
たまたま昨日に続いてビルマにまつわる話題になった。
合掌。

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2006/10/21

ビルマに響くニッポン軍歌

『ビルマ—「発展」のなかの人びと』田辺寿夫(岩波新書/1996)は10年前に出版された本だから、この間に変化した状況もたくさんあると思うが、現在のビルマの成り立ちのあらましを知る上ではコンパクトにまとまって分かり易い内容であると思った。
(ここではわざとミャンマー連邦という我が国の新聞、放送局などが用いる名称を使わない)

本書の出版以降の大きな出来事としては、1997年7月のASEAN加盟やヤンゴン(ラングーン)からピンマナへの首都移転などがあるようだが、基本的な政体(国軍による独裁政権)は実質的に変化していないようだし、アウンサンスーチーの自宅軟禁の状態も一進一退を繰り返すもののこれまた実質的には、本書で説明されていることとあまり大きな変化はないように思える。

先日、読んだ エイミ・タンの『Saving Fish From Drowning』のなかに、カレン族の隠れ里の子供達や村人に手足を失った人々がたくさんいる理由として、SLORC(State Law and Order Restration Council/国家法秩序回復評議会:軍政の最高機関)の軍部隊がかれらを徴発して少数民族との戦闘地域に連行し、銃で脅して地雷原を先導させたからだというような記述があったけれど、『ビルマ—「発展」のなかの人びと』のなかにも、このような事実があったことが記されている。本書ではこのような軍による民間人の徴発を「ポーター狩り」と人々は呼んで恐れていることが書かれている。男の子には地雷原を歩かせ、女の子は従軍慰安婦にする、と聞いて、もちろんわれわれは顔をしかめるわけだが、これはこの地域を支配下においた日本軍がやっていたことを真似ているだけだと言われると、心が重くなる。まったく参謀本部の低能どもはバカな作戦立案で百年国を汚しやがった。

ビルマ国軍の母体となったのは1941年にバンコクで結成されたビルマ独立義勇軍(BIA)である。この中核になったのはアウンサンスーチーの父であるアウンサンをリーダーとする「三十人志士」。この時代の独立運動はイギリス支配からの独立という意味である。そしてこの時期は、もちろん日中戦争のさなかであり、重慶の蒋介石政権への支援ルートがビルマ・ロード(ヤンゴンからビルマを縦断し中国の雲南省昆明を経て重慶にいたる輸送ルート)であったことから、日本の参謀本部はこのBIAと接触し一時的に協力関係に入る。担当したのは鈴木敬司大佐の「南機関」という諜報組織だった。「三十人志士」を密出国させて、海南島や台湾の玉里で軍事訓練してからビルマに送り返した。
まあ、その後、インパール作戦などという大本営のエリート阿呆が立案した軍事作戦が大失敗に終わってから、歴史的にはいくつか曲折はあるのだが、そこは端折って、いずれにしても、ビルマ国軍と大日本帝国陸軍はその出発点から、かなりその精神を同じくしているらしい。軍だけが国のため、国民のために血を流し、国の命運を握っているという自負とエリート意識・・・

てなわけで、キンペイタインという言葉がいまでもビルマ国語辞典には載っている。なにかと思えば「憲兵隊」なんだそうだ。
「愛国行進曲」は歌詞こそビルマ語になっているが、いまでもビルマ国軍の軍歌だそうであります。ビルマに行って、「見よ東海の空明けて、旭日高く輝けば」のメロディを聞いたらびっくりするのは、しかし、もうわたしたち、父親が日本兵であった世代くらいまでかもしれぬ。

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2006/10/15

マキューアン『贖罪』

イアン・マキューアンについては以前『愛の続き』と『アムステルダム』を読んで、これはなかなかいい作家だなと思っていた。
しかし、わたしの小説の趣味からすると、ちょっとシニカルに過ぎるのと、技巧に走っているような印象があって、それほど高い評価はしていなかった。たとえば『アムステルダム』は1998年にブッカー賞をとっているのだが、まあそれほどの小説でもないわな、と読後に思ったような記憶がある。

2006_1015 しかし、今回読んだ『贖罪』は、そういう作家に対する先入観を吹き飛ばすような素晴らしい作品だった。こういう小説は大好きだなあ。
ちなみにこの作品、2001年のブッカー賞の最終候補になりながら、惜しくも受賞を逃している。そのときの受賞作はピーター・ケアリーの『ケリー・ギャングの真実の歴史』である。なんだか、うーんという感じなのだが(つまりケリー・ギャングも捨てがたいからね)、過去にもブッカー賞はふたつの作品を選んだこともあるのだから、二作同時受賞でも、これはきっと文句は出なかったのじゃないかしら。それくらい、この『贖罪』、わたしは買うのだけどなあ。
少なくとも、ブッカー賞受賞の『アムステルダム』よりは数等いいと思う。まあこういう賞というのは、運もあるし、その年の競合作の出来や、その年の選考委員の構成にもよるわけだから(ブッカー賞の選考委員は毎年変わるんだそうです)、あまり受賞作かどうかにこだわるのは意味がないのでしょう。

さて中身の紹介は、ストーリーに触れると読むのがつまらなくなっちゃうからやめておくけれど、物語は1935年の初夏のイギリスの田舎の邸からはじまります。この年はヒットラーがヴェルサイユ条約の破棄を宣言して本格的な戦争の準備をはじめた頃にあたりますので、のんびりしたアッパー・ミドルクラスの田園生活にも、戦争の遠い影はさしています。(そういう意味ではいまの日本にも似ている)
小説の半分くらいまでは、この1935年のある一日が語られるのですが、わたしはここまでくるのがちょっとつらかった。というのは、作家は各章に一人の視点を選んで、その人物の意識の流れを、これでもかとばかりに緻密に書いていくのですが、それによって表面的にはなんということもない、平和でたわいもない、むしろ善意に満ちたといってもいい田園の光景が、すこしづつある破局にむかって後戻りできない過程を積み上げていることが読者にはわかるのですね。もう、いたたまれないような緊張感が高まっていくのであります。

「うわ、そんなの耐えられへん」などとどうぞおっしゃらないでください。どうぞご安心ください。このあたりまでのじわじわと胃の痛くなるような少々マゾヒスティックな部分をクリアすると(あ、もともとそういうのが好きな方はこの部分もたまらない快感でありましょう(笑))あとは、もう、頁をめくるのももどかしい、明日の仕事なんぞくそくらえ、徹夜してでもこのあとどうなるのか知らずにはおれない、というばかりの強烈なドライブがかかります。ハードカバーで450ページほどの、ちょっと目にはとっつきにくい本ですが、いやこれはもう一気読みのたぐいですね。

ところで本書は、わたしのような小説好きの読者にとっては、まず第一義的に美しいラブストーリーであります。ストーリーは単純で力強く、登場人物の姿は、気高い者も卑劣な者も、同じようにくっきりとその像を結ぶことができます。つまり読んでいて面白い。これは小説にとってなにより大切な要素ですね。しかし、本書はそれだけの小説ではない。

それはそうですよね、なにより先端的な現代小説であるためには、19世紀のロマン主義やら20世紀の意識の流れやらを踏まえたうえで、さらに新しい小説としての仕掛けを提示する必要があるのですから。

わたしのみるところ、本書は題名の通り、犯された罪に対して時を遡らせることのできない人間がいかにその罪を贖うことができるのかという物語なのですが、この主題に寄り添うかたちで、そもそも小説とは何であるかが語られる、小説をテーマにした小説という一種のメタ小説なのですね。

自分が作りあげたもののどこがブライオニーを興奮させたかといえば、それは作品のもつ純粋な幾何学美と本質的な不確定性であって、彼女の考えでは、そうしたものこそが現代的感性の反映なのだった。明快な解答の時代は終わったのだ。人物(キャラクター)と筋書(プロット)の時代も。日記にはキャラクター・スケッチもあったが、実のところブライオニーはもはやキャラクターを信じていなかった。それは十九世紀に属する古風な仕掛けだった。キャラクターというコンセプトそのものの根底にある間違いを、現代の心理学は暴露してみせたのである。プロットというのも、さびついて歯車が動かなくなった機械のようなものだ。
現代の小説家がキャラクターやプロットを書けないのは、現代の作曲家がモーツァルトの交響曲を書けないのと同じことだ。ブライオニーが興味を抱くのは思考・知覚・感覚であり、時間のなかを河のように流れてゆく意識であって、河の絶えざる流れを、その流れを豊かさにする幾多の支流を、そしてまた流れをそらす障害物をいかにして表すかが問題なのだった。夏の朝の透明な光を、窓辺に立った子供の感覚を、ツバメが水の上で曲線を描いたりすいと落ちたりするさまを再現できさえすればよいのだ。未来の小説は過去とは異なったものになるに違いない。
ヴァージニア・ウルフの『波』を三度読んだブライオニーは、いまや人間性そのものに大変革がもたらされており、小説だけが――新しい種類の小説だけが――その変革の本質をとらえることができるのだと考えていた。人間の精神に入りこんで、その働きを、そして外界からの働きかけを言葉に表わすこと、それも幾何学的バランスのとれた形式で表現すること――それができれば、芸術家としての勝利なのだ。
p.330

ここで注意が必要なのはこの引用で語られている「現代」とは、いま現在わたしたちが生きているこの21世紀の現代ではなく第二次世界大戦前後の時代だということですが、それについてはいまここでくわしく考える必要はないでしょう。大事なことは、このような小説の技法についての記述がこの小説のなかに巧みに溶け込んでいることです。
こういう記述もあります。

あの場面は三度にわたって三つの視点から描くことができるはずだ。ブライオニーが感じたのは自由を目の前にした人間の興奮であり、善や悪やヒーローと悪役の面倒なもつれあいから解放された人間の興奮だった。三人の誰も悪人ではなく、かといってとりたてて善人でもない。決まりをつける必要などないのだ。教訓の必要などないのだ。ただひたすら、自分の精神と同じく生き生きとした個々の人間精神が、他人の精神もやはり生きているという命題と取り組むさまを示せばいいのだ。人間を不幸にするのは邪悪さや陰謀だけではなく、錯誤や誤解が不幸を生むこともあり、そして何よりも、他人も自分と同じリアルであるという単純な事実を理解しそこねるからこそ人間の不幸は生まれるのだ。人々の個々の精神に分け入り、それらが同等の価値を持っていることを示せるのは物語だけなのだ。物語が持つべき教訓はその点に尽きるのだ。
p.50

世界の認識についての哲学的な命題をここで開陳するほどの知識はもちろんわたしにはありませんが、物語とはなにか、なぜわたしたちは「真実」でもない物語をかくも希求するのであるかということは、すべての小説愛好家にとっても大切な問いではないかという気もいたします。本書は力強く美しいラブストーリーであると同時に、小説をテーマにしたメタ小説でもある。そして、この両立の非常に困難な課題に見事に成功した現代小説の傑作のひとつとして本書を覚えておこうとわたしは思っています。

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2006/10/10

苺どろぼう、夏蜜柑どろぼう

角川「短歌」10月号の特集「永田和宏を探検する」に馬場あき子さんが「素顔でつきあえる人」という一文を寄稿しておられる。
むかし馬場さんが多摩丘陵の端っこに引っ越したとき、若き永田和宏、河野裕子夫婦や大和書房の佐野和恵、講談社の鷲尾賢也、下村道子、教え子の田村広志などが手伝いにきてくれた。とりあえず半片付けのリビングに車座になって楽しく酒を飲んだ。

家は多摩丘陵の末端の丘にたった二軒建っていたわけで、あたりはほぼ草の原。五月の闇はとても濃く、一同がやがやと帰って行った後姿はたちまち見えなくなってしまった。あとでわかったことだが、山を下ると苺畑がある。微醺を帯びた連中はそこにもぐりこんで苺を食べたという噂である。その中にあの長身の永田さんがいたかと思うとじつに愉快だ。どうせみんな面白がって一つか二つつまんだくらいだろうが、若いというのはいいもので、今からは想像できないその姿を想像するのは何とも楽しい。

同じような話は、俳句の方にもあって、こっちの意外なドロボーの一人はこともあろうに橋本多佳子である。西東三鬼が昭和34年5月号の「天狼」に書いた「どろぼう」というエッセイから。ことはやはり五月のことである。横山白虹、岡部麦山子両名に招かれて三鬼と多佳子は九州に赴き、小倉、博多、田川で講演や句会に出た。その慰労会と称して、こんどは海峡を渡って山口県の川棚温泉で歓待を受けた。宴もたけなわ、話は麦山子のえんどう豆どろぼう、鶏どろぼうの武勇伝になって一同、げらげら笑い転げているうちに、麦山子が緊急動議を出した。きみらに少し真の反俗精神を教えてやらにゃならん、この近くの禅寺に手頃な夏蜜柑があった。あれをこれから採集に出かけよう。

先ずその時のいでたちは、男はゆかたの尻つぱしより、頬かむり。女(すなわち橋本さん)は、手拭で伊達な吹き流し。まんまと寺苑に忍び入り、ましらのごとく木に登る。手あたり次第に捻り取るは、夜目にも黄金の夏蜜柑。垣の外ではをんな賊、ドンゴロス袋に詰め込んで、ソレ引揚げろと親分の下知を合図に逃げ出した。甚だ薄気味悪かった。
その翌朝、麦さん平然として、昨夜の夏蜜柑をお住持に土産に持つてゆくという。これにはびつくりしたが、実は戦時中、麦さんはその寺に疎開していて、坊さんとは親交がある由。それを伏せての昨夜のいたづらであつた。

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2006/10/08

シャンプーの恐怖

ひとりで夜を過ごすときには、あまり怖い映画みたいなものは見ないほうがいい。
でも、そういう夜にかぎって、なぜか山村貞子がずるずる這い出してくるような映画をみていたりするから不思議。
なにがいやかといって、そのあと風呂に入って髪を洗うのがいちばんいやだ。
シャンプーしている間はいやでも目を閉じる。
すると、ほら、背後に誰かの気配。いや、気のせいだって、ホントお前はこわがりなんだから、はっはは、とゆとりを装って自分に言い聞かせるのだけれど、「絶対、自分のほかに誰かバスルームにいるってば」という感覚は消えないのであります。そういう感覚を覚えながら目を瞑ってシャンプーするのは、ホント怖い。恐怖映画を見た後の醍醐味はこれにつきるのではなかろうか。(笑)

しかし、どうもそういう感覚は、もしかすると科学的に裏付けられるものかもしれない。ニューヨークタイムズのサイエンス・セクションにそんな内容の記事があった。

Out-of-Body Experience? Your Brain Is to Blame
By SANDRA BLAKESLEE

最近の研究によれば、脳の「角回(angular gyrus )」と呼ばれる部分に弱い電流を流すと、誰かが自分の背後にいて自分の動きを妨げようとしているという感覚が生じたり、別の被験者の例では、一種の幽体離脱のように自分がふわりと天井に浮き上がって自分の体を見下ろしているという感覚が生まれることがわかっているそうであります。
もともとは癲癇手術の前に、いったい脳のどの部分がその患者の発作を引き起こしているかをピンポイントで探るために何十本も電極を刺して、どんな感じがするかをヒアリングしたのがこの研究のとっかかりだそうで。
こういう霊感体験(ghostly experiences )どうも、わたしたちが自分の体の身体感覚の情報をきちんと統合できないところから生じている可能性があるというのですね。
わたしたちの身体感覚、つまり自分の躰がリアルタイムで、どういう空間を占めていて、どういう位置関係にあるかなんてのは、視覚、聴覚などのほかに、たとえば皮膚の感覚器官が受ける圧迫、痛み、熱、冷たさなどの感覚情報や、関節や腱や骨格からの情報として脳に集められる。聴覚器官は平衡感覚を司り、心臓や肝臓や消化器のセンサーは感情の状態を示している、ト。

そして、背後に誰かがいるという気持ちの悪い感覚は、自分自身の躰をあなたの脳がちょっとずれて二重に感じている結果である、ということらしい。もちろん、こういう感覚は病理学的な症例としても報告されているわけですが、かならずしも脳の器質的な疾患とかいうレベルではなくとも、たとえば登山家やヨットの単独航海者ではよく知られたことであるというのですね。なるほどね、たしかにヨットの単独航海者なんてのは、シャンプーするときの感覚からなんとなくわかるような気もするなあ。

え、あなた、これからお風呂ですか?それは、それは。(笑)

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2006/10/04

今市子の百鬼夜行抄と折口信夫

20061004 今市子さんの「百鬼夜行抄」というシリーズがある。
ご存知の方は同意してくださると思うのだが、漫然と読んでいると途中でわけがわからなくなるので、注意深く意識を集中させて読んでいく必要がある。普通の漫画なら、数十分もあれば一、二冊は読めるものだが、この作品はたった一冊読むにも結構時間がかかったりするのであります。クールである。

主人公は飯嶋律クンという美青年で、かれは怪奇幻想小説家として大家であった祖父の血を引いて、お気の毒にも、見えないでいいものがはっきり見えてしまうたちである。孫の身を憐れんだ祖父は、律が幼いときに一種の守護神として青嵐という妖魔をつけてやるのだが(実は律の父がある事情で死んだのでその躰に入り込んでいるという設定)、こいつが味方なんだか敵なんだかわからんような凶暴でアブナイ奴。一話完結ながら、ほかにもヘンな妖怪の家来ができたり、宿敵ができたりという展開でシリーズ物の面白さも味わえる。
今市子さんという作家がどういう資料をつかっておられるかはよくわからないのだが、民俗学についてはきちんと勉強しておられるようにも思われます。
たとえば、このシリーズの一番はじめのオハナシは律がまだごくごく幼いときの祖父の通夜のエピソードなんですが、ここで律は男の子であるにも関わらず、祖父の命令で女の子の装いで育てられていることが語られています。赤い着物に長い髪。

じつは最近、吉本隆明の『際限のない詩魂—わが出会いの詩人たち』(思潮社)という本を読んでいたら、折口信夫についての文章でこんな詩がとりあげてあった。

 よき衣を 我は常に著
  赤き帯 高く結びて、
 をみな子の如く装ひ ある我を
  子らは嫌ひて
  年おなじ同年輩の輩も
  爪弾きしつゝ より来ず。
              「幼き春」
(注:同年輩は「ヨチコ」、輩は「ドチ」)

これはなにかで読んだような気もするのですが、折口信夫も幼い頃は赤い着物を着せられて女の子のような装いをさせられていたようです。
このあたりは、どうも偶然ではなくて、やっぱり作者は資料の渉猟はやっている様子。
だから面白いのだろう。

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2006/10/03

capote クラシックな傑作

あるイギリス人がニューヨークへ行った。どのパーティに出ても、トルーマン・カポーティの『冷血』の噂でもちきりである。みんながあまりすごいすごいというので、どこへ行けば売っているかと訊いたら、まだ出ていないという。書いている最中なんですね。
「どうしてあなたは出ていない本を褒めるのか」と、あるパーティで『冷血』の話をしている女の子に言ったら、「あなたはどうして読んでもいない小説の悪口をいうのか」と言われた。(笑)

2006_1003これは、残念ながら何の本から抜いたのか書いていないのだが、対談集かなにかの丸谷才一さんの発言。
映画「カポーティ」を見ながら、このエピソードを思い出した。映画の中でもニューヨークのスノビッシュなパーティ風景が何度か出て来るが、いかにもありそうな話で、60年代アメリカの文芸愛好家連中のちょっと気取った当時の雰囲気をよく伝えているのだろう。

ここで、急いで恥をしのんで白状しておくが、わたしはカポーティの小説を一冊も読んだことがない。「ティファニーで朝食を」にいたっては映画さえ見たことがない。たまたまだと思うのだけれど、この作家はどうも食指が動かなかったのですね。
映画「カポーティ」を見るまで、この作家がカミングアウトしたゲイであったことも知らなかったのだが、なんとなくわたしが読まずぎらいを決め込む作家や詩人は、ゲイであることが多いのはなぜだろう。一度、よく考えてみたほうがいいかなあ。(笑)

さて映画「カポーティ」は前評判に違わぬよい出来で、こういう映画は大好きであります。クルマやファッションやインテリアなどが、重厚で渋くて見ていてため息がでるくらい絵になる。

ところで、これまたこの映画を見るまで知らなかったことだが、『アラバマ物語』の作者であるネル・ハーバー・リー(映画ではキャサリン・キーナーが好演)は、カポーティのアラバマ時代の幼なじみだったんだそうです。へえ。
いやじつは、映画の「アラバマ物語」もわたしは見ていないので、つくづく、カポーティには縁がなかったということになる。(笑)

でもせっかくだから、二、三冊カポーティは英語で読んでみるとするかな。

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2006/10/02

乱交の生物学

2006_1002 烏有亭日乗さんのところで、ティム・バークヘッドの『乱交の生物学』(新思索社)という本のことを知り、早速読んでみた。たいへん面白かった。
ちゃんとした内容は、烏有亭日乗さんの書評をお読みいただくとして、わたしのほうはこの本のどうでもいいエピソードからいくつか気楽なヨタ話など。

その一。
メスにとって卵子の受精を確実にするためのひとつの戦略は精子を貯蔵するという方法である。たとえば生息密度が低くて、オスとメスがちょうどいいタイミングで出会う確率があんまり高くないような種は、とにかく機会があればどんな相手であっても交尾してその精子を繁殖に都合のいいときまで貯蔵しておくというのは合理的なやりかたである。爬虫類はこういう精子貯蔵能力にたけている。ヘビには2年から3年の間精子を貯蔵する種がいくつかみられる。これに対してヒトはこれほどまでの精子の貯蔵能力はもちろんない。(でなければオギノ式はありえないですわな)
さて本題はここから。
あるとき著者はさまざな動物の精子貯蔵についての一般記事を書いたというのですね。そのなかでヒトの精子貯蔵期間の短さについても言及した。記事が掲載されてしばらくして著者のもとに手紙がきた。それは、北海油田で働いている男性からのもので、それによるとかれは仕事柄、いちど家を出ると三ヶ月は帰れない。しかるに、前回の勤務から帰ると妻が妊娠二ヶ月であったというのであります。かれは非常に信心深い人間なので、これは処女懐胎のたぐいか、あるいはヒトにおける精子貯蔵の新記録のどちらかだと思うと書いてあった。著者は、この男ただの変人と思って、手紙を投げ捨てた。翌日、今度はその男の妻と名乗る女から電話が入った。彼女は夫が手紙を事前に見せた様子を語って、すすり泣きをはじめた。もちろん、ヒトにおける精子貯蔵の新記録とか奇跡なんてわけないじゃないですか、ただ夫がいなくて寂しかったから・・・
著者は、これはまずい、こんな人間ドラマに巻き込まれてしまってはかなわないと、あせってその日は一日落ちつかなった。まあ、そうでしょうね。しかし、なんのことはない。すべては著者が指導教官を務める院生どものいたずらであった。
ははは、やるなあ、学生諸君。

その二。
睾丸(testis テスティス)の語源は誓い(testament テスタメント)あるいは証言という言葉と同じ語源をもっている。
誓いをたてるときにキンタマを握るのがローマの習慣であったから。(笑)
これほんとかしら。塩野七生の「ローマ人」シリーズにもそんな「大事」な話はなかったぞ。
裁判やら、公聴会やら、結婚式やらで、聖書に手を置いて誓うかわりに、キンタマ握りながら誓うのは絵柄としてなんかいいかも。あ、でもそうすると女はどうするんだろ。(笑)

その三。
精子と卵子を比較すると、ほとんどすべての種であきらかに精子の方が小さい。しかも、個体の生涯で考えると、ほとんど何兆個という精子をつくる種(たとえばヒト)にとっては精子の生産コストは無限に小さいはず。しかし、一方で精子は数百万個から数億個の単位で射精されたり、精包というかたちでパッケージにされて提供されるから、精子生産のエネルギーコストはけっこう馬鹿にできないかもしれない。というわけで、行動生態学者と呼ばれる人々は、オスが精子生産にどれほどのエネルギーをつぎ込んでいるのか(つまりどれくらい他のことを犠牲にしているのか)に関心を抱き続けてきた、と著者は説明する。
そして、精子の生産コストが決して安くないかもしれんよと次のように言うのであります。

精子が無限に生産できコストも安いという仮定は間違っている。(中略)少なくともすべての男性が知っているように、精子には限界がないわけではないということだ。なぜなら射精の後には回復期間をとらざるを得ないからである。回復期間はヒツジやチンパンジーのようないくつかの種においては非常に短いようだが、それでも彼らとて限界はあるのだ
ある一頭の雄ヒツジに一日五〇頭以上の雌のヒツジをあてがってみても、そのうち何頭かは妊娠しない。

ここでわたしは(食事中だったのだが)吹き出した。
いいですか、よくお読みいただきたい。最後のとこです。「何頭かは妊娠しない」ですよ。オスヒツジ君は音をあげたとか、終わりのほうはもういやになって止めたとか、やりたくてもできなくなっちゃった、というのではないことにご注目。
いやはや・・・・

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2006/10/01

9月に読んだ本

『シュガータイム』小川洋子(中公文庫/2000)
『妊娠カレンダー』小川洋子(文春文庫/2004)
『12の現代俳人論(上)』長谷川櫂・櫂未知子・小西昭夫・小林貴子・中岡毅雄・西村和子(角川書店/2005)
『先生はえらい』内田樹(ちくまプリマー新書/2005)
『加藤孝男集    セレクション歌人 (13)』(邑書林/2005)
『12の現代俳人論(下)』正木ゆう子・筑紫磐井・片山由美子・大屋達治・仙田洋子・仁平勝(角川書店/2005)
『閑人侃語』一海知義(藤原書店/2002)
『日本の歴史をよみなおす』網野善彦(筑摩書房/1991)
『四十一炮(上・下)』莫言/吉田富夫訳(中央公論新社/2006)
『Saving Fish from Drowning』Amy Tan(Random House/2006)
『三島由紀夫の二・二六事件』松本健一(文春新書/2005)
『セレクション俳人 16 行方克巳集』(邑書林/2006)

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9月に見た映画

ドア・イン・ザ・フロア(2004/アメリカ)
監督・脚本: トッド・ウィリアムズ
出演: キム・ベイシンガー、ジェフ・ブリッジス、ジョン・フォスター、エル・ファニング、ミミ・ロジャース

博士の愛した数式(2005)
監督:小泉堯史
出演:寺尾聰 、深津絵里 、齋藤隆成 、吉岡秀隆 、浅丘ルリ子

ALWAYS 三丁目の夕日(2005)
監督:山崎貴
出演:吉岡秀隆、薬師丸ひろ子、堤真一、小雪、堀北真希、三浦友和、もたいまさこ

ウィスキー(2004/ウルグアイ)
監督:フアン・パブロ・レベージャ、パブロ・ストール
出演:アンドレス・パソス、ミレージャ・パスクアル、ホルヘ・ボラーニ

ギャラクシー・クエスト(1999/アメリカ)
監督:ディーン・パリソット
出演:ティム・アレン、シガーニー・ウィーバー、アラン・リックマン、トニー・シャルーブ

プライドと偏見(2005/イギリス)
監督:ジョー・ライト
出演:キーラ・ナイトレイ、マシュー・マクファディン、ドナルド・サザーランド、ジュディ・デンチ

シン・シティ(2005/アメリカ)
監督:フランク・ミラー、ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ    
出演:ブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、クライヴ・オーウェン、ジェシカ・アルバ、ベニチオ・デル・トロ、イライジャ・ウッド

丹下左膳 百万両の壺
監督:津田豊滋
出演:豊川悦司 、和久井映見 、野村宏伸 、麻生久美子

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