ビルマで死んだ詩人、森川義信
『現代詩との出合い―わが名詩選』(思潮社)を読んでいたら、ひどくこころにひびく詩があった。
詩人の名前は森川義信。鮎川信夫の学生時代の詩仲間であり、もっとも親しい友人だったという。鮎川はふたつの詩作品を紹介しているが、わたしがとくにいいものだと思ったのは「哀歌」という詩である。
「哀歌」 森川義信
枝を折るのは誰だろう
あわただしく飛びたつ影は何であろう
ふかい吃水のほとりから
そこここの傷痕から
ながれるものは流れつくし
かつてあったままに暮れていった
いちどゆけばもはや帰れない
歩みゆくものの遅速に
思いをひそめ
思いのかぎりをこめ
いくたびこの頂に立ったことか
しずかな推移に照り翳り
風影はどこまで暮れてゆくのか
みずからの哀しみを捉えて佇むと
ふと
こころの侘しい断面から
わたしのなかから
風がおこり
その風は
何を貫いて吹くのであろう
この詩は、このまま読んでも、青年の孤独や近い未来の不確かさに対する不安が伝わってきて、どんな時代でも共感を得るものだと思うが、以下の鮎川の文章を併せて読むと、この詩のなかに詠われた哀しみの姿がより鮮明に身に迫ってくるのではないだろうか。
(森川義信は)学校を落第していたので、早めに軍隊にとられ、仏印進駐からビルマへまわり、昭和十七年八月十三日ミイートキーナで戦病死してしまった。故郷丸亀の役場に委託していったという簡単な走り書きの遺書が、母親アサさんの手紙と一緒にとどいた。私の入隊も一ヵ月後に迫っていたので、感無量であった。もう一人のM、茂木徳重が、私の留守中、柏木の家に立寄り、森川の死を聞き、声を出して泣いたそうである。彼も、
僕たち ひとつの精神族
明日 よい時代がくるであろうか?
何のあたりから僕らの希みは再び胎むであろうか?と便箋に書き残していったが、けっきょく森川のあとを追ってビルマで戦死してしまった。
鮎川はミイートキーナと表記しているが、古山高麗雄の戦争三部作のひとつ『フーコン戦記』などには、ミイトキーナの攻防戦、そして壊滅として名前があがっていたかと思う。(ただしミイトキーナ陥落は昭和19年7月だから、森川が戦病死したのはこの戦闘ではない)
たまたま昨日に続いてビルマにまつわる話題になった。
合掌。
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コメント
貴記事で思い出した事があり、自分ところに記事を書かせて頂ました。リンクを付けさせて戴きましたので、よしなに。
投稿: renqing | 2006/11/01 03:53
renqing さん
とても興味深いお話を教えていただきありがとうございました。
少し前に読んだ吉本隆明の『際限のない詩魂』(思潮社)にも、鮎川のことがこんな風に書かれていました。
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わたしは晩年の一、二年をのぞいて、鮎川信夫とよく接触した方だったが、ついにかれが妻子をもっていたのかどうか、愛人とか恋人とかが存在していたのかどうか、まったく不精確にしか推測できていなかった。鮎川信夫の最初の恋人はこの人で、最後の恋人はこの人でと、推測していた人は、ことごとくつがっていた。これはかれの死後に愕然としたことのひとつだった。
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う〜ん、詩人はやはり恋人がたくさんいなければ格好がつかないんだなあ。(笑)
投稿: かわうそ亭 | 2006/11/01 17:52
詩人にとって、恋とは、「する」ものではなくて、不意に逃れようも無く「襲いかかって」くるものなのでしょう。私のような朴念仁には、与り知らない世界のことではあります。
投稿: renqing | 2006/11/02 03:28