マキューアン『贖罪』
イアン・マキューアンについては以前『愛の続き』と『アムステルダム』を読んで、これはなかなかいい作家だなと思っていた。
しかし、わたしの小説の趣味からすると、ちょっとシニカルに過ぎるのと、技巧に走っているような印象があって、それほど高い評価はしていなかった。たとえば『アムステルダム』は1998年にブッカー賞をとっているのだが、まあそれほどの小説でもないわな、と読後に思ったような記憶がある。
しかし、今回読んだ『贖罪』は、そういう作家に対する先入観を吹き飛ばすような素晴らしい作品だった。こういう小説は大好きだなあ。
ちなみにこの作品、2001年のブッカー賞の最終候補になりながら、惜しくも受賞を逃している。そのときの受賞作はピーター・ケアリーの『ケリー・ギャングの真実の歴史』である。なんだか、うーんという感じなのだが(つまりケリー・ギャングも捨てがたいからね)、過去にもブッカー賞はふたつの作品を選んだこともあるのだから、二作同時受賞でも、これはきっと文句は出なかったのじゃないかしら。それくらい、この『贖罪』、わたしは買うのだけどなあ。
少なくとも、ブッカー賞受賞の『アムステルダム』よりは数等いいと思う。まあこういう賞というのは、運もあるし、その年の競合作の出来や、その年の選考委員の構成にもよるわけだから(ブッカー賞の選考委員は毎年変わるんだそうです)、あまり受賞作かどうかにこだわるのは意味がないのでしょう。
さて中身の紹介は、ストーリーに触れると読むのがつまらなくなっちゃうからやめておくけれど、物語は1935年の初夏のイギリスの田舎の邸からはじまります。この年はヒットラーがヴェルサイユ条約の破棄を宣言して本格的な戦争の準備をはじめた頃にあたりますので、のんびりしたアッパー・ミドルクラスの田園生活にも、戦争の遠い影はさしています。(そういう意味ではいまの日本にも似ている)
小説の半分くらいまでは、この1935年のある一日が語られるのですが、わたしはここまでくるのがちょっとつらかった。というのは、作家は各章に一人の視点を選んで、その人物の意識の流れを、これでもかとばかりに緻密に書いていくのですが、それによって表面的にはなんということもない、平和でたわいもない、むしろ善意に満ちたといってもいい田園の光景が、すこしづつある破局にむかって後戻りできない過程を積み上げていることが読者にはわかるのですね。もう、いたたまれないような緊張感が高まっていくのであります。
「うわ、そんなの耐えられへん」などとどうぞおっしゃらないでください。どうぞご安心ください。このあたりまでのじわじわと胃の痛くなるような少々マゾヒスティックな部分をクリアすると(あ、もともとそういうのが好きな方はこの部分もたまらない快感でありましょう(笑))あとは、もう、頁をめくるのももどかしい、明日の仕事なんぞくそくらえ、徹夜してでもこのあとどうなるのか知らずにはおれない、というばかりの強烈なドライブがかかります。ハードカバーで450ページほどの、ちょっと目にはとっつきにくい本ですが、いやこれはもう一気読みのたぐいですね。
ところで本書は、わたしのような小説好きの読者にとっては、まず第一義的に美しいラブストーリーであります。ストーリーは単純で力強く、登場人物の姿は、気高い者も卑劣な者も、同じようにくっきりとその像を結ぶことができます。つまり読んでいて面白い。これは小説にとってなにより大切な要素ですね。しかし、本書はそれだけの小説ではない。
それはそうですよね、なにより先端的な現代小説であるためには、19世紀のロマン主義やら20世紀の意識の流れやらを踏まえたうえで、さらに新しい小説としての仕掛けを提示する必要があるのですから。
わたしのみるところ、本書は題名の通り、犯された罪に対して時を遡らせることのできない人間がいかにその罪を贖うことができるのかという物語なのですが、この主題に寄り添うかたちで、そもそも小説とは何であるかが語られる、小説をテーマにした小説という一種のメタ小説なのですね。
自分が作りあげたもののどこがブライオニーを興奮させたかといえば、それは作品のもつ純粋な幾何学美と本質的な不確定性であって、彼女の考えでは、そうしたものこそが現代的感性の反映なのだった。明快な解答の時代は終わったのだ。人物(キャラクター)と筋書(プロット)の時代も。日記にはキャラクター・スケッチもあったが、実のところブライオニーはもはやキャラクターを信じていなかった。それは十九世紀に属する古風な仕掛けだった。キャラクターというコンセプトそのものの根底にある間違いを、現代の心理学は暴露してみせたのである。プロットというのも、さびついて歯車が動かなくなった機械のようなものだ。
現代の小説家がキャラクターやプロットを書けないのは、現代の作曲家がモーツァルトの交響曲を書けないのと同じことだ。ブライオニーが興味を抱くのは思考・知覚・感覚であり、時間のなかを河のように流れてゆく意識であって、河の絶えざる流れを、その流れを豊かさにする幾多の支流を、そしてまた流れをそらす障害物をいかにして表すかが問題なのだった。夏の朝の透明な光を、窓辺に立った子供の感覚を、ツバメが水の上で曲線を描いたりすいと落ちたりするさまを再現できさえすればよいのだ。未来の小説は過去とは異なったものになるに違いない。
ヴァージニア・ウルフの『波』を三度読んだブライオニーは、いまや人間性そのものに大変革がもたらされており、小説だけが――新しい種類の小説だけが――その変革の本質をとらえることができるのだと考えていた。人間の精神に入りこんで、その働きを、そして外界からの働きかけを言葉に表わすこと、それも幾何学的バランスのとれた形式で表現すること――それができれば、芸術家としての勝利なのだ。
p.330
ここで注意が必要なのはこの引用で語られている「現代」とは、いま現在わたしたちが生きているこの21世紀の現代ではなく第二次世界大戦前後の時代だということですが、それについてはいまここでくわしく考える必要はないでしょう。大事なことは、このような小説の技法についての記述がこの小説のなかに巧みに溶け込んでいることです。
こういう記述もあります。
あの場面は三度にわたって三つの視点から描くことができるはずだ。ブライオニーが感じたのは自由を目の前にした人間の興奮であり、善や悪やヒーローと悪役の面倒なもつれあいから解放された人間の興奮だった。三人の誰も悪人ではなく、かといってとりたてて善人でもない。決まりをつける必要などないのだ。教訓の必要などないのだ。ただひたすら、自分の精神と同じく生き生きとした個々の人間精神が、他人の精神もやはり生きているという命題と取り組むさまを示せばいいのだ。人間を不幸にするのは邪悪さや陰謀だけではなく、錯誤や誤解が不幸を生むこともあり、そして何よりも、他人も自分と同じリアルであるという単純な事実を理解しそこねるからこそ人間の不幸は生まれるのだ。人々の個々の精神に分け入り、それらが同等の価値を持っていることを示せるのは物語だけなのだ。物語が持つべき教訓はその点に尽きるのだ。
p.50
世界の認識についての哲学的な命題をここで開陳するほどの知識はもちろんわたしにはありませんが、物語とはなにか、なぜわたしたちは「真実」でもない物語をかくも希求するのであるかということは、すべての小説愛好家にとっても大切な問いではないかという気もいたします。本書は力強く美しいラブストーリーであると同時に、小説をテーマにしたメタ小説でもある。そして、この両立の非常に困難な課題に見事に成功した現代小説の傑作のひとつとして本書を覚えておこうとわたしは思っています。
| 固定リンク
「b)書評」カテゴリの記事
- ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール』(2016.12.15)
- 『忘れられた巨人』(2015.07.26)
- 地べたの現代史『ツリーハウス』(2015.04.20)
- 笑える不条理小説『末裔』(2015.04.19)
- 『夏目家順路』(2015.04.16)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
この小説は未読です、でも、すぐにでも読みたい。(が、ここ数日、柄にもなく忙しく、入手活動に至っておりません。)
くりかえしで、芸もありませんが、かわうそ亭さんの次のセリフに、即・同意、超・感動、極・読書の幸せ!
『物語とはなにか、なぜわたしたちは「真実」でもない物語をかくも希求するのであるかということは、すべての小説愛好家にとっても大切な問いではないか』
投稿: Wako | 2006/10/19 18:22
こんばんわ。どうもありがとうございます。
この小説、「プライドと偏見」の映画化のときの監督ジョー・ライトと主演のキーラ・ナイトレイで撮っているようです。キーラ・ナイトレイのイメージは原作に合っているような気がしますので、今から楽しみ。
投稿: かわうそ亭 | 2006/10/19 21:58