In cold blood
ペンギンのPBで『In cold blood』を読んだ。カポーティを読むのは本書がはじめて。
すでにマスターピースとして評価の定まった作品なので、いまさらあんたごときがなにを言う必要があるんですか、てなもんではあるが、これはちょっとすごい。
まずその文章。
特徴的なのは、客観的に記述できる事実(言動)のほかは切り捨てるというおそろしくクールな文体だ。誰がどう感じたとか、どう思ったかとか、どんな意味があったのか、といった主観的な解釈は地の文章には一切ない。意味の曖昧さや多義性をゆるさない、法律や医学といった世界の人々と同じようなプロフェッショナルな言葉の運用でありながら、これらを読んでいて、読むこと自体が快感になるような素晴らしい効果を生んでいる。天性の言語感覚なんだろうな。
スピーディに切れ味のよい短いセンテンスで畳み掛けるように語られる部分もあれば、長い構文で情景が流れて行くような部分もある。その間合いが、絶妙である。そして驚くのは、たとえ長い文章であっても、読んで行くはしから、その意味がクリアにわかるということだ。ふつう、わたし程度の英語の読解力だと、あまり長いセンテンスが続くと、息が続かないような感じで、途中で意味が追えなくなることが多いのだが、本書の場合は、そういう感じがあまりなかった。例を挙げよう。殺害されたナンシーの親友であるスーザン・キドウェルという少女と、ナンシーのボーイフレンドのボビー・ラップが、クラッター一家の四つの棺を見る場面。以下の文章は、すべて、長い会話のカッコの中で語られているという構造。語っているのはキドウェルである。
The four coffins, which quite filled the small, flower-crowded parlour, were to be sealed at the funeral services - very understandably, for despite the care taken with the appearance of the victims, the effect achieved was disquieting. Nancy wore her dress of cherry-red velvet, her brother a bright plaid shirt; the parents were more sedately attired, Mr Clutter in navy-blue flannel, his wife in navy-blue crêpe; and - and it was this, especially, that lent the scene an awful aura - the head of each was completely encased in cotton, a swollen cocoon twice the size of an ordinary blown-up balloon, and the cotton, because it had been sprayed with a glossy substance, twinkled like Christmas-tree snow.
映画「capote」では、この印象的な場面は、カポーティ自身の目で見た情景として語られていたな。
映画と言えば、わたしのように映画「capote」をみてから本書を読むと、しばらく奇異に感じることがある。それは、この文芸作品には、作家カポーティがまるでどこにも存在していないかのように見えることだ。
いろいろな証言や手紙などによってクラッター一家の惨殺事件はさまざまな角度から再構成される。またペリーとディックというふたりの犯人たちの生い立ちも同じようにいろいろな証言や手紙などによって次第に明らかになっていく。過去だけではない。事件の進行形のようなかたちで、ペリーとディックの逃亡や、アルヴィン・デューイを始めとする捜査官の追跡や尋問もいろいろな視点から多面的に描かれる。しかし、作者は、それらの証言を(あとで本人から)直接に聞き、手紙や日記を直接に見たようには決して描かない。
このあたりがじつに面白い。
ただし、最後の最後になって、わたしたちはようやく作家をつかまえることができる。
のこり10頁ほどのところで、先に収監されていた別の事件の死刑囚が処刑された夜のことを、犯人のひとりディックが語るのだが、その語る相手は、あるジャーナリストである。原文では——
"That was a cold night," Hicock said, talking to a journalist with whom he corresponded and who was periodically allowed to visit him.
となっている。もちろん、読者にはこれが、作者その人であることは明らかだろう。このジャーナリト氏が、ふたりの死刑執行にも立ち会う場面がちゃんとある。
非情な文体で書かれた、残虐で無意味としか思えない死の物語でありながら、最後のセンテンスを読んだあとで、不思議な情感がわき上がってくるのはなぜだろう。
デューイ捜査官が共同墓地で、見違えるような美しい大学生となったスーザン・キドウェルに出会う。例のボビーが結婚した話を互いがして、こんな風に物語は終わるのだ。
'Good for Bobby.' And to tease her, Dewey added, 'But how about you? You must have a lot of beaux.'
'Well. Nothing serious. But that reminds me. Do you have the time? Oh,' she cried, when he told her it was past four, 'I've got to run! But it was nice to have seen you, Mr Dewey.'
'And nice to have seen you, Sue. Good luck,' he called after her as she disappeared down the path, a pretty girl in a hurry, her smooth hair swinging, shining - just such a young woman as Nancy might have been. Then, starting home, he walked towards the trees, and under them, leaving behind him the big sky, the whisper of wind voices in the wind-bent wheat.
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コメント
英語力は自慢できる程じゃないのですが、確かに、引用されたこの物語の終わりの文章は、いいですねぇ。小説の終わりって、かなり重要ですよね。(でも、棺の描写もすごい、と思いますけど。身震いするほど)
実は、『冷血』は、日本語で読んでいます。確かベストセラーでしたよね。でも、全然覚えていないんです。
映画も見て、そして再読します。(英語版で、と言いたいけれど、たぶん、持っている本を探して・・・)
投稿: Wako | 2006/11/03 16:51
ええと、新潮文庫の『冷血』はこれまで龍口直太郎訳でしたが、今回、クライムノベルの翻訳の名手、佐々田雅子訳の新訳が出たそうです。
わたしはどちらも読んでいないので、断定的なことは申せませんが、翻訳で読むなら、おそらく佐々田さんの新訳にすべきかと存じます。
馳星周氏の評が参考になるかもしれません。
こちら↓
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/501406.html
投稿: かわうそ亭 | 2006/11/03 18:05
ありがとうございました。なるほど。馳さんは高校生の時読まれたようですが、私は確か20歳代前半の頃に単行書で読んだのでした。(今、手元に自分が読んだ本がないので、確認できませんが、1970年頃か?)訳者は龍口氏であることには間違いないと思います。とにかく、この小説をすっかり忘れてしまっていた、という理由の一端を、馳さんが述べてくれたように感じ、うれしかった・・・
訳の違いというのは、とても大きいですよね。『星の王子様』の、池澤訳と倉橋訳。どちらがどう、と言えないのですが、違ってました。後書きを読んでも、二人の視点のあり方がそれぞれで、どちらも興味深かったです。
では、新訳を読んでみることにします。ほんとうに、かわうそ亭って、役に立つなぁ。
投稿: Wako | 2006/11/03 21:04