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2006/11/29

小林恭二「心中への招待状」

そりゃ、あたしは素人じゃないから、いろんな男に気のある振りはしてみせるよ、そういう稼業だもの。でも、あたしのいい人はおまえだけ。ほんとさ、おまえが店に通ってくれると思うから、こんな暮らしでも、あたしゃ、なんとか耐えているんだよ。間夫は勤めの憂さ晴らしてぇ、云うじゃないか。いいかい、年期(ねん)が明けたら、あたしゃ、きっとおまえのところへ行くよ。ねえ、一生おそばに置いておくれよ・・・

てなわけで、女郎が「あなた以外の男を生涯想うことは決してないと誓います。もしこの誓いを破ったらどのような神罰がくだろうとも甘んじて受けます」という文言を紀州熊野の牛王料紙に記して血判を押したのが起誓文。自分の心の中をすっかり見せてしまう、というのでこれを「心中立て」と呼んだそうであります。

ばかだねえ、そんなのは見えすえた玄人女の手練手管じゃないか、と笑っているのは、他の男の話だからで、いざ実際に自分がそう言われると、これは嘘じゃない、こいつの本当の心中立てだと、ころっと信じてしまうのが男というものであります。

このあたりのことは、落語の三枚起誓にくわしいが、それは男というものが元来、自惚れが強いものだというところに帰着する。たしかにそうには違いないのだが、それだけでもないようだ。どうやら別の原因は、江戸時代の町人の男性の一生に関わっている。
以下は小林恭二の『心中への招待状』(文春新書)からの引用。

普通町人の子弟は奉公に出ます。さまざまな奉公がありますが、商家のケースを考えますと、通常十二、三歳で丁稚になります。もちろん住み込みであり、また無給です。順調にゆくと十七、八歳で手代になりますが、まだ無給。給金が貰えるようになるまでは、おおよそ十年が必要でした。しかも次の一年はお礼奉公といって、給料を返上しなければなりませんから、十三歳で奉公に出たとしても、二十四歳までは無一文だったことになります。これでは所帯など持てません。
ならば二十四歳になったら所帯が持てるかというと、そういうわけにもいかない。まだ商家に住み込まねばならないからです。これが通常十年以上続きます。晴れて外に出ることができるのは、三十六、七歳になって通いの番頭になってからです。
これは十九世紀に入ってからの統計ですが、鴻池の使用人の結婚平均年齢が三十七歳となっており、通い番頭になると同時に結婚していたことがわかります。
(中略)
五十まで生きたらよしとしなければならない時代における、この年齢です。男性は結婚した時点で、おそらく平均余命は十年くらいだったでしょう。

こういう町人のライフサイクルが、あの時代に遊里が必要だった理由であり(もちろんピンからキリまでの女郎がマッチングされた)、この遊里における疑似恋愛、疑似夫婦関係を理解するための鍵になるような気がしますね。そりゃ騙されるのは無理ないわ。ほかにまともな男女関係が築けないんだもの。

さて、この「心中立て」ですが、男客の猜疑心と女郎の手管のいたちごっこになるのは理の当然。起誓なんていくらでも書いて配れるじゃんか、となると、次に登場するのは髪切り。女の命の髪をお前さんのためにバッサリ切って見せるよ、というわけですが、これは男に切らせるのがミソでありまして、男は惚れた女の髪をバッサリなんか切れるわけはないから、ほんのかたちばかり切ってありがたがって押し頂く。女郎は、この手で何人も騙せるし、髪なんてすぐ伸びますからね、この手も効き目が弱くなる。

ならばというので、お次は、なんと爪はぎ。あたしゃ、お前に心中立てするためなら、痛い想いなんかかまいやしない。生爪はいで渡すよ、あたしの誠意を受け取っておくれ。これは、何回もできはしないでしょ、と思うのは堅気衆の甘さでありますね。なんと女郎のみなさんカミソリで爪を薄く二枚におろして上の方をお使いになったのでありますね。痛くも痒くもない。そういう離れ業が流行った。やれやれ。

指切りという心中立ても登場する。小指の先を切断して見せるから、あたしの言葉を信じておくれ、というのであります。これが、指切りげんまんの起源。でも、どう考えたって、やくざじゃあるまいし、自分の女の小指が詰めてあるなんてのは嫌ですから、わかったわかった、どうしてもというなら先っぽのほんのちょこっとでいいから、という話になって、これまた、たいした効き目にはならない。

刺青というのもありますな。「獺亭さま命」なんてのを肩から少し下がったあたりに彫る。これは永遠の愛の刻印となりそうですが、〈よい施主がついて命を火葬にし〉というように、灸で痕を焼き消してしまうことができる。
で、究極の愛の証明が相対死にの心中に行き着いた、ということになるのでありました。
だから、無理心中だのネット心中だのいう無粋な死に方を、同じ「心中」と呼ぶのはいかがなものかと、小林さんは『心中への招待状』で苦言を呈す。
この本、近松の曾根崎心中のもともとのかたち(後世の上演でいろいろな改訂が加わったために原型とかなり違う演出になっている)を丹念に読み解いてとても面白い本でした。

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コメント

小林さんのこの本、以前に買ってまだ読まずにいました。なかなか面白そうですね。さっそく本棚から探し出して読んでみたいと思います。

投稿: maru | 2006/12/01 18:36

maruさん どうもです。小林恭二さんは面白いですね。
コメントの重複があったようなので、最後のコメントだけを残しておきました。

投稿: かわうそ亭 | 2006/12/01 22:41

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