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2006/11/23

句会三題

「俳句研究」の11月号、12月号と連続して、仁平勝氏が「句会」を話題にとりあげておられる。(「おとなの文学」)
句会というものを俳句を推敲する場と考えたらどうか、という話で、これは実感としても納得のいく内容。句会では、とにかく決められた締め切りの時間というものがあるから、当日の会場で決められる「席題」がたくさんあると、一句にそんなに時間はかけられない。場合によっては、ほとんど即吟に近いような、作者としては、はなはだ不本意な句を提出することもあるのだが、むしろその方がよいのである。選を受け、その句にもし光るものがあれば、句会の連衆がああでもない、こうでもないと推敲をする。こうして、ときどきよい句が誕生する。そして、その句は誰の作品であるかと言えば、たとえ推敲をみんなでしたとしても、それは作者のものなのでありますね。こういう句会の性格こそが、俳諧という座の文芸の伝統を受け継いだ俳句の姿であると言われるとなるほどたしかにそうかもしれないなあ、と思う。

この仁平氏の文章がきっかけになったのかどうか知らないが、「俳句朝日」12月号の特集は、「句会のすべて—「ホトトギス」「狩」「萬緑」の句会は・・・・」という題名。そのなかで、とくに印象に残ったのは斉藤美規氏の「句会の心構え」という文章で、氏が句会で出句するとき、また選句するときに心にかけていることとして五つをあげている。これもなるほどと思うことなのでここに書いておく。

  1. 私の句と分かりそうな句は出さない。
  2. 点の入りそうな作品、うまい句、うまそうに見える句、物欲しそうな句、これらはそのまま通り過ぎることにしている。
  3. 多少の欠点があってもすばらしい発見のある句、感動を受けた句、本当によいと思われる句、これらは勿論嬉しく頂戴することにしている。
  4. 添削については自分たちの句会の時は少しの添削はするが、他人さまの句会に参加した時は添削は謹んでいる。こんな時よく添削をする人があるが非礼というものであろう。
  5. 句会には新しい作品を出す。自分の土地は勿論、列車などで出かける時は車中で詠んだ句やできた句。

4の添削はゲストで行ったらさすがにやらないよ、ということだろうが、まあ、それにも多少共感する部分もあるな。

句会と言えば、「俳壇」12月号の瀬戸内寂聴と齊藤愼爾の対談にも、句会の話題があった。瀬戸内寂聴がはじめて句会に出たのは、久保田万太郎主宰の文壇句会だった。木山捷平に連れて行ってもらったのだそうな。以下はお二人の対談。

瀬戸内 そう、そう。新入りは「なぜ、ここへ来たか」という挨拶をさせられるんです。それで私が「木山捷平先生がこの句会にいらっしゃるから、私は木山先生の弟子としてここに来ました」と言ったら、みんなドーッと笑うのね。私はなぜ笑うのか、わからなかった。そうしたら、万太郎さんがその日お作りになった句が<門下にも門下のありし日永かな>で、それが最高点だったんですが、だから木山さんは俳句のその席ではあまり重んじられていなかったのね。だけどわたしは木山さんが好きだったから句会に出たのよ。

齊藤 瀬戸内さんが自分が俳句のモデルなのだから、最高点を取ったその句を書いた短冊をくれと申し出たとき、みんなが青ざめたという話を書いていましたね。

瀬戸内 そう。私は何も知らないから、万太郎さんの書かれた短冊を見て、「先生それください」って言ったの。そうしたら、くれたんです。でも、みんなはびっくり。万太郎さんに「短冊をください」なんて言うのはとんでもないことなんだって。そんなこと、こっちは知らないから言ってしまったら、先生は簡単にくださった。あとで、みんなが「じゃ、わたしもください」「わたしもください」って大変なことになったの。

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