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2006/11/14

俳句を読むということ

アベカン——といっても、「どんとこい超常現象」の上田教授こと阿部寛のことではなくて、なんだかへんてこりんな俳句で、一度読むとクセになる阿部完市という俳人がいる。
たとえばわたしが大好きなのは、こんな句である。 

木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど  阿部完市

どんな意味かと聞かれても困るが、なんだかおかしい。いつも連想するのは、「動物のお医者さん」の漆原教授である。まあ、これは連想が付きすぎかもしれないけれど。
阿部完市は精神科医だそうだ。それが作風となにか関係があるのかどうかよくわからない。なんだか関係があるような気もする。

片山由美子さんの『俳句を読むということ』(角川書店)のなかに、このアベカンが桂信子の俳句を取り上げたときのことが出ていて面白かった。

裏山の窓に迫れり蒸鰈   桂信子

この句の阿部完市による鑑賞。(片山由美子の「切れということ」より孫引き)

裏山が見渡せる窓、そのすぐそばに蒸鰈がぶら下がっているのが見える。裏山と窓と蒸鰈という三者それぞれの位置が明記されている。一見していかにも日常の風景である。しかしこの三者の位置関係は単純ではない。裏山の見える窓に、蒸鰈が「迫って」いるのである。

これを読んで、片山さんは、仰天してしまった、と言うのですね。
もちろん感心したという意味ではない。こんな解釈がどだい成り立つはずがないだろう。こんな読み方は感心できない、というのである。

まず、この句の切れはどこにあるかだ。当然のことながら、「窓に迫れり」ではっきり切れている「窓に迫る」ではないから、「蒸鰈」が窓に迫っているとは絶対に読めない。「迫れり」の主語はもちろん「裏山」である。「裏山の」の「の」は主格の助詞であり、「裏山が」という意味になる。
このように、一句中の切れを見逃すと、句意がまったくおかしくなってくる。この句から浮ぶのは、たとえば山宿の朝食風景だ。食卓に載った蒸鰈を前にして、ふと目を上げると、すでに美しい緑にいろどられた裏の山が窓越しに大きく見える。蒸鰈の白さと山の緑が、春らしいすがすがしさを感じさせる。

アベカン本人にこの疑問をぶつけると「読みとしては、たぶんあなたのいうのが正しいのだろうが、ぼくはいろんな読みの可能性を大事にしたい」という返答だったそうな。(笑)
苦しまぎれの言い訳みたいだが、まあ、そういう誤読の楽しさというのは読者の権利でもある。
この『俳句を読むということ』には、ほかにもいろいろ似たような句意をまったく誤解しているとしか思えない読み方に片山さんが「仰天」する話があるのだが、いわれてみるとなるほどそうだよなあ、とは思うものの、でも、間違った解釈でも結構面白いじゃんと思ったりもする。

たとえば、鷹羽守行の有名な〈摩天楼より新緑がパセリほど〉に対して、これはニューヨークの摩天楼から下を見下ろした視線の先にパセリのようなセントラルパークの新緑が映ったという具合に読む人がほとんどだと思うが、ある人がこれを、路上から摩天楼を見上げると遥か高層階の窓際に観葉植物の新緑がパセリのように目に映ったという風に読んだという話が、『俳句を読むということ』にもでている。まあ、観葉植物の新緑はちょっと無理筋だとは思うが、それでも、この解釈は上から下へ見下ろしていた想像上の視線が、突然逆転したような、面白さがある。

ただし、片山さんは、切れという俳句のルールや文法によって明らかであるはずの作者の句意をうかつに読み誤ることはいかがなものかと言っておられる。
そのとおりだとは思うのだが、しかし、そんな千秋先輩みたいな固いことをいわずに、のだめ方式で演奏するのも結構楽しいよ、という不真面目な気持ちもないではない。そういえば片山さんは、若い頃、クラシック音楽をなさっていたらしい。これはなにか関係があるのか。なんだか関係があるような気もする。

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