« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

2006年12月

2006/12/31

2006年

今年も大晦日となりました。
1年を締めくくる意味で、2006年の拙ブログの記事数をとりまとめておきます。(カッコは昨年分)

(1)書評       19(26)
(2)本の頁から    39(55)
(3)俳句       27(19)
(4)短歌         9(12)
(5)国際・政治・経済 11(15)
(6)サイエンス      5(5)
(7)映画・テレビ   19(18)
(8)コンピュータ     7(11)
(9)その他      22(36)
TBポリシー他       0(2)

計 158 (199)

これらの記事に対して頂いたコメントは管理人のものもふくめて266(394)。
トラックバックは41(71)。

全体的に昨年よりエントリーは減っていますが、まあこんなもんでしょう。
今年1年、たいへんお世話になりました。訪問してくださった皆様、コメントやTBを頂戴した皆様にあらためて感謝いたします。ありがとうございました。
来年もよい年でありますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

12月に読んだ本

『モダン都市と現代俳句』川名大(沖積舎/2002)
『世に出ないことば』荒川洋治(みすず書房/2005)
『Wild Fire』Nelson DeMille(Little, Brown/2006)
『まぶた』小川洋子(新潮文庫/2004)
『ウースター家の掟』P.G. ウッドハウス/森村たまき訳(国書刊行会 /2006)
『モンゴル帝国の興亡』岡田英弘(ちくま新書/2001)
『密やかな結晶』小川洋子(講談社文庫/2004)
『セレクション俳人 18 仁平勝集』(邑書林/2004)
『タイムトラベラーズ・ワイフ(上・下)』オードリー・ニッフェネガー/羽田詩津子訳(ランダムハウス講談社/2004)
『漱石と河上肇—日本の二大漢詩人』一海知義(藤原書店/1996)
『句集 塩竃』小澤克己(花神社/2006)
『イラクサ』アリス・マンロー/小竹由美子訳(新潮社 /2006)
『百鬼園俳句帖—内田百間集成〈18〉』(ちくま文庫/2004)
『でかした、ジーヴス!』P.G. ウッドハウス/森村たまき訳(国書刊行会/2006)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

12月に見た映画

エターナル・サンシャイン(2004/アメリカ)
監督:ミシェル・ゴンドリー
出演:ジム・キャリー 、ケイト・ウィンスレット 、キルステン・ダンスト 、マーク・ラファロ 、イライジャ・ウッド 、トム・ウィルキンソン

ドグマ(1999/アメリカ)
監督:ケヴィン・スミス
出演:ベン・アフレック、マット・デイモン、リンダ・フィオレンティーノ、アラン・リックマン

| | コメント (0)

2006/12/26

僕ってナビ

自分用のクリスマスプレゼントに「MAPLUSポータブルナビ」という地図ソフトを買った。
PSP(プレーステーション・ポータブル)をカーナビのようにしてしまうおもちゃであります。専用のGPSレシーバー付きで8,925円。(amazon)
カーナビはさすがに持ち運びはできないが、PSPならポケットに入れて持ち歩ける。
GPSについては、レシーバーの仕様書にこんな説明があります。

GPS(Global Positioning System)は、米国の高精度な航法用衛星を利用した、地球上のどこにいても自分の位置を知ることができるシステムです。GPS衛星は、高度約20,000kmの6つの衛星軌道に合計約30個が配置されていて、地球上のどこからでも常に最低3個の衛星が補足できるようになっています。(中略)GPS受信機はGPS衛星からの電波を受信しています。衛星の軌道情報と電波の伝播時間のデータから自分の位置を計算することを「測位」と呼びます。測位には3〜4個のGPS衛星が補足されている必要があります。

もちろん、もともとは軍事技術だが、カーナビで一般化して、いまでは携帯電話にもなっているのはご承知の通り。えらい時代であります。(もっとも軍事用の誤差十数センチの高精度なGPS電波は暗号がかかっているので民生用の機器では受信できないそうであります)

2006_1226 使い方はいたって簡単で、レシーバーを装着して、地図ソフトを起動すると、自動的にGPS電波を受信しはじめ、数分でそこの場所の2万5千分の1地図と自分の現在地ポインタが表示される。あとは画面を見ながらナビ風に歩くもよし、現在地を確認してから適当に町中を彷徨し、わざと自分から迷子になって、ふたたび、GPSでいったいいまどこにいるのかを知るもよし、であります。
もちろん、現在地と目的地を入力してルートをさがし、道案内をさせるというのがナビシステムの本来の姿ですが(もちろんそういう使い方もできる)、まあ、クルマを運転するのでもなければ、ぶらぶら歩くときにナビを必要とすることはまずないし、しばらく歩きながら、「おお、ちゃんと追尾しとるがな」と面白がるのも、傍目にはバカ丸出しで恥ずかしいので、歩く時の使い方は、ときどきスリープから立ち上げて、現在地を知るなんてところでしょうか。

なお、その場所の状況にもよるのでしょうが、わたしの場合は屋外の開けた場所で衛星電波を補足させると、一番はじめの受信が3分ばかり、その後のスリープから立ち上げて、最受信させる場合は、瞬時とはいきませんが、数十秒で現在地を修正してくれるようです。ナビモードで画面を見ながら歩けば、ほぼリアルタムできちんと追尾してくれました。
精度については、仕様書ではプラスマイナス5メートルとなっていますが、これは場所によってかなりばらつきがある。ほとんどずれのないこともあるし、たとえば橋をわたったのにまだ対岸にいるようにポインタが指している場合もあります。まあ戦場で使うわけではないので、この程度の精度で十分に遊べるといえば遊べますね。
ただし、電波の受信は屋根があるところではほとんど駄目で、駅のプラットフォームや外が見渡せるビルの一階のカフェなんかでも補足できませんでした。
実用のカーナビとして使うつもりであれば、たぶん不満が出るでしょうから、あくまでおもちゃとしての使い方を考えるのが正解じゃないかなあ。
海賊の宝探しゲームとかさ。(笑)

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006/12/24

河上肇の読書万巻

 万巻の書を読み終えし花野かな  獺亭

拙句、先々月の句会に出したもの。ちなみに「万巻」は「まんがん」と読みます。
この万巻の書には以下のような典故がある――なあんて言えるとカッコいいのだが、そいつは嘘っぱちで、今回はじめて知ったこと。やはり『漱石と河上肇』一海知義(藤原書店)より。

Kawakami_hajime 河上肇(1879—1946/山口県岩国生)は日本のマルクス経済学の草分けともいうべき人。1932年から共産党の地下運動に参加、治安維持法違反によって1933年逮捕、小菅監獄に収監されますが、獄中で漢詩をはじめました
初期の作品に次のようなものがある。

 年少夙欽慕松蔭
 後学馬克思礼忍
 読書万巻竟何事
 老来徒為獄裏人

一海先生の読み下し。

 年少 夙に松蔭を欽(うやま)い慕い
 後に学ぶ 馬克思・礼忍(マルクス・レーニン)
 読書万巻 竟に何事ぞ
 老来 徒に為る 獄裏の人

一海先生には『河上肇詩註』(岩波新書)という河上肇の漢詩の注釈本があり、そこでもこの初期の作品の鑑賞を書いたのですが、それを読んだ読者から、第三句の「読書万巻」は、吉田松陰の松下村塾の塾聯から来ているのではないかという手紙をもらったのだそうです。そこで一海先生が萩の松下村塾跡に行って確かめたところ、たしかに床の間の両側に、その読者が知らせた通りの塾聯が掛けてあった。

 自非読万巻書、寧得為千秋人。
 自非軽一己労、寧得致兆民安。

 万巻の書を読むに非ざる自(よ)りは、寧(なん)ぞ千秋の人と為るを得ん。
 一己の労を軽んずるに非ざる自りは、寧ぞ兆民を安きに致すを得ん。

以下一海先生の文章をそのまま引きます。

そして第一句で松蔭のことをうたった河上さんの詩の第三句「読書万巻」は、右の塾聯をふまえているにちがいありません。だとすれば、「万巻の書」は単に塾聯の「万巻の書」だけでなく後半の「一己の労」以下の意味をもふくみ、河上さんは「兆民を安きに致す」ことをも人生の目標として来たが。今はむなしく獄中の人と成り果てた、と嘆いていることになります。
漢詩の「典故」というものは、そこまでの意味をふくむことになります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/23

福沢諭吉の狂詩の雅号

Hukuzawa 引き続き、一海先生の『漱石と河上肇』(藤原書店)を読んでいる。
すると、うれしいかな、昨年来の疑問が氷解した。こういうことがあるから本読みはやめられない。(笑)
まずは、昨年8月16日のエントリーをお読みください。(ここ)

一海先生は、おそらく花田清輝の「いろはにほへと」に書かれた尾崎咢堂のエピソード(が事実かどうかは別として)はご存じなかったようで、そのことには触れておられないが、この諭吉の狂詩を以下のように紹介しておられる。

さて福沢諭吉の一例、負龍軒作「田舎議員」。負龍軒は「不料簡」をもじった雅号だろう。

 道楽発端称有志
 阿房頂上為議員
 売飛累代田畑去
 貰得一年八百円

読み下せば、

 道楽の発端志有りと称し
 阿房の頂上議員と為る
 累代の田畑を売り飛ばし去り
 貰い得たり一年八百円

この男の道楽のはじまりは「志有りと称し」といううたい出しは、「学者」の詩らしく典故をふまえる。『後漢書』班超伝に、「人となり志有りて細節を修めず」。班超は何かをしでかそうという人物で、ちまちました事にはこだわらなかった。

つまり昨年、中津の福沢諭吉記念館でみかけた手紙の読めなかった作者名の部分が判明したのでありますね。
写真と照合するとたしかに「負龍軒主人」と読めます。(写真をクリックすると大きくなります)

獺亭主人、負龍軒主人にまみえるという一席。(笑)

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006/12/22

雨上がりの回文

『漱石と河上肇』一海知義(藤原書店)を読んでいたらこんな話が。

1967年版の岩波の『漱石全集』第12巻には、漱石作として次のような五言絶句が収録されている。

 緑水池光冷  緑水 池光冷やかに
 靑苔砌色寒  青苔 砌色(せいしょく)寒し
 竹深啼鳥亂  竹深くして 啼鳥乱れ
 庭暗落花残  庭暗くして 落花残す

この漢詩はじつは漱石の作ではなく宋代の詩人劉敞(りゅうしょう)のものであることがいまでは広く知られているそうであります。
なんで間違ってしまったかというと、漱石がこの詩を墨書した書幅があり、そこにはただ「漱石書」とのみ記してあったため、てっきり漱石作と思われてきたのだそうな。
ところが、漱石の蔵書を保管している東北大学図書館の漱石文庫のなかに、『箋註宋元明詩選』という書物があって、その中に劉敞の「雨後回文」がみつかった。
「雨後」は雨上がりという意味ですが、これに回文という題がついているからには、これは反対からも読んでみなくてはならない。逆さに読んでみますと——

 残花落暗庭  残花 暗き庭に落ち
 亂鳥啼深竹  乱鳥 深き竹に啼く
 寒色砌苔靑  寒色 砌苔青く
 冷光池水緑  冷光 池水緑なり

わたしも以前、回文の短歌もどきを苦心してつくったことがあるが(ここ)、漢詩の場合はなにしろ、平仄というものがあり、脚韻だってちゃんと踏まなければ詩とは言えないのでありますから、回文詩の困難さは想像を絶する。(ここでいう回文詩とはどちらから読んでも意味のとおる詩になっているというかたちのこと)
もちろん、わたしには平仄も脚韻もまるで不案内だけれど、一海先生によれば先の詩では「寒」と「残」、あとの詩では「竹」と「緑」がきちんと押韻しているとのこと。

この劉敞の「雨後回文」などは、あえて「回文」と断ってなければ、おそらくわれわれは気づかずに終わってしまうだろう。
現に漱石全集の編集委員もまさかこれが回文になっているとは、その時は気づいていなかったはずである。もし気づいていれば、あるいはせめて漱石が、これを回文詩とわかるように墨書していれば、いくらなんでもこれはいささか出来過ぎである、なにか出典があるのでは、と疑ったのじゃないかなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006/12/21

記憶という名のタイムトラベル

book store

『タイムトラベラーズ・ワイフ』オードリー・ニッフェネガー(ランダムハウス講談社)を読む。
この小説、昨年Flickrに、この写真(ジュンク堂難波店の海外小説書棚)を掲示していたら、しばらくして、ある人がたくさん並んだ本の中からこの本を見つけて「この本大好き!」と教えてくれたもの。(さてどこにあるでしょう?答えは写真をクリックすとわかります)もっともその方は英語で読んだので、翻訳のほうは読んでいないが、ぱらぱらと見た限りでは訳もよさそうだった、というコメントだった。
そんなことがあったので、そのときさっそく読んでみようと思ったのだが、たぶん図書館で予約待ちかなにかだったのだろうな、なんとなく縁がなくてそのまま忘れてしまっていた。
ところが、つい最近、やはりFlickrの「what's in your bag?」というグループの写真を眺めていたら、この本(英語のペーパーバックだったけど)をかばんに入れている人があって、これとってもいい本だよねという感じのコメントがたくさんの人から寄せられているのを見かけたのだ。(ここ)
まあ、そんなわけで、そうそうこれ読もうと思ってたんだよねと思い出したというわけ。

今回わたしは原文は見ていないが、丁寧ないい訳だと思った。翻訳は羽田詩津子。

題名からして、タイムトラベルもののSFとして読んでもいいのだけれど、あまり小うるさいタイムパラドックスがどったらこったらというのはなくて、普通に面白くて少し哀しい物語として楽しめる。
このタイムトラベルものというジャンル、いろんなアイデアがもう出尽くした感がある。たとえば浅田次郎や宮部みゆきなんかのエンタテインメントは面白いがさほどオリジナリティがあるとは思えない。
しかし、この作品のアイデア、わたしは、「へえ、まだこんな手が残っていたか」とびっくりした。上下二巻で、ちょっととっつきにくいが、読み始めるとオハナシの世界に引き込まれる。そして読後、しばらく「こちら」に戻ってくるのが億劫になる。

エピグラフにA・S・バイアットの『抱擁』が選ばれているのも嬉しい。

中身は例によって、読んでのお楽しみだが、時間を行ったり来たりするタイムトラベルと人間の記憶という作用を組み合わせたときの意外な発見がこの本のミソだろう。わたしたちの記憶も、時間を越えるタイムトラベルの一種なのだから。
これはもう好きにならずにはいられない素敵な小説だな。
オススメ本です。

なお、上下をそろえて並べるとカバーの絵がなかなかよい。装幀はこやまたかこ、装画は野田あい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/19

根岸の里のゆびずもう

Nihira  童貞や根岸の里のゆびずもう

仁平勝の第二句集「東京物語」(『セレクション俳人18仁平勝集』収録)にこんな句があった。なんじゃこれは、てな感じですが、勘のいい人はこの句がなんのパロディであるかすぐに悟ってにやりとするか、しょうもないと苦笑するでありましょう。わたしはしばらく気がつかなかった。
べつにこの句についてふれているわけではないが(そもそもそんな大げさな句ではない)、やはり同書に収録されている「秋の暮論」という評論にこんな箇所があります。

ちなみに「根岸の里の侘住居」という言葉があって、これを俳句の中七下五に使うと、素人でもそれなりの句ができる。あとは上五に季語でも持ってくれば、「初雪や根岸の里の侘住居」「菜の花や根岸の里の侘住居」「名月や根岸の里の侘住居」といった具合で一応の俳句になる。根岸といえば子規が住んでいた場所だから、おおかた当時の誰かが考えついたのだろう。なかなか気のきいた言葉遊びで、ちゃんと月並俳句への皮肉になっている。

「わびずまい」と「ゆびずもう」とでは、おやじギャグのだじゃれみたいだが、そういう「根岸の里の侘住居」の言葉遊びを下敷きにして、女を知らない男がせいぜい指相撲なんぞでいちゃついているという景色を思い描くと、そこに女人との肉体的な交接は望めなかった子規を重ねることになって、これはこれでなかなか俳味のあるたのしい句ではあります。
まあ、病に倒れるまでの子規は、なかなか血気盛んな人だったようだから、女を知らなかったはずはないと思うけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/10

暗号名「Wild Fire」は現実か(3)

〈スポイル・アラート〉
この記事はネルソン・デミルの新作『Wild Fire』の導入部分の内容に触れています。まったく白紙の状態でこの作品をお読みになりたい方はご注意ください。

前回は旧ソ連のスーツケース型の核爆弾(suitcase nuke)が67個行方不明で、たぶん大半がイスラームの「聖戦」組織の手に渡り、いくつかの大都市にひっそりと配置されているであろうというオハナシを書きました。もちろんこれは最悪のシナリオですが、安全保障とは最悪のシナリオを想定してつくられるものであります。

余談ですが、旧ソ連の核技術というのは、世界でも最高のものであった、なんて話が『Wild Fire』のなかに出てきます。冷戦当時、アメリカの将軍たちは、ソ連のスーツケース型核爆弾について聞かれると、こんなきわどいジョークを飛ばしていた。
スーツケース・ニュークだって?そんなもん心配いらん。やつらにスーツケースをつくるテクノロジーはない。
ははは、笑えないですね。

閑話休題、War on Terrorism の時代には冷戦時のような核の抑止力という戦略(MAD)はとれないのかという話。これは無理でしょ、とわたしなどは考える。だって、かりにいくつかの都市で核によるテロがあり、数千万人が虐殺され、その攻撃にアルカイーダの「指紋」がべたべたついていたとして、一体どこを報復すればいいのか。
ビン・ラーディン氏に、「お前がこっちに隠した核をつかってみろ。ただちにアフガンとパキスタンの国境地帯に報復攻撃を仕掛けるぞ」なんて言って、はたしてどれほど効果があるか。まあ、かれらがどの程度ためらうか、あまり期待はできないだろうなあ。

だが、もし、こう言ったらどうだろう。
「核をつかってみろ。報復にイスラーム世界を根絶やしにしてやる」

イスラームの一部(シーア派であれスンニ派であれ、なんであれ)が聖戦として核を使用した場合、冷戦時代のMADとまったく同じように、瞬時に機械的に全面的にすべてのイスラーム世界に向けて核攻撃が報復として行われる。西はアフリカ西岸から中東、中央アジアを通ってインドネシア、フィリッピンの北部まで、イスラム世界は「連帯責任」として核の業火を浴びる運命になると脅したら。イスラームのテロ組織が核の「引き金」を引くことは、イコール、全イスラーム世界に向けて核を使うことを意味する。そしてこの報復が、ただのブラフではなく、アメリカ合衆国の国防システムとしてオートマチックに動き、絶対に疑いようのないものだとイスラームの「聖戦」組織側も確信しているとしたらどうだろうか。

ここで、第一回目のエントリーに書いたMAD(Mutually Assured Destruction )のキモをもう一度思い出していただきたい。MADが機能したのは(あるいはより正確には機能したと核戦略の立案者たちが思い込んだのは)この全面的な報復が必ず実行されることが先制攻撃を考えるときに「確証」されているということでありました。大統領が誰であれ、そいつがキンタマがあろうがなかろうが、何億という人間を殺すことの道徳的な逡巡やら良心の呵責などの入り込む余地はまったくない。ただ、機械的に手を出したら絶対に殺されるという状況を、お互いがクリスタルクリアーに理解しているから、逆に安全であるという論理です。
同じことが、イスラームの「聖戦」を信じておられるみなさんにも通用するのではないか、というのが、作戦名「Wild Fire」であります。すなわち、「Wild Fire」は現代版のMADであり。核テロが起こっていないのはこれが機能しているからである、ト。

ここで、急いで先まで言っておきますが、この「Wild Fire」後の世界(イスラム世界の消滅した地球)はなかなか快適ではないかと考える一部のアメリカの紳士諸君が、ならばいっそ、この「Wild Fire」を発動させるために、自分たちで行方不明のスーツケース・ニュークの4個ばかりをアメリカの二つの都市で使っちゃおうぜと考えるのでありますね。この謀略(まるで日本の関東軍なみの杜撰さですが)のコード・ネームは「プロジェクト・グリーン」。この作戦によってアメリカの安全レベルは永遠にグリーンになるだろう、という意味じゃないかな。

この謀略をジョン・コーリーとケイト・メイフィールドご夫妻がいかに防ぐかというのが今回のオハナシ。

さて以上で、なぜわたしが本書のことを不謹慎なヨタ話であると言ったかは、ご理解いただけたのではないかと思う。(くどいようですが、ここまでの設定は本書の起承転結の「起」の部分に過ぎません)中国の皇帝暗殺の九族誅殺じゃあるまいし、まったく罪のない者でも、お前の係累とこっちがみなす者は全部殺し尽くすというのがこの「Wild Fire」のロジックですから、この「戦略」がプラクティカルに効くかどうか以前の問題である。

さて今回のエントリーの最後のまとめ。
わたしは「プロジェクト・グリーン」(イスラーム世界殲滅を導くための自国への核使用)は、まったくのジェームズ・ボンド・ストーリーとして「ブルシット」と言ってはばかりませんが、「Wild Fire」のほうは、そう言い切るには多少留保をおきます。
実際、ネルソン・デミルは、アメリカ政府が「Wild Fire」と同じようなコンセプトの極秘プロトコールを(もちろん別のコードネームで)持っているという噂にはかなりの信憑性があるし、もし持っていないのだったら、安全保障のためには持つべきであると、前書きで言い切っておりますね。

わたしは、思わずへなへなとなりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/09

暗号名「Wild Fire」は現実か(2)

<スポイル・アラート>
この記事はネルソン・デミルの新作『Wild Fire』の導入部分の内容に触れています。まったく白紙の状態でこの作品をお読みになりたい方はご注意ください。

さて前回の続き。
冷戦が終って世界はより安全になったかというと、なかなかそうではない。
地域的な紛争は別にしても、冷戦時代には想定されていなかった新たな脅威が生まれたのですね。それはソ連の崩壊に端を発している。どうやら行方不明になっている旧ソ連の核があるらしいという事態であります。どこまで信憑性のある話か、わたし自身は判断できる材料がないが、たとえば『Wild Fire』のなかでは、この核は1970年代後半から80年代にかけて製造されたスーツケース型の核爆弾で、行方不明の数は67個なのだとか。

いったいどこへ消えたのか。

ソ連の崩壊後に、このスーツケース型の核が闇市場で取り引きされたというのは、かならずしも荒唐無稽な噂ともいえないような気がします。そういえば、最近もきな臭い事件で注目されたロシアの新興財閥のみなさんは、いきなり国の基幹産業をスタートさせる資本を個人でどこからつくったのかも気になるところ。

というわけで、War on Terrorism の時代の一番の脅威は、テロリストによる核攻撃であります。セキュリティというのは、当然、最悪の事態を想定しておかなくてはならない、ということで、アメリカには現実にNESTという組織が存在し、アメリカの主要都市のどこかににすでに設置された核爆弾をいまも捜索しているのだとか。
NESTは Nuclear Emergency Search Teams の略ですが、映画ファンのみなさんは、この組織が登場する映画を「ああ、あれか」と思い出されるであろう。ニコール・キッドマンとジョージ・クルーニーの「ピースメーカー」であります。核爆弾から出る放射線を探知するためにマンハッタン島をヘリで飛び回っていたチームがそれですが、あれはどうやらフィクションではないらしい。

だから、すでにテロリストの核は西側諸国の主要都市にすでにインストール済みで、いつでも起爆できるようにしてあるのだと、とりあえず最悪の事態を想定してみる。では、そんなことができる資金をもっており、実際にそんなことをしでかすテロリストとは誰のことか、と言えば、答えは必然的に911を発動したイスラームの紳士の皆さんであるということになります。まあ、もしそんなことになっているとすれば、実行犯はその通りであろう。

さて、このように仮定してみると、せっかく冷戦に勝利したにもかかわらず、核戦略上の事態はむしろ悪化していると言うことができます。
なぜなら、第一に冷戦時代は、アメリカ本土で核爆発が起こるまで、少なくとも数分間の大陸間弾道弾の飛行時間がありましたが、新しい「戦争」では、なんらかのアクションを起こす時間はゼロで、気がつくとニューヨークとワシントンとロサンジェルスとシカゴが同時多発的に焼け野原になっていました、ということになります。
そして第二に、核の先制攻撃で本土がやられてワシントンが瞬時に消失したとしても、まだ世界中の海に展開した原子力潜水艦から何千発の核ミサイルを発射して報復はできるわけですが、問題は、そのミサイルを何処に向けて撃つかということであります。
ビン・ラーディン氏からの死の贈り物のお礼は、いったいどこにしたらいいのでしょう。

このように考えると、テロリストが核をもった(と断定していいかどうかわたしはわからないが)現代は、冷戦時代のMAD、すなわち核の抑止力という魔術がきかない世界のように一見思われます。

しかしながら、「いや、そんなことはないよ、MADは、War on Terrorism の時代でも有効さ」というのが本書の背景であり、また前回、申し上げたようにこれから先が不謹慎なヨタ話である所以なのですが、長くなったので、続きはまた次回。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/08

暗号名「Wild Fire」は現実か(1)

W_fire_1 ネルソン・デミルの『Wild Fire』は、ジョン・コーリーものの最新作。『Plum Island』から数えて4作目になる。前作の『Night Fall』のエンディングが911だったわけだが、今回の事件はそれからちょうど一年と一ヶ月たった2002年10月11日からスタートする。

さて、ここでスポイル・アラートです。

以下は、全部で519ページある本書の最初の数十ページに書かれていることのみに限定し、かつその内容はオハナシの単なる背景説明にすぎませんのでとくにネタバレにはならないと思います。
ただ、こういう娯楽小説は、まったくの白紙の状態でとりかかりたいという方も多いと思いますので(その気持ちはよくわかる)、そういう場合は今回のエントリーは飛ばしていただいたほうがいいかもしれません。

と、一応お断りして言うのもなんですが、いま書こうと思っているのは、じつは直接的には本書のことではありません。本書はデミルらしい、ページターナーの娯楽小説で、ありていに言って、かなり不謹慎なヨタ話なのですが(理由はこのまま読んでいただくとわかります)、「あほくさ」と笑い飛ばすには、ちょっと気がかりである。読後感はあまりに辛辣なブラック・ジョークを聞いたときのこわばった笑いと「どん引き」との間、という感じなんですね。

ここでちょっと回り道をします。
近年はあまり新聞などで見かけませんが、MADという言葉があります。
Mutually Assured Destruction の略で、日本語訳では「相互確証破壊」という核戦略上の重要概念ですね。「Wikipedia」の説明を引きます。

核兵器を保有して対立する陣営のどちらか一方が相手に対し戦略核兵器を使用した際に、もう一方の陣営がそれを確実に察知し、報復を行う事により、一方が核兵器を使えば最終的にお互いが必ず破滅する、という状態のことを指し、互いに核兵器の使用をためらわせる。

いわゆる核の抑止力という考え方ですが、ここでもっとも重要なことは、核攻撃を受けた側の報復はかならず、瞬時に、ほとんど機械的に行われるということです。大統領や最高会議議長がいろいろな状況報告を受けて報復するかどうかを判断し決定を下すという時間的な余裕はありません。敵陣営のICBMが飛んできたことを知ったら、せいぜい数分しか考える時間はありません。指導者の逡巡はむしろ致命的な敗北——敵陣営の生存と自陣営の消滅につながります。
こうして冷戦下においては、やられることがわかった時点で反射神経のように瞬時にやり返すための軍事体制が練り上げられ、ほとんどソ連という大国を破産させるまでのコストをかけて維持されました。

このような核戦略にMADという名前をつけた連中のユーモアのセンスをどう考えたらいいかよくわかりませんが、それはそれとして、この核抑止力という概念をどのように考えるかというのはまことに難しい問題です。
大江健三郎流に、我らの狂気を生き延びる道を教えよと叫びつつ、核廃絶だけが最終的な解決だとご高説を述べるのがあたりさわりがないのかもしれないけれど、大江健三郎の言動が大嫌いだということは別にしても、これは「世界人類が平和でありますように」というお題目をあちこちに貼ってまわる宗教とさほど変わらないような気もする。
一方、親が国会議員だったから息子も国会議員になったというだけの馬鹿が核保有の議論をしたがるのは、本人はまったく理解していないとわたしは思うが(バカだから)、その背後には、核の抑止力だけが核による人類絶滅を防ぐ唯一の現実的な方法であるというまことにプラグマティックな思考がある。それを誤りであるというのはたやすいが、しかし現実に、1945年8月9日のナガサキ以後61年間、世界にはおよそ7万発の核弾頭があるにもかかわらず、無辜の市民を虐殺する目的で実際に核兵器は使用されていないというのも事実である。それを核の抑止力の効果と思うかどうかは議論があると思うが、控えめに言っても排除できない考え方ではある。

さて、ではこのような核の狂気は、冷戦が終ったいまではもはや過去のものになったのか。
もちろんそんなことはありませんよね。
911以後の、対テロ戦争(War on Terrorism)の時代に生きる、いま現在のわれわれにとって核がどう戦略的に位置づけられているのか、というのが本書『Wild Fire』の背景であります。
というところで、くたびれたので以下次号と言うことで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/12/02

我が懐かしの海外ドラマ

わたしの子供時代、60年代から70年代にかけて、吹き替えの海外ドラマをよく見ていた。先日あまり年の違わないアメリカ人とその頃に見てた海外ドラマの話をしたら、へえ、そんなもんまで日本で放送してたのとあきれ顔であった。
ただ、こっちは当然邦題で覚えているので、題名だけでは通じないことが多い。

「ええと、宇宙家族ロビンソンね」
「スイスの?」
「いやそうじゃなくて、科学者一家が宇宙で難破して、ドクター・スミスっていう密航者がいつもみんなに迷惑かけてさ」
「ああ、ロスト・イン・スペース!」

なんて感じで結構盛り上がったのだが、この際だから、わたしの好きだった60年代の海外番組ベスト10など。

  1. 宇宙家族ロビンソン/Lost in Space
  2. タイムトンネル/The Time Tunnel
  3. インベーダー/The Invaders
  4. 0011ナポレオン・ソロ/The Man from U.N.C.L.E.
  5. 逃亡者/The Fugitive
  6. スパイ大作戦/Mission:Impossible
  7. プロスパイ/It Takes A Theif
  8. 奥さまは魔女/Bewitched
  9. 原子力潜水艦シービュー号/Voyage to the Bottom of the Sea
  10. 巨人の惑星/Land of The Giants

こうして並べてみると、宇宙家族ロビンソン、逃亡者、奥様は魔女、スパイ大作戦は、リメイクもしくは本歌取りがなされているなあ。それだけよくできていたということだろう。

個人的に好きだったのは、「インベーダー」のイントロ。遠く、暗い宇宙の奥から地球を目指してやってくるもの、それをいま私たちはインベーダーと呼ぼう。滅び行く星からの侵入者たち。彼らの目的は、地球を我が物にすることにあるのだ。デビッド・ビンセントは、とある夜明け、仕事を済ませての帰り、激しい疲労と戦いながら車を走らせていたが、迷い込んだ田舎道で、彼らインベーダーを目撃した。――というナレーションの「とある夜明け」というところに心が震えた。(笑)
「プロスパイ」は、のちに「スパイのライセンス」に名前を変えたが、ロバート・ワグナーの声を城達也がやってかっこよかったなあ。宝石泥棒のプレイボーイがCIAのスパイになるというオハナシで、主人公の名前はアレックス・マンデー。
「タイムトンネル」も、たぶん今見たら、ばかばかしい大道具で苦笑するに決まっているけど、あの頃は夢中で見ていたなあ。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2006/12/01

11月に読んだ本

『死者の贈り物』長田弘(みすず書房/2003)
『落ちこぼれ—茨木のり子詩集』(理論社/2004)
『In Cold Blood』Truman Capote(Penguin Books)
『英語と日本語 発想と表現の比較』最所フミ(研究社/1975)
『藤田省三著作集 維新の精神』(みすず書房/1997)
『季語集』坪内稔典(岩波新書/2006)
『幽霊船長—河原晋也遺稿集』(文藝春秋/1987)
『北村太郎を探して』北冬舎編集部 (北冬舎 /2004)
『メイプル・ストリートの家』スティーヴン キング/白石朗・永井淳・小尾芙佐訳(文春文庫/2006)
『同時代も歴史である 一九七九年問題』坪内祐三(文春新書/2006)
『俳句を読むということ—片山由美子評論集』(角川書店/2006)
『加島祥造が詩でよむ漢詩—Chinese Poems陶淵明から袁枚まで』(里文出版/2003)
『Echo Park』Michael Connelly(WARNER BOOKS/2006)
『世界史の誕生』岡田英弘(筑摩書房 /1992)
『逆説の日本史〈10〉戦国覇王編—天下布武と信長の謎』井沢元彦(小学館 /2002)
『夏のうしろ—栗木京子歌集』(短歌研究社 /2003)
『三国志実録』吉川幸次郎(ちくま学芸文庫/1997)
『英語類義語活用辞典』最所フミ(ちくま学芸文庫/2005)
『「伝統」とは何か』大塚英志(ちくま新書/2004)
『心中への招待状—華麗なる恋愛死の世界』小林恭二(文春新書/2005)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月に見た映画

クラッシュ(2005/アメリカ)
監督:ポール・ハギス
出演:マット・ディロン、ライアン・フィリップ、サンディ・ニュートン、ドン・チードル、マイケル・ペニャ、

巷説百物語 狐者異
監督:堤幸彦
出演: 渡部篤郎、小池栄子、大杉漣、嶋田久作、遠藤憲一、吹越満

歓びを歌にのせて(2004/スウェーデン)
監督:ケイ・ポラック
出演:ミカエル・ニュクビスト 、 フリーダ・ハルグレン 、 ヘレン・ヒョホルム 、 レナート・ヤーケル

デッドマン(2005/アメリカ)
監督:ジム・ジャームッシュ
出演:ジョニー・デップ、ゲイリー・ファーマー、ロバート・ミッチャム、
音楽:ニール・ヤング

ドッジボール(2004/アメリカ)
監督:ローソン・マーシャル・サーバー      
出演:ヴィンス・ヴォーン、ベン・スティラー、クリスティーン・テイラー

奥さまは魔女(2005/アメリカ)
監督:ノーラ・エフロン
出演:ニコール・キッドマン 、ウィル・フェレル 、シャーリー・マクレーン 、マイケル・ケイン

| | コメント (0)

« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »