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2007年1月

2007/01/30

ユメ十夜

2007_0130

映画「ユメ十夜」を観る。
漱石の『夢十夜』を下敷きにした十話のオムニバス映画。それぞれ十夜の夢を別々の監督が撮っている。原作にかなり忠実な映像もあるし、原作は映像をインスパイアする核になっているだけの作品もある。(じつは大半が後者である)
だが原作とまったくかけはなれたかに思えた作品が、あとでもう一度斜め読みすると、意外に漱石の夢の雰囲気を生かしているように思えるところもある。
こうしてさまざまなテーストの映像作品を続けざまに見ていると、日本映画の今現在の質をはかることができるようだ。そしてその質は、嬉しいことに結構高い。
以下それぞれのスタッフ、キャストの一部を自分用の覚えとして。

 第一夜 監督:実相寺昭雄/脚本:久世光彦/小泉今日子
 第二夜 監督:市川崑
 第三夜 監督・脚本:清水崇/香椎由宇
 第四夜 監督:清水厚/脚本:猪爪慎一
 第五夜 監督・脚本:豊島圭介/市川実日子
 第六夜 監督・脚本:松尾スズキ/TOZAWA
 第七夜 監督:天野喜孝・河原真明
 第八夜 監督・脚本:山下敦弘
 第九夜 監督・脚本:西川美和/緒川たまき、ピエール瀧
 第十夜 監督・脚本:山口雄大/本上まなみ

個人的に気に入ったのは、第六夜の、ほとんど全編がTOZAWAというダンサーの切れのよい音楽に合わせたダンスで構成された一編。
ちなみに漱石の小説はこう始まる。このなんともバカバカしいような味がよく出ている。

    第六夜
運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。

第一夜の実相寺昭雄と久世光彦はすでにこの世の人ではない。あるいはこれが遺作ということになるのかも知れない。

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2007/01/29

吉野せい『洟をたらした神』

『洟をたらした神』吉野せい(彌生書房)を読む。
初版は1974年だが、わたしは今回始めて読んだ。
1975年の第6回大宅壮一賞受賞作なので、多くの人が読んでおられるだろうし、そういう方は、いまさらわたしがなにか知ったかぶりの紹介めいた記事を書くことを快く思われないだろう。何を書こうと、ちゃらちゃらした内容になってしまうに違いないから。

ということで、わたしがそうであったように、吉野せいという名前だけは知っているが本書は未読であるという方は、杉山武子さんの「土着と反逆―吉野せいの文学について」という力のこもった文章がネットに公開されているので、そちらをお読みいただきたい。(こちら)

本書の内容については、著者自らの「あとがき」を読むに如くはない。そう長いものではないので全文を引用する。

一八九九年という遠い遠い昔、海の眩しかった福島県の小名浜という魚臭い町に生まれました。高等小学校卒だけの学歴。
一九一六(大正五年)以来二年ほど小学校に勤めましたが、その間平町に牧師をしていた山村暮鳥氏を知り、懇切な指導と深い感化をうけました。眼に入るものを秩序もなく読み漁りました。辿々しくも文学の勉強に足を突っ込んで張り切っていたつもりの自分が、一九二〇年(大正九年)頃には文学よりも、社会主義思想の模索に傾いていたことをはっきり認めました。時流に浮かされた若さ、正しさ、弱さだと思います。
一九二一年(大正十年)菊竹山腹の小作開拓農民三野混沌(吉野義也)と結婚。以後一町六反歩を開墾、一町歩の梨畑と自給を目標の穀物作りに渾身の血汗を絞りました。けれど無資本の悲しさと、農村不況大暴れ時代の波にずぶ濡れて、生命をつないだのが不思議のように思い返されます。
一九四六年、敗戦による農地解放の機運が擡頭しその渦に混沌は飛び込み、家業を振り返らぬこと数年、生活の重荷、労働の過重、六人の子女の養育に、満身風雪をもろに浴びました。
ここに収めた十七編のものは、その時々の自分ら及び近隣の思い出せる貧乏百姓たちの生活の真実のみです。口中に渋い後味だけしか残らないような固い木の実そっくりの魅力のないものでも、底辺に生き抜いた人間のしんじつの味、にじみ出ようとしているその微かな酸味の香りが仄かでいい、漂うていてくれたらと思います。
各編の末尾に記した年代は、ちょうどその頃の出来事であることを示したもので、作品を書いたのはここ三年の間のことです。
無知無名の拙い文を、なぜ串田先生が真情をもって拾い上げ、彌生書房主が刊行に踏み切ってくだされたか、日頃奇跡を信じない私は、唯黒い手を胸に組み、頭をたれるばかりでございます。

一九七四年九月

少しだけ、この「あとがき」にふれて感想を付け加える。
わたしが注目するのは、「辿々(たどたど)しくも文学の勉強に足を突っ込んで張り切っていたつもりの自分が、一九二〇年(大正九年)頃には文学よりも、社会主義思想の模索に傾いていたことをはっきり認めました。時流に浮かされた若さ、正しさ、弱さだと思います。」という一節。
吉野せいは19歳の頃にすでに小説を書き、月刊誌にも掲載されていたというから、いまとは時代は違うとは言え、華やかな女流の物書きとしてのキャリアを積む道もあったのではないか。
しかしそれを軽佻浮薄な虚名を追う行為のごとくみなす傾向がおそらく本人にもあり、また大正デモクラシーや社会主義の台頭と言う時流もあったのだろう、結果としては、若いうちから文筆の世界で生きる道を自ら閉ざし、凄絶な労働と生活苦の人生に沈んだ。
だが、どうなのだろう、「あとがき」に自ら記すように、その決意は若さであり、正しさであり、そしてなにより「弱さ」であったというこの削ぎ落とされた峻烈な認識。わたしは、二十歳にもならない女性の正義感や使命感をもちろん美しいと思うが、あえてその世界に飛び込まなくてはと思い詰めた場合には、年長者は「そう思い詰めるものではないよ」と言ってやるべきではなかったのかという思いがあるな。自分は安定した生活を確保している知識人と称する人間が、若者に無謀な人生をあたかもそれが人間性の証明であり義務であるかのごとく誇張して伝えるというきらいが、左翼陣営にはあったのではないだろうか。

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2007/01/24

LONESOME隼人をめぐって

『LONESOME隼人』(幻冬舎 )を読む。

事件より拘置・裁判・判決を経て、服役生活の最初の十年の間、母は一度も僕に手紙を書いてくれなかった。あまりのショックと失望、落胆のために書くことができなかったのだ。

「(アメリカ)郷隼人」という表記を朝日歌壇に見かけると、身内でもないのに、なぜかほっとするという方は多いだろう。わたしもそういう一人で、とくにこの歌人の母がやはりこの紙面を見ているであろうことを想像して、ああよかったな、と思うことが多い。と、同時に20年以上を獄中に過ごして、まだ仮釈放も得られないのだなと同情もする。

 実名のあいつは死んであの日より
      虚名の「郷」が生きて歌を詠む  郷隼人

郷隼人は歌詠みのペンネームなのだろう。
明らかにされた略歴や、その短歌からわかるプロフィールはごく限定されたものだ。

  • 鹿児島県の出身者であること。
  • 博多の町でおそらく青春の一時期を過ごした人であろうこと。〈無気力な「ペタンコ座り」の若者が群れているとか愛しの博多〉という歌がある。
  • 1970年代に3年間、シアトルに住んでいたこと。
  • 1982年の母の日に生まれた娘がいること。
  • 1984年に殺人事件を起こし、終身刑の判決で現在も服役中であること。
  • 朝日歌壇に投稿するようになる前に、ロサンゼルスの短歌会のメンバーであったが、その時代には俳句を六年、川柳を三年ほど学んだこと。
  • イチローに驚くほど似ていること。囚人仲間や看守から「ichiro」と呼ばれるだけでなく、鹿児島の母もイチローを見ては渡米前のお前のことを思い出すと便りをくれた。

こうした、断片的なことのなかで、しかしわたしが一番知りたいと思うのは、やはり犯した殺人事件がどのようなものであったのかということだ。とくに誰を殺したのかということが気にかかる。
本書の解説に島田修二はこのように書いている。

アメリカにおいて無期懲役の服務者として投稿を続けて来る郷氏の作品についての評価に、四人の選者(朝日歌壇の選者のこと:獺亭注)に濃淡の差があることは当然のことであり、私自身は後述するような理由もあって、郷隼人の作品については、強い関心を持ちはじめていった。しかし、私自身が、郷隼人というペンネームで投稿して来る人の実人生について、とりわけどのような事件によって裁判を受け、現在に至っているか、ということに特別の興味を持っているわけではない。事実、知っても仕方がない、と思っているくらいである。

Vol95_gallery_f 公式な意見の表明としてはもっともなものだし、あんたらが知っても仕方がないだろう、と言われればその通りである。しかし、それでもあえて、わたしは知りたいと思う。もしかしてそれは、モーニング・ショーのレポーターが、恥知らずにも悲劇に見舞われた人々に「いまのお気持ちは」とマイクを突きつけて話を引き出そうとする卑しい姿と同じなのだろうか、と自問する。よくわからない。そうかもしれない。

郷が最初に収容されたのはレベル4と呼ばれる最厳重警備の監獄で、凶悪犯罪を犯し有罪となった者が最初に服役する施設である。その後、服務態度が良好であれば次第に警備段階の低いレベルの刑務所に移送されていく。いま、郷が服役しているのはレベルがどの段階かは具体的に書いてないが、「最初の施設に比べれば幼稚園のようなものだ」とあるので、おそらくはレベル1か2といった比較的自由が許される刑務所であると思われる。
服役態度はおそらく良好なのだろう。(毎日のように食堂で刺殺事件が起こり、そのつどM1ライフルの威嚇射撃が鳴り響いたという最厳重警備の刑務所は3年で終え、いまはレベルの低い刑務所にいるというのが事実であれば、そうなのだと思う)
〈事務的に「仮釈放拒否」のスタンプをガシリと捺さる審問会にて〉
映画、「ショーシャンクの空に」でモーガン・フリーマンが、この審問会に何度も出て、その都度「拒否」のスタンプを押されるシーンを思い出す。
だが、刑務所の過密問題はカリフォルニア州でも大きな問題ではなかったか。短歌のイメージで、凶悪な犯罪者とはおよそかけはれたように思える郷が、それでもなかなか仮釈放の認可が得られないというのは、やはり同じ殺人罪でも故殺(manslaughter)のようなものでなく謀殺(murder)であったことを示しているような気がする。
娘がいるが、収監されてから一度も会っていないと本人が書いていること、会いたくてならないが、このまま会わずにいることが彼女のためだと思うと書いていること、などから、なんとなくこのあたりの事情は察することができるような気もするのだが—。

卑しい好奇心だけなのか、自分でもやはりよくわからないのだが、それでもいつかこの人が、誰をなぜ殺めてしまったのか語ってくれる日がくれば、それをじっくり読んでみたいと思う。

 一瞬に人を殺めし罪の手と
      うた詠むペンを持つ手は同じ  郷隼人

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2007/01/23

ゾウ語のはなし

「月刊言語」2月号に高野秀行さんが「ゾウ語の研究」という一文を寄稿されている。
高野さんの「ゾウ語」というのは、東南アジア各地で象使いが象に命令する時の言葉のこと。金太郎さんのお馬の稽古の「はいし、どうどう」に同じ。いや、ちょっと違うか。(笑)

このゾウ語、とても不思議である。
現在、ミャンマー、タイなどインドシナのほとんどの国のジャングルでゾウが使役されている。使役する民族も多岐にわたるが、ざっと調べてみると、どの民族もみな、自分たちの言葉とゾウ語が一致しないのだ。例えば、タイ人は人に「止まれ」と命令するときは「ユット」というが、ゾウには「ハオ」という。なぜ、ハオというのかタイ人に訊いてもわからない。
ところが、ゾウ語自体は、国や民族がちがっても、いくつか共通する単語があるのだ。例えば前述の「止まれ」だが、驚くべきことにカンボジアでも、ベトナムでも、ラオスでも、どこでも「ハオ」なのである。そして、この「ハオ」はどの民族の言葉とも似ていない。

20070123 ということで、これはたぶん、古代のインドから象の使役法が伝わって、各民族の象使いのなかにその言葉が残ったのではないか。だとすれば、このゾウ語を研究すればはるか遠い古代のインドからインドシナにかけての民族移動や文化の伝播の時期とルートが明らかになるのでは、と高野さんは考えたというのでありますね。
これ、なかなか面白いね。

ただ残念ながら、高野さんは音韻学者ではないので、たとえば有気音と無気音、語尾の「-n」と「-ng」の聞き取りなどをきちんとして、学問的にゾウ語の語彙を収集することができないという。ところが、よくしたものでポルトガル在住の言語学者、小坂隆一氏が、「録音があれば聞き取りくらいはしてあげるよ」ということになった。
高野さん、さっそくいろんな民族のゾウ語を録音採取して、ポルトガルに送った。エッセイによれば、このお二人、インターネット電話(たぶんSkypeかな)でユーラシア大陸をまたいで延々と話をしているらしいので、たぶん、録音データも音声ファイルで送ったのだろう。じつに便利な世の中である。

だが、録音を聞いた小坂さんは「うーん、これじゃ今ひとつよくわからないですね」というのだそうです。採取されたのが動詞ばかりである。言語学の基礎語彙をつくるには名詞が必要だ。母、父のような親族名称、空や石のような一般名詞。
「そりゃ、無理ですよ!」と高野さんは思わず悲鳴をあげた。ゾウ語というのは最初から動詞しかない。しかも命令形のみ。
まあ、そうだろうなあ。なんせ象を使役するための言葉である。
「キミのお母さんの弟のことはなんて呼ぶのかなあ」だとか「ほら運んで欲しいのは、この大きな石だよ」なんていうような言葉ではない。

ということで、研究はいま暗礁に乗り上げているそうです。
どなたかいいアイデアをお持ちの方はぜひご一報を、とのことであります。

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2007/01/17

トラックバックのあつかい

拙ブログにおけるトラックバックに対する考え方はとくに変えていませんが、今回ココログのバージョンアップによってトラックバックについて新しい機能が追加されましたので少しだけ運用を変えます。
従来、トラックバックはすぐに反映されていましたが、管理者(つまりわたし)の承認によって公開されるように設定をいたしました。
今後は見るも不愉快なエロサイトだのアフィリエイト馬鹿のTBは、できるだけみなさんのお目にとまらないようにいたします。
ただし、この設定により善意のみなさんからのTBもいったん保留されて、管理者の承認待ちとなりますので、あしからずご了承くださいませ。
報道によれば、アダルトサイトのメールを扱うクソ会社は1社で54億(!)通のメールをたった2ヶ月で送信していたとか。
こういう輩は、たぶん同じような迷惑をだれかが蒙っているであろうところのサウジアラビアなんかに犯人の引き渡しを要求してもらって、そっちに送致し、むこうの刑罰を適用するのがいいのではないかと思うが、どうでしょうねえ。(笑)

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汁粉屋と顔のない戦争

「俳句研究」2月号、仁平勝さんの連載「おとなの文学」の第8回「床屋談義お断り」で、しょうもない時事俳句の一例として鳴戸奈菜さんの名前を具体的に挙げて示してある。
鳴戸奈菜さんという俳人がどういう方であるのか、わたしは全然知らないが、野次馬としてはこういう「もめごと」は面白いので、反論、再反論とどんどんエスカレートしていただきたい。(笑)もっとも議論としては仁平さんの意見は筋が通っており、鳴戸さんに反論の余地はあまりなさそうだ。
とは言え、しかし仁平さんの批判にも、少々問題がないわけではないようにわたしには思える。

まず仁平さんは、自分はなにも時事が俳句の題材にならないといっているのではない、と言う。ただ、俳句で時事を詠むことの方が、そうでないものより同時代にとって価値があるかのような考え方があるとすれば、それは間違いである。花鳥風月と時事とは、俳句の題材としてはまったく同じ価値である、と述べる。
しかるに、そう思わない——すなわち俳句の題材に時事を選ぶことの方が価値が高いと思っている俳人がいるようだ。たとえば鳴戸奈菜などはそういう考えの持ち主のように思われる。その証拠に、という具合に話の流れはなっているのですが、以下は仁平さんの文章を少し長くなるが直接引用する。

たとえば昨年本誌で俳句時評を担当した鳴戸奈菜も、そういう勘違いをしているようだ。一月号でわたしの、<水打たれたる汁粉屋に入りけり>などの句を挙げて、「正直に言ってどうして仁平さんがこんな時代錯誤的な感慨を詠むのか真意を測りかねる」と書いている。わたしの句が下手だというなら仕方がない。しかし「時代錯誤的」だというのは、俳句の批評ではなく言い掛かりである。
ようするに鳴戸さんは、汁粉屋よりもイラク戦争のほうが、俳句の題材として価値があると思っているのだ。ちなみに先月号では、次のような句を発表している。

  顔のない戦争またも初日の出  鳴戸奈菜

すなわち時事俳句である。「顔のない戦争」とは、イラク戦争に代表される現代の戦争のことだろう。新聞やテレビですっかり使い古された言葉だ。ためしにネットで検索すると、さっそく「しんぶん赤旗」の「米国籍は死の代償−顔のない戦争」という記事にヒットした(「顔のない」と「戦争」の組み合わせなら一〇〇〇件くらいある)。
鳴戸さんがこの記事を読んだかどうかは知らないが、どっちにしてもマスコミの常套語(つまり床屋談義の用語)であり、そういうフレーズをそのまま使って「またも初日の出」といわれても、詩的な感慨は湧いてこない。それこそ、どうして鳴戸さんがこんな新聞記事のような句を詠むのか真意を測りかねる。どう贔屓目にみても(もちろん鳴戸さんのほうを)、「水打たれたる汁粉屋」のほうがずっといい。

俳壇の論客、仁平さんにここまでやっつけられると、鳴戸さんに多少気の毒な気もするが、まあ、さきに「手を出した」のは鳴戸さんである。
率直に言ってわたしも「顔のない戦争」よりは「汁粉屋」の方をいただく口であるが、少し気になることもある。

まず鳴戸さんが俳句時評で仁平さんの句を「時代錯誤」と評したのは、昨年の「俳句研究」1月号である。今年の1月号からは井上弘美さんがこのコーナーの担当者なので、これはいまから1年と1ヶ月前、鳴戸さんが時評を担当し始めた第一回目にあたる。
なんとなく、なんで今ころ、という気もしないではない。鳴戸さんがたまたま「顔のない戦争」なんて俳人らしからぬ安易な言葉を使った失策(現にこの句を含む鳴戸さんの「露景色」十二句のなかで時事めいたものはこの一句だけだ)に、しめしめと乗じたという、いささか大人げない気配もないわけではないように思う。だが、まあ、それはいいのである。わたしが仁平さんであっても「時代錯誤」などいう失礼なだけでなく、俳句論からいってもおよそ的外れな攻撃を仕掛けてくるなら、チャンスがあればがつんと反撃はするだろう。

わたしが気になった問題は、仁平さんの「顔のない戦争」がマスコミで使い古された言葉であり、ネットで検索すると云々という箇所なのである。

わたしがあまり熱心な新聞の読者ではないからかも知れないが、(外交政策や国際関係、中東情勢などについては基本的に英米の記事に頼る主義である)「顔のない戦争」という表現は、イラク戦争あるいは対テロ戦争の形容としてそんなに常套語なんだろうかという疑問である。わたしは、どこかで聞いたことがあるような気もするが、手垢まみれの常套語だとまで言い切る自信はない。(陳腐で無内容なスローガンだとは思うが)
現に、いまグーグルで「顔のない戦争」を検索しても、仁平さんが言うような結果は得られない。ご自身の論を補強するするにはいささか勇み足ではなかったか。

わたし個人の意見としては、〈顔のない戦争またも初日の出〉なんて安易で、どこかの政党機関紙の時事川柳コーナーにでも投稿すれば、というような句こそ「時代錯誤」にもっともなりやすい句だと思う。作家にすれば真実の気持ちであると言いたいと思うが、結果として時代の空気に迎合したものに堕している。
一例を挙げる。戦時中はこういう句が、作家の真情として吐露された。

  神州の山桜咲く撃ちてしやまむ 臼田亜浪

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2007/01/15

河上肇の日本語

河上肇の『貧乏物語』を読む。
もともと大正5年(1916)9月11日から12月26日まで、大阪朝日新聞に断続的に連載された経済論文であるが、著者自らこれを「物語」と名付けたとおり、論文というよりはむしろ講談に近いような語り口。たとえば次のような箇所——

以上をもって私はこの物語の上編を終え、これより中編に入る。冬近うして虫声急かなる夕なり。
今日の社会が貧乏という大病に冒されつつあることを明らかにするが上編の主眼であったが、中編の目的はこの大病の根本原因の那辺にあるかを明らかにし、やがてこの物語全体の眼目しして下編の主題たるべき貧乏根治策に入るの階段たらしむるにある。

2007_0115 大阪朝日の連載は大きな影響と衝撃を社会にあたえ、翌大正6年2月に単行本として公刊されるや、当時のベストセラーとなった。だが、大正8年に30刷をもって著者自らこれを絶版となし、以後、本書が日本の思想史上の古典的な意義があるとしてその復刻を強く望まれたにもかかわらずこれを許さなかった。マルクス主義に転じた河上の目から見たとき、本書の「貧乏根治策」——富者の奢侈の道徳的抑制と人心の改造がなにより有効であるとする結論が、すでに自分が誤りとして清算したものであるという学問的良心による。
岩波文庫がこれを復刻したのは1946年、河上の没後である。

おそらく、今日これを読むことの意義は、河上肇の日本語を味わう点にあるだろうと思う。それは河上の日本語が「美しい」というような曖昧な意味ではない。むしろ「文章千古事、得失寸心知」(杜甫)や「文章経国大業、不朽之盛事」(曹丕)でいうところの文章を日本語として表現し得たものである、という意味においてである。河上は「文章の要諦は、修辞でなく、達意である」と語ったといわれる。達意はそれをもって人を動かすという志がまず先にあるものであろう。
学問的価値はさておき、達意の見本のような文章を『貧乏物語』から引く。読むこと自体が快感であるようなこのリズム感。

今その英国に育ちたる経済学なるものの根底に横たわりおる社会観を一言にしておおわば、現時の経済組織の下における利己心の作用をもって経済社会進歩の根本動力と見なし、経済上における個々人の利己心の最も自由なる活動をもって、社会公共の最大福利を増進するゆえんの最善の手段なりとするにある。しかるに、元来人は教えずして自己の利益を追求するの性能を有する者なるがゆえに、ひっきょうこの派の思想に従わば、自由放任はすなわち政治の最大秘訣であって、また個人をしてほしいままに各自の利益を追求せしめおかば、これにより期せずして社会全体の福利を増進しうるということが、現時の経済組織の最も巧妙なるゆえんであるというのである。すなわち現時の経済組織を謳歌し、その組織の下における利己心の妙用を嘆美し、自由放任ないし個人主義をもって政治の原則とするということが、いわゆる英国正統学派の宗旨とするところである。

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2007/01/12

『句集 彼方より』

353802758_56d530f8f2_1 圖子まり絵さんより第一句集『彼方より』(文學の森/2006)をご恵贈いただく。
ご本人には怒られるかもしれないが、何度も句会をご一緒させていただいた方の句集というのは、なんだか他人の作品のように思えない。まるで通い慣れた小径を散歩するような楽しさがあるんだなということが、今回よくわかった。
ただ、ここに収められた俳句のどれもが、じつに滑らかで手触りのよいものだから、はじめてこれを読む人は、あるいは作者はいつもすらすらとこういう句を紡いでいるのだろうと思われるかもしれない。だがそれは違うと思う。

作者は、ご一緒した句会では、ときにあえて破綻して行くような不思議な作句をなさる場合がある。おそらくそれは自分でも思いがけないような詩の核を見つけるための冒険だったのだろう。句会の楽しさは、高得点を得るなんてことよりも、そういう意外な発見のきっかけとなるところにあるとわたしは思う。
そこまではわたしにも見えていたと思うのだが、今回、句集というかたちで作者が二百句を選ばれたものを見て、わたしはあっと思った。
詩の核を見つける楽しさの先に、それを俳句として形作っていく粘り強さというか持続力のようなものがいるんだなと思ったのである。
この句集には破綻していくような作品は皆無である。読んで楽しく面白い。
一見、軽々と詠んでいるように見えるのは、実は作者の推敲の賜物である。

まず句集の春の部、とくにつかみの冒頭三句がいい。

 水辺よりチェロではじまる春の章
 木蓮の鼓動に白みゆく大和
 倖せという無重力春の絮

こうしてあたたかく、しあわせな気分でどこまでも頁をめくっていく。よきかな俳句であります。わたしも、もういちど俳句やってみようと思った句集でありました。
あと気に入ったものをいくつか抜いておきます。

 マニキュアの指が眩しい葱坊主
 泣きに来た大音声の蝉の森
 異教徒をかくまうように花茗荷
 四捨五入して善女です沙羅の花
 スフィンクスくすくす笑う鰯雲
 懐に寒月抱いて先斗町
 弦一本切って助走の鶴となる

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2007/01/10

大塚久雄と中野正剛(承前)

自分と同じように左足を切断された男がいると知った中野正剛は、さっそく大塚久雄に手紙を書く。以下『大塚久雄 人と学問—付 大塚久雄「資本論講義」』より。

数日後、大きな封書が大塚の許に届いた。中野正剛からのものだった。開いてみると、あなたは隻脚とのことだが、じつはわたしも片足がない。しかし義足で普通に歩いている。そういうわけで義足屋を世話しようと思う、と書いてあった。
大塚は中野正剛なんぞと関わりたくないと思って、そのまま放っておいた。
大塚の体調はほぼ順調になり、久しぶりに快適な気分の日であった。しかし戦争はおもしろくない。彼は自宅のピアノでマーチを弾いて子どもたちを遊ばせていた。
すると子どもが
「お父さん、うちの前に旗を立てた車が止まったよ」
といった。
見ると、中野の組織した東方会の旗を立てた車が止まっていた。やがて中野正剛が入ってきた。
中野は突然の来訪をまず詫びた。それから部屋の中を歩いて見せて「義足でもこんなに歩けるのだ」といった。

このあたり、中野正剛という男の、思い立ったら一直線の性格がよく出ているような気がするな。
これがきっかけとなって大塚は中野の紹介してくれた義足屋で左足の義足をつくり、その後もこの義足屋で中野と二、三回遭ったことがある、という。

2006_0110_1 こうして1943年の春、二人が義足の縁で知り合ったころ、中野正剛は『戦時宰相論』という本で東条英機を痛烈に批判したため東条の激しい怒りを買っていた。
この年、10月のはじめ、大塚は中野から自宅まで来ては貰えぬかという連絡を受けた。義足で世話になったこともあり、大塚は何ごとかと思いながら中野の家まで出向いた。

中野正剛は二十畳敷の座敷の真中に座っていた。床の間には日本刀が飾ってあった。中野は声を落として、しかし悠然としていった。
「自分はもう長くはありません。これだけ東条に狙われていては、もうどうしようもないのです。右翼の御用経済学者は自分も何人か知っていますが、あんな連中はまったく頼りになりません。だからといって大塚さん、わたしはあなたに何も頼もうとは思いませんが、たった一つだけ願い事を聞いて下さい。それは子どものことです。わたしには二人の息子がいます。その将来について相談に乗ってやって下さい」
中野の意外な依頼に、大塚は「どこまで出来るかわかりませんが……」といいながら了承した。

10月21日、中野正剛は倒閣工作容疑で逮捕、憲兵からの拷問をうける。
10月26日釈放。同日夜、床の間の日本刀にて、古式通りに十字に割腹してから頸動脈を切り自害して果てた。

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2007/01/09

大塚久雄と中野正剛

大塚久雄(1907-1996)といえば、マルクス経済学とウェーバー社会学を基礎に、のちに大塚史学と称されるような学問大系を築いた大家。専門のひとつがマルクス経済学ですから、当然戦前は特高からも目をつけられていた。(*コメント参照)右翼やら民族派からは一番遠い人物といっていいでしょう。
一方、中野正剛(1886-1943)といえば、もともとは玄洋社・頭山満に連なる人物で、戦前の右翼の頭目の一人である。ヒットラーやムッソリーニにも会見して、ファシズムに傾斜、大政翼賛会の総務をつとめた。東方会総裁。

およそ、思想的に交わることのありえない二人ですが、不思議な交流があった。

『大塚久雄 人と学問—付 大塚久雄「資本論講義」』石崎津義男(みすず書房/2006)より。

2007_0109 1943年、衆議院議員でもあった中野正剛は早稲田大学で講演をしたが、講演後の懇親会で西洋経済史の教授の小松芳喬に「あなたは義足だが、われわれの仲間にも大塚久雄という片足を切断した男がいて」と話しかけられた、というのですね。

大塚久雄は1941年6月、満員のバスの降車の際に将棋倒しとなり、そのとき左膝を強くひねっために東大病院柿沼内科に入院する。戦時下ですから、極度に栄養不足だったせいもあるのかもしれません、関節はリューマチを起こしており治療は長引きました。ところがあるとき、若い助教授がやってきて強引に検査と称して注射器で体液を採っていった。この注射痕から化膿がはじまり、最終的には左脚上腿部の中ほどから切断をすることになったのであります。いまなら医療事故で訴訟ものですが、内科主任の柿沼教授が謝罪をしただけで、入院以降の一切の費用は大塚に請求されたといいます。ひどい話だが、まあそういう時代であったのでしょう。

一方、中野正剛も幼年時代に落馬がもとで傷めていた左足の整形手術を四十歳のころ受けるのだが、これが失敗して大腿部から切断した後は、義足を用いていた。
(この項つづく)

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2007/01/08

「寅さん」という季語

テレビ朝日の「芸能人雑学王最強No.1決定戦」を見ていたら、敗者復活戦の「ウソ、ホント」クイズというのをやっていた。爆笑問題の太田光が出題する問題がウソかホントか、失格したタレントたちが自分が思う方に移動して、敗者復活の枠を絞って行くという趣向である。
こういうのはなんとなく気になるもので、ふーんとか言いながら見ていたら、何問目かに俳句の問題というのが出た。
こういうのである。(テレビ朝日の公式番組サイトからコピペする)

<問題>
俳句には季節を表す「季語」があります。こちらのように、春を表す季語には「桜」、夏を表す季語には「入道雲」、秋を表す季語には「月見」などがありますが、実は、冬を表す季語に、映画“男はつらいよ”でおなじみの「寅さん」という季語がある。ホントかウソか?

クイズ番組の作り方からいえば、俳句みたいな権威的でうるさそうな世界で、そんなさばけた粋な計らいはないだろうから、みんなに「ウソ」と思わせて実は「ホント」でした、という流れだろうとまず予想できる。
だが、ここでわたしは記憶の底を浚ってみたが、「寅さん」を冬に入れたような歳時記はみたことがない。そんなものがあれば、「おやおや」と覚えているはずだ。
ということは、上記のような番組のつくりかたから推理する奴のさらに裏をかく出題か、こりゃ、なかなか、あなどれないな。これは「ウソ」が正解だぁ、と、がってん手のひらを叩いた。

俳句ファンのみなさんはどうお答えになるだろうか。

ところが「正解」は「ホント」だというのですね。へぇ?

ということで、なぜこれが「ホント」であるのか、番組の解説を、上記と同じようにコピペしてみよう。

「寅さん」は本当に冬の季語としてあるんですね。
(黛まどかさんが主催していた俳句サークル「月刊ヘップバーン」にて認定されている。)
へぇ〜!!
映画「男はつらいよ」が毎年の正月映画として定着していたことから、「寅さん」が冬の季語となったんです!
すごいよね〜!!    

いや、ほんとにすごいですね、別の意味で。それ以上みる気が失せたのは言うまでもない。(笑)

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2007/01/05

時局の短歌二首

時局にからめて印象に残った短歌二首。いずれも永田和宏。(「短歌」1月号)

 助命など請うこと莫れフセインの
 捕われしのちの顔のよろしさ

 もうやめたと言うときはすなわち死の刻にして
 チャウシェスクの場合金正日の場合

BBCのバクダッド特派員の新年の記事によれば、イラク人の同僚が出社して「今朝は通りに頭が六つ転がっていたよ」などと言って仕事に取りかかるのだとか。そのこと自体はもはやニュースにもならないのですね。内戦というものの凄まじさを、イラク情勢からわたしたちはよく見ておいたほうがいいようです。フセイン処刑の映像をみながら感じたのはやはり人間どうせ殺されるなら命乞いなどせず最後の根性を見せるに限るということ。かれはスンニ派の殉教者として美化されることになるでしょう。ブッシュの負けです。

国内ニュースでは、朝鮮半島有事で北朝鮮難民は10万から15万人、政府予測とある。
麻生外相が例によって口の端をゆがめて「これ武装難民もいるんですからね」と話していたが、この人の特徴で、本人はシニカルな表情のつもりなんだと思うが、ただひたすら品性があんまり芳しくないことを天下に知らしめているとしか思えない。政治家は見た目が10割、まことに気の毒な方である。
この問題、中国が北朝鮮を「処置」する責任があるだろうが、北京五輪が迫っているから決断が難しいだろうなあ。
日本も今年は多難な年になりそうであります。

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2007/01/04

「サー」の問題

ウッドハウスのジーヴスものを、森村たまきさんによる翻訳と岩永正勝・小山太一両氏の共訳とで読んで、すぐに気づくのは「サー」の処理の問題である。

同じ箇所の二種類の訳を並べてみればいいのだが、いまは本が揃ってないので、とりあえず、まず手元にある『でかした、ジーヴス!』(森村たまき訳)の最初のところを引く。

「ジーヴス」僕は言った。「今朝の僕はいつもの陽気な僕じゃないんだ」
「さようでございますか、ご主人様?」
「そうなんだ、ジーヴス。全然まったく陽気な僕じゃない」
「さようにお伺いいたしましてたいそう遺憾と存じます、ご主人様」

つぎにこの原文。

'Jeeves,' I said. 'I am not the old merry self this morning.'
'Indeed, sir?'
'No Jeeves. Far from the old merry self.'
'I am sorry to hear that, sir.'

いかがだろうか。わたしは、最初、このジーヴスの「ご主人様」が気にかかっていた。(いまはそうでもない。あとで説明する)

では、つぎに岩永正勝・小山太一の共訳。毎度おなじみのバーティ・ウースターの服装に対するジーヴスの冷ややかな視線が感じられる場面。『ジーヴスの事件簿』の「ジーヴスの初仕事」から。

「このスーツが気に入らないようだな、ジーヴス?」
「滅相もないことです」
「いったいどこが気に入らない?」
「大変ご立派なスーツで」
「そうじゃないだろう。何が悪いんだ?言ってみろ」
「もし申上げてよろしければ、無地の茶か青、おとなしい綾織か何かの—」
「たわけたことを!」
「よろしゅうございます」
「全くのたわごとだぞ、おまえ!」
「仰せのとおりかと」

原文。

'Don't you like this suit, Jeeves?' I said coldly.
'Oh, yes, sir'
'Well, what don't you like about it?'
'It is a very nice suit, sir'
'Well, what's wrong with it? Out with it, dash it!'
'If I might make the suggestion, sir, a simple brown or blue, with a hint of some quiet twill -'
'What absolute rot!'
'Very good, sir'
'Perfectly blithering, my dear man!'
'As you say, sir'

つまり、森村さんの方は「サー」はすべて「ご主人様」というかたちで訳出する。対して岩永・小山組は「サー」は全部、取っちゃうという大方針を最初に立てたのですね、たぶん。

この二種類の翻訳はほぼ同時に出版されたこともあるし、それぞれが訳者の「あとがき」あるいは「付言」で、別の翻訳についての記述があるので、やはりそれなりに意識をされているように思う。

わたし自身は、どちらも丁寧な翻訳で、どちらもたいへん読みやすいいい出来だと感じている。だから読み比べてどっちが上で、どっちが下だなんて品のない評価じみたことをする気は一切ない。どちらもいい翻訳ですよ、で十分だと思う。

ただし、読後のテーストはやや異なる。あえて言えば森村訳の方がやや古風なとぼけた味わいが強く、岩永・小山訳がモダーンで小粋な感じがよくでているように思う。

20070104 ところで、この「サー」をどう処理するかというのは本当にむつかしい。
わたしもいろいろ考えてみたのだが、これという案は浮ばない。「若」、「殿」、「旦那さま」、「御前」—どれも駄目である。では、全部取った方がいいかというと、ときどきジーヴスは微妙なニュアンスで(たとえば不同意と批判をこめた)'Sir?' なんて発言をやらかすので、ここだけ「ご主人様?」というわけにはいかないから「は?」何て感じで訳すことになると思うのだが、そうすると原文のもつジーヴスの一貫した礼儀正しい、というより慇懃無礼すれすれの尊大さの統一感がくずれるような気もする。

おそらく、こういうのは好き嫌いの範疇で、そして好き嫌いは、どっちを最初に読んだかで決まるのではないか、という気もする。わたしは森村訳から入ったので、いまではジーヴスの言葉尻に「ご主人様」がつかないと、どうも座りが悪いような気がするのであります。ただ、いかにも「ご主人様」というのは卑屈な隷従の響きがあるのも事実。

そこで、わたしの折衷案ですが、森村訳をよむときはジーヴスの発言の「ご主人様」のところに「サー」というルビが振ってあるつもりで読む。岩永・小山訳のときは、ジーヴスのパートの句読点の前に「サー」が隠れているつもりで読む、というのがよいのではないかと思うのでありますが、いかがなものでしょう。
そんなメンドクサイことができるかって?
いかにも仰せのとおりかと、サー。

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2007/01/03

ウッドハウスについて

その作品を読むたびに、P.G.ウッドハウスについて何か書こうと思うのだが、これおもろいよね、という以外にあまり書きたいことがないので、いつもそのままになっている。

「書く」ことがない、というのではない。

第二次大戦中に不幸にもフランスから脱出が遅れたためにナチ協力者よばわりされたことだとか(ためにかれはイギリス国籍を外れてアメリカ市民となった)、そのとき左翼陣営から、そもそも、こんな貴族階級や金満家をキャラクターにした小説はファシズムの温床であるなんていいがかりをつけられて、魔女裁判もどきに起訴されそうになったとき、まっ先に反対したのがジョージ・オーウェルだったなんてことだとか、この先生のつくったバーティという気のいい若主人と従僕ジーヴスのキャラクターが、カズオ・イシグロの『日の残り』のヒントになったらしいとか、ドロシー・L・セイヤーズのピーター・ウィムジイ卿ものの原型もこの先生の作品であるとか、他にもいろいろ、いかにも「わたし好み」の話題には事欠かないのだが、そんなこたぁ、どうだっていいじゃねえか、おもろいよ、これ、という以外には「書きたい」ことがいつもないのである。まったく困ったことである。

つまり、そういう小賢しいことを書くのがめんどくさくなるくらい面白いのである、ということで勘弁していただこう。

昨年来読んだのは、まずバーティとジーヴスものを国書刊行会が「ウッドハウス・コレクション」と冠して次々に出しているもののなかから以下の5冊。訳はいずれも森村たまき。

『比類なきジーヴス』
『よしきた、ジーヴス』
『それゆけ、ジーヴス』
『ウースター家の掟』
『でかした、ジーヴス!』

シリーズはあと『サンキュー、ジーヴス』と『ジーヴスと朝の喜び』と続くらしいが、後者はたぶん未刊のはず。わたしは『サンキュー』の方は次回はPBで読もうかなと思っている。

2_838c8ff91e ほぼ時期を同じくして文藝春秋から「ウッドハウス選集全三巻」が出ている。
それぞれ、『ジーヴスの事件簿』、『エムズワース卿の受難録』、『マリナー氏の冒険』だが、どうやら最後の巻は未刊の模様。翻訳は岩永正勝と小山太一の共訳。
じつは、『エムズワース卿の受難録』の出来が素晴らしかったので、もう我慢できずに他の巻も買いに難波のジュンク堂まで出向いたのだが、上記の国書刊行会のシリーズと文藝春秋の選集が並んだ棚には『マリナー氏の冒険』はなかったのであります。
『ジーヴスの事件簿』だけを買って帰ったのですが、これには「おまけ」として吉田健一の文章とイーヴリン・ウォーの「P.G.ウッドハウス頌」というBBC放送用の文章がついているのでなかなか豪勢な本となっています。
で、いま読んでいるところですが、本書には上記の国書刊行会の「コレクション」と同じものが収録されているので、どうしても、翻訳(の違い)ということに思いが走るのはやむをえない。
というあたりを、明日また書きます。

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2007/01/01

春在枝頭己十分

20070101_2  探春

 終日尋春不見春

 杖藜踏破幾重雲   

 帰来試把梅梢看   

 春在枝頭己十分   

 

 

終日春を尋て春を見ず

杖藜(じょうれい)踏破す幾重の雲

帰来試みに梅梢を把って看れば

春は枝頭に在ってすでに十分

今年もよろしくお願いいたします。

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