ウッドハウスのジーヴスものを、森村たまきさんによる翻訳と岩永正勝・小山太一両氏の共訳とで読んで、すぐに気づくのは「サー」の処理の問題である。
同じ箇所の二種類の訳を並べてみればいいのだが、いまは本が揃ってないので、とりあえず、まず手元にある『でかした、ジーヴス!』(森村たまき訳)の最初のところを引く。
「ジーヴス」僕は言った。「今朝の僕はいつもの陽気な僕じゃないんだ」
「さようでございますか、ご主人様?」
「そうなんだ、ジーヴス。全然まったく陽気な僕じゃない」
「さようにお伺いいたしましてたいそう遺憾と存じます、ご主人様」
つぎにこの原文。
'Jeeves,' I said. 'I am not the old merry self this morning.'
'Indeed, sir?'
'No Jeeves. Far from the old merry self.'
'I am sorry to hear that, sir.'
いかがだろうか。わたしは、最初、このジーヴスの「ご主人様」が気にかかっていた。(いまはそうでもない。あとで説明する)
では、つぎに岩永正勝・小山太一の共訳。毎度おなじみのバーティ・ウースターの服装に対するジーヴスの冷ややかな視線が感じられる場面。『ジーヴスの事件簿』の「ジーヴスの初仕事」から。
「このスーツが気に入らないようだな、ジーヴス?」
「滅相もないことです」
「いったいどこが気に入らない?」
「大変ご立派なスーツで」
「そうじゃないだろう。何が悪いんだ?言ってみろ」
「もし申上げてよろしければ、無地の茶か青、おとなしい綾織か何かの—」
「たわけたことを!」
「よろしゅうございます」
「全くのたわごとだぞ、おまえ!」
「仰せのとおりかと」
原文。
'Don't you like this suit, Jeeves?' I said coldly.
'Oh, yes, sir'
'Well, what don't you like about it?'
'It is a very nice suit, sir'
'Well, what's wrong with it? Out with it, dash it!'
'If I might make the suggestion, sir, a simple brown or blue, with a hint of some quiet twill -'
'What absolute rot!'
'Very good, sir'
'Perfectly blithering, my dear man!'
'As you say, sir'
つまり、森村さんの方は「サー」はすべて「ご主人様」というかたちで訳出する。対して岩永・小山組は「サー」は全部、取っちゃうという大方針を最初に立てたのですね、たぶん。
この二種類の翻訳はほぼ同時に出版されたこともあるし、それぞれが訳者の「あとがき」あるいは「付言」で、別の翻訳についての記述があるので、やはりそれなりに意識をされているように思う。
わたし自身は、どちらも丁寧な翻訳で、どちらもたいへん読みやすいいい出来だと感じている。だから読み比べてどっちが上で、どっちが下だなんて品のない評価じみたことをする気は一切ない。どちらもいい翻訳ですよ、で十分だと思う。
ただし、読後のテーストはやや異なる。あえて言えば森村訳の方がやや古風なとぼけた味わいが強く、岩永・小山訳がモダーンで小粋な感じがよくでているように思う。
ところで、この「サー」をどう処理するかというのは本当にむつかしい。
わたしもいろいろ考えてみたのだが、これという案は浮ばない。「若」、「殿」、「旦那さま」、「御前」—どれも駄目である。では、全部取った方がいいかというと、ときどきジーヴスは微妙なニュアンスで(たとえば不同意と批判をこめた)'Sir?' なんて発言をやらかすので、ここだけ「ご主人様?」というわけにはいかないから「は?」何て感じで訳すことになると思うのだが、そうすると原文のもつジーヴスの一貫した礼儀正しい、というより慇懃無礼すれすれの尊大さの統一感がくずれるような気もする。
おそらく、こういうのは好き嫌いの範疇で、そして好き嫌いは、どっちを最初に読んだかで決まるのではないか、という気もする。わたしは森村訳から入ったので、いまではジーヴスの言葉尻に「ご主人様」がつかないと、どうも座りが悪いような気がするのであります。ただ、いかにも「ご主人様」というのは卑屈な隷従の響きがあるのも事実。
そこで、わたしの折衷案ですが、森村訳をよむときはジーヴスの発言の「ご主人様」のところに「サー」というルビが振ってあるつもりで読む。岩永・小山訳のときは、ジーヴスのパートの句読点の前に「サー」が隠れているつもりで読む、というのがよいのではないかと思うのでありますが、いかがなものでしょう。
そんなメンドクサイことができるかって?
いかにも仰せのとおりかと、サー。
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