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2007/01/17

汁粉屋と顔のない戦争

「俳句研究」2月号、仁平勝さんの連載「おとなの文学」の第8回「床屋談義お断り」で、しょうもない時事俳句の一例として鳴戸奈菜さんの名前を具体的に挙げて示してある。
鳴戸奈菜さんという俳人がどういう方であるのか、わたしは全然知らないが、野次馬としてはこういう「もめごと」は面白いので、反論、再反論とどんどんエスカレートしていただきたい。(笑)もっとも議論としては仁平さんの意見は筋が通っており、鳴戸さんに反論の余地はあまりなさそうだ。
とは言え、しかし仁平さんの批判にも、少々問題がないわけではないようにわたしには思える。

まず仁平さんは、自分はなにも時事が俳句の題材にならないといっているのではない、と言う。ただ、俳句で時事を詠むことの方が、そうでないものより同時代にとって価値があるかのような考え方があるとすれば、それは間違いである。花鳥風月と時事とは、俳句の題材としてはまったく同じ価値である、と述べる。
しかるに、そう思わない——すなわち俳句の題材に時事を選ぶことの方が価値が高いと思っている俳人がいるようだ。たとえば鳴戸奈菜などはそういう考えの持ち主のように思われる。その証拠に、という具合に話の流れはなっているのですが、以下は仁平さんの文章を少し長くなるが直接引用する。

たとえば昨年本誌で俳句時評を担当した鳴戸奈菜も、そういう勘違いをしているようだ。一月号でわたしの、<水打たれたる汁粉屋に入りけり>などの句を挙げて、「正直に言ってどうして仁平さんがこんな時代錯誤的な感慨を詠むのか真意を測りかねる」と書いている。わたしの句が下手だというなら仕方がない。しかし「時代錯誤的」だというのは、俳句の批評ではなく言い掛かりである。
ようするに鳴戸さんは、汁粉屋よりもイラク戦争のほうが、俳句の題材として価値があると思っているのだ。ちなみに先月号では、次のような句を発表している。

  顔のない戦争またも初日の出  鳴戸奈菜

すなわち時事俳句である。「顔のない戦争」とは、イラク戦争に代表される現代の戦争のことだろう。新聞やテレビですっかり使い古された言葉だ。ためしにネットで検索すると、さっそく「しんぶん赤旗」の「米国籍は死の代償−顔のない戦争」という記事にヒットした(「顔のない」と「戦争」の組み合わせなら一〇〇〇件くらいある)。
鳴戸さんがこの記事を読んだかどうかは知らないが、どっちにしてもマスコミの常套語(つまり床屋談義の用語)であり、そういうフレーズをそのまま使って「またも初日の出」といわれても、詩的な感慨は湧いてこない。それこそ、どうして鳴戸さんがこんな新聞記事のような句を詠むのか真意を測りかねる。どう贔屓目にみても(もちろん鳴戸さんのほうを)、「水打たれたる汁粉屋」のほうがずっといい。

俳壇の論客、仁平さんにここまでやっつけられると、鳴戸さんに多少気の毒な気もするが、まあ、さきに「手を出した」のは鳴戸さんである。
率直に言ってわたしも「顔のない戦争」よりは「汁粉屋」の方をいただく口であるが、少し気になることもある。

まず鳴戸さんが俳句時評で仁平さんの句を「時代錯誤」と評したのは、昨年の「俳句研究」1月号である。今年の1月号からは井上弘美さんがこのコーナーの担当者なので、これはいまから1年と1ヶ月前、鳴戸さんが時評を担当し始めた第一回目にあたる。
なんとなく、なんで今ころ、という気もしないではない。鳴戸さんがたまたま「顔のない戦争」なんて俳人らしからぬ安易な言葉を使った失策(現にこの句を含む鳴戸さんの「露景色」十二句のなかで時事めいたものはこの一句だけだ)に、しめしめと乗じたという、いささか大人げない気配もないわけではないように思う。だが、まあ、それはいいのである。わたしが仁平さんであっても「時代錯誤」などいう失礼なだけでなく、俳句論からいってもおよそ的外れな攻撃を仕掛けてくるなら、チャンスがあればがつんと反撃はするだろう。

わたしが気になった問題は、仁平さんの「顔のない戦争」がマスコミで使い古された言葉であり、ネットで検索すると云々という箇所なのである。

わたしがあまり熱心な新聞の読者ではないからかも知れないが、(外交政策や国際関係、中東情勢などについては基本的に英米の記事に頼る主義である)「顔のない戦争」という表現は、イラク戦争あるいは対テロ戦争の形容としてそんなに常套語なんだろうかという疑問である。わたしは、どこかで聞いたことがあるような気もするが、手垢まみれの常套語だとまで言い切る自信はない。(陳腐で無内容なスローガンだとは思うが)
現に、いまグーグルで「顔のない戦争」を検索しても、仁平さんが言うような結果は得られない。ご自身の論を補強するするにはいささか勇み足ではなかったか。

わたし個人の意見としては、〈顔のない戦争またも初日の出〉なんて安易で、どこかの政党機関紙の時事川柳コーナーにでも投稿すれば、というような句こそ「時代錯誤」にもっともなりやすい句だと思う。作家にすれば真実の気持ちであると言いたいと思うが、結果として時代の空気に迎合したものに堕している。
一例を挙げる。戦時中はこういう句が、作家の真情として吐露された。

  神州の山桜咲く撃ちてしやまむ 臼田亜浪

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