大塚久雄と中野正剛
大塚久雄(1907-1996)といえば、マルクス経済学とウェーバー社会学を基礎に、のちに大塚史学と称されるような学問大系を築いた大家。専門のひとつがマルクス経済学ですから、当然戦前は特高からも目をつけられていた。(*コメント参照)右翼やら民族派からは一番遠い人物といっていいでしょう。
一方、中野正剛(1886-1943)といえば、もともとは玄洋社・頭山満に連なる人物で、戦前の右翼の頭目の一人である。ヒットラーやムッソリーニにも会見して、ファシズムに傾斜、大政翼賛会の総務をつとめた。東方会総裁。
およそ、思想的に交わることのありえない二人ですが、不思議な交流があった。
『大塚久雄 人と学問—付 大塚久雄「資本論講義」』石崎津義男(みすず書房/2006)より。
1943年、衆議院議員でもあった中野正剛は早稲田大学で講演をしたが、講演後の懇親会で西洋経済史の教授の小松芳喬に「あなたは義足だが、われわれの仲間にも大塚久雄という片足を切断した男がいて」と話しかけられた、というのですね。
大塚久雄は1941年6月、満員のバスの降車の際に将棋倒しとなり、そのとき左膝を強くひねっために東大病院柿沼内科に入院する。戦時下ですから、極度に栄養不足だったせいもあるのかもしれません、関節はリューマチを起こしており治療は長引きました。ところがあるとき、若い助教授がやってきて強引に検査と称して注射器で体液を採っていった。この注射痕から化膿がはじまり、最終的には左脚上腿部の中ほどから切断をすることになったのであります。いまなら医療事故で訴訟ものですが、内科主任の柿沼教授が謝罪をしただけで、入院以降の一切の費用は大塚に請求されたといいます。ひどい話だが、まあそういう時代であったのでしょう。
一方、中野正剛も幼年時代に落馬がもとで傷めていた左足の整形手術を四十歳のころ受けるのだが、これが失敗して大腿部から切断した後は、義足を用いていた。
(この項つづく)
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コメント
“講演後の懇親会で西洋経済史の教授の小松芳喬に「あなたは義足だが、われわれの仲間にも……」”の文脈は、“小松芳喬が「・・・」”ですよね。(昨年買った石崎津義男氏の本、手元にないので確認できませんが。)
それよりも、「われわれの仲間に」というところがひっかって調べてみましたら、小松芳喬(よしたか)氏は、1906年のお生まれでした(1906.04.01--2000.02.07)。大塚氏と小松氏は、なんとなく同年代だとは思っていたのですが、まさに1年違いの同年代でした。
なお、早稲田大学に、小松氏が生前から寄贈を続けておられた「艸翁文庫」というユニークな文庫があります。(残念ながら見たことはないのですが、イギリス産業革命期関係の研究所・史料を中心としたもので膨大なものらしいです。鉄道草創期の「時刻表」もあるとか・・・)
http://www.wul.waseda.ac.jp/PUBS/fumi/22/22-16.html
★ちなみに、国内の大学図書館関係個人文庫については、こういう便利なリストもあります。
http://www.fitweb.or.jp/~taka/pcollect.html
〔追記〕
多少、異議?のある部分は、続きを読んでから。
投稿: かぐら川 | 2007/01/09 23:03
あちゃちゃ、アップしたあとでちゃんと読み返していたつもりだったんですが、なんというお恥ずかしい間違いを。(汗)
<訂正記録>
『・・・片足を切断した男がいて」という話をした』
を
『切断した男がいて」と話しかけられた』
に訂正しました。
次回また、よろしくご指導のほど。
投稿: かわうそ亭 | 2007/01/09 23:57
コメント中、「イギリス産業革命期関係の研究所・史料を中心としたもので」は、「イギリス産業革命期関係の研究書・史料を中心としつつも広範囲にわたる」に訂正させてください。
なお、ついでに書きかけた「異議」についてメモしておきます。それは、大塚氏が特高に目をつけられた理由にかかわるものです。
戦前の大塚氏の書物は、当然マルクス主義を表に出したものではありませんので、そこに特高が目をつけたわけではなく、当時若いマルクス主義(研究)者で氏の研究を高く評価していた者がいたことや、なぜか朝鮮人学生などにも書が多く読まれていたことなどが大塚への特高の不審につながったものだと思われます。むしろ、当時の体制への真の批判となりえた、そういう意味で「危険な思想」の根底にあったのは氏のキリスト信仰に結びつく思想だったと考えますが、どうなのでしょう。
いずれにせよ、氏自身が、マルクス主義経済学の研究会に参加していた人々の名前の書かれたメモをやむなく処分したと同時に、大塚氏に累の及ぶことを避けるために氏からの手紙を処分したマルクス主義者の方もおられたと聞いています。
投稿: かぐら川 | 2007/01/10 00:20
なるほど。おっしゃるとおりだと思います。
『近代欧州経済史序説 上巻』(左足切断までの病床で一枚二枚とこつ書き上げた)を刊行したときに、文部省はこれを推薦図書にしようとしていたが、ある東大経済学部の「大先生」が、『資本論』を引用するような奴が書いた本だぞ、しかもこれは上巻だ。下巻で大塚が何を書くかわかったもんじゃない、と一喝したので文部省推薦は取り止めになった、なんて話が出てきますね。文部省が経済学史の専門書として推薦しようと思うくらいですから、「危険な」マルクス主義者として目をつけられていなかったことは明白ですね。
むしろ朝鮮人学生によく読まれていたということがポイントだったのかもしれません。またおっしゃるようにキリスト教信仰が尽忠愛国の時代精神に背いていると見えたと思われます。
投稿: かわうそ亭 | 2007/01/10 09:39
はじめまして。
中野正剛の記事につられてきました。
小学生の頃、「ようこそ先輩」の母校訪問で、本人の話をききました。
足を怪我したのは、柔道の練習か試合の時といっていました。落馬の話はでませんでしたが、恥ずかしかったのかな。
銅像などの写真を
http://gfujino1.exblog.jp/
の一部にのせています。
投稿: 藤野義一 | 2007/01/13 18:05
藤野義一 さま はじめまして。
わたしなどにとって中野正剛といえば遠い歴史上の人物のようなつもりでいたので、本人の話を聞きましたよ、と言われると一瞬、「えっ」と虚をつかれました。しかしよく考えれば(考えるまでもなく?)その最期の1943年はたかだか63年前ですから当然実物をご存知の方もたくさんいらっしゃるんですね。
足の怪我は、そういう記述をしている文章をネットで見かけましたので、それを鵜呑みにしてしまいましたが、あるいはおっしゃるように落馬ではなく柔道の怪我が正しいのかもしれません。
ありがとうございました。
投稿: かわうそ亭 | 2007/01/13 21:52
藤野です。今ひとつ補足させてください。
中野正剛は右翼の先端のように世間では思われていますが、リベラルな考えの持ち主でした。
太平洋開戦前は、米英討つべしと主張していましたが、シンガポール陥落以後は和平交渉を主張しました。
今の郵政(逓信事業)の民営化などは当時政務次官の頃から主張していましたが、あと一歩で没になったと、地元電気事業家の安川第五郎からききました。
大塚氏との交流があっても不思議でないと思います。
投稿: 藤野義一 | 2007/01/14 18:10