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2007/01/15

河上肇の日本語

河上肇の『貧乏物語』を読む。
もともと大正5年(1916)9月11日から12月26日まで、大阪朝日新聞に断続的に連載された経済論文であるが、著者自らこれを「物語」と名付けたとおり、論文というよりはむしろ講談に近いような語り口。たとえば次のような箇所——

以上をもって私はこの物語の上編を終え、これより中編に入る。冬近うして虫声急かなる夕なり。
今日の社会が貧乏という大病に冒されつつあることを明らかにするが上編の主眼であったが、中編の目的はこの大病の根本原因の那辺にあるかを明らかにし、やがてこの物語全体の眼目しして下編の主題たるべき貧乏根治策に入るの階段たらしむるにある。

2007_0115 大阪朝日の連載は大きな影響と衝撃を社会にあたえ、翌大正6年2月に単行本として公刊されるや、当時のベストセラーとなった。だが、大正8年に30刷をもって著者自らこれを絶版となし、以後、本書が日本の思想史上の古典的な意義があるとしてその復刻を強く望まれたにもかかわらずこれを許さなかった。マルクス主義に転じた河上の目から見たとき、本書の「貧乏根治策」——富者の奢侈の道徳的抑制と人心の改造がなにより有効であるとする結論が、すでに自分が誤りとして清算したものであるという学問的良心による。
岩波文庫がこれを復刻したのは1946年、河上の没後である。

おそらく、今日これを読むことの意義は、河上肇の日本語を味わう点にあるだろうと思う。それは河上の日本語が「美しい」というような曖昧な意味ではない。むしろ「文章千古事、得失寸心知」(杜甫)や「文章経国大業、不朽之盛事」(曹丕)でいうところの文章を日本語として表現し得たものである、という意味においてである。河上は「文章の要諦は、修辞でなく、達意である」と語ったといわれる。達意はそれをもって人を動かすという志がまず先にあるものであろう。
学問的価値はさておき、達意の見本のような文章を『貧乏物語』から引く。読むこと自体が快感であるようなこのリズム感。

今その英国に育ちたる経済学なるものの根底に横たわりおる社会観を一言にしておおわば、現時の経済組織の下における利己心の作用をもって経済社会進歩の根本動力と見なし、経済上における個々人の利己心の最も自由なる活動をもって、社会公共の最大福利を増進するゆえんの最善の手段なりとするにある。しかるに、元来人は教えずして自己の利益を追求するの性能を有する者なるがゆえに、ひっきょうこの派の思想に従わば、自由放任はすなわち政治の最大秘訣であって、また個人をしてほしいままに各自の利益を追求せしめおかば、これにより期せずして社会全体の福利を増進しうるということが、現時の経済組織の最も巧妙なるゆえんであるというのである。すなわち現時の経済組織を謳歌し、その組織の下における利己心の妙用を嘆美し、自由放任ないし個人主義をもって政治の原則とするということが、いわゆる英国正統学派の宗旨とするところである。

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コメント

ここで何度か名前を挙げさせていただいた内田義彦氏にユニークな河上肇論があって、選集『内田義彦セレクション4「日本」を考える 』に収められています。
http://www.bk1.co.jp/Sakuhin.asp?ProductID=2030026

投稿: かぐら川 | 2007/01/17 23:48

かぐら川さん 
この本、大阪中央図書館にあるようですので、次に行くときに読んでみます。
どうもありがとうございます。

投稿: かわうそ亭 | 2007/01/18 00:09

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