最後の早慶戦
『日本の200年』(みすず書房)の下巻から。
一八九〇年以来人気を博してきた野球も、規制の対象となった。一九四三年四月、東京大学野球連盟は、練兵的な運動や訓練の重視を打ち出した文部省の通達「臨時学徒体育訓練実施要項」にもとづいて、東京六大学と東都大学の野球リーグ戦を中止した。(中略)
しかし文化的な統制は、物資の欠乏や直接的な軍事上の必要から強引に実施されるのでない限り、あまり効果がなかった。文部省は野球を規制し学生野球を中止させたが、野球を楽しみたいという人々の欲求は消えなかった。学徒動員がはじまった一九四三年の秋、六大学野球の中止から六カ月が経っていたにもかかわらず、戦場に赴く学生たちへの最高の贈りものとして早慶両大学の関係者が思いついたのは、早慶戦の開催だった。「最後の早慶戦」と呼ばれた壮行試合には大観衆が集まった。(p.467)
これに関連して、出久根達郎の『百貌百言』(文春新書)の飛田穂洲(すいしゅう)の項をひく。(今回は引用だけである。オリジナルをして語らしめよを適用させていただきます(笑))
「学生野球の父」とうたわれた穂洲は、旧制一高の武士道野球を信奉し、精神野球の実践者であった。水戸っぽであり、国粋主義者と見られ、戦後の民主主義に向かない人間と思われた。ところが飛田は、ヒットラーは嫌いだったし、ドイツも好まなかった。尊敬する人は、イギリスの社会主義をわが国に紹介した安部磯雄である。(中略)
明治三十六年、飛田ら水戸中学は上京して、郁文館中学と試合を行った。郁文館中学は、当時、都下随一の強さを誇っていた。野球王国と言われた一高に、著名な選手を送りこんでいた中学である。漱石の『吾輩は猫である』に、主人公宅の庭へ、「擂粉木の大きな奴」で「ダムダム弾」をしきりに打ち込む落雲館通学が登場する。郁文館中学がモデルであった。
飛田はライトを守った。背後の応援団が飛田の尻に小石を投げつける。負けないと承知しないぞ、とおどす。ボールを後逸せよ、と迫る。団員は中学生の癖に、仕込み杖を持ち、それを抜いて凄んだ。とたんに、ボールがきた。飛田は夢中で突進し、つかんだ。水戸中学は危うく逆転をまぬがれた。
最終回、守らねばならぬ。さすがの「水府男児」飛田も、びくびくしながらライトに向かった。斬られるかも知れぬ、と覚悟したが、自校の敗色濃厚とみると、仕込み杖たちは何も言わずに、さっさと引き揚げた。早稲田に入る。野球を続けながら、「武侠世界」の編集部員となり筆をとった。のち野球評論の名文、と小泉信三が激賞した下地は、ここにある。
戦争が激しくなり「敵性スポーツ」の野球は禁止、飛田は奔走し、「最後の早慶戦」を何とか実現させた。多くの学生が戦場に向った。飛田はグラウンドにボールを埋めさせた。いつか野球ができる日が来ると信じた。
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