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2007年2月

2007/02/27

最後の早慶戦

『日本の200年』(みすず書房)の下巻から。

一八九〇年以来人気を博してきた野球も、規制の対象となった。一九四三年四月、東京大学野球連盟は、練兵的な運動や訓練の重視を打ち出した文部省の通達「臨時学徒体育訓練実施要項」にもとづいて、東京六大学と東都大学の野球リーグ戦を中止した。(中略)
しかし文化的な統制は、物資の欠乏や直接的な軍事上の必要から強引に実施されるのでない限り、あまり効果がなかった。文部省は野球を規制し学生野球を中止させたが、野球を楽しみたいという人々の欲求は消えなかった。学徒動員がはじまった一九四三年の秋、六大学野球の中止から六カ月が経っていたにもかかわらず、戦場に赴く学生たちへの最高の贈りものとして早慶両大学の関係者が思いついたのは、早慶戦の開催だった。「最後の早慶戦」と呼ばれた壮行試合には大観衆が集まった。(p.467)

これに関連して、出久根達郎の『百貌百言』(文春新書)の飛田穂洲(すいしゅう)の項をひく。(今回は引用だけである。オリジナルをして語らしめよを適用させていただきます(笑))

「学生野球の父」とうたわれた穂洲は、旧制一高の武士道野球を信奉し、精神野球の実践者であった。水戸っぽであり、国粋主義者と見られ、戦後の民主主義に向かない人間と思われた。ところが飛田は、ヒットラーは嫌いだったし、ドイツも好まなかった。尊敬する人は、イギリスの社会主義をわが国に紹介した安部磯雄である。(中略)
明治三十六年、飛田ら水戸中学は上京して、郁文館中学と試合を行った。郁文館中学は、当時、都下随一の強さを誇っていた。野球王国と言われた一高に、著名な選手を送りこんでいた中学である。漱石の『吾輩は猫である』に、主人公宅の庭へ、「擂粉木の大きな奴」で「ダムダム弾」をしきりに打ち込む落雲館通学が登場する。郁文館中学がモデルであった。
飛田はライトを守った。背後の応援団が飛田の尻に小石を投げつける。負けないと承知しないぞ、とおどす。ボールを後逸せよ、と迫る。団員は中学生の癖に、仕込み杖を持ち、それを抜いて凄んだ。とたんに、ボールがきた。飛田は夢中で突進し、つかんだ。水戸中学は危うく逆転をまぬがれた。
最終回、守らねばならぬ。さすがの「水府男児」飛田も、びくびくしながらライトに向かった。斬られるかも知れぬ、と覚悟したが、自校の敗色濃厚とみると、仕込み杖たちは何も言わずに、さっさと引き揚げた。早稲田に入る。野球を続けながら、「武侠世界」の編集部員となり筆をとった。のち野球評論の名文、と小泉信三が激賞した下地は、ここにある。
戦争が激しくなり「敵性スポーツ」の野球は禁止、飛田は奔走し、「最後の早慶戦」を何とか実現させた。多くの学生が戦場に向った。飛田はグラウンドにボールを埋めさせた。いつか野球ができる日が来ると信じた。

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2007/02/24

『日本の200年』上巻まで

20070224 アンドルー・ゴードン『日本の200年』(みすず書房)の上巻を読み終える。
下巻まで通読して、感想を書くつもりだったが、忘れるといけないのでとりあえず上巻までのところで簡単なメモを書いておく。
本書はもとより英米の一般読者に向けた「日本の近現代史」であるが、この分野については、少なくとも英米の平均的な読者よりは豊富な知識を有するはずのわたしたちが読んでも十分に刺激的で、すこし大げさに言えば目からウロコが落ちるような面白さがある。

上巻は織田・豊臣の全国統一から徳川家康の支配権確立までをざっとながめた上で、江戸時代の時代精神を荻生徂徠から本居宣長を経て平田篤胤にいたる流れとして一筆書きのような按配で描く。そして実質的には幕末から大正デモクラシーまでの時代を主に扱っている。

本書の特色はわたしの見るところ三つある。

まず第一に、ここ200年の日本史をグローバルな19世紀、20世紀の近現代史のなかに置いて分析するという視点。これは具体的には英語の原題に現れている。近代日本史(Modern Japanese History)ではなく、「日本の近現代史」(A Modern History of Japan)となっているのですね。日本人にとっては、明治維新や大日本帝国の興亡はあまりに特殊で他に類を見ないように思うかもしれないが、決してそうではない。「より広範な世界の近現代史と不可分のもの」として、たまたまそれが日本という個別の地域でどのように特殊に展開したのかという視点で考えてみたらどうだろうというのであります。
日本語版への前書きで著者が述べているのは、「新しい歴史教科書を作る会」が打ち出した、各国の歴史はそれぞれ個別独特のもので他国との安易な歴史認識の共有などありえないという意見への反駁である。わたしはこのアプローチは意義があり、また有効であるように感じた。

第二は、わたし自身にはやや違和感があったのだが、この時代を描くのにかなりジェンダーという概念が多用されていることである。たとえば明治、大正期の元老をはじめとする国家支配層にとって労働者の社会主義への覚醒と並んで脅威でありおぞましいものとして映ったのが、女は良妻賢母たるべしという「健全」な考えに従わない女たちの出現であったというような見方を本書ではしている。もちろん間違いとは思わないが、比重が重すぎるような気がして違和感があったのである。
たぶん、わたし自身が男であり、またこの時代の空気や風景を「坂の上の雲」的な史観、すなわち、国家の興隆に自らを捧げることは男子の本懐であるというような見方で理想化する偏りがあるからだと思う。ただし、かならずしもそれが悪いとも思わず、むしろ幸福な時代として羨望していることも事実である。この点については、本書はなんとなく居心地が悪かったという告白にとどめてこれ以上は述べない。

第三に(わたしが一番面白いと感じたことはこれ)歴史の叙述が、わたしたちがこれまで読んできた教科書的なものとかなり異なっているという印象である。これはうまく言えないのだが、わたしたちが歴史ということから思い浮かべるのは、たとえば事件や政治権力行使の連続だと思うのですね。何年にどういう戦がおこり、それにはこれこれこういう背景があった。また何年にはなんたらという乱が発生し、それはこういう結果に終った。つづいて何年には、なになにを目的として、かくかくしかじかの法律が公布されたが、それは社会にかような影響をもたらした、とかなんとか。
本書は、もちろんそういう記述の側面がまったくないというのではないのだが、なんか違った印象があるのですね。
わたしたちのなじんだ歴史は、つきつめて言えば「5W1H」ではないかと思う。何年に誰が何処で何を何のためにどうのようにしてやりました。はい次、何年には誰が・・・というかたまりが延々とスクロールしていく、つまり年表の詳細版が歴史というものであるといった。まあ、これは単にわたしの貧困な読解力のせいかもしれなくて、ほんとうはそういう歴史の出来事の底流に脈々と流れているであろうところの民族の精神とか意識とかが、どのように今現在のわたしたちと結びついているのかを読み取るべきなのかも知れない。しかし、そういうことを読者につねに意識させる叙述というものがやはり必要ではないかという気もする。
たまたま、本書と平行して『丸山眞男講義録2』(岩波書店)を読んでいるのだが、そのなかに下記のような記述があった。おそらく、英米の歴史叙述の文体と言うべきものがあり、それがたとえばこの『日本の200年』にもあらわれているのかもしれない。著者であるアンドルー・ゴードンはライシャワー研究所長だった人だそうです。日本人のことはアメリカ人に習えでありますな。

思想史の対象における相違と対応して、方法においても、ドイツ系と英米系とで大まかな相違がある。ドイツはロゴス的把握が強く、geistig〔精神的〕であり、これに対して英米は、思想を独立したものとしてではなくsocial entity〔社会的実在〕の中で捉える。つまり思想の外からの働き、思想の外への働きの相互作用の観点から思想史が書かれる伝統をもっている。
『丸山眞男講義録2』

『日本の200年』はとくに思想史であるというわけではないが、その記述にはつねにここで丸山が述べているような社会的実在というものを強く意識したところがあり、おそらくそれが、わたしのような専門外の人間にとっても面白いと感じさせる要因なのではないかと思う。

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2007/02/21

「俳句界」の編集長交代(承前)

文學の森のサイトによれば、この会社の設立は2003年5月20日。本社は福岡市、代表取締役が前回紹介した    姜琪東(カン・キドン)氏である。あとで述べるが、編集にかかる重要な案件については社長が急遽上京することもあるように「俳句界」には書かれているので、どうやら姜琪東氏の財政的な基盤は福岡市にあり、「俳句界」の基本的な編集自体は、この人が信頼する東京の編集者にまかせるという経営スタイルであるらしく思える。なお、この姜琪東氏については、最初に書いたように、ご本人が公開している情報しかわたしはもっていない。仮説はあるが述べるつもりはない。

さて句集『ウルジマラ』にある「頼まれて出版社の経営をひきうける」という前書きをつけた句を見つけたあとで、「俳句界」のバックナンバーを見て行くと、奇妙なことに気づいた。前回書いたように、現在の奥付の発行人は姜琪東名義だが、以前はこれが大山基利という名前になっているのである。では、姜琪東氏は、大山基利氏から「俳句界」(文學の森)の経営を引き継いだのかというと、これは違うのですね。
この発行人の表示がいつ変更されたのかというと、2005年の八月号である。
参考に奥付の雑誌編集体制の表記を転載する。左が七月号、右が八月号である。あとで出てくるので発行人以外の名前も見ておいていただきたい。

 発行人  大山基利    発行人  姜琪東   
 編集人  山口亜希子   編集人  山口亜希子
 編集顧問 秋山巳之流   編集顧問 秋山巳之流

これはどういうことかしらと、「俳句界」のこの変更があった前後の記事をぱらぱらと見て行くと、当人による説明があった。「俳句界」2005年十月号の「俳句の明日」というコーナーである。対談形式で「K」と「A」という二人が「トーク&トーク」しているという形式の連載。「K=姜琪東(文學の森社長)」、「A=秋山巳之流(本誌編集顧問)」と断ってある。引用する—

K 先月号の本欄を読んだ方から「文學の森は社長が交代したのですか?」というハガキを受け取りました。
A 姜琪東という名前が出たからですね。編集長が地方へ行ったら、「また発行人の変更ですか」と言われたらしいですよ。
K 社長は代わっていません。ずっとぼくです(笑)。
A 楸邨さんの「寒雷」に投句していた頃から、あなたは俳句の世界では姜琪東を名乗っていましたね。
 大山も姜もわが名よ賀状来る  姜琪東
これは大山社長、あなたの俳句でしょう?
K 若いころは通名の大山基利を名乗っていたのです。六十歳も半ばを過ぎ、生命の果てがぼんやり見えてきた時、もう通名を名乗るのをやめようと決めたのです。姜琪東として、文學の森の仕事を全うしたいと考えて、社員たちの意見を聞きました。そして「俳句界」八月号から発行人の名を本名に変えました。

この発言から、想像するに〈職ふたたび偽名ふたたび酸葉噛む〉の句は、大山基利として経営を始めたと思われる2003年のことなのだろう。

さらにバックナンバーを見て行くと、わたしは知らなかったが(この頃はこの雑誌をチェックしていなかったのだな)2005年の2月号にもうひとつ奇妙な告知を発見した。当然、このときは大山基利名義。
それは、「『俳句界』新年号の回収と責任」という社長告知である。内容は、新年号の見本のなかに不適切な編集サイドの記事があったために、驚き、この発行を差し止めるために急遽上京し、編集サイドと協議したが、すでに取り次ぎを通して書店への配本が進んでいたため、書店には販価での全册買い戻しを申し入れたというもの。記事の内容についての最終責任は当然、編集長である山口亜希子にあり、また事前に記事の判断を編集長に打診され、この内容で問題なしとの判断をした編集顧問・秋山巳之流にも責任は及ぶ。人事上の処分も検討したが、小規模の出版社でこれをなすことは雑誌の廃刊につながりかねないので、読者の寛大な許しを請いたい、といった感じのものであった。
いま、この記事がどのようなものであったかは詮索しないが、今回の清水哲男氏への編集長の変更と、このトラブル(もう4年前のことである)がなんらかの関係があるのかないのか、俳句の世界もなかなかややこしいことではあります。

なお、補足として簡単に書くが、秋山巳之流氏はかつて角川俳句の編集長である。この名前でググると、結構たくさんの俳壇や歌壇の内部の方のコメントがヒットするはずである。いずれも直接の見聞ではないので、わたしのコメントは差し控える。

また、山口亜希子氏については、「山口亜希子俳句日記」というブログが公開されており、わたしも一通り目を通させていただいたが、今回の「秋山&山口更迭」についてはよく情理をわきまえた抑制された書き方であり(愚痴めいた記述はすべて削除した旨書かれている。そうあるべきだろう)、もちろん面識はまったくないが好感をもったことも書き添えておきたい。

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「俳句界」の編集長交代

今日も俳句雑誌の話題。ただし、わたしは業界の内部情報なんか知らないから、活字となって表に出ている内容から勝手に想像しているだけである。別に事情通を気取ろうというつもりはまったくないので、もし「素人がよく知りもしないくせに」と関係者の方が不快にお思いになれば申し訳なく思う。しかし、俳句総合誌というのは、営利事業ではあっても、同時に俳句を愛する人たちの一種の公共財でもあろう。そこから大家の名前を冠した賞が出されている場合はなおさらである。
野次馬かも知れないが(否定はしない)興味を持って悪いとは思わない。ただし話はいたって散漫で、尻切れとんぼに終わるはずなので、この記事をなにかの参考資料にされては迷惑である。

さて昨日書いたように「俳句朝日」は実質的に廃刊となるが、同じB5版の大きさの「俳句界」という雑誌がある。発行元は株式会社文學の森
それほど熱心な読者とは言えないけれど、ときどき面白そうな特集があると図書館でチェックしている。なかなか、面白い記事がある。

さて今日、二月号にざっと目を通して、最後に巻末の編集後記のような頁を読み、奇異の感を抱いた。そこには、文学の森社長・姜琪東が、三月号から編集長に清水哲男を迎えるという主旨のお知らせを書いていた。
性分なので、これはなんかヘンだなあと気になって、図書館で調べはじめたとお考えください。(笑)
もちろん、清水哲男といえば、H氏賞を受賞した高名な詩人であり、われわれ俳句愛好者には「増殖する俳句歳時記」で圧倒的な存在感をウェブでは示しておられるわけで、あらたに俳句総合誌の編集長として腕を振るわれることにまったく異論があるというわけではない。ただひとつ気になったのは、交代前の編集長は誰かしらというごく素朴な疑問であった。奥付を確認すると

  発行人 姜琪東
  編集人 山口亜希子

となっている。どうやら山口亜希子さんという方が、編集長である様子である。
一方、文學の森のホームページ(リンクは上記)を見ると、すでに「俳句界」編集長は清水哲男と公表されているようだ。

ところで、発行人の姜琪東(カン・キドン)という名前には聞き覚えがある。
1997年に句集『身世打鈴(シンセタリョン)』を、2006年に『ウルジマラ(泣くな)』を出した在日の俳人である。いま『ウルジマラ』のカバーにつけられた著者の紹介をみると「1937年高知生まれ、横山白虹、加藤楸邨に師事」という記述が見える。俳歴の長さがうかがえる。
こころみに『ウルジマラ』を読んでみると、そのなかに「頼まれて出版社の経営をひきうける」という前書きをつけた句がある。

 職ふたたび偽名ふたたび酸葉噛む

なんだか意味深な句ではないか。これがいつ詠まれたものなのかはわからない。しかし、口ぶりからすると、先の「俳句朝日」の経営優先主義とは異なって、俳句なんて全然儲からない事業だが、志に感じて経営の面倒をみてあげようという感じに聞こえる。
ちなみにこの『ウルジマラ』は句集としてもたいへん興味深いもので、とくに俳句と朝鮮語についてはあらためて考えてみたい気になる。もう一句だけあげておく。

 日本語のわが一行詩しぐれけり

この話、長くなったので頁をあらためてもう少し続ける。

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2007/02/20

俳句朝日の休刊

少し前から知ってはいたのだが、「俳句朝日」の3月号に「休刊のお知らせ」が正式に掲載されていた。
まず朝日新聞社出版担当兼出版本部長・神徳英雄の名義で片面に告知文が、つづいて反対側の頁に俳句朝日編集長越村隆二の名前で具体的な対応(俳句朝日賞の取り扱い、すでに受け取っている投句の扱いその他)がのせてある。
朝日新聞社の取締役である神徳英雄の告知によれば「創刊当初からの経営状況は厳しく、最近の出版不況もあいまって、逆風はますます強くなるばかりでした。」とのことだが、大朝日の経営者がいう「経営状況が厳しく」というのは「思ったように儲からなんだ」という意味であろう。創刊が1995年4月なので、十二年もったことになる。

この雑誌、わたし自身は前からあんまり好感を持っていなかった。

そのひとつの理由は、なんだか俳句愛好者をなめているような編集の仕方だったからだと思う。
活字がやたら大きくて、いかにも高齢者にやさしいみたいだが、その裏に、年寄りの素人がひとつ俳句でもという大きなマーケットがあるらしいじゃないかキミ、ひとつ俳句雑誌でもやってみてくれたまえ、といった思いつきみたいな雰囲気があるような気がしていたのですね。—まあ、朝日新聞嫌いだから、偏見があることは認める。(笑)

編集長である越村隆二というのは俳号は越村蔵というらしいが、やはり朝日新聞の社員であるとのこと。編集長就任5年目で「休刊のお知らせ」を掲載することになろうとは思いも寄らなかったとある。
まあ、社員だし儲からない雑誌では抵抗もできませんということでありましょう。

なお、この休刊(実質的な廃刊)については、検索してみると夏石番矢さんのブログにちょっと面白いコメントがあった。創刊のときから、かなりの俳人にけっちんくらった俳句雑誌だったらしいなあ。【こちら】

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2007/02/14

『遺愛集』島秋人

2006_0214 先日教えていただいた、島秋人の『遺愛集』(東京美術)を読む。
大阪中央図書館の蔵書は昭和42年の初版本だが、糸綴じ本の頁がいまにもばらばらになりそうになるまで読み込まれた本だった。いかに多くの人が手にした本であるかが想像できる。
写真を見ていただくとかなり傷んだ本の様子がわかるだろう。題簽は窪田空穂、カバーの絵(桔梗の花)は吉田好道。
この吉田好道氏というのは、島秋人の中学時代の図工の教師である。
以下は『死刑囚島秋人—獄窓の歌人の生と死』海原卓(日本経済評論社)から。
死刑判決を受け、控訴して東京高裁での審理を受けるため東京拘置所に収監中だった島秋人は、昭和35年にこの先生のことを思い出して、先生の絵を頂戴できないかという手紙を書いた。それは開高健の芥川賞受賞作『裸の王様』を図書室から借りて読んだことがきっかけだった。この小説は子どもの絵画が重要なテーマになっているが、この小説で島秋人は自分の絵を褒めてくれた吉田先生のことを思い出すのである。近所の禅宗の寺、香積寺の六地蔵を描いたものを「絵は下手だが、構図がおもしろい」と言ってくれた、その言葉は、島秋人にとって学校生活で生まれてはじめて、たった一度だけ教師に褒められたというなつかしい思い出であった。

その手紙は、「昔、先生に教えていただいた生徒です」という書き出しで始まっていた。昭和三十五年(1960)秋の彼岸に届いた手紙だった。(中略)好道の妻絢子は、そのときの模様を次のように語る。
「主人は書斎で手紙を読んでいました。お茶を持って部屋に入りかけて、私は敷居際で立ちつくしてしまったのです。なにか躊躇する雰囲気が足を停めさせたのですね。すると、主人の背中がだんだん丸くなっていくのです。主人は泣いているように思いました。わたしは心配になって、『お父さん、何のお手紙ですか』と尋ねたのです。すると、黙って肩越しにその手紙を私に渡してくれたのです。ほんとうに驚きました。そこには、僕は今、人を殺め死刑囚となって東京拘置所にいます。とあったんですから‥‥」

吉田夫妻はただちに島秋人に返事を書き、それに所望された吉田の絵の他に吉田家の子どもたちの描いた絵と絢子の香積寺の六地蔵を詠んだ短歌を同封した。そして、この絢子の短歌が島秋人の心をとらえ、絢子に導かれてこの死刑囚は短歌の習作を始めたのである。
島秋人のペンネームを与えてくれたのも、のちに毎日歌壇の窪田空穂選に投稿するように助言をしたのも絢子であった。人の出会いや運命というのは不思議なはたらきかたをする。

ところで、いまにも分解しそうな本を慎重に扱いながら読むはめになったが、この『遺愛集』は40年近く版を重ね、2004年にも愛蔵版が出ていたことをあとで知った。また『死刑囚島秋人—獄窓の歌人の生と死』の著者の海原卓氏の舞台台本で、ポール牧が一人芝居を演じ、のちに演劇上の意見の相違から袂を分かつと、そのあとを、そのまんま東(いまや東国原英雄の名前の方が有名だが)があとを継いだらしい。そういう意味では、この島秋人という歌人は、(わたしは知らなかったけれど)いまでも多くの人のこころをとらえる力があるということなのだろう。
島秋人の虚像と実像をめぐるいくつかの疑問について海原卓氏の本は示唆に富むものだったが、あえてそのことにはここではふれないことにする。

最後に「遺愛集」から。

 肩冷えて深夜の床に覚めて聴く遠き汽笛の何か親しき
 洩るる陽を優しと思ひ掌に温むちいさき冬日愛ほしみたり
 やはらかく土に浸みつつ春の雨細く降り継ぎひと日昏れたり
 この澄めるこころ在るとは識らず来て刑死の明日に迫る夜温し(処刑前夜)

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2007/02/13

St.Valentine's day

Stv_1

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2007/02/11

みすず読書アンケート

「みすず」1・2月合併号は毎年恒例の読書アンケート。
以下、印象に残ったものを自分の読書用のメモとして。コメントは各書評者による紹介文の一部抜粋。

三島憲一氏(ドイツ思想)の5冊から。
市野川容孝『社会』(岩波書店/2006)
「帝国」論やローザ狂いの人々による、安手の社会民主主義批判が完膚なきまでに葬られている。しかもローザを使って葬られている。
(なお本書はほかにも思想史の市村弘正氏があげている)

原武史氏(思想史)の5冊から。
アンドルー・ゴードン『日本の200年(上下)』(みすず書房/2006)
日本の近世、現代といった時代区分や、政治史、経済史、社会史といった専門分野のタコツボに安住しているこの国の歴史学会を大いに揺さぶる一冊。

名和小太郎氏(情報システム論)の5冊から。
アルフレッド・W・クロスビー『数量化の革命』(紀伊国屋書店/2003)
こんな歴史の書き方があったとは。脱帽した。もうひとつの『中世の秋』といったら褒めすぎか。

最上敏樹氏(国際法・国際機構)の5冊から。
『丸山眞男回顧談(上下)』(岩波書店/2006)
今年の白眉といってよい。

村田宏氏(美術史)の5冊から。
山本陽子『絵巻における神と天皇の表現‐見えぬように描く』(中央公論美術出版/2006)
この領域におけるほとんど最初の論集であり、くり返し参照される画期的な一書となるにちがいない。

藤井省三氏(中国文学)の5冊から。
閻連科『人民に奉仕する』(文藝春秋)
小説『人民に奉仕する』はポルノか芸術か、それとも政治なのか?
愛欲に酔いしれた男女が邸宅内の毛沢東像を破壊し尽くす場面には、私は背筋が凍るような恐怖を覚えた。

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『最終講義』木田元

20070210 『最終講義』木田元(作品社)は、著者が1999年に中央大学文学部を定年で退官した際の最終講義「ハイデガーを読む」と、同じく中央大学人文科学研究所で行った「哲学と文学—エルンスト・マッハをめぐって—」という最終講演を収録。
最終講義といい最終講演といい、いずれもかなり儀式めいたところがあり、あとに送別パーティも控えている。あまり長々と講義するようなものでもないので、実際には頭の中に準備した原稿の要点だけを話したにすぎないという。そこでせっかく本にしてくれるのだったら、もともと話したかった、頭の中の原稿の方が最終講義にはふさわしいだろうということで、本書は、当日準備していたメモを元にあらたに書き起こしたものであるそうな。
どちらの「講義」もたいへん魅力に富んで面白い。

「哲学と文学—エルンスト・マッハをめぐって—」から。

「もう十年以上も前のことになりそうですが、『マッハ文朱』という女子プロレスラーのいたことを覚えておられる方は多いと思います。」というマクラから講義は始まる。
このマッハという超音速の速度単位はエルンスト・マッハ(1838-1916)の名前に由来するそうですが、この人は「ハプスブルク家統治下のいわば黄昏のプラーハやウィーンで暮らし、物理学者のくせにピアノやオルガンを弾くのが好きで、作家のシュニッツラーと組んでオペラの作曲をしたこともあるという洒落た人」であった。

物理学以外にもマッハという名前は「マッハ主義」という言葉になって、「トロツキズムと並んで、ひところ正統派マルクス主義者から分派思想、プチブル修正主義、反革命思想」とぼろくそに言われたのだそうですね。マッハ哲学によってマルクス主義の革新をめざす一派が亡命中のロシア社会民主労働党のなかに現れ、これをレーニンが『唯物論と経験批判論』でこっぴどくやっつけた。
またフッサールが1900年に出した『論理学研究』でも、マッハ哲学の批判をした。

かように「世紀の大革命家レーニンと、今世紀もっとも厳密な思索をした哲学者フッサールが口をそろえて批判するくらいだから」マッハなんて一般には見向きもされないというのが1960年代くらいまでの一般的な評価だった。しかるに—という具合に講義は続くのですが、まあ哲学論議はわたしのもはやとろいアタマではついていけないので、以下はマッハをめぐる、別の興味深い人物のゴシップなど。(全部をまるまる引用すると長いので、適当に切り貼りをしていますが、基本的に木田先生の文章の抄録であります)

第二インターナショナルの最も有能な指導者でもあればオーストリア社会民主党の創設者でもあったヴィクトール・アードラーという人物がおりまして、その息子にフリードリッヒ・アードラー(Friedrich Adler /1879-1960)という男がおった。
このフリードリッヒは、きわめて感受性が強く純粋で理想主義的な性格で、少年時代からマルクス主義に心酔していた。労働運動に身を投じようとしたが、父の説得でなんとか大学で物理学を学ぶことになった。そのときチューリヒ連邦工科大学で出会ったのがアルバート・アインシュタイン。ふたりは親友となった。ときに1897年。
二人は、少し前までローザ・ルクセンブルグの住んでいた学生下宿に住み、アードラーはローザの使っていたその同じ部屋を使っていたのだそうです。へえ。

アードラーの理論物理学に関する論文は、アインシュタインの特殊相対性理論に関する論文と同じ1905年に出版されます。これはマッハに推奨された。かれの理論はマルクス主義とマッハの進化論的認識論・科学論との統一を目指したものであった。
フリードリッヒはレーニンとも親交があり、トロツキーとも親しかった。
1909年、自分の権利を譲るかのようにして、当時ベルンの特許局で働いていたアインシュタインをチューリヒ大学の教授のポストにつかせ、自分はウィーンの社会民主党書記として政治運動に専念することにします。

第一次世界大戦中の1916年、ウィーンのカフェでオーストリア首相カール・シュテルク伯爵を暗殺、死刑の判決を受けます。ただしこの死刑の執行は延期され結局は皇帝カールによって恩赦を受けます。この裁判の前後、アインシュタインはアードラーを弁護し続けました。

1919年、ボリシェビキ革命のあとレーニンとトロツキーはアードラーを共産主義インターナショナルの名誉書記に推挙するが辞退されてがっかりしたそうです
第二次大戦のさなかアメリカに亡命、アメリカでアードラーは一度だけアインシュタインを遠くから見かけますが、若い日の夢の破産が声をかけるのをためらわせたようです。
戦後、アードラーは帰国を望んでいたがオーストリア社会民主党によって無視され流謫の地で没した。
(なおWikipediaによれば、アードラーは1960年1月2日、にチューリヒで死んだことになっている)

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2007/02/07

獺亭書店開業記

ふと思いついて本屋をはじめることにした。

わたしの家の近所にもあるのだが、住宅地のなかで、いかにも趣味でやっていますという感じの本屋がありますね。ログハウスのような外観、デンマークの家具で内装を整えて、子どもの本を中心に小奇麗な展示、読み聞かせの空間なんかもあったりする。だが、いつ通りかかっても、お客さんがいる様子はあんまりないなんていう本屋さん。
土地持ちのお金持ちが、はじめから趣味と節税を目的にしてやっているのかもしれない。優雅で羨ましいが、もちろん、安サラリーマンのわたしが同じような本屋を始めることはできません。
ということで実際にはじめたのはあくまでバーチャルなブックストアであります。

なんだ、ただのアフィリエイトじゃないですか、紛らわしい、とわかる方には以下の説明も無用ですが、なんのこっちゃ、という方がもしいらっしゃれば、ためしにどんな本屋か見ていただくのが手っ取り早い。
とりあえず右サイドバーから、かわうそ亭の別館の「7)獺亭書店」をクリックしていただくか【ここ】をクリックしてみてください。

これはAmazonの「インスタントストア」というシステムを使ったものですが、自分が本屋になったつもりでいろんなコーナー(このシステムではカテゴリーと呼びます)をつくってそこに本を並べていくわけですね。ここでわりとわたしが面白いなと思ったのは、本の並べ方を簡単に入れ替えることができることです。たとえば、獺亭書店では一番最初に出て来るコーナーを「オールタイムベスト」と名付けたのですが、このコーナーには9冊掛ける6頁の54冊を陳列できます。まあ、わたしの気分では獺亭書店のショーケースのようなつもりですが、この並べかたを、どれを何番目にするという操作がごくラクにできる。今日は、人文系の本を頭の方にもっていってみるかとか、翻訳小説でいこうとか店主のつもりで並び替えてみるのはなんか楽しい。(笑)

開店したばかりの獺亭書店、わたしのイメージでは、阪急三番街のカッパ横町の一角のようなロケーションで、通りに面してショーケースがありまして、店主すなわちわたくしは、無愛想そのものの顔で本を読んでおります。
このブログでとりあげた本、その月に「読んだ本」リストにあげた本だけでは、これはとても本屋の品揃えとしてはお粗末ですから、横着にも読むつもりの本、読めたらいいけどまあ読まないだろうなあ、などという本まで並べるつもりらしいのは、まあ、ご愛嬌と思ってお笑いください。

なおAmazonのアフィリエイトの規定では、この獺亭書店経由で注文されますと、店主には売り上げの3%がくるそうです。実際に注文さえしなければ、いくら本をクリックしてもわたしには1円も来ないので、どうぞご安心(?)のほど。

休日の半日をお店ごっこで遊んだ。(笑)

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2007/02/02

そののちのアララギ

「短歌研究」2月号の「アララギ系と非アララギ系―その『接近』と『反発』―」と題する特集を読む。
非アララギ系とアララギ系の歌人が交互に、一人につき見開き2頁でコメントを寄せている。

まず「非アララギ系の立場から」として以下の8名。
 高野公彦(コスモス・桟橋)
 外塚喬(朔日)
 鈴木隆夫(潮音)
 櫟原聰(ヤママユ)
 彦坂美喜子(井泉)
 島田修三(まひる野)
 寺田淳(かりん)
 矢部雅之(心の花)

一方、「アララギ系の立場から」は以下の9名。
 田井安曇(綱手)
 大河原淳行(短歌21世紀
 吉村睦人(新アララギ
 阿木津英(あまだむ・牙)
 大島史洋(未来)
 大辻隆弘(未来)
 川本千栄(塔)
 常磐井猷麿(アララギ派
 伊藤安治(青南

なぜ今月号でこういう特集が組まれているかというと、たぶん今年が「アララギ」創刊百周年だからなのですね。

伊藤左千夫が子規の根岸短歌会を母体にした「アララギ」を創刊したのが1907年。伊藤左千夫亡き後は島木赤彦が指導し、そのあとは斎藤茂吉、土屋文明と続く。
土屋文明がなくなるのは1990年ですが、この間にアララギから分かれた有力な結社は、近藤芳美の「未来」(現発行人は岡井隆)、高安国世の「塔」(現在の代表は永田和宏)、などがあります。もうすこし詳しく言えば、戦後の用紙難などを背景として、地域単位のアララギという組織もあったので話はすこしややこしいようですが、まあ、そこは部外者にはよく見えないところなので、省略。
さて1997年、突如アララギはその年の12月をもって終刊することを発表しました。短歌史のなかで、その時代を代表するような歌人を数多く輩出した歌壇の最大結社は、100年を待たず、90年でその歴史を閉じたことになります。すなわち、その1997年の実質的な解体がなかりせば、今年は創刊百周年という記念すべき年になるはずであったというわけであります。

と、まあ一応ここまでが調べればだれにでも手に入る基本的な情報なのですが、今回、この特集を読んでみて、どうもわたしには腑に落ちないことが多かった。

それは二点にしぼられる。

第一に、非アララギ系とアララギ系という結社の源流を根拠にして、現役の歌人を区分けして「接近」やら「反発」を語らせようというのは、あまり意味がないだろうと思えること。現に特集に寄稿した歌人の意見も多くはそういうものだったと思う。
第二に、しかし「接近」や「反発」が、もしあるとすれば、それはむしろアララギ系と称されるかつて同じ結社に所属した人々のその後の継承結社同士の間のことであるはずで、それならば短歌ファンとしても興味もあるし、また語るべき内容も多いはずなのに、今回の特集にはそこまで踏み込むつもりはないように見えること。

もっと具体的に言おう。

1997年のアララギの解散と分裂はなぜおこったのかが、この特集ではまったくふれられていない。まるで、なにもなかったかのように、結社の名前が羅列してあるのはなぜなんだろう。

そもそも、この「アララギ系」という呼称はいったい何ごとであるか。まるで頭の悪い連中が「なんたら系」と連呼しているような品の悪さで、およそ歌人たちが平気で用いるべき呼び方ではあるまい。
なんでこんな下品な呼称になっているかといえば、要は1997年にアララギが分裂したときに「アララギ派」という歌誌が誕生したのでこれとの混同を避けるという便法に過ぎない。

「現代短歌大事典」の記述によれば、1997年の廃刊後アララギは次の4つに分裂したとされる。
 「青南」代表:小市巳世司
 「短歌21世紀」代表:小暮政次/発行人:大河原惇行
 「新アララギ」代表:宮地伸一
 「アララギ派」代表:常磐井猷麿
この辞典では「青南」、「短歌21世紀」、「新アララギ」の3つのグループについてはそれぞれ短いながらも項目立てがあり、代表やその作歌姿勢などについて記述があるのだが「アララギ派」は独立した項目としては取り上げられていない。理由はよくわからない。(「アララギ派」の代表を常磐井猷麿としているのは「現代短歌大事典」には記述がないのでネットの検索の結果による)

ところがここで不思議なことは、この分裂騒ぎのことはWikipediaでは、

12月に終刊。これを不満とした同人たちの手により、『アララギ派』『新アララギ』『短歌21世紀』の三派に分かれ新創刊され、それぞれ後継結社を名乗った。

という記述になっており「青南」には一言もふれらていないのであります。Wikipediaは異論が出てくるまでは、言ってみれば書いたもん勝ちの百科事典ですから、これは想像するに「青南」を認めていない人物が意図的にやった記述と思われる。なんか悪意を感じるのは考え過ぎでしょうか。

ちなみに「青南」代表の小市巳世司(みよし)は、土屋文明亡き後の「アララギ」編集発行人であったらしいので、普通に考えればアララギの後継者なんでしょうが、どうやらこの方の代にごたごたが起こったのではないかと、傍目には思える。(実際はどうだったのか、もちろんわたしは知らない)

どうでしょう、このあたり人間臭いドラマが隠れているような気がしませんか?

いやアララギの流れをくむ人々の短歌作品そのものとは直接関係のない、結社の人事問題に好奇心を抱くのはわれながら浅ましいような気もするのですが、まあ性分なので仕方がない。(笑)

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2007/02/01

指の多い話

赤ん坊が生まれたとき、その指の数を数えて五本あることを確認したという経験は多くの人にあると思う。これは日本人に固有のものなのかどうか、よくわからない。多かれ少なかれ、どの国の親もすることではないかという気がするけれど。
多指症(Polydactyly)というのは、話には聞くが、実際自分の目で見たことはない。現代では赤ん坊のうちに余分な一指を手術で取ってしまうからだろうか。

Finger 『水辺で起きた大進化』カール・ジンマー/渡辺政隆訳(早川書房)には、肢の形成の仕方のモデルになったのがアラン・チューリングのパターン形成というアイデアだったことが書かれている。細かいことは、わたしのアタマでは理解できないが、ヒトの指が五本になっているのはたくさんあるバリエーションのなかでは数が少ないほうであり、初期の四肢類の化石には八本指、七本指などのものもあるのだそうですね。
ウマの場合は三本の指の真ん中が蹄になるのですが、ときどき先祖返りをするものがあり、こういう五本指のウマは古代ギリシアやローマでは神聖視されたらしい。アレキサンダー大王の馬もユリウス・カエサルの馬もそうであったと書いてある(p.257)が、へえ、ほんとだろうか。

『逆説の日本史〈11〉戦国乱世編—朝鮮出兵と秀吉の謎』井沢元彦(小学館)は、豊臣秀吉がこの多指症であったというフロイスの記録とこれを補強する前田利家の「国祖遺言」中の「太閤様ハ右ノ手おや由飛一ツ多六御座候、云々」を紹介し、これらの史料があまり一般の歴史書に取り上げられていないのはなぜかということを説く。歴史に現代の価値観からタブーを設けるのはよくないという主張である。そのあたりは、とくに踏み込むつもりはないけれど、恥ずかしながら、わたしはこの話は初耳であった。みなさんご存知でした?

『夜と女と毛沢東』(文藝春秋)はもう10年も前の、吉本隆明と辺見庸の対談で、なかなか面白かったのだが、そのなかで李志綏『毛沢東の私生活』という毛沢東の主治医の本に書かれていることとして、江青は右足の指が六本あったというのがあって、これもわたしは初耳の情報であった。

別に意味はないが、たまたま、立て続けに読んだ三冊の本にこの多指症の話題があったので。

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1月に読んだ本

『河上肇』住谷悦治(吉川弘文館)
『エムズワース卿の受難録—P.G.ウッドハウス選集2』岩永正勝・小山太一編訳(文藝春秋/2005)
『四季をめぐる51のプロポ』アラン/神谷幹夫訳(岩波文庫/2002)
『ジーヴズの事件簿 —P・G・ウッドハウス選集1』岩永正勝・小山太一編訳(文藝春秋/2006)
『穴掘り公爵』ミック・ジャクソン/小山太一訳(新潮社/1998)
『対談 現代詩入門—ことば・日本語・詩』大岡信・谷川俊太郎(思潮社/2006)
『大塚久雄 人と学問—付 大塚久雄「資本論講義」』石崎津義男(みすず書房/2006)
『貧乏物語』河上肇(岩波文庫)
『句集 彼方より』図子まり絵(文學の森/2006)
『シーア派—台頭するイスラーム少数派』桜井啓子(中公新書/2006)
『現実の向こう』大澤真幸(春秋社/2005)
『漢語の知識』一海知義(岩波ジュニア新書/1981)
『編集者を殺せ』レックス・スタウト/矢沢聖子(早川書房/2005)
『逆説の日本史〈11〉戦国乱世編—朝鮮出兵と秀吉の謎』井沢元彦(小学館/2004)
『LONESOME隼人』郷隼人(幻冬舎 /2004)
『俳句の宇宙』長谷川櫂(花神社/1993)
『洟をたらした神 吉野せい作品集』(彌生書房/1974)
『水辺で起きた大進化』カール・ジンマー/渡辺政隆訳(早川書房/2000)
『夜と女と毛沢東』吉本隆明・辺見庸(文藝春秋/1997)

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1月に観た映画

オペラ座の怪人(アメリカ・イギリス/2004)
監督:ジョエル・シュマッカー
出演 :ジェラルド・バトラー 、エミー・ロッサム 、パトリック・ウィルソン 、ミランダ・リチャードソン 、ミニー・ドライヴァー

ユメ十夜
監督:実相寺昭雄、市川崑、清水崇、清水厚、豊島圭介、松尾スズキ、天野喜孝・河原真明、山下敦弘、西川美和、山口雄大
出演:小泉今日子、香椎由宇、市川実日子、緒川たまき、本上まなみ、阿部サダヲ、TOZAWA

ジャケット(アメリカ/2005年)
監督:ジョン・メイブリー
出演:エイドリアン・ブロディ、キーラ・ナイトレイ、クリス・クリストファーソン

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