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2007/02/24

『日本の200年』上巻まで

20070224 アンドルー・ゴードン『日本の200年』(みすず書房)の上巻を読み終える。
下巻まで通読して、感想を書くつもりだったが、忘れるといけないのでとりあえず上巻までのところで簡単なメモを書いておく。
本書はもとより英米の一般読者に向けた「日本の近現代史」であるが、この分野については、少なくとも英米の平均的な読者よりは豊富な知識を有するはずのわたしたちが読んでも十分に刺激的で、すこし大げさに言えば目からウロコが落ちるような面白さがある。

上巻は織田・豊臣の全国統一から徳川家康の支配権確立までをざっとながめた上で、江戸時代の時代精神を荻生徂徠から本居宣長を経て平田篤胤にいたる流れとして一筆書きのような按配で描く。そして実質的には幕末から大正デモクラシーまでの時代を主に扱っている。

本書の特色はわたしの見るところ三つある。

まず第一に、ここ200年の日本史をグローバルな19世紀、20世紀の近現代史のなかに置いて分析するという視点。これは具体的には英語の原題に現れている。近代日本史(Modern Japanese History)ではなく、「日本の近現代史」(A Modern History of Japan)となっているのですね。日本人にとっては、明治維新や大日本帝国の興亡はあまりに特殊で他に類を見ないように思うかもしれないが、決してそうではない。「より広範な世界の近現代史と不可分のもの」として、たまたまそれが日本という個別の地域でどのように特殊に展開したのかという視点で考えてみたらどうだろうというのであります。
日本語版への前書きで著者が述べているのは、「新しい歴史教科書を作る会」が打ち出した、各国の歴史はそれぞれ個別独特のもので他国との安易な歴史認識の共有などありえないという意見への反駁である。わたしはこのアプローチは意義があり、また有効であるように感じた。

第二は、わたし自身にはやや違和感があったのだが、この時代を描くのにかなりジェンダーという概念が多用されていることである。たとえば明治、大正期の元老をはじめとする国家支配層にとって労働者の社会主義への覚醒と並んで脅威でありおぞましいものとして映ったのが、女は良妻賢母たるべしという「健全」な考えに従わない女たちの出現であったというような見方を本書ではしている。もちろん間違いとは思わないが、比重が重すぎるような気がして違和感があったのである。
たぶん、わたし自身が男であり、またこの時代の空気や風景を「坂の上の雲」的な史観、すなわち、国家の興隆に自らを捧げることは男子の本懐であるというような見方で理想化する偏りがあるからだと思う。ただし、かならずしもそれが悪いとも思わず、むしろ幸福な時代として羨望していることも事実である。この点については、本書はなんとなく居心地が悪かったという告白にとどめてこれ以上は述べない。

第三に(わたしが一番面白いと感じたことはこれ)歴史の叙述が、わたしたちがこれまで読んできた教科書的なものとかなり異なっているという印象である。これはうまく言えないのだが、わたしたちが歴史ということから思い浮かべるのは、たとえば事件や政治権力行使の連続だと思うのですね。何年にどういう戦がおこり、それにはこれこれこういう背景があった。また何年にはなんたらという乱が発生し、それはこういう結果に終った。つづいて何年には、なになにを目的として、かくかくしかじかの法律が公布されたが、それは社会にかような影響をもたらした、とかなんとか。
本書は、もちろんそういう記述の側面がまったくないというのではないのだが、なんか違った印象があるのですね。
わたしたちのなじんだ歴史は、つきつめて言えば「5W1H」ではないかと思う。何年に誰が何処で何を何のためにどうのようにしてやりました。はい次、何年には誰が・・・というかたまりが延々とスクロールしていく、つまり年表の詳細版が歴史というものであるといった。まあ、これは単にわたしの貧困な読解力のせいかもしれなくて、ほんとうはそういう歴史の出来事の底流に脈々と流れているであろうところの民族の精神とか意識とかが、どのように今現在のわたしたちと結びついているのかを読み取るべきなのかも知れない。しかし、そういうことを読者につねに意識させる叙述というものがやはり必要ではないかという気もする。
たまたま、本書と平行して『丸山眞男講義録2』(岩波書店)を読んでいるのだが、そのなかに下記のような記述があった。おそらく、英米の歴史叙述の文体と言うべきものがあり、それがたとえばこの『日本の200年』にもあらわれているのかもしれない。著者であるアンドルー・ゴードンはライシャワー研究所長だった人だそうです。日本人のことはアメリカ人に習えでありますな。

思想史の対象における相違と対応して、方法においても、ドイツ系と英米系とで大まかな相違がある。ドイツはロゴス的把握が強く、geistig〔精神的〕であり、これに対して英米は、思想を独立したものとしてではなくsocial entity〔社会的実在〕の中で捉える。つまり思想の外からの働き、思想の外への働きの相互作用の観点から思想史が書かれる伝統をもっている。
『丸山眞男講義録2』

『日本の200年』はとくに思想史であるというわけではないが、その記述にはつねにここで丸山が述べているような社会的実在というものを強く意識したところがあり、おそらくそれが、わたしのような専門外の人間にとっても面白いと感じさせる要因なのではないかと思う。

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コメント

>第二は、わたし自身にはやや違和感があったのだが、この時代を描くのにかなりジェンダーという概念が多用されていることである。

釈迦に説法でしょうけど、近代(明治維新以降)に限っても、津田梅子とか『横浜富貴楼お倉』(鳥居民、草思社)なんて女傑がいたようです:
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0323.html
女性版の「坂の上の雲」を書くと面白いかも。ドラマにもなりそうだし。

投稿: やいっち | 2007/02/25 04:58

やいっちさん こんばんわ。
以前に、たまたま津田梅子については
http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/2004/10/post_8.html
に、横浜富貴楼お倉については
http://www.bk1.co.jp/product/1430481/review/50312
に、感想のようなものを書いたことがあります。たしかに、女傑というにふさわしい人かもしれませんね。いま横浜富貴楼お倉の感想を読み返してみたら、上記のエントリーと同じようなことを書いていた。進歩のあとが見られません。(笑)

ところで、わたしがこの時代の「ジェンダー」ということで、すこし斜に構えて考えるとすれば、たとえば正岡子規の妹の律を取り出してみたいですね。子規は偉い男ですが、その彼も家の女たちが業病の自分を見捨てることだってあり得るとは疑いもしなかったような気がします。出戻りの妹に受けている看護を、気の利かない、行き届かないものだと平気で文章にして発表する、それを読む妹や母が情けない思いをするに違いないことには無頓着である。病人とはいえ家長であり生計を支えるのは男の自分であり、女はそれにすがって生きている以上、自分の世話をすることは献身でも自己犠牲でもなんでもなくて当前の義務である、と見ていたのではないかと思うのですけどね。子規も偉かったが律も偉かったと思います。

投稿: かわうそ亭 | 2007/02/25 21:39

『日本の200年』(上巻)読まれたのですね。
(僕は今下巻の半ばで中断中。)
僕もこの本で「歴史の叙述」ということを考えました。
何故、同じ時代や同じ事件を扱って、この本の歴史はこんなに面白く、教科書の歴史はあんなに無味乾燥なのかは、やはり「叙述」の違いによるものが大きく、僕には例えば118pから120pにかけて、明治初期の国内の政情不安について「ええじゃないか」のお札が降ってきた光景を語った後、
「誰が新体制を率いるのか。新体制の構成はどうなるのか。1868年に明治という新しい年号が制定されたが、その時点では、これらの問いや他の多くの問いへの答えは、空から降ってきたお札といっしょになって、文字どおり宙を舞っているかのようにみえた。」
などという叙述に新鮮なものを感じ、心惹かれます。

投稿: ma | 2007/02/26 22:02

ああ、あそこらあたりもすごくいい感じですよね。わたしがポストイットを貼ったのは(わたしはほとんど蔵書を持たないものですから、保存しておきたい箇所はあとで入力するためにポストイットを貼っていくのです)次のような文章でした。
「明治の支配者たちは、国が進む道としては、帝国となるか帝国への従属か、のいずれかしかなく、中間の道はありえない、とする地政学的な論理を受け入れた。(中略)日本の指導者たちは、そうしようと思えば帝国主義的な利益線の拡大に走らなくとも、近くの国々そして遠い国々との貿易や移民を促進することによって、アジアで国としての独立と繁栄を守りえただろう。だが、それが可能だと信じた指導者は一人もいなかった。他の列強の行動様式も、とうてい日本の指導者に発想の転換を促すようなものではなかった。(p258)

投稿: かわうそ亭 | 2007/02/26 22:56

遅まきながら私も読み始めました。まずは上巻までということで。変わらないようで変わっていくことあり、変わっても変わらないことがあるから歴史を読むのは楽しいですね。

投稿: 烏有亭 | 2007/03/17 07:55

烏有亭さん
おっしゃるとおりだと思います。とくに、変わっても変わらないものがあることが重要だと思います。なんとなくいまは「戦前」だという気持ちが拭えない今日この頃です。

投稿: かわうそ亭 | 2007/03/17 21:57

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