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2007年3月

2007/03/27

箪笥に封印

箪笥をひらりととび八丈。けふちり緬の明日はない夫の命しら茶裏。娘のお末が兩面の紅絹の小袖に身をこがす。これを曲げては勘太郎が手も綿もない袖なしの。羽織もまぜて郡内のしまつして着ぬ浅黄裏。黒羽二重の一張羅、定紋丸に蔦の葉の。のきも退かれもせぬ中は、内裸でも外錦。男飾りの小袖までさらへて物數十五色。内ばに取つて新銀三百五十匁。

2007_0327 心中天網島、天満紙屋内の段、着物尽くしの場面。
小春を夫の治兵衛に請け出させるために、商売の金を渡し、それでも不足する金を工面するため、質入れする衣類を箪笥から取り出すおさん。一番泣ける箇所でありますね。

田中優子さんの『江戸の恋』(集英社新書)によれば、この時代、妻が実家から持ってきた家具調度類や着物はあくまで妻の財産であった。婚礼の行列が長いことは、それだけの道具類を持たせるだけの経済力を妻の実家が持っていることを示して、嫁ぎ先での地位を有利にするというはたらきがあったといいますな。
実家が持たせたものは妻の財産であるということは、離縁するときは当然これは実家にもって帰る。
心中天網島では、おさんの父の五左衛門がいったんは小春との縁切りの誓紙を書いたはずの治兵衛が性懲りもなく小春を身請けしようとしていると思い込み治兵衛の家に乗り込んで、去り状書けと怒鳴りながらまずやったのが、おさんの箪笥を改めて、その衣類の数を確かめて封印を貼ることであった。おさんが立ちふさがって、衣類の数は揃っている、箪笥の中身まで調べるには及びませんと必死で父にすがるのを、五左衛門が突き飛ばして中をあらためてそれが空であることを知って血相を変えるわけでありますが、この場面を文楽劇場でみたときはなんかびっくりしたなあ。むかしの離婚というものが、この箪笥に封印を貼るという手順としてきちんとひとつの様式にされていたという驚き。着物がなによりまず財産でもあったという文化の根強さ。そんな感慨があったのであります。
ところで、これも田中さんの上記の本で知ったことですが、妻の持参金は化粧料とも呼んだそうですが、もうひとつ敷金という呼び方もあったそうです。家を貸すときに受け取る敷金と同じ。離縁したときは妻に返す必要がありました。

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2007/03/22

海軍士官は席次が命

海軍士官と言えば、日本の場合、江田島の海軍兵学校がその養成機関である。これはダートマスにしてもアナポリスにしても、たぶん各国共通なのだと思うが、士官養成機関では候補生たちの身体能力を鍛えることももちろん軽視されたわけではないとは言え、ここではなにより学業成績がものを言った。
『闇屋になりそこねた哲学者』木田元(晶文社)によれば、木田さんは昭和19年に海軍兵学校に合格する。すなわち最後の士官候補生であったということになるのだろう。敗戦の一年前、士官不足からたくさん合格させたんだとご本人は謙遜しているが、そうであっても海軍兵学校は秀才がしのぎをけずる難関にはちがいない。
ところで海軍兵学校とは、これを要して言うならば理系の学校であり、なんといっても数学の出来が成績を左右した。
入学後、中学で三角関数までしか習っていない木田さんは、ぺらぺらの教科書で微積分の簡単な授業をうけて、宿題として二十題ばかり次の授業までやってこいと言われた。まあ、ほかの生徒だって同じようなレベルだったのだろうが、なにしろ海軍兵学校は消灯時間というものがある。夜7時から9時までのたった2時間で微積分の問題二十問を解かなくてはならない。いくらなんでもこりゃむりだと、やっと一問解き終えた木田さんはとなりを見て真っ青になった。
なんで真っ青になったのか。以下木田さんの説明をお読みください。こういう、ある意味、みもふたもないというかざっかけないというか、虚飾を廃したものの見方がのちにこの人の学問にも通じるものになったのかもしれません。笑っていいものかどうか、迷ってしまいますけれど。

やっと一題解いて横をみると、隣のやつが二十題みな解いています。真っ青になりました。というのも、この学校では成績が命にかかわるということに気づいていたからです。
兵学校では、三号(一年生)、二号(二年生)、一号(三年生)それぞれ十五名くらいずつ、合計四十五名ほどで分隊という一つの単位をつくって生活を共にしています。入学してしばらくして気がついたのですが、三号の席順はアイウエオ順です。それが二号になると、三号のときの成績順になっています。一号は二号のときの成績順です。そして、その番号順に卒業後の行き先が決まるのです。
たとえば、一番は海軍省にいきます。二番、三番は航空母艦や戦艦に乗る。その次は巡洋艦か駆逐艦。次が航空隊。だんだん下の方になると潜水艦。びりっけつの方は船にも乗れない。陸戦隊。敵の戦車が上陸してくると、地雷なんかを抱かされて飛び込む、どうやらそういうことをやらされそうでした。

430027727_530dd3abc2ええと、この本はとてもおもしろいのでオススメですけれど、とくに若いころの木田さんの写真が数点掲載されておりまして、これが映画スターをなみの男前で、びっくりいたしました。
顔で海軍の提督を選ぶとすれば、最有力候補になった逸材であったかも知れません。(笑)

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2007/03/20

三つ編みで参上仕る

ウッドハウスの『Thank You, Jeeves』に出てきて、わたしが思わずにやりとしたバーティの言い回しを、ワン・センテンスだけまえに紹介した。【ここ】
とくに解説めいたことは書かなかったのだが、この表現がどうも腑におちないという方からメールをいただいたので、さきの引用のあとの展開もふくめてもう一度掲載し、わたしがなんでおもしろいと思ったのか説明します。ただし、わたしはさして英語ができるわけではないので、間違っていたらご指摘いただければありがたい。

'Well, tell old Stoker that I shall be there at seven prompt with my hair in a braid.'
'Yes, sir'
'Or should I write a brief, civil note?'
'No, sir. I was instructed to bring back a verbal reply.'
'Right ho, then.'
'Very good, sir.'

はじめがバーティ、あとがジーヴスのふたりの会話である。
すこし繰り返しになるが簡単に背景を説明しておくと、このときジーヴスはバーティの雇用から外れていて、たまたまある事情でアメリカ人の大富豪の使用人となっているのですね。そしてこのアメリカ人の大富豪はこれまたある事情でバーティに一物ふくむところがあり、そしてそのことをバーティも十分承知しているといったことを念頭においておいてください。
さてこの場面は、その大富豪がなぜか快く思っていない筈のバーティを自分の専用ヨット—といってももちろん何人もの使用人をおいて船内で楽団を入れたパーティができるといった体のものですけれど、そこに招待したいと招待状を届けさせます。その使者として遣わされたのがジーヴスであったことは前回お話しいたしました。
今回、図書館で森村たまき訳の『サンキュー・ジーヴス』から該当箇所ををノートに書き写してきましたので、さきにそれをお読みいただきましょう。

「うむ。ストーカーの親爺に、七時ちょうどに髪を結い上げてそちらに伺うと伝えてくれ」
「はい」
「それとも短い、礼儀正しい手紙を書くべきかなあ?」
「いいえ、さようなことはございません。口答にてお返事を伺ってくるようにとのご指示でございました」
「それじゃあ、よしきた、ホーだ」
「かしこまりました」

ここで可笑しいのは当然バーティの「with my hair in a braid」です。
なぜなら、1930年代のバーティの髪型はたぶん真ん中分けされてポマードで頭に撫で付けられた、そうですねえ、映画「タイタニック」の金持ち連中みたいなスタイルのはずです。「braid hair」というのは簡単に言えば三つ編みですから、もちろんこれはふざけて言っているわけですが、いったいなにをイメージしているのか。

わたしの考えるに、バーティ君はきっとネルソン提督時代の若き英国海軍士官に自分を見立てて、仮想敵国の艦長から招待状を受け取ったかのような口上で遊んでいるのだと思ったのであります。
20070321 日本語にしたときに「三つ編みで参上いたします」ではしまらないので、森村訳では「髪を結い上げて」になっておりますけれど、たぶんここでわたしたちが頭の中でイメージするべきなのは、一部に熱烈なファンを有するホーンブロア・シリーズの登場人物とか、あるいは映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」のノリントン提督の黒いリボンを結んだ粋なお下げ(あれは鬘だけど)ではないかと思う。
きっちり編んで一本にまとめ後ろに垂らしたスタイル、ピッグテイルとも言いますが、あれであります。

なお、研究社の「新英和大辞典/第六版」には、braid には俗語として海軍の高級士官という意味があることが書かれています。下っ端のセーラーたちは陰で「三つ編み連中の思いつきだとよ」なんて悪口言っていたのかもしれませんな。

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石井桃子さんの100年

これは何度もお話ししていることですが、一九三三年のクリスマス・イブのことです。その頃、文藝春秋に勤めていた私は、仕事の関係で親しくしていただいていた犬養健さんの御宅にお邪魔しました。そこに。イギリスから帰国された健さんのお友達から、お子さまたち(道子さんと康彦さん)へのプレゼントとして、「The House at Pooh Corner」という本が届いていたのです。おふたりに「これ読んで」と言われて読みはじめ「雪やこんこん、ポコポン」というところにさしかかって、私はふいに不思議な世界に迷いこみました。紗のカーテンのようなものをくぐりぬけて、まったく別の温かい世界をさ迷っていたのです。

427429987_f5f861e269 新潮社の「yom yom」vol.2の特集は、3月10日に百歳を迎えられた石井桃子さん。引用は、特集のインタヴューのなかで石井桃子さんが語っているもの。ここで「イギリスから帰国された健さんのお友達」というのは尾崎秀実などといっしょにゾルゲ事件で逮捕された西園寺公一のことだが、このあたりのことは、犬養道子さんの本などをお読みの方はよくご存知だろう。
この特集の中には「74年前のクリスマスの晩に」と題する犬養康彦さんの文章もあって、石井桃子さんがはじめてプーさんに逢った夜のことが語られている。
この夜のこともふくめて、犬養家の人々と石井桃子さんに興味を持たれた方は、私などが書くより、痒いところに手が届くような塩梅で、このあたりのことを丁寧に紹介してくださっているブログがあったので、そちらをぜひお読みください。連載でまだ終わっていないようですが、とてもおもしろい。まずは「犬養家のメアリー・ポピンズ」あたりを一読し、引き続き前後を読まれていくのがいいかもしれない。【こちら】

さて100歳をこえられた石井桃子さんだが、あるとき中川李枝子さん(『いやいやえん』の作者ですね)をお相手に、こんなことをおっしゃったとか。

少し前に石井さんが「中川さん、あなたに言っておきますけれど」と、真面目なお顔でおっしゃった。そんな風にお話しになることはめったにないのでどきっとしましたら、「九〇歳まではなんともなかったけれど、九五歳を過ぎたらがくっときて、あちこちいろいろ出てきてしまったの。あなたもお気をつけなさい」って。

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2007/03/18

鰻の包丁

kitchen knives

この写真は2年半ばかり前に撮ったもの。千日前の道具屋筋にある刃物店のショーウインドウである。

そのときにFlickrに載せていたら、ある方から「Special to filet eel!!」というコメントをもらってびっくりした。写真を撮ったときは、そんなことは全然知らなくて、ただ単に面白いイメージだなと思っただけなのである。包丁の形だけでその用途がわかるというのは、その方も専門家だったからだろう。
北原亞以子さんの『銀座の職人さん』(文春文庫)を読んでいたら、この鰻用の包丁について記述があったので、そういやこんなのがあったなと思い出したのであります。

しかも、鰻は身がかたい。包丁も二段刃といって、刃の部分に、もう一度角度を変えた刃をつける。持たせてもらったが、角度の変わる刃が異様に光り、村正の刀のようで不気味だった。
「鰻の蒲焼」

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2007/03/14

あまりに英語過ぎる

『Thank You, Jeeves』P.G. Wodehouse(Penguin Books)を読む。
お気楽独身男のバーティが、自ら招いた災難に右往左往、どんどん深みにはまって抜け出せなくなったところで、天才トラブルシューターのジーヴス登場といういつものオハナシ。今回、ちょっと趣向が変わっているのは、ジーヴスがバーティのもとを去って、別の主人に仕えることになるのでありますね。なんでそういうことになったのかは読んでのお楽しみということで、ここには書きませんが、バーティの愛すべきバカぶり(と騎士道精神)は本書でもいかんなく発揮されて、全編を通じてくすくす笑いながら読み終える。

20070314 230頁ほどのペーパーバックなので、すぐ読めるだろうと思ったのだが、これがイギリス英語なのかなあ、わざと難しい単語をつかって会話をするものだから、(文脈でおよその意味はわかるのだが)いちいち辞書を引いて、へえ、こんな言い回しがあるのかあ、と感心したりして時間がかかる。まあ、こういう英語のお勉強も悪くはないけれど、はっきり言って、いまどきこんな大層な英語を使ったら、(芝居がかった外交官やら政治家ならばともかく)普通の人々の交際では大笑いされるのがおちだろうからあまり役には立たない。現に、本書のなかで重要なキャラクターとしてアメリカ人の大富豪が出てくるのだが、ジーヴスの婉曲な言葉遣いにいらいらしたあげく、「貴様、オペラかなにかやってるのか」と怒鳴ったりする。1930年代の話だが、すでにこの時代で、アメリカ人からみたら、大仰なわざとらしい言葉遣いであったことがこれからもわかる。およそ、実際的な英語ではないんだろうなあ。まあ、そういう意味では貴族だとか執事(ジーヴスは厳密には執事ではないけれど)などいう存在自体が実際的なものではないわけでありますね。しかし、そういう実際的でないものには価値がないと決めつける人や社会は経済的に豊かであっても、ほんとうは貧しいよなあ、と負け惜しみ。(笑)

参考までに、上記のアメリカの大富豪が怒った箇所はこんな感じ。

'Excuse me, sir' he said, shimmering towards old Stoker and presenting an envelope on a salver. 'A seaman from your yacht has just brought this cablegram, which arrived shortly after your departure this morning. The captain of the vessel, fancying that it might be of an urgent nature, instructed him to convey it to this house. I took it from him at the back door and hastened hither with it in order to deliver it to you personally.'
  {snip}
'What you mean is, there's a cable for me.'
'Yes,sir'
'Then why not say so, damn it, instead of a song about it. Do you think you're singing in opera, or something? Gimme.'

もうひとつだけ。バーティが上記の大富豪のヨットに招待されたときの返事。7時にお越し下さいという手紙をもってきた使者(ジーヴスが使者になるのだが)に対して。

Well, tell old Stoker that I shall be there at seven prompt with my hair in a braid.

いや、残念だが使う機会はまずないだろうなあ。(笑)

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2007/03/08

百貌百言

『百貌百言』出久根達郎(文春新書)は全部で百人の人物列伝。公刊された自伝や評伝からいかにもその人物らしい言葉を引き出す。
ひとりについて新書の見開き左右2頁でまとめる。一話はすぐに読み切れて、どこで中断してもよい。手軽にするする読める本だが、人の生涯のエッセンスを抽出して蒐めたようなものだから中身はなかなか濃い。
内容見本として、四人ばかりその一部を抜いてみる。面白かったらどうぞ新刊書店でも古本屋でも図書館ででもお探しください。

小林一三
小林一三は若い頃は作家志望であった。十八歳の慶応義塾生時代に、東洋英和女学校長ラージが殺害された事件が起きた。一三は早速これに材を取り、「練絲痕」という小説を書き、郷里の山梨日日新聞に送った。採用され連載が始まった。まもなく一三は麻生警察署に連行された。ラージ殺しの内情を知るものと疑われたのである。さほどに迫真の描写であった。この一件を新聞社がいやがり、連載中止を申し入れたため一三は九回で完とした。小説の筆名を靄渓学人(あいけいがくじん)という。

鏑木清方
昭和十五年製作の「一葉」は、樋口一葉を描いたものだが、清方は生前ご本人とは会っていない。モデルは一葉の妹くに子である。くに子が姉に似ているというので、くに子を見て描いた。くに子は背が高かったが、一葉は低かったらしい。姉もそうだったらしいが、少しばかり背が丸まっていた。樋口家は甲州の出である。寒い国の人らしい、と清方は描きながら思った。

井伏鱒二
鱒二が押しも押されぬ作家となった時、老いた母が、お前は小説を書いているそうだが、何を見て書いている、と聞いた。「そりゃいろいろ本も読むし、他人から聞いた話や自分でこさえた話を書いているんだ」と言うと、「それはそれでいいかもしらんが、間違った字を書いちゃいかん」と注意した。

上村松園
小学校を出ると、京都府立画学校に入った。女が絵の学校へ進むなんて、と叔父や親類が猛反対した。母だけが、「つうさんの好きな道やもん」とかばってくれた。明治二十年代は、絵描きは遊び仕事、と一般に考えられていたのである。父は津禰(つね)の生まれる二ヵ月前に亡くなっていた。母の手で育てられた。津禰は鈴木松年の指導を受ける。
勧業博覧会に「四季美人図」を出品した。松年が雅号を考えてくれた。師の名と、生家の商売から茶園の園を取った。女らしい雅号で、何より母が喜んでくれた。松の園生のように栄えるように、と娘を励ました。初めての出品作は一等となり、英国のコンノート殿下が買い上げて下さった。松園は数えで十六歳であった。

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2007/03/07

『シェル・コレクター』

『シェル・コレクター』アンソニー・ドーア/岩本正恵訳(新潮社/2003)を読む。以下の8編を収録。

20070307

 貝を集める人
 ハンターの妻
 たくさんのチャンス
 長いあいだ、これはグリセルダの物語だった
 七月四日
 世話係
 もつれた糸
 ムコンド

これは思わぬ拾い物。
まず文章が美しい。とくに自然の描写。たとえば「たくさんのチャンス」で十四歳の少女がフライフィッシングを通じてメイン州の海を知っていく箇所から引いてみる。

水から魚がとびだすのを、チョウザメがはねるのを見る。海の激しさを見る。アミキリの群れが波から放りだされ、あわてふためくニシンの大群のあいだをくねりながら通りぬけ、半分噛まれて小刻みに震えるキュウリウオを浜に追いやるのを見る。河口の浅瀬で、死んだタラが白くふくれあがってひっくり返っているのを見る。潮の満ち引きで浜に上がったガンギエイがカツオドリにつつかれてばらばらになるのを、ミサゴが波頭からキスをさらうのを見る。

簡潔でありながら、自然の情景が視覚的なイメージとして伝わってくる力強い文体なのだとわかる。これは、翻訳がいいということもあるだろうが、おそらく英語の原文のもつ力だと思う。
もうひとつは、話があるところから急に意外な方向に展開して行って、短編でありながら、場合によっては長い年月にわたる人々の物語を聞かされるような味わいがあることだ。これはとてもおもしろい特徴で、「え、そんなんありなの」というようなことが突然語られるのだが、それがまったく不自然でも、わざとらしくもなくて、短編小説の中にうまく仕組まれているんだなあ。この短編集は、処女作らしいけれど、ちょっと舌を巻くような上手さがある。
よい短編小説集は、人生の贈り物でありますね。おすすめです。

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2007/03/06

ふたりの譚

以前、エイミ・タン(Amy Tan)の中国名である譚恩美の「譚」というのは本名かしらという疑問を書いた。なにしろおもしろい綺譚の語り手だから、これはペンネームじゃないかなあと思ったのであります。【こちら】
ところが、どうもこの「譚」という名前は、知る人ぞ知る広州の名門一族のファミリーネームであるようだ。
先日『中国共産党 葬られた歴史』(文春新書)という本を手に取ったのだが、最初に目を引いたのは実は著者の名前であった。

譚璐美(たん・ろみ)という。

おや、これはエイミ・タンと同じファミリーネームじゃないか、とちょっと驚いた。そして中身を読んで、また少々驚いた。

この本には譚平山と譚天度という人物が登場するのだが、名前から明らかなように著者とは親戚の関係にある。譚平山は中国共産党が正式に誕生する前に存在した、広東共産主義小組(北京、上海に続いて三番目の共産主義小組)の創設者であり、1949年10月1日に毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言したときには、周恩来や劉少奇、朱徳らと並んで天安門の壇上にいた一人であるという。譚天度は譚平山の甥であるが、やはり中国共産党の創成期からのメンバーの一人であり、まさに激動の中国現代史を生き抜いた最古参の共産党員として百六歳で1999年に亡くなっている。

中国の現代史に興味ある方はお読みなってもおもしろいのではないかと思うが、とりあえず細かい内容は省略する。
もっとも残念なことに、この譚という一族とアメリカの作家エイミ・タンがなんらかの関係があるのかどうかはこの本ではわからない。ただ、彼女の小説によく登場する国共合作の頃の裕福な家庭の中国女性(母親世代にあたる)のイメージはなんとなくつながるような気もするのだが。

412557361_02a6b0980b 譚璐美氏は1950年東京生まれ。本籍は広東省高明県とのこと。(エイミ・タンの『The Hundred Secret Senses』にも高明県が出たような記憶があるのだが、これはちょっと曖昧)現在はニューヨーク在住とあります。
エイミ・タンは1952年生まれ。なお、『中国共産党 葬られた歴史』のカバーには著者の顔写真も出ているのですが、このほぼ同世代の譚さんのお顔は似ているような、似ていないような、写真からはよくわかりませんなあ。

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2007/03/03

やつらとおれら

国会がきな臭くなってきた。安倍総理がいよいよ憲法改定に道筋をつけるための国民投票法案の上程を政治日程に上げてきたからだ。
まず、わたしの意見を明確にしておく。改憲には反対する。
以下、理由を述べる。といっても、まあいつものようにたいして内容があるわけではない。

まず、わたし自身も漠然としか理解していないので、改憲の手続きについて確認をしておきます。

第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

いくつか問題があるそうです。

  1. 各議院の3分の2の母数は、議員の法定数であるのか現職数であるのかが不明確である。
  2. 国会の発議を受けて国民が承認するかどうかを決める特別の国民投票というのが具体的に定められていない。(だから今回安倍が国民投票法案を提出するというわけですな)
  3. 国民投票の過半数の母数が、有権者の総数であるのか、有効投票数であるのかが不明確である。

まだまだたくさんあるのでしょうが、改憲手続きに限定してもこういう不明確なところがある。個人的には(3)が大事なんじゃないかという気がするけれど。

さて、改憲に反対の理由を書きます。ごく簡単なことです。
これをわたしは個人的に「やつらとおれら」理論と呼んでおります。(って、実はいま適当に決めた(笑))

それは憲法というのはいったい誰を規律するきまりであるのかという原則にかかわります。わたしは憲法は第一義的に「やつら」を規律するきまりであると考えます。
「やつら」というのは、たとえば今現在であれば、具体的には政財界の安倍一派とそのファミリーのみなさんと考えればよろしい。ただこれは、政治的な情勢や環境によって変わっていくでしょう。もしかしたら、社民党の諸君が「やつら」になるかもしれません。朝鮮労働党の日の丸版みたいな人たちが「やつら」になるかもしれません。新興宗教の人々が「やつら」になるかもしれません。(あ、可能性がほとんどないという意味では社民党はそうだけど、同様のほかのふたつと並列はさすがに失礼かも(笑))

そもそも国家というのは、どんな国でも「やつら」と「おれら」で出来ているものであります。もちろん「やつら」が「おれら」とあまり階級やら文化的な背景が違わないほうが好ましく、また「やつら」が「おれら」の代表であることが手続きとして公正に行われることが好ましいとわたしは思っていますが、かりにそういうことが理想的に行われたとしても、そこにあるのは依然として「やつらとおれら」という厳然とした関係であることははっきり知っておくべきだと思います。(「おれら」が一様でないことは言うまでもないけれど)

さて憲法が「やつら」を規律するきまりであるとして、「やつら」がこれじゃやりにくくて仕方がないから変えることにしたけんね、と言われた場合、「おれら」はまずその動機を疑うべきであります。とくに日本国憲法の改憲のキモはなんといっても第9条であります。細部にわたっていろんな議論がある―私学助成金もあれは憲法違反らしいものねえとかなんとかは目くらまし、どーでもいいのであります。いいから9条に全部ヤマをはれ、であります。
では日本国憲法第9条をもういちど読んでみましょう。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

聞くところによれば、現政権はこの第2項を変えたいそうです。
現実に自衛隊があるじゃないか。あれは実質的に陸海空軍じゃないか、憲法がタテマエになって現実と齟齬をきたしているじゃないか。現実が正しいなら憲法はウソツキか。ウソツキはドロボーのはじまり、子供のキョーイクによくないよ、ということであるらしい。いやちがうかもしれない。(笑)まともな国家なら、ちゃんと軍隊ありますねん、てなんで堂々と言えへんねん、情っさけないでぇホンマ、といわれると、おお、そらそやな、とついうっかり返事しそうになるでしょ。わたしはなるよ。

だけど、この約束はだれを縛るものか、「やつら」である。「やつら」は陸海空軍もったらあかんねんで、「やつら」は「おれら」の生命をポーカー・チップみたいにしてよその国と戦をするのはあかんねんで、というきまりを、いやこれは占領軍の押し付けやろ、おまえら自分で決めたもんやないやろと「やつら」に言われたくらいで、そうほいほい手放して、ホント大丈夫?とわたしは思うんだけどなあ。

タテマエが現実と違うという当たり前のことを前提にした舞台で、自分に与えられた役柄を見事に演じてみせるから政治家なんである。どの時代のどこの政治家だって同じことである。タテマエと現実を一致させなければ、わたしらまともな政治できませんとかなんとかいう政治家は、おーまえらぁアーホーかぁと「おれら」はきちんといわなければいけない。
ましてやこの場合、いつか遠い未来にでも、現実をタテマエにすこしでも近づける努力をすることに意味があるのではなかろうか。

現政権の改憲などというのは要は「ぼくちゃんち、せっかくポルシェがあるのに、180キロまでしか出せない装置がついてるんだよぅ。ほかのお金持ちの子ったら、アウトバーンで300キロくらい平気で出してるんだぜ。なんとかしてよぉ」と言っているにすぎない。
おまけにこのぼっちゃんのおじいちゃんは(ってこれはあくまで比喩で言っているのであって、安倍晋三と岸信介が血縁であることは偶然ですが)かつて泥酔運転の大暴走で通行人やら対向車やら同乗者を殺しまくった曰くつきの運転者である。わたしは日本と日本人を愛するが、だからといって、アウトバーンを300キロでがんがん走りたいといわれたら、そらやめときなはれと言いますな。ましてや同乗はまっぴらごめんであります。「おれら」はホンマはそういうことには向かへんねん、「おれら」はもともともののあはれでっせ、と本居宣長だって言うておる―かどうかは知らないけれど。(笑)

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2007/03/02

池田澄子さんの俳句

池田澄子さんの句集『たましいの話』と『ゆく船』を読む。
どちらもたいへん面白く、また楽しく読むことができた。ネットでもいろんな方が池田さんの俳句の鑑賞をなさっており、またインタビューも公開されていて参考になる。【こちら】
口語を生き生きとつかったこの作者ならではの言語感覚から生み出される俳句はとても新鮮である。上記のインタビューのなかに師である三橋敏雄に「これがお澄調だよ」と言われたなんて話もあって、ふんふん、と頷く。
わたしが抜いたものはたとえばこんな感じ。

  夕月やしっかりするとくたびれる
  永遠に泣いていたいの心太
  山法師捻挫と恋は長引くぞ
  太陽が仕事している猫やなぎ
  春月がとろんと高しさようなら
  性格のよからんいそぎんちゃくぴんく
  (以上『たましいの話』から)

  夏落葉どこに居ようと年をとる
  山椒魚ついつい山椒魚を産み
  おかあさーんと呼ぶおとうさん稲光
  指先を冬の涌井が誘うのよ
  豆の莢からぽろぽろっと生まれたし
  椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ
  軽い筈なき白鳥を見送りぬ
  初恋のあとの永生き春満月
  青嵐神社があったので拝む
  さらしくじらしみじみ白し雨になる
  (以上『ゆく船』から)

まだまだ、たくさん気に入った句はあるのだが、こういうちょっと軽めでどこかお茶目な雰囲気が、広範な読者に「へえ俳句って意外と面白いじゃん」と受け入れられているのではないかと思う。

もうひとつ、池田澄子さんについては戦争にまつわる作品群があるのだが、たとえば俳句総合誌に掲載された次の句(『たましいの話』所収)をめぐっていささか困った非難があったとのことであります。

  忘れちゃえ赤紙神風草むす屍

つまりこれを、戦争の話なんてかったるいからもう忘れちゃえと作者が言っているのだと解釈した人がかなりいるらしいのですね。「うぜえんだよ、じいさん、戦争、戦争っていつまでも」と言われたように思ったわけであります。
けしからん死者を冒涜するにもほどがある、なんてのはまあいいとして、たとえばあるサイトでは、わたしたちはあの戦争の惨禍を次世代に伝えているだろうか。「『忘れちゃえ赤紙神風草むす屍』の句に対しては、『忘れてはいけない』ときちんと反論ができるでしょうか。」なんて意見があったりして、まあ、大半の俳句ファンは「あっちゃあ」と困惑したのではないかしらと思うんですね。
もちろん、そんな風に受け取るのは読み手がバカである、あるいは俳句の読み方を知らないだけなんだから相手にしてもしょうがないわなという立場もあると思うが、厳密な意味で、このような解釈が誤読だとこの句だけから証明もできないと思う。念のためにいっておくけれど、わたし自身はこの句をそういう風にはまったく読まないよ。小さな娘が泣きながら「お父さんなんて大っ嫌い」というのと同じ文脈で読めなければ、いったいあんたは何年生きているんですか、と思う。
「易」に「言は意を尽くさず」という言葉があるそうですが、俳句という短詩型は、わざと意を尽くさないことをもって上とする文芸なので、こういうことはおこりがちなのですね。困ったことだが、これは仕方がない。

ただ池田さんのこの句には、普遍的な戦争に対するこの世代の方の感情とは別に、池田さん自身のおそらく父親への思いがこめられているという気がしてならない。これは単なる想像で、まあ、いつものわたしの俳句を私小説風に読みたがる悪い癖に過ぎないのかもしれないのだが。次のような句が、空想を誘うのである。

  雁や父は海越えそれっきり
  鉄剤を恃みぬファザーコンプレックス
  雪黒しここは亡父の家路であった
  TV画面のバンザイ岬いつも夏
  泉あり父の若死以前から
  玉砕の島水筒の腐りがたき
  茄子焼いて冷やしてたましいの話

池田澄子さんは昭和11年(1936)生まれ、敗戦のときは十歳くらい。玉音放送を実際に聞いた記憶をお持ちの方である。

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2007/03/01

2月に読んだ本

『ゴシップ的日本語論』丸谷才一(文藝春秋 /2004)
『百万遍界隈—永田和宏歌集』(青磁社 /2005)
『人はかつて樹だった』長田弘(みすず書房 /2006)
『最終講義』木田元(作品社/2000)
『論語 上』吉川幸次郎(朝日文庫/1987)
『丸山眞男講義録 (第1冊)』(東京大学出版会/1998)
『遺愛集』島秋人(東京美術/1967)
『死刑囚島秋人—獄窓の歌人の生と死』海原卓(日本経済評論社 /2006)
『句集 たましいの話』池田澄子(角川書店/2005)
『句集 初雁』長谷川櫂(花神社/2006)
『内田義彦セレクション4「日本」を考える』(藤原書店/2001)
『論語 中』吉川幸次郎(朝日文庫/1987)
『ウルジマラ』姜琪東(文學の森 /2006)
『母』高行健/飯塚容訳(集英社/2005)
『日本の200年 上・下』アンドルー・ゴードン/森谷文昭訳(みすず書房/2006)
『身世打鈴(シンセタリョン)』姜琪東(石風社 /1997)
『丸山眞男講義録 (第2冊)』(東京大学出版会/1999)

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2月に観た映画

ピュア(イギリス/2002)
監督:ギリーズ・マッキノン
出演:キーラ・ナイトレイ、モリー・パーカー、デヴィッド・ウェンハム、ハリー・イーデン

12人の優しい日本人
監督:中原俊
脚本:三谷幸喜、東京サンシャインボーイズ
出演:塩見三省、相島一之、上田耕一、二瓶鮫一、中村まり子、大河内浩、梶原善、山下容莉枝、村松克巳、林美智子、豊川悦司、加藤善博、久保晶、近藤芳正

オスカー・ワイルドの カンタベリー城と秘密の扉
監督:イザベル・クレーフェルト
出演:マルティン・クルツ 、アルミン・ローテ 、クラウス・ベーレント 、ザスキア・フェスター

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