« Hybrid Images | トップページ | 通のスタバとか »

2007/04/07

かいなをのめり

『能村登四郎の世界』大牧広(邑書林/1995)は奈良の古本屋で買った本。帯に能村登四郎自身による推薦の言葉がある。

自分の事で少々面はゆいが、今度大牧広さんが『能村登四郎の世界』という本を書いてくれた。大牧さんはもともと筆の立つ人であるが、今度の文章も筆緻が柔らかく書き手の誠実さと情がこまごまと行き渡っている。その上選句眼がしっかりしているので選ばれた作品がその作者の人生をそのまま綴っている。書かれた私も感謝をし満足している。そのような好著で是非皆さんにおすすめしたい。

ということなので読んでみたのだが、どうにもわたしには首を傾げる箇所がある。
それは能村の第一句集『咀嚼音』の次の句の鑑賞である。

 ふかく妻の腕をのめり炭俵

昭和27年の作で、俳人協会編の『自註現代俳句シリーズ能村登四郎集』の能村による自註文が引用されている。こういう文章だ。

その頃家庭燃料として炭は貴重品だった。大切に使っていた炭も乏しくなったのか妻は肩が没する程ふかく俵の中に手を入れて炭をさぐっていた。

大牧氏はこの能村の文章からさらに筆を進めて次のように書く。

ことに「肩が没する程」という描写は、炭俵の中の残り少なくなった炭を一かけらでも無駄に使うまいとする主婦の切実な気持ちが的確に描かれている。当時の主婦の仕事としてみれば、ごくなんでもない動作であったろうが、作者能村登四郎は、この時の妻の光景を、やはり、単に炭をすくいとる動作でなしに、かぼそい身体をそのように使うことによって自分の家庭を守ろうとする一途な姿と感じとった、と見てよいのであろう。決して豊かでなかった能村家をまかせられた妻への、これは作者の目に焼きついて離れない光景であったろう。
もう一度ふりかえって鑑賞したとき、〈ふかく妻の〉という字余りの表現が、読む人の胸を深くうつことに気づく。〈ふかく妻の〉の六音は、これは能村登四郎のぎりぎりの表白をするための、どうしても変えることのできない声調であった筈である。〈妻ふかく〉と仮に表現が在ったとしてみると、単に報告に終わってしまう。次に〈腕をのめり〉と続いたにしても、味わいの薄くなることは避けられない。作者にとって、炭俵から炭をとろうとする妻の前のめりの深さが、感動の全てであったのである。

とてもすぐれた鑑賞だと思う。ただし、最後の箇所「妻の前のめりの深さ」という意味がすぐにおわかりになるだろうか。
じつは〈ふかく妻の腕をのめり炭俵〉を掲げたあとで、大牧氏はこのように鑑賞の筆を起こしているのである。

一昔前まで町の炭屋(この商売も今は見ない)で、炭俵を見るたびに、この句が浮かんできたことを思い出す。(中略)中七は「かいなをのめり」と読む。「のめる」は、「前の方に倒れかかる」という意味。

つまり、妻が腕を炭俵に深く差しいれているために前のめりになっているという風に読めというのであります。
ここを読んだときにわたしは、「えっ?」と思った。いや、じつはいまもひかかっている。
わたしにはどう考えても、これは〈ふかく妻の腕を呑めり炭俵〉すなわち「炭俵が深々と、妻の腕を呑んでいる」という読みしかありえないような気がするのですね。前にのめる、つんのめるなどの「のめる」というのは国語辞書によれば自動詞として通常はつかわれるはずですが、そもそも「腕をのめる」というような表現が日本語として一般的なのだろうか。

しかし、この本は、あとがきによれば大牧氏の主宰する「港」に5年にわたって発表されたものだという。その間に結社「港」の同人をはじめ会員の多くの目をくぐっているはずである。能村登四郎もこの本にあらわれた選句眼は確かであると太鼓判を押している。当然、この文章だって目を通したはずだが、とくに異論はなかったのだろう。邑書林の編集者も何回もゲラのチェックをし、疑問があれば著者と念入りな打ち合わせを繰り返しているはずである。もしこれが間違いならとうの昔に訂正されているはずだ。
ということは、やはり、わたしの「腕を呑めり」などという読みは、初級者の浅はかな間違いでなければならない。

しかしなあ、「腕をのめる」なんて言うかなあ。(笑)
どなたか、すっきりした説明をしてはくださらないでしょうか。

|

« Hybrid Images | トップページ | 通のスタバとか »

d)俳句」カテゴリの記事

コメント

大牧先生が、そのように鑑賞しておられますか…。 
掲句は私が編集を担当した『現代俳句歳時記』(角川春樹事務所)にも収載されており、今この瞬間まで、かわうそ亭様と同様の鑑賞をしておりました。炭俵を見たことはありませんが…。
むむむ~~~。

投稿: 黒子 | 2007/04/10 10:22

黒子さん
炭俵と言えば、わたしは祖父が炭焼きの窯を持っていましたので、なつかしいです。真冬、炭の取り出し間近になった窯はちょうどいい温度になっていて上に寝そべると気持ちがよかった。
大牧氏の「のめり」解釈には「むむむ〜〜」ですねえ。(笑)

投稿: かわうそ亭 | 2007/04/10 19:44

どーも。俳句は、とおしろう、のrenqingです。

「ふかく妻の腕をのめり炭俵」

これ、倒置法ですよね。これを主語述語で元にもどせば、

「炭俵ふかく妻の腕をのめり」
⇒「炭俵が深く妻の腕を呑みこんだ」

以外に、解釈の仕様がない、と思いました。擬人法のおかしみ、それと倒置法による強調。これがこの句の生き生きとさせているのでは。ま、一応、門外漢の言ということでご容赦。

投稿: renqing | 2007/04/11 05:20

renqingさん どうも。

わたしの推理では、おそらく大牧氏は「ふかく妻の」の「の」を主格を導く格助詞として読んでいるのだと思います。つまり「ふかく妻が」と、まず思考のレールが敷かれてしまったために「妻がのめる」という風に受け止められたのではないでしょうか。ただし、本文でも指摘しましたが「のめる」は「照る」「澄む」などと同じような自動詞ですから「腕をのめる」は誤りであることははっきりしています。
「天のお日様を照る」「池の水を澄む」がおかしいと感じる人は「妻の腕をのめる」だっておかしいとわかる。さらに、前方に倒れかかるという「のめる」の主格に「腕」がつかえるかどうかも疑問です。「腕がのめる」とは普通は言わない。
だからあえて大牧氏の解釈のようにこの句をつくるとすれば

 ふかく妻の身をのめらせり炭俵

となるでしょう。
レトリックとして「わたしの方が間違いでなければならない」と書いたのは、まあ嫌みな表現ですから、ここは率直に書きますが、俳壇というところは裸の王様の王国ではないのか、読解力でのケアレスミスは誰にもあることですから、そのこと自体をあげつらう気はありませんが、その間違いが俳句結社の弟子や編集者によってただされていないのはお粗末きわまるではないか、というのが実はほんとうに言いたいことでありました。(笑)

投稿: かわうそ亭 | 2007/04/11 20:48

>俳壇というところは裸の王様の王国ではないのか
>その間違いが俳句結社の弟子や編集者によってただされていないのはお粗末きわまるではないか、というのが実はほんとうに言いたいことでありました。(笑)

 なーる。それで腑に落ちました。なにか、まどろっこしい感じがしていたので。
 俳壇もお家流、ですな。お仲間でツルむのは、ま、ご勝手に、というところですが、「無理が通れば道理が引っ込む」というのも、言葉を極めようという人間集団としては、ちとイタダケナイですね。

投稿: renqing | 2007/04/12 01:22

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: かいなをのめり:

« Hybrid Images | トップページ | 通のスタバとか »