幕末・維新
『幕末・維新—シリーズ日本近現代史1』井上勝生(岩波新書)を読む。
全10巻のこのシリーズ、第1巻目の本書はペリー来航から西南戦争までをあつかう。
明治新政府に対する評価というのは、戦前はもちろん、戦後も一貫して好意的ものが多いような気がする。もちろん、たとえば山田風太郎の明治小説全集のようにかれらのいかがわしさがよく出ているものもあるが、これは明治政府に対する肯定的な見方の方が多数派であって、そうでない山田風太郎の視点が新鮮だったということであり、このことは逆に一般的な明治新政府への好感を証明していたともいえる。
こういう幕末から明治にかけての、われわれ現代人の歴史観に大きな影響を与えたのはおそらく司馬遼太郎だろう。
明治新政府は「けなげ」である。東アジアの弱小国が帝国主義的な欧米列強に支配されまいと必死に知恵を絞り、したたかな現実感覚で国の舵取りをおこなった、とかなんとか。
わたしも経験があるが、日本のアジア侵略の歴史について英語圏の人と議論をする場合は、こういう19世紀後半の東アジアの情勢から説き起こさざるをえなくなる。
まあ、こちらの語彙が貧弱だから、幼稚な表現になるのは仕方がないが、要点は次のようなことである。
なるほど、日本の侵略戦争は現在からみればあきらかに間違いである。しかし、日本が欧米の軍事力の威嚇によって開国を余儀なくされた1860年代のことを考えてみてくれ。この時代に植民地支配を目的としてアジアに進出していたのはキミたちの先祖のほうである。もし日本が王政復古による国家統合に失敗していたら、アヘン戦争の次は日本が標的になり、日本は当時の藩という分割された単位でいくつかに分割され、一部は英国に、一部はアメリカに、一部はフランスに、そして別の一部はロシアの植民地かそれに準ずるような属国にされていたのではなかろうか。そういう弱肉強食の国際関係に当時はあったのであり、そのなかで前の徳川政権の負の遺産である不平等条約を清算し、欧米列強に伍して国家の独立と尊厳を守るためには、その時代にほかの選択はなかったのではないだろうか。日本のアジア侵略と植民地化の歴史をキミたち欧米人に非難されるいわれはないと思うがね。
「まあ、そうね」と連中は言い、「でもさ、イギリスにしてもフランスにしても、かつての植民地だった国から、いまでも日本ほど嫌われてはいないみたいだけどさ」なんて嫌味を言われて、「はは、まあそうね」とこちらも力なく笑うなんて展開になるのでありますね。
さて、ところが本書『幕末・維新』は、こういう明治新政府「けなげ」説に真っ向から礫を投げつけるような新鮮な近代史でありまして、上のような歴史観をもっているわたしにはどうも居心地が悪かった。
たとえば徳川政権の負の遺産である不平等条約と、あなたがたは簡単に言うけれども、そもそもその外交実務を担当した徳川政府の実務担当者の評価ははたして正当なものですか、というようなところから掘り起こして、さまざまな史料から通説をつきくずして行く。
あるいは、1860年代の日本は危うかった。あわや列強の植民地にされてしまってもおかしくはなかったのだと、あなたがたは言うけれど、それは事実誤認というべきもので、冷静に当時の東アジア情勢と日本に対する列強の利害関係を分析すればそうでなかったことがわかるはずだと著者の井上氏は言う。
幕末後半期の日本の国際的環境を以上のように見ると、幕府と薩長、両陣営の対立が深刻化する中で、日本に最大の影響力を持つイギリス外交は、中立、不介入の路線を確定しており、それを明確に表明もしていた。イギリスの判断の基礎には、列強の勢力均衡という日本の地勢、日本の政治統合の高さ、イギリス海軍の能力の限度、貿易のおおむね順調な発展、大名の攘夷運動の終息、西南雄藩の開明派の台頭などがあり、中立、不介入方針は確立された。
日本に国際的な重大な軍事的危機が迫っていたわけではないのである。対外的危機からの脱却が何をおいても必要だったという国際関係を前提に急進的な政治改革を必然的なものと描き出す見解が、従来有力なのだが、冷静に再考されるべきである。たしかに、軍事力、経済力の格差は大きく、日本に一般的な対外危機がなかったとはとてもいえない。しかし、列強、とくに影響力が大きかったイギリスにしてすら、日本を植民地化するような具体的な侵略的介入をする可能性は、当時の政治の動向からいえば、実は低いものであった。
『幕末・維新—シリーズ日本近現代史1』
井上勝生(岩波新書)p.146
通説に異議を唱え、開国後の日本の発展を可能にしたのは、むしろ徳川期に準備されていた信用制度や民衆の教育水準であり、全国の中小の商人たちが開国をチャンスと見て積極的に活動していたことを実証する。説得力のある、刺激的な本であります。
日本の近現代史をわれわれが書き直すという意図やよし、ということでこのシリーズには期待するが、同時にこの執筆者たちへの批判も大いに期待したいと思うな。
じつは、わたしは言い負かされたようで、少々くやしい思いをしているのであります。(笑)
| 固定リンク
「b)書評」カテゴリの記事
- ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール』(2016.12.15)
- 『忘れられた巨人』(2015.07.26)
- 地べたの現代史『ツリーハウス』(2015.04.20)
- 笑える不条理小説『末裔』(2015.04.19)
- 『夏目家順路』(2015.04.16)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
私も読みましたが、引用の部分は読み流してしまった感じです。後世における歴史的評価というのは難しいですね。「最悪の条件なのによくがんばったよ」とほめられるのと「前任者がよかったからで、独り相撲だったよ」と突き放されるのでは天地の差がありますもんね。
投稿: 烏有亭 | 2007/04/18 17:50
こんばんわ。
この巻の史観は、開国と国家のとりあえずの独立は、薩長の倒幕から明治維新を推進したグループの実務能力にその源泉を見るよりも、徳川政権下で育まれた社会システムや経済力の方に注目すべきだというものですよね。そしてこういう主張は、なにもこの本がはじめてでは、もちろんないわけですが(例えば司馬遼太郎などもくりかえしそのことを指摘している)、少々珍しいのは、明治の国家指導部の動きを政争と権力闘争の側面に分解していることだとわたしには見えます。つまり西郷も大久保も木戸も誰一人として人間としての魅力がありません。これに対して中小の商人や民衆はひたすら持ち上げられる。
これまでの幕末史、維新史を「しょうもない英雄史観」と貶す人もありますが、それに対抗するのが本書のようなものであるとすれば、わたしはあんまり好感がもてません。
投稿: かわうそ亭 | 2007/04/18 21:35
どーも。ようやく、書評を作成し、こちらにTBさせて戴きました。私は、西郷や大久保と同郷です(どちらかというと彼らから苛斂誅求された側ですが)。ですが、彼らも客観的には権力亡者といってよいと思います。ただし、彼らの自己規定からすると、彼らこそが、救国の有司であり、したがって、彼らが権力を独占するのは当然なのでしょう。
歴史を描くのは困難な作業です。客観的なコンテキストと登場人物の主観的コンテキストにも眼を配る必要があります。
ま、この本では、司馬史観に太刀打ちできない、というのが私の評価です。
投稿: renqing | 2007/05/05 05:38
どうもです。renqing さんが書かれた本書の要点で、かなりすっきりしますね。くわしいコメントは、ひきつづきそちらのブログにて。
投稿: かわうそ亭 | 2007/05/06 21:46