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2007年5月

2007/05/30

岡井隆の短歌読解法(2)

『わかりやすい現代短歌読解法』の続き。
歌はそのまま読み下して感覚的にとらえればそれでいいのだ、という風に言われると、そうか、そうか、読みなんてテキトーでいいんだなと、うっかり勘違いしそうだが、それだけではやはりつまらない。
「どこがどういいか口ではうまく言えないけどいい歌」とか、「なんとなく好き」なんていうのは、きっとその人にとって大切な謎が残っているということだ。だから、できればときどきその歌を口ずさみ、ああでもあろうか、こうでもあろうかと考えてみたほうがいい。ある日、なにかの拍子にすとんと胸に落ちる答えが見つかるかもしれない。
たとえば、本書で岡井隆はこんな歌を読者に提示する。

 馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人恋はば人殺むるこころ

塚本邦雄の『感幻楽』にある有名な歌である。現代短歌のファンであれば誰でも知っているといっていいほどよく知られたものですが、この歌をうっとりとしてしゃべっている人がいたら、ちょっと意地悪く、でも馬を洗うのと恋とどういう関係があるの?と聞いてみたくなる、と岡井さんは言うのですね。

これは困るね。相手が経験の浅い人であれば、ははは、詩というのはそう理詰めで考えるものではないよキミ、なんて言って逃げられますが(笑)、もし岡井隆にこう聞かれたら、これは冷や汗ものであります。

わたしは俳句も好きですので、この歌は、夏の季語の「馬洗う」や「馬冷やす」と絡めて解釈していました。
きびしい農事や輸送に使役していた馬を、夕方、川に連れて行って汚れた体を洗ってやる。しかし馬を洗うのだったら、ただ汚れを落としてやればいいだけではないだろう。つらい労働を共にし疲れ果てた自分の分身、兄弟のような馬である。ほてった体をゆっくりと冷やし、もし馬に魂というものがあるならば、それが透明な結晶かなにかのようになるまで、何度も水を馬の体にかけて人は馬と心を通わせるのではないか。馬を洗うのならそこまでする。恋をするなら・・・・

さて、以下は岡井隆の解釈。

この馬は武士の馬で、平家物語などに出てくるいわゆる「駿馬」でしょう。川のそばで馬を洗ったりするのは俳句の季題だと夏ですが、そんなことを考える必要はないと思います。馬は、漢字と一緒に日本に入ってきたといわれていますけれど、武士が自分の次に大事にしたという乗り物であります。しかも姿も美しい。そういうことを考えると、何か自分の中にある大事なものを徹底的に洗い上げて、あくる日の戦闘に備える。そういった気持ちと、恋をするならば、相手の命を奪ってもいいという激情をもちたいというのが、うまく合わせられているのではないかと思うのです。

古の強者、武士というものをイメージすることで「馬のたましひ冱ゆるまで」と「人殺むるこころ」がすっきりとつながるすぐれた解釈だと思います。これが正解か、どうかは別にどうでもいいことですが、「なんとなく好き」にとどまっていては詩を読む楽しみは深くならないのは間違いないでしょう。

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2007/05/29

岡井隆の短歌読解法(1)

岡井隆の『わかりやすい現代短歌読解法』(ながらみ書房)は、NHK学園短歌講座の機関誌「短歌春秋」に連載の現代短歌講座を五十二回分まとめたもの。
この「短歌春秋」は季刊なので、年に四回の発行。五十二回分ということは足掛け十三年に及ぶ。(1993年4月号から2006年4月号まで)ずいぶん息の長い連載でありますが、いまもまだ続いている様子です。「あとがき」に以下のようにあります。

生涯教育の講座の機関誌ですから、読者層は、中高年の人たちが多く、歌を始めたばかりの方々が対象であります。なるべく分かりやすく、現代短歌の作り方、読み解き方を話すかたちで書きはじめたのですが、目次をごらんになってわかるように、次第に書き方が変わってゆき、新刊の歌集をとり上げて、秀歌を解読するという、いわば時評または書評のような文章になって来ました。

歌集というのは、一般の読者にはなかなか目にとまらないし、偶然に目にとまったとしても、ちょっと、とっつきにくいものです。たまに短歌を読むのは好きですが、あえて未知の方の歌集を買って読むほどの熱意はない。毎月の短歌雑誌もところどころ拾い読みする程度の読者であるわたしにとって、岡井隆という大家がいろいろな歌人の紹介の労をとってくれるような内容の本書は、ちょうど手頃な現代短歌のガイドブックになっているような気がしました。
本書に取り上げられた歌集のうち何冊かは、わたし自身も目を通したことがあるものでしたが、大半ははじめてその歌人の存在を教えられるようなものでした。読んだことのある歌集にしても、ああ、そんな風に味わえばいいんだなと得心がいくことが多かった。
岡井隆の「短歌読解法」は、べつに権威的な嵩にかかった物の言い方ではない。二三、例をあげてみよう。

詩は、一般に、分析とか解釈を拒む性質があるので、細かく内容に立ち入って論ずるより、読んで一気に感じとるのが大切だとおもいます。

歌は、詩でありますから、ことさらに解釈にこだわる必要はありません。そのままに読み下して、一つの感覚として「感じのいい歌だ」とか、「はなやかな気分だ」とか、「すっきりと胸に落ちた」とか、思えばいいのであります。

そのこと自体は、美しくもないし醜くもないことを、歌の中に歌いとどめると、にわかに美しく見えてくるということがあります。歌の極意というものがあるとすれば、そういうなんでもない一瞬の景色や、一瞬の心の動きを、言葉によって一首の中に移し植えるという、その技法なのでしょう。

面白い本だったので、もう少し、この本にからめた話をつづけます。

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2007/05/27

丸山眞男講義録

東京大学出版会から出ている『丸山眞男講義録』全7冊を通読する。今年の2月から月に二冊くらいのペースで読んできたことになる。読書の一区切りと言うことで以下メモとして。

このシリーズは、東京大学法学部における丸山の講義のなかから七年分を取り出してその復元をはかったもの。

丸山眞男が東洋政治思想史の講義を担当しはじめたのは戦前の1943年からである。制度上、1966年度まで東洋政治思想史という名称になっているが、いうまでもなく実際は日本政治思想史である。途中、応召や病気入院などで中断はあるが、1968年度まで毎年この講義を中心にして、政治学、政治学史の講義も行った。

1968年度(1968.4-1969.3)が最後となったのは理由がある。

ある年代から上の方には、あまり説明はいらないが、この頃は全国のキャンパスがヘルメットをかぶった学生で埋めつくされ、建物はバリケード封鎖されていたような時代であります。東大法学部研究室は1968年12月に全共闘によって封鎖。安田講堂の陥落が1969年1月19日。

第7冊巻末の「講義年譜」によれば、1969年2月21日、冬学期、第一回目の日本政治思想史講義は教室に入り込んできた活動家学生との討論にきりかえられた。3月7日の第三回目の講義も同様であり、丸山は入院、立教大学教授の神島二郎が担当教官として以後の講義を代行ということで、この学期の講義は「フンサイ」されてしまったようです。このとき、丸山54歳。
以後、病気入院などで講義は休講となり(大学院生の演習は自宅などでもやっていたようですが)1971年3月に停年を待たずに東京大学教授を辞職しますので、実質的には1967年度が学部講義としては最後になる。

さて、生前に丸山眞男はこれらの四半世紀にわたる歴年講義のなかから四つをえらび、東京大学出版会から講義録を刊行する予定であった。

日本政治思想史については、戦後初期の講義として一九四八(昭和二十三)年度、講義の全体構想の大きな転機となった一九六四(昭和三十九)年度、また学部講義の最終段階を示すものとして一九六七(昭和四十二)年度、さらに法学部でただ一度行われた一九六〇(昭和三十五)年度政治学講義がそれである。それらの講義録を「歴史的記録」として残すことは、先生の長年の願望であり、退官後、時に病床にありながらも、講義録の整理と補充に従事してこられた。しかし、ご病状の急速な悪化により、先生はついにそのお仕事を果たされることのないまま、一九九六年八月十五日にご逝去の日を迎えられた。(「刊行の辞」より)

とまあ、そんなわけで丸山門下の四人の日本政治思想史研究者(飯田泰三、平石直明、宮村治雄、渡辺浩)が東京大学出版会の委嘱でこのシリーズの編集を担当した。

各冊の講義名と年度を転記しておく。

第一冊 日本政治思想史1948
第二冊 日本政治思想史1949
(以上二冊は占領下で行われた講義)
第三冊 政治学1960
(60年安保闘争の年に行われた政治学講義)
第四冊 日本政治思想史1964
第五冊 日本政治思想史1965
第六冊 日本政治思想史1966
第七冊 日本政治思想史1967
(四年間にわたって通史的に語られた日本政治思想史)

各冊の内容についてコメントする気はいまはないが、じつにスリリングな読書体験でありました。

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2007/05/20

胡志明生誕107年

Wikipediaによれば、昨日は胡志明の誕生日だったようです。
1890年5月19日(ただし異説もある)生まれ、亡くなったのが1969年年9月3日でありました。
この人はベトナム人の共産主義者で、コミンテルンの常務委員。モスクワ、延安、雲南省などで活動をしていましたが、1941年の日本軍の仏印進駐に際して、中国の国民党の支援を得ようとしたところ、コミュニストの影響力を嫌う国民党の軍閥に拘束され投獄されます。もともと、この人はベトナムの儒学者の家の出でありましたので、漢字の読み書きには不自由をしない。獄中で仕方がないからいくつも漢詩をつくって無聊をなぐさめた。
次の詩もそのひとつ。

清明  胡志明

清明時節雨紛紛  清明の時節 雨紛紛
籠裏囚人欲断魂  籠裏の囚人 魂を断たんと欲す
借問自由何処有  借問す 自由 何れの処にか有る
衛兵遥指弁公門  衛兵 遥かに指す 弁公門

とくに解説は必要なさそうですが、最後の弁公門は刑務所の門のこと。
いったい自由はどこにあるかと看守に聞けば、あの門くぐれば自由があるさ、さっさと転向するんだね、てな感じでしょうか。
ところが、この詩、見る人が見ればにやりとする。晩唐の詩人、杜牧の有名な「清明」のパロディであるからです。

清明  杜牧

清明時節雨紛紛  清明の時節 雨紛紛
路上行人欲断魂  路上の行人 魂を断たんと欲す
借問酒家何処有  借問す 酒家 何れの処にか有る
牧童遥指杏花村  牧童 遥かに指す 杏花の村

獄中でこんな洒落たパロディができるものかどうか、まあ、作り話かもしれないが、それくらいこの時代の人は中国人でなくとも漢詩ができたわけですね。日本人もまたこれに同じ。

ところで、胡志明と書かれると誰のことかいな、と思われるでしょうが、ご賢察のとおりこれはホーチミン、ベトナム共和国初代大統領閣下であります。

以上、元ネタは昨日に引き続き『漢詩逍遥』(藤原書店)。例によって、一海先生の随筆はおもしろいよ。

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2007/05/18

あいまいな日本語の不戦

漢詩というのは、たとえば「春眠不覺暁」のような五言絶句の起句くらいであれば、たいていの日本人は読むことができるので、つくる方もなんとなくできるんじゃないかという錯覚を覚えますが、これもやはり外国語には違いないので、素人が一知半解で漢詩文もどきをつくるとよろしくないようで。
以下『漢詩逍遥』一海知義(藤原書店)の「漢文教室―超初級編」という一文より。

日本と中国のある都市同士が、友好都市の関係を結びました。
日本側の市長は書が得意だったのか、さっそく、
  日中再不戦
と墨書して中国側に送り、これを石に刻んで公園にでも建ててほしい、と申し入れます。ところが中国側から、これでは具合が悪いので、
  日中不再戦
と書き直してほしい、と言って来ました。

日中再ビ戦ワズ。どこが悪いんだ、てなもんですが、これは典型的な日本人の漢文(もどき)なんですね。
漢文のロジックでは上にある語が下の語を支配修飾する、と一海先生は説明されています。
すなわち「日中再不戦」とあれば「不戦」という語を「再」という語が支配修飾する。こなれませんが直訳風にこれを日本語にすれば「日中は不戦を再びす」となりますので、日中両国は前に不戦の間柄であった、今回もまたこれでいきましょうね、という意味になってしまう。中国の方は、外国人だからまあ仕方ないけどさ、と思いながら、こういうときは「日中不再戦」と書かなきゃ駄目じゃんと言ってきたわけ。これも、直訳すれば「日中は再戦せず」という感じの意味になりますね。
なお、筋のよい訓読では「日中再不戦」は「日中、再ビ戦ワズ」、「日中不再戦」の方は「日中、再ビハ戦ワズ」となるようです。日本語にするとなんかどっちでも同じ意味にとれるようであいまいさが残りますが、中国語の意味はこの表現については実に明快です。

なお、一海先生は紳士ですから、この書が得意だったらしい市長さんをどこのどなたか明らかにされておりませんが、インターネットで調べますと、1962年に松尾吾策、岐阜市長揮毫の「日中不再戦」と王子達杭州市長揮毫の「中日両人民世世代代友好下去」の碑文が交換され、それぞれ翌年の1963年に碑が建立されていることがわかります。こちらのサイトには杭州市の柳浪聞鶯公園に建てられた松尾吾策市長揮毫の碑の写真も出ておりますね。
もちろん、このエピソードが岐阜市と杭州市のものであるかどうかは、確定はできませんけれども、疑わしくはあるなあ。(笑)

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2007/05/17

俳句の技法(承前)

今日の話は昨日の続き。

新潮社の季刊誌「考える人」の最新号(2007年春)の特集「短編小説を読もう」の冒頭に丸谷才一のインタビューが掲載されています。聞き手は湯川豊。ちなみにこの特集はなかなか読み応えがありまして、このインタビュー記事の次には村上春樹への15の質問、それから川上弘美のインタビューや、高橋源一郎と橋本治の対談なんかもある。さすが新潮社という貫禄であります。

さて、この丸谷才一のインタビューのなかに、前回マクラをふった楸邨の鰯雲の句が登場するのですね。文脈は短編小説と言うのはどういう楽しみ方をすればいいのかといったところですけれど、ここでは短編小説とのつながりはとりあえず置いて、この句の解釈だけ引用します。

加藤楸邨さんの「鰯雲人に告ぐべきことならず」。その解釈(1)。鰯雲がきれいだなあと見ている。ところで、自分が今悩んでいるあの女の問題(あの金銭の問題でも何でも)は、だれにも相談できない。やっぱりいわないほうがいい。沈黙を守ろう。もうひとつの、解釈(2)。ああ鰯雲きれいだな、これをいってもだれもわかってくれないな。二つの解釈で、たぶん俳句の初心者は(2)だけで考えていると思う。そして俳句の専門家は(1)だけで考えていると思う。おそらく、僕は(1)と(2)の解釈の二つが紛れるところが、俳句のあいまい性で、俳句のおもしろさなんだろうと思うんです。正解がどっちとも言えないところがおもしろい。

ここで丸谷さんがあげている(1)の解釈というのは、「鰯雲」(季語)と「人に告ぐべきことならず」(十二音)との間に直接の関係がないということですから、遠藤さんの言うところの「十二音技法」流の解釈であります。

これを丸谷才一は「俳句の専門家」の解釈だと見ているわけですが、「週刊俳句」で遠藤さんが言っておられるのは、むしろこういう五音の季語とそれ以外の十二音の間をわざと離して、そこに二句一章あるいは二物衝撃の効果を生むテクニックというのがハウツー方式で量産される俳句初心者の安直な技法になっているという批判であるように思われます。

事実、わたしのような初心者もこのテを多用していますから、丸谷さんの見方はかならずしも実態を正しくとらえていないと思う。 むしろ(1)は初心者もふくめて俳句の技法を多少でも習ったことがある人。(2)は俳句の作り方と読み方(乱暴に言えばこれは同じものですが)を読んだことも聞いたこともない人、であると見ていいのではないでしょうか。つまり片やごく初心者からベテラン、専門家までがひとくくりのグループになり、片や俳句に興味がなかったり、俳句になじんだことのない人々がもうひとつのグループになる。

そう考えると、多少意地悪く言えば、「十二音技法」に対する反発は、初心者が専門家面をして俳句を語っている(かのように見える)ことへの不快感が原因であると言えるのかもしれません。

さて、この丸谷さんの発言は、もともと俳句をテーマにしているわけではありませんから、少々言い足りないところが当然ありますね。

たとえば解釈(1)は、女の問題にせよ金の問題にせよ、人に告ぐべきではない具体的な問題がなにかその人に「ある」という読みですが、これとは別に解釈(3)、とくにこれといって具体的な問題は「ない」としても、「はあー、もうなんだか生きていくのがいやになったなあ」と深いため息をつくようなことも人間だもの、時にはありますよね。しかし、そういうことは、いい大人が口に出して言うようなことではない。ああ、これってなんか鰯雲を見たときの感じになんだか似てるみたい、というような読みもあっていいでしょう。まあ、こういう多義性を楽しむというところが丸谷さんの言う「俳句のあいまい性」「俳句のおもしろさ」なんだと思う。

ということで、最後の解釈(3)をわたしの答案といたします。(笑)

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2007/05/16

俳句の技法

ウェブマガジン「週刊俳句」の第3号、「十二音技法」が俳句を滅ぼす(遠藤治)という記事がおもしろい。
「十二音技法」というのは、まあ一種のジョークみたいな表現なのだが、「五七五のうち十二音だけ考えてあとは適当に季語をあしらう」という作り方のこと。
はは、大きな声では言いたくないが、じつはこれ、わたしもよくやります。(笑)

ところでこの記事に対するコメントで、こういう技法が「とりわけ初心者指導の現場において、まことしやかに流通している」という具体例はあるのかという指摘がありました。初心者指導の現場というのが、カルチャー・スクールとかなんとかそういう意味であれば、そういうものには出たことがないので知りませんが、初心者向けの入門書ではこのノウハウがたしかに説かれておりますね。

わたしがすぐに思い浮かべたのは、藤田湘子の『新・実作俳句入門』(立風書房)。
ここで藤田は現代俳句には次のような「原型」があると教える。

  1. 上五に季語があって「や」切れになっている。
  2. 下五には名詞が置かれてある。
  3. 中七下五は一つながりのフレーズである。
  4. 中七下五は、上五の季語とかかわりない内容である。
  5. 中七の言葉は下五の名詞のことを言っている。

もちろん藤田湘子は「これであなたも5分で俳句作家!」なんてことを言ってる訳ではなくて、こういう原型、典型を体が覚えるまで百でも二百でもつくる練習をすることで俳句の基本が身につくと言うのでありますが、それはともかく、これはかなり実戦的なメソッドでありますね。とくに(4)の「中七下五は、上五の季語とかかわりない内容である」というところがキモです。
藤田湘子は、あることで、わたしは人間として信用できないタイプだと勝手に決めつけておりますが、俳句は上手い。その上手さ(と信用のならなさ)がこういうメソッドにもあらわれておりますが、なんのことはない、わたしもこのテはちゃっかりいただいていますので、あまり偉そうなことは言えないか。
さて、この「十二音技法」の記事では、最後にテストがあります。次のような句をキミタチちゃんと鑑賞できるかね、という問いかけ。

 をりとりてはらりとおもきすゝきかな  飯田蛇笏
 鰯雲人に告ぐべきことならず      加藤楸邨
 中年や遠くみのれる夜の桃       西東三鬼
 たましひのまはりの山の蒼さかな    三橋敏雄

このうち楸邨の鰯雲について、たまたま丸谷才一が面白いことを言っているのを最近読んだので、別にテストの答案というわけではないが、ちょっと紹介してみよう。
(この項続く)

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2007/05/15

飯田龍太の百千鳥

小林恭二の『俳句という遊び—句会の空間—』(岩波新書)は、いまから17年前の1990年4月に山梨県境川村の飯田龍太邸で行われた句会の模様を伝える好著。この飯田龍太邸のことを俳句をやる人は「山廬(さんろ)」といいます。龍太の父である蛇笏が命名したのですね。
句会は飯田邸で行われたと今書きましたが、正確には4月12日と13日の二日にわたって開かれておりまして、初日は確かに山廬で行われましたが、二日目は太宰治が『富嶽百景』(富士には月見草がよく似合う)を書いた[天下茶屋]がその会場となりました。参加した俳人は本の見返しにある紹介の順番で、飯田龍太、三橋敏雄、安井浩司、高橋睦郎、坪内稔典、小澤實、田中裕明、岸本尚樹の8名。「はじめに」で著者の小林恭二が書いていますが、句会はある意味、真剣勝負です。これだけの名手が顔を揃えて競うわけですから、短い時間内に何句も仕上げるというプレッシャーはただごとではない。小林は名前はあかしていないが、ある参加者はあとになって、句会の二日間は「ほとんど発狂状態だった」、「僕だけでなく、みんなそうだったと思うよ」と語ったとか。

さてその二日目の[天下茶屋]での句会。ひとり十句の規定だからほんとうは全部で八十句になるはずでしたが、飯田龍太が九句で七十九句になった。

「うん、僕は九句だ。謙虚にやったんだ」と言った後で、
「これで負けても言い訳ができる」
と呵々大笑。

この本に出て来る飯田龍太はなんだかすっとぼけた爺さん風でおかしい。
このときに飯田龍太が出した句の一つにこういうのがある。のちに句集『遅速』(1991)に収録された。

 百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり   龍太

選んだのは三橋敏雄と田中裕明の二人。以下、句会の様子を本書から抜いてみる。

高橋「僕は選んでないんだけど、その句面白いね。なんか伊藤若冲の絵みたいで」
小林「そう言われるとなかなかいい句ですね」
(中略)
小澤「理が勝ってるんじゃないかなあ」
三橋「作ったという感じのする句ではあるね」
飯田「(しみじみと)惜しいねえ」
小林「作者はどなてでしょう」
飯田「わたしです」
一同爆笑。
小林「最後の惜しいねえというのはなんだったんです」
飯田「あはは」
三橋「作者名が決まったんでこの句は郷土詠として決まるねえ」
(中略)
ちなみに句会が終わった後、高橋睦郎がこの句を盛んに褒めていた。句会最高の一句だと言って。
わたしも素晴らしい句だと思う。

「俳句研究6月号」の飯田龍太追悼特集(去る2月25日に八十六歳で長逝)のなかで、正木ゆう子が、〈一月の川一月の谷の中〉と並べてこの百千鳥を鑑賞しておられました。(一月の川の句は、どうぞ頭の中で縦書きに直していただきたい)

 一月の川一月の谷の中
 百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり

片や死後のような、未生以前のような、命の姿の見えない景。片や、命の賑わいの極致のような一句。その対照をわたしは愛する。

同じ特集の次のページには小澤實がやはりこの句をとりあげてこんな風に書いておられ、感慨をさそいます。

小林恭二著『俳句という遊び』の句会に出て、この句を選べなかったことを、生涯、悔い、恥じるものだ。選んでいるのは、三橋敏雄と田中裕明のみ。二人ともはや亡い。

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2007/05/13

奥田英朗の本

2007_0513 奥田英朗の『イン・ザ・プール』と『空中ブランコ』を読む。
ちょっと笑えますね、これ。
中身の紹介はめんどくさいから(だって読んでる人は知ってるように、そういうマジメっぽいことをする気にさせない類いの本なんだもの)とりあえず本の外観だけ。このラッパーのデザインは伊良部一郎シリーズの目印らしいのだが(新しい単行本『町長選挙』もこの路線)ちょっといい感じじゃないですか。
こちらのインタビューでは作家本人が、「装丁も含めて、小説も売り方を考えなければいけないと思うんです」と語っていますね。

奥田: そうです。セレクトショップと、あとはホテルチェーンと無印良品。スターバックスにも置きたいですね。普段、本屋に行かない人にも手にとってほしい。自分に似た人が手にとってくれたら、気に入ってもらえる自信はあります。

うん、なるほどそういう発想は案外大事かもしれない。書店以外のお店などのマガジンラックに、すかすかのくだらん内容に見合った俗悪な装幀の本が並んでいると、それだけでげんなりするけれど、本当はそういう場所にもっと違う本があったらいいのかもしれませんね。

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2007/05/12

安楽椅子探偵の女王蜂

ちょっと前にNHKの衛星映画劇場で市川崑の金田一シリーズをやっていたのでご覧になった方も多いだろう。
今回放映したのは「犬神家の一族」(1976)「悪魔の手鞠唄」(1977)「獄門島」(1977)「女王蜂」(1978)「病院坂の首縊りの家」(1979)の5本。
こうして製作年度を並べてみると懐かしい。この頃はレンタルビデオやDVDなんてものはなかったから、よく映画館に足を運んだものである。

一番はじめに読んだせいかもしれないが、横溝正史の金田一シリーズで、わたしが一番いいと思うのは『悪魔の手鞠唄』であり、市川監督のシリーズの中でもこれが一番いいような気がする。
まあ、これは好き好きだとは思うけれど。

ところで、今回の放送で女王蜂をあらためてじっくり見たのだが、しばらくしてから、登場人物のある設定がちょっと気になった。―といっても、べつにたいしたことではない。多少、ネタバレに近い話題になるが、あの映画に東小路公爵家という京都の華族が登場しますね。映画ではたしかこの東小路家は御一新の前は北陸の大名家であったということになっていたかと思う。犯人はこの東小路家に対して深い恨みを抱いていたことが大団円で明らかにされるわけですが、それを象徴するかのようにフラッシュバックで挿入される冬の暗い日本海の情景がなかなかよかった。

気になったのは、この東小路家というのはもしかしてモデルがあるのではないかなということでありました。ただし映画のような卑劣な出来事が実際にあったとかなんとかそういうことを考えたわけではない。単純に北陸の大名で維新後に伯爵になったような人があったことをたまたま別の本で知ったために、ああ、もしかしてこれを使ったのかなと思ったというわけ。

以下は、水上勉の『日本の風景を歩く/京都』(河出書房新社)の「あとがき」から。

京都の禅宗では小僧を入れるのに、若狭の子で、一年生の時「酒井家賞」をもらった子の中からえらぶ風習があって、私はその年の該当者だったにすぎない。貧乏人の子でも、もらった以上は本山は中学を卒業させるつもりであったから、読み書きのできる子をはかるのに「酒井家賞」は目安になったといわねばならない。酒井家とは若狭藩の旧藩主で、牛込矢来町に当時講正学舍をもち、大学へも入れてくれることで、若狭の子らの学業を援助した。私はその「酒井家賞」をもらった縁から京都相国寺の塔頭瑞春院の小僧になれたのである。

水上勉の文章では若狭藩主となっていますが、これはどうやら若狭小浜藩主の酒井家のことだと思われ、この酒井家は明治になって伯爵家のひとつになっていますので、映画の東小路家の設定にも符合します。映画の中で金田一耕助が遠い過去の悲劇を調べるために赴いたのは、若狭だったように思うのですが(ここはあまり自信がないけど、わざわざDVDを借りてきて調べるほどの気力はないので、違っているかもしれない)そうであれば映画の東小路家のヒントになったのは、これではあるまいかと思ったのですね。
もうひとつ、映画のなかでもこの伯爵家は地元の貧乏な学生を金銭面で支援してやっていたような感じがあってその面でも水上勉の「酒井家賞」とうまくつながるような気がします。

さて、ではこの東小路公爵家が北陸のとある藩の旧藩主である(あるいははっきりとこれが若狭小浜藩であると特定されていたかどうかはっきり覚えていないのですが)という映画の設定がいささか気になったわたしは、本屋に行って『女王蜂』をざっと斜め読みしたのですね。(買えよ(笑))原作の中に具体的な地名が書かれているだろうかと思って調べたわけであります。
ところが、ざっとあたった限りでは、この犯人が東小路家の過去に遡る遺恨を抱いていたという設定は見当たらない。ちなみに原作では東小路伯爵家ではなくて、衣笠宮という皇族の設定になっていますな。
この小説、わたしは若い頃に読んでいますが、映画は原作の通りだという風に思い込んでいたので少し虚をつかれました。

そして、ここからがわたしの安楽椅子探偵としての推理なのですが、もしこの設定が映画のオリジナルだとしたら(どうもそのように思えます)そのアイデアの元ネタはもしかして水上勉の作品群にあるのではないか。
ということで市川崑と水上勉との接点はないか、早速調べてみました。以下は映画化された水上作品リストです。監督と主演女優のみ。(こういうときにインターネットは便利である)

 五番町夕霧楼/田坂具隆/佐久間良子
 雁の寺/川島雄三/若尾文子
 はなれ瞽女おりん/篠田正浩/岩下志麻
 飢餓海峡/内田吐夢/左幸子

いやあ残念ながら市川崑は一本もメガホンをとっていませんね。しかし、これだけ映画化されていれば映画人として市川崑も水上作品に無関心ではなかったのではないか。まして市川崑には三島由紀夫の『金閣寺』を映画化した「炎上」がありますからね。水上勉のことはよく調べたに決まっていると思うのですがどんなもんでしょう。

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2007/05/09

つっぱり本棚

昨年、ちょっとした事情があってアップライトピアノを処分した。
狭いマンション暮らしながら、そのあと多少の空間ができたので、そこに天井までの書棚をつくろうと思った。
それからかなりたつのだが、先日ソファを買い替えるついでに家具売り場で壁面収納を見ていたらよさそうなものがあったのでつくってみることにした。

買ったのは「薄型つっぱり本棚」という名称で、製造メーカーは福井県坂井町のタカシン家具工業株式会社である。
「つっぱり」という意味は専用の金具で天井につっぱる形で固定するからだろう。

一応、前もって立面図(というほど立派なものではないが)をつくって、幅60センチの書棚を2列つくりつけて、さらにその間に45センチの棚板を渡す予定にしていたのだが、45センチの棚が店の在庫にないということで、それはメーカーに後日注文してもらうことにして、とりあえず先に60センチ幅の書棚二つだけを配達してもらった。
ところが組み立ててわかったことは、だいたい本やオーディオ機器の高さにあわせて9段に仕切ると、ダボで設置する棚板がそれぞれ2枚ずつ計4枚余るということで、そうであれば、この余った棚板を二つの書棚に橋渡せば無駄がなくてよいということだった。店にすぐ電話すると45センチの棚板はキャンセルしてくれていいということだったので助かった。

2007_0509 この書棚の構造は上下ふたつに分かれていて、下部構造は上辺が開いた長方形(コの字を90度回転させたかたち)上部構造が四辺とも閉じた長方形(ロの字)である。これを別々に仕上げてから天井の高さにあわせて専用のビス8個(左右4カ所ずつ)で連結する。つまりコの字の開いた部分にロの字が入り込む深さで高さを調節するわけである。そして最後に天井へのつっぱり板を長いねじ式の金具で持ち上げて固定すれば完成である。

組み立て自体は単純だが、ねじ釘を書棚の枠構造の部分に止めて行くときに、ちょっと力がいるので、きちんとした工具(プラスのドライバー)は必要。最初、素手でやっていたのだが、たちまち指や掌にマメができたので、あわてて滑止めの付いた軍手を取り出す。

ということで、古い本棚から少しだけこちらに移してみた。奥行きが22センチなのであまり部屋への圧迫感はないように思う。ただし、リビングに本を置くという習慣はこれまでなかったので、とりあえず洋書を移してみたらなんだか嘘くさいインテリア雑誌みたいである。(笑)まあ、そんなにお客がくるわけでもないからいいか。

ちなみにお値段は締めて2万3千600円でした。

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2007/05/02

To Kill A Mockingbird

ペーパーバック版の『To Kill A Mockingbird』Harper Lee(Warner Books)を読む。
あえて日本語にすれば「マネシツグミを殺すのは」といった感じのタイトルだが、邦題は「アラバマ物語」であります。グレゴリー・ペックがアカデミー主演男優賞をとった映画の方が通じやすいかもしれない。
この映画のことは、「capote」の感想を書いたときに、見ていないと書いたのだが本書の法廷の場面を読んでいるうちに、中学生だか高校生の頃にテレビで見たことがあることを思い出した。まあ、いわゆる名作だから、それと意識しなくともどこかで見ているということなのだろう。

481062752_be3a218f0c じつはもともと本書を手に取ったのも、映画「capote」を見たことに端を発している。『冷血』の取材でカポーティがカンザスに赴いたときにその取材の助手をつとめたのがハーパー・リーである。カポーティとリーは幼なじみであったのですね。
本書のなかでは、カポーティはディルという名前で登場する。リーの方は、愛称がスカウトとなっている。このふたりは6歳の頃に出会うのだが、どちらもやたら賢い子どもで(まあそれはそうだろう)幼心にふたりは結婚の約束を交わすのであります。
もしも映画「capote」を見るまえに、この『To Kill A Mockingbird』をすでに読んでいたら、あのふたりの心の結びつきや、そして反目も、さらに陰影のふかい演技として味わうことができただろうと思ってちょっと残念である。まあ、そのうちDVDでもういちど見てみよう。

本書の初版は1960年。翌年にピュリッツアーを受賞している。ベストセラーであるとともにいまでも推薦図書に選ばれる(それに値する)ロングセラーでもある。
わたしはどちらかと言えばシニカルなものの見方をする人間だが、本書は「買い」である。

1930年代の南部の田舎町、小学校で教師はヒットラーがユダヤ人を迫害していると非難する。ドイツは独裁制です、わかりますか?わたしたちアメリカはデモクラシーです。デモクラシーとは何でしょう、はい、わかる人?
主人公のスカウトが手を上げる。前に父親のアッティカスがこんなふうに言っていた。

Equal rights for all, special priviledges for none.

たいへん、よろしい。そうです、アメリカはデモクラシーの素晴らしい国です、みなさんわかりましたね。
スカウトにはわからない。なぜなら教室では先生はそう言ったけれど、黒人のトムが、誰が見たって明らかな濡れ衣なのに、白人ばかりの陪審員が死刑の評決を下したときには、こうでなくちゃねえ、分をわきまえないニグロや連中を甘やかす人たちにはいい教訓になったでしょうよ、と裁判所の前で町の人と語り合っていたのを聞いたから。

スカウトの父親であり町の議員であり弁護士であるアッティカスは、おそらくいろいろな映画やテレビドラマ(たとえば「ER」なんかにも)のなかにいまでも再現されるアメリカ人の理想の男性像の原型なのだろう。だが、わたしはそれを冷ややかに嘲笑う気にはなれない。理想化され過ぎている、偽善的だというのは簡単だが、そういうことではないとわたしは思う。

それはもっと単純なことなのだ。

わたしには、本書で作者が描きたかったのは、きっと「ちゃんとした人間」であるとはどういうことか、というそれだけのことに過ぎないと思うのであります。

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2007/05/01

4月に読んだ本

『丸山眞男講義録〈第4冊〉』(東京大学出版会/1998)
『宇宙舟歌』R.A. ラファティ/柳下毅一郎訳(国書刊行会/2005)
『海山のあいだ』池内紀(角川文庫/1994)
『三酔人経綸問答』中江兆民/桑原武夫・島田虔次・校注(岩波文庫)
『能村登四郎の世界』大牧広(邑書林/1995)
『みちの辺の花』杉本秀太郎/安野光雅・絵(講談社学術文庫/2006)
『幕末・維新—シリーズ日本近現代史〈1〉』井上勝生(岩波新書/2006)
『飴山実全句集』(花神社/2003)
『アルネの遺品』ジークフリート・レンツ/松永美穂訳(新潮社/2003)
『詩人の書』疋田寛吉(二玄社/2006)
『セレクション歌人18高橋みずほ集』(邑書林 /2006)
『丸山眞男講義録〈第5冊〉』(東京大学出版会/1999)
『俳句の射程』仁平勝(富士見書房/2006)
『歌集 回生』鶴見和子(藤原書店/2001)
『半七捕物帳〈4〉』岡本綺堂(光文社文庫/2001)
『ブラフマンの埋葬』小川洋子(講談社文庫/2007)

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4月に見た映画

デスペラード(アメリカ/1995)
監督:ロバート・ロドリゲス
出演:アントニオ・バンデラス、サルマ・ハエック、ジョアキム・デ・アルメイダ、スティーヴ・ブシェーミ

ククーシュカ ラップランドの妖精(ロシア/2002)
監督:アレクサンドル・ロゴシュキン
出演:アンニ=クリスティーナ・ユーソ 、 ヴィル・ハーパサロ 、 ヴィクトル・ブィチコフ

Empire Falls(アメリカ/NBC/2005)
監督:フレッド・スケピシ
出演:エド・ハリス、ポール・ニューマン、フィリップ・シーモア・ホフマン、ジョアン・ウッドワード、ヘレン・ハント、ロビン・ライト・ペン、ダニエル・パナベイカー、ウィリアム・フィクトナー

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