飯田龍太の百千鳥
小林恭二の『俳句という遊び—句会の空間—』(岩波新書)は、いまから17年前の1990年4月に山梨県境川村の飯田龍太邸で行われた句会の模様を伝える好著。この飯田龍太邸のことを俳句をやる人は「山廬(さんろ)」といいます。龍太の父である蛇笏が命名したのですね。
句会は飯田邸で行われたと今書きましたが、正確には4月12日と13日の二日にわたって開かれておりまして、初日は確かに山廬で行われましたが、二日目は太宰治が『富嶽百景』(富士には月見草がよく似合う)を書いた[天下茶屋]がその会場となりました。参加した俳人は本の見返しにある紹介の順番で、飯田龍太、三橋敏雄、安井浩司、高橋睦郎、坪内稔典、小澤實、田中裕明、岸本尚樹の8名。「はじめに」で著者の小林恭二が書いていますが、句会はある意味、真剣勝負です。これだけの名手が顔を揃えて競うわけですから、短い時間内に何句も仕上げるというプレッシャーはただごとではない。小林は名前はあかしていないが、ある参加者はあとになって、句会の二日間は「ほとんど発狂状態だった」、「僕だけでなく、みんなそうだったと思うよ」と語ったとか。
さてその二日目の[天下茶屋]での句会。ひとり十句の規定だからほんとうは全部で八十句になるはずでしたが、飯田龍太が九句で七十九句になった。
「うん、僕は九句だ。謙虚にやったんだ」と言った後で、
「これで負けても言い訳ができる」
と呵々大笑。
この本に出て来る飯田龍太はなんだかすっとぼけた爺さん風でおかしい。
このときに飯田龍太が出した句の一つにこういうのがある。のちに句集『遅速』(1991)に収録された。
百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり 龍太
選んだのは三橋敏雄と田中裕明の二人。以下、句会の様子を本書から抜いてみる。
高橋「僕は選んでないんだけど、その句面白いね。なんか伊藤若冲の絵みたいで」
小林「そう言われるとなかなかいい句ですね」
(中略)
小澤「理が勝ってるんじゃないかなあ」
三橋「作ったという感じのする句ではあるね」
飯田「(しみじみと)惜しいねえ」
小林「作者はどなてでしょう」
飯田「わたしです」
一同爆笑。
小林「最後の惜しいねえというのはなんだったんです」
飯田「あはは」
三橋「作者名が決まったんでこの句は郷土詠として決まるねえ」
(中略)
ちなみに句会が終わった後、高橋睦郎がこの句を盛んに褒めていた。句会最高の一句だと言って。
わたしも素晴らしい句だと思う。
「俳句研究6月号」の飯田龍太追悼特集(去る2月25日に八十六歳で長逝)のなかで、正木ゆう子が、〈一月の川一月の谷の中〉と並べてこの百千鳥を鑑賞しておられました。(一月の川の句は、どうぞ頭の中で縦書きに直していただきたい)
一月の川一月の谷の中
百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり
片や死後のような、未生以前のような、命の姿の見えない景。片や、命の賑わいの極致のような一句。その対照をわたしは愛する。
同じ特集の次のページには小澤實がやはりこの句をとりあげてこんな風に書いておられ、感慨をさそいます。
小林恭二著『俳句という遊び』の句会に出て、この句を選べなかったことを、生涯、悔い、恥じるものだ。選んでいるのは、三橋敏雄と田中裕明のみ。二人ともはや亡い。
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コメント
すべては消えゆく遊びです。選ぼうが、選ぶまいが、歴史には残らないでしょう。
投稿: Ban'ya | 2007/05/27 00:24