『忠臣蔵釣客伝』長辻象平
知者はそれ水を楽しむ。釣りの醍醐味は、糸の震えと、抵抗する獲物の手応え。吉良上野介の女婿は何を釣る?海底に眠る金銀か?何を解くや若き太公望。赤穂四十六士の、「刃」と「剣」字入りの法名の謎か?はた将軍家に祟る妖刀村正か。内匠頭の怨念とは!釣りの世界から見た元禄の世の奇怪。本邦初の「釣り時代ロマン」。満を持して登場。新人にして呑舟の魚。沸騰する海面に、見よ、煌めく銀鱗。読者ゆめゆめ釣り落とすなかれ。
『忠臣蔵釣客伝』長辻象平(講談社)の腰巻の宣伝文は出久根達郎。名文、美文のたぐいではないが、本の中味と雰囲気はよく伝わる。
本書の主人公、旗本・津軽采女は実在の人物。日本最古の釣りの書物「何羨録(かせんろく)」を著した。『ウィキペディア』によれば妻のあぐりが吉良上野介の娘であったこともたしかなようだが、そういう史実や文献の堅苦しい枠に収まるには、この物語あまりに奔放不羈な展開。かと言って、伝奇小説の放恣な荒唐無稽とも一線を画す。このあたりの匙加減が、読者の好みによって、その評価が分かれるところだろうが、わたしはこういう作風、大いに好みである。
出久根達郎の推薦文でもわかるように、本書の中身はあれこれと盛りだくさん。もちろん材料が多ければ、それを捌く力技が問われるわけで、作家にとってはかえって不利になることが多い。本書もあれもこれもとオハナシに詰め込みすぎて焦点が分散してしまった感がある。ちょっともったいない。だが、そういう弱点を補ってあまりある細部の圧倒的な面白さ。これ、オススメであります。
さて本書の中に榎本其角が数回登場する。
主人公の釆女が俳諧に凝りはじめたのである。其角は釣りを好んだ人物でもあったので、津軽釆女とはそういう趣味でも話が弾む。あるとき蕉門一門と昵懇であった絵師・多賀長湖(俳号は暁雲)の話題になる。小説では釆女は風流な若殿ぶりで多賀長湖に絵を其角に俳諧の手ほどきを受けていたということになっている。(文献の裏付けがあるのかどうかわたしは知らない)
多賀長湖も釣りが好きであった。
しかしこの絵師はなにか綱吉の逆鱗に触れたらしく生類憐れみの令の禁制にからんで三宅島へ島流しになっている。(本書では「百人上臈」という絵が将軍綱吉周辺の美女を描いたとも、また諸藩の大名の似顔絵が罪になったという説を挙げている)
其角が津軽釆女に語って言うには、長湖は遠島の見送りに集まった友人に、生きてふたたび江戸にはもどれないだろうが、自分は釣りをよくする。三宅島の流人は魚をとってそれを干物にして江戸に送り、いくばくかの金子を得るという。自分は、とった魚に目印として笹の葉を差し込んでおくので、もし江戸でそういう干物を見かけたら、それは長湖のまだ生きている証拠と思ってくれと言い残して流人船に乗った、というのであります。
「それから一年ほどが過ぎたころでございました。夜分に台所で酒を呑んでいた当家の下男が、奇妙な鯵の干物だ。鰓に笹をはさんであるわい—と独り言を申しておるのが聞こえましてな。慌ててその干物を確かめると、日本橋の肴屋で買ってきたということで、そこで訊ねますとやはり三宅島からのものでございました」
其角は嵐雪らを自宅に招いて、その干物を焼きながら茶会を催した。
—しまむろに茶を申すこそ時雨かな—
これはそのときの其角の句。一同はその干物を前に長湖をしのんで涙したという。
しまむろは、三宅島でとれた室鯵(むろあじ)のことである。
多賀長湖は、綱吉没後、許されて江戸に戻った。
元禄五年から十七年間三宅島に流されたこの絵師は、名前を英一蝶(はなぶさ・いっちょう)にあらためた。すでに七十に近いが画業の衰えはなかったという。
ところでわたしは、其角と英一蝶と聞くと、次のエピソードを思い出す。これも面白い話なので以下引用のまま。
二世市村団十郎の日記『老の楽』に次のような記事がある。(『神代余波(かみよのなごり)』による)。
我、幼年の頃、始めて吉原を見たる時、黒羽二重の三升の紋の単物振袖を着て、右の手を英一蝶にひかれ、左の手を晋其角にひかれて日本堤(吉原への通路)を行きし事、今に忘れず。
この記事は二世団十郎の幼年時代の思い出だが、彼は元禄六年(一六九三)に数え年六歳になっているから、其角と一蝶に連れられて彼が吉原に行ったのは元禄六年か七年頃のことであろう。この頃二世団十郎は九蔵と称していた。其角と一蝶は九蔵少年を馴染みの揚屋に連れて行って、彼を主賓ににして一時の座興を楽しんだのであろうが、黒羽二重の振り袖を着てチンマリ座っている幼い主賓の姿に、遊女たちは笑い転げたであろうと想像する。
『元禄の奇才 宝井其角』
田中善信
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