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2007年6月

2007/06/29

『忠臣蔵釣客伝』長辻象平

知者はそれ水を楽しむ。釣りの醍醐味は、糸の震えと、抵抗する獲物の手応え。吉良上野介の女婿は何を釣る?海底に眠る金銀か?何を解くや若き太公望。赤穂四十六士の、「刃」と「剣」字入りの法名の謎か?はた将軍家に祟る妖刀村正か。内匠頭の怨念とは!釣りの世界から見た元禄の世の奇怪。本邦初の「釣り時代ロマン」。満を持して登場。新人にして呑舟の魚。沸騰する海面に、見よ、煌めく銀鱗。読者ゆめゆめ釣り落とすなかれ。

2007_0629_1 『忠臣蔵釣客伝』長辻象平(講談社)の腰巻の宣伝文は出久根達郎。名文、美文のたぐいではないが、本の中味と雰囲気はよく伝わる。

本書の主人公、旗本・津軽采女は実在の人物。日本最古の釣りの書物「何羨録(かせんろく)」を著した。『ウィキペディア』によれば妻のあぐりが吉良上野介の娘であったこともたしかなようだが、そういう史実や文献の堅苦しい枠に収まるには、この物語あまりに奔放不羈な展開。かと言って、伝奇小説の放恣な荒唐無稽とも一線を画す。このあたりの匙加減が、読者の好みによって、その評価が分かれるところだろうが、わたしはこういう作風、大いに好みである。

出久根達郎の推薦文でもわかるように、本書の中身はあれこれと盛りだくさん。もちろん材料が多ければ、それを捌く力技が問われるわけで、作家にとってはかえって不利になることが多い。本書もあれもこれもとオハナシに詰め込みすぎて焦点が分散してしまった感がある。ちょっともったいない。だが、そういう弱点を補ってあまりある細部の圧倒的な面白さ。これ、オススメであります。

さて本書の中に榎本其角が数回登場する。
主人公の釆女が俳諧に凝りはじめたのである。其角は釣りを好んだ人物でもあったので、津軽釆女とはそういう趣味でも話が弾む。あるとき蕉門一門と昵懇であった絵師・多賀長湖(俳号は暁雲)の話題になる。小説では釆女は風流な若殿ぶりで多賀長湖に絵を其角に俳諧の手ほどきを受けていたということになっている。(文献の裏付けがあるのかどうかわたしは知らない)
多賀長湖も釣りが好きであった。
しかしこの絵師はなにか綱吉の逆鱗に触れたらしく生類憐れみの令の禁制にからんで三宅島へ島流しになっている。(本書では「百人上臈」という絵が将軍綱吉周辺の美女を描いたとも、また諸藩の大名の似顔絵が罪になったという説を挙げている)

其角が津軽釆女に語って言うには、長湖は遠島の見送りに集まった友人に、生きてふたたび江戸にはもどれないだろうが、自分は釣りをよくする。三宅島の流人は魚をとってそれを干物にして江戸に送り、いくばくかの金子を得るという。自分は、とった魚に目印として笹の葉を差し込んでおくので、もし江戸でそういう干物を見かけたら、それは長湖のまだ生きている証拠と思ってくれと言い残して流人船に乗った、というのであります。

「それから一年ほどが過ぎたころでございました。夜分に台所で酒を呑んでいた当家の下男が、奇妙な鯵の干物だ。鰓に笹をはさんであるわい—と独り言を申しておるのが聞こえましてな。慌ててその干物を確かめると、日本橋の肴屋で買ってきたということで、そこで訊ねますとやはり三宅島からのものでございました」
其角は嵐雪らを自宅に招いて、その干物を焼きながら茶会を催した。
—しまむろに茶を申すこそ時雨かな—
これはそのときの其角の句。一同はその干物を前に長湖をしのんで涙したという。
しまむろは、三宅島でとれた室鯵(むろあじ)のことである。

多賀長湖は、綱吉没後、許されて江戸に戻った。
元禄五年から十七年間三宅島に流されたこの絵師は、名前を英一蝶(はなぶさ・いっちょう)にあらためた。すでに七十に近いが画業の衰えはなかったという。

ところでわたしは、其角と英一蝶と聞くと、次のエピソードを思い出す。これも面白い話なので以下引用のまま。

二世市村団十郎の日記『老の楽』に次のような記事がある。(『神代余波(かみよのなごり)』による)。
我、幼年の頃、始めて吉原を見たる時、黒羽二重の三升の紋の単物振袖を着て、右の手を英一蝶にひかれ、左の手を晋其角にひかれて日本堤(吉原への通路)を行きし事、今に忘れず。
この記事は二世団十郎の幼年時代の思い出だが、彼は元禄六年(一六九三)に数え年六歳になっているから、其角と一蝶に連れられて彼が吉原に行ったのは元禄六年か七年頃のことであろう。この頃二世団十郎は九蔵と称していた。其角と一蝶は九蔵少年を馴染みの揚屋に連れて行って、彼を主賓ににして一時の座興を楽しんだのであろうが、黒羽二重の振り袖を着てチンマリ座っている幼い主賓の姿に、遊女たちは笑い転げたであろうと想像する。
『元禄の奇才 宝井其角』
田中善信

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2007/06/26

海軍に行った少年

1893年(明治26年)熊本県球磨郡矢黒町(現在の人吉市)に生れる。
1907年(明治40年)主席で球磨郡立西瀬高等小学校を卒業したが、父はアル中の胃潰瘍でろくな稼ぎはできず、赤貧洗うが如き家計では、中学に上がるなどは夢のまた夢であった。
カーネギー伝やロックフェラー小伝、盧花や紅葉を本屋の立ち読みで通読した早熟の少年は、小作人の伜が運命を切り拓くにはハワイか米国本土に渡ることだと思い定めた。

20070626 少年は、当時建設中であった肥薩線鉄道の工事事務所の事務見習となって日給25銭で学資を稼ぐ。
渡米のメドはあった。
その頃、憲政の神様・尾崎行雄が会長になってはじめた、通信教育「大日本国民中学会講義録」である。成績が抜群ならば米国に留学させてやるというのが宣伝文句であった。おのれの頭脳の明晰であることについては、はばかりながら自信がある。刻苦三年、見事規定条件の成績を達成し、東京で最終審査にパスすれば米国留学できるはずと、上京したら、そこは駅前留学のNOVAではないが、宣伝と現実は大違い、そう簡単に渡米などさせてはくれない仕掛けで、まんまと一杯食わされていたことに田舎の少年は気づいたが時すでにおそし。
むかし夜店で「かたぬき」という駄菓子があったが、針できれいに型を抜けたら千円もらえるなんていうので子どもが必死でやって持っていっても相手にされない。まあ、アレと同じでありますね。

仕方がないので神田の製本屋の裁断工になるなど辛酸をなめたが、捨てる神あれば拾う神あり、日本力行会の島貫兵太夫(ひょうだゆう)の知己を得て、東京帝国大学教授兼東京天文台長の寺尾寿博士の玄関番に推薦された。
寺田寿の母堂がこれまた一代の傑物、若くして未亡人となったが、四人の子どもを伴って福岡から上京、寿、亨、徳の息子をそろって理博、法博、医博に育て上げた。矢島楫子や小崎弘道とも親交があったというから明治時代のキリスト者のグループだったのだろう。郷里の父が深酒の結果重病となり母をおいて海外雄飛もできない。ならば、通信教育の中学課程からでも受験を許す高等教育機関に行きなさいと、この「男まさり」の寺田母堂が激励した。むかしの人は偉いものだ。

そんな学校があったのか。
あった。海軍兵学校がそうである。入学の条件は入学試験の学力である。
少年は東京理科大の前身、物理学校の夜間部に通って海兵を受けた。ときに1912年(明治45年)。

しかし、海兵といえば、当時は一高とならぶ難関中の難関校である。普通の志願者は、陸軍士官学校、海軍機関学校、海軍経理学校と連記志願した。ところが、少年は通信教育の独学三年と夜間の物理学校一年の学歴しかないくせに海兵単独志願であった。無茶な受験だが、性分で二股かけるのが嫌だった。
もちろん合格した。
入学時の成績は100人中、21位。卒業時成績96名中27位。
以前、木田元の『闇屋になりそこねた哲学者』にからめて「海軍士官は席次が命」という記事を書いたが、この少年時代の学歴で上位3割に入っているのはさすがにただ者ではない。

1915年(大正4年)海兵卒業後、どちらかといえばぱっとしない艦上勤務や海兵団教官の後、1925年(大正14年)軍令部出仕兼海軍省人事局第2課附出仕、翌年、海軍大学校甲種第25期学生となる。32歳であった。翌年、海軍大学を卒業したときは、主席、恩賜の長剣を拝受。同年海軍少佐・在フランス日本大使館附海軍駐在武官附補佐官となる。

2007062622

面白い人がやはり世の中にはいるものでありますね。
この人は高木惣吉といいます。
病気がちであったので戦争中は主として海軍省にあり、海軍の東条暗殺計画の立案などにもあたったようですが、一番大きな功績は「米内光政海軍大将と、海軍兵学校長から海軍次官に転属補職した井上成美海軍中将から終戦工作の密命を受け、鈴木貫太郎内閣総辞職に至るまでの短い時間、各方面と連携をとりつつ戦争終結に向け奔走した。」(ウィキペディア(Wikipedia))ことであったとされているらしい。
最終の階級は海軍少将でありました。

以上は主として『自伝的日本海軍始末記』(光人社)から。
この本、じつに面白い。
一例を挙げる。1943年(昭和18年)東条首相の動きにからむ場面。この遠慮会釈のない人物評をごらんください。

折りもあろうに六月二十一日、海軍の永野、陸軍の寺内、杉山三大将が元帥府に列せられ、元帥の称号をたまわる旨発表された。称号だけのことでとやかく目くじら立てることでもないが、いずれも無能のボケ大将、しかも陛下のご信任もそれほどでもないのが、そろって元帥とは恐れいった戦時風景、総理はこのころから、杉山、永野の追いだしを考えて、好餌を提供していたようにも疑われるのである。

本書は、東条退陣までなので、この続編がいよいよ終戦工作に入るのだろう。いろいろ思うところもあるが、海軍側からの敗戦までの動きが見えて面白い。まったく阿呆が戦争指導をしたがるのは困りものである。むかしの話ではない。いまの話。あんな程度の総理大臣やら外務大臣やらしかいないのに、わざわざ憲法変えて、あんなバカどもが勝手に開戦できる国にしたがるとは・・・・

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2007/06/20

あるお詫び広告

「出版ダイジェスト」2007年5月21日号に、日本経済評論社代表・栗原哲也の〔お詫びとお知らせ〕と題する広告が載っている。
同社が昨年暮れに刊行した丸川哲史・鈴木将久編『竹内好セレクション1・2』について、この底本であるところの筑摩書房版の全集(全17巻)との相違、誤記、誤植、脱落等があり、その「数と質において」到底「正誤表」では済まされないと判断し、同書の書店在庫を回収し、購読者に対しては訂正後の新本交換を行うという内容である。
広告の末尾はこうなっている。

この事態を聞き知った同業や書店から、なんでそこまでするんだとか、自棄になっているんじゃないのか、と心配と揶揄を込めた声が八方から伝わってきた。自棄になっているわけではない。改めて自戒しているのだ。本を作るとはどういうことか、不特定多数の人に文あるいは学を有償で頒布するとはどういうことか、と。作り直すということで、事が終わるわけではないが、われわれの生態はかくも、責任や広がりがあるものなのだ、ということを、つぶらな瞳を輝かせている当の担当編集者を含めて確認したかったのである。五月末、気合いを入れ直して、誤植なき新本を作ります。お買い求めの皆様、ご通知ください、交換いたします。正誤表のみご希望の方もご連絡ください。お送りします。ご迷惑をおかけした多くの皆様に深くお詫びいたします。

発端は、今年の4月の「東方」に掲載された前田年昭氏の書評だったようだ。(こちら)
読めばわかるが、皮肉なことに、この書評自体は、この筑摩の全集からの「セレクション」というかたちの編者の選択が見事であるという好意的なものである。誤植についての記述は、末尾にあり、このセレクションに従って読者はぜひ図書館などで全集のほうにあたってほしいという内容になっており、あわせて前田氏が個人的に作った正誤表を希望者には配布しますというかたちになっている。
ところが、これをさらに取り上げたのがメールマガジン「日刊デジタルクリエーターズ」で、この前田氏の正誤表を取り寄せたところが、その誤字脱字の内容があまりに酷いことにあきれて、この正誤表に添付されていたとおぼしき「解題」という文章を公開した。(こちら)

編著者、編集者は、本文をほとんど読んでいなかったのではないか。引き合わせ校正も素読み校正もなされなかったのではないか(のだと推測できる)。仕事をなめているとしか思えない。こうして、編著者や編集者の仕事はそのまま印刷所に押し付けられた(のだと推測できる)。

という強烈な文章であります。
誤植というのは、わたしのこのしょうもない駄文のブログのことを考えても、ある程度は避けることのできないものだとわたしは思う。だが、やはりこの正誤表をみると、上記の前田氏の怒りはもっともなものに思える。
日本経済評論社の本件に対する対応については、経営的なことを考えると、もちろん良心的なことだと好意的に評価するが、しかし、上記の「お詫び広告」中の「つぶらな瞳を輝かせている当の担当編集者」という文面には違和感を覚えるなあ。たぶん、こいつは自分の担当する本をまともに読んでいない。読んで変だと感じたら、活字になっている筑摩の原本と比較すればいいだけである。それすらこいつはしていない。たぶん、本が好きでもなんでもないのだろう。なんだかなあ、のお詫び広告であります。

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2007/06/17

丸山眞男をめぐるオハナシ(2)

引続き『丸山眞男回顧談』から。

丸山眞男には兄、鐵雄と弟、矩男、邦男がある。男兄弟ばっかりの次男である。
父親は明治の男だから、それでなくとも子どもたちには横暴で専制的な家長に映る。ましてや血気盛んな政治記者で、ニューヨーク特派員までやったような男ですから、家庭のことはどうしても二の次になるのはこれはやむを得ない。ということで、丸山兄弟は全員母親党、アンチ父親で団結して親父に対抗となるのでありました。

母親はセイといいます。

大正時代の母親であります。天が授けてくれた息子たち。人並み優れた資質の持主、とくればこれはどうしても、一所懸命学問なさいませ、となる。それは、まあ、そうだろうなあ。
だからこの母親はやかましく息子たちに勉強をさせたのであります。

ところが、いくら母親党の息子たちでも、だいたい本物の秀才というのは、中学生くらいになると、ガリ勉なんかバカらしくて、もうしないのであります。丸山眞男も兄ちゃんと学校をサボって映画館に入り浸ってばかりいた。
ある日のことです。洗濯のとき紺の着物からモギリが出てきて映画館通いが母親にバレてしまった。

そのときに母が「兄さんはもうしょうがないと思っている。あんだけは信用しとった」と萩の言葉で泣いて言いました。ぼくは言葉がなかったけれど。

たはは、しかし母親にあれはもうしょうがないと嘆かれた長男だって、京大の経済を出てNHKに行っているのだから、まいるね。
もっとも、この不良というのもなかなか半端ではなくて、四谷に住んでいたころ、こいつは見所があるというので、うちの親分にあってみないかと、なんとか組に勧誘された、おふくろがいなかったら、兄貴は危なかった、とは丸山眞男の証言。

おふくろさんは泣くと萩の言葉になったそうですから、「あんたぁ、賢いんじゃから、ちゃんと勉強して、偉いひとになってくれんにゃあ、いけんわーね」とでも言ったのではないかしら、とこれは長州人のわたしの想像。

二・二六事件(1936)のとき眞男は東大の二年の終わり。鐵雄はNHK勤務だったので「報道だ」と腕章を見せて、銃剣の警戒線をかいくぐり叛乱軍の首脳部の籠城する山王ホテルまで行って様子を見てきた。その夜、眞男と鐵雄は大激論。あれは根本的には進歩的だというのが兄、鐵雄。婆さんが「軍人さんたのみます、財閥をやっつけてください」と手を合わせていたぜ、なんて言う。丸山眞男は、冗談じゃない、ファシズムというのは初めは急進的で、反資本主義的に見えるんだ、なんて夜更けまで侃侃諤諤やっていると、母親が、「あなた方、いい加減に寝なさい!」(笑)

丸山が東大の助教授に任命されたときのこと。

ぼくが東大の助教授になりますと「叙 従七位」という辞令が来るのです。戦後はないけれど。助教授は高等官で、助手は判任官です。おふくろは、それを仏壇に上げて拝む。親父は火鉢に当たりながら「お稲荷さんにはまだ遠いなあ」と言う。お稲荷さんは正一位なんです。

戦争も過酷の度を強めていた1942年、丸山は東大での初めての講義、「東洋政治思想史」を開始します。翌年1943年にはもう学徒出陣という時代背景。
丸山の講義の準備は半端ではない。きっちり講義原稿をつくっていたことは『丸山眞男講義録』全7巻を読めばよくわかる。

講義の準備は毎回徹夜で、冬は辛かった。西高井戸の親父の家の電話部屋で、おふくろが炬燵の周りに座布団をいっぱい立てかけて、背中に毛布みたいなものをかけて固めてくれるのです。隣で母は寝ているのです。炬燵だけが暖房ですから寒かった。

わたしは男だから想像するしかないけれど、どんなぼんくらな息子でも母親は愛することができるのだろう。(あ、自分のおふくろがたぶんそうである(笑))しかし、それはそれとして、やはりセイにとって、二十八歳でこの時局のなか、東京帝国大学法学部助教授として、戦地にいつ向かうことになるかも知れない学生たちのために毎回徹夜で講義の準備をする丸山眞男は誇らしい息子で、その母親であったのは、とてもとても幸せなことだったんじゃないかなあ。

1945年8月15日の敗戦を丸山は宇品の陸軍船舶司令部で迎える。翌日の16日、父幹治から電報が届く。「ハハシス ソウギバンタン スンダ チチ」。

母親は八月十五日、ちょうど終戦の日に死んでいるわけです。ぼくの知らないときだけれど、子どもの中で弟の邦男だけ家にいたのです。邦男とぼくの女房とが看病役で、親父がいた。お棺も自前でつくらねばならぬという時代です。箪笥を削って白木にして、それをお棺にしたらしい。また、焼き場に燃料を持っていかないとだめなんです。庭木を切って火葬場に持っていって、それで焼いたらしい。大変だったと思うんです。あのニュースくらい空しいことはなかった。柔道場がとなりにあって、そこで転げまわって泣いたな、誰も見ていませんから。

前回のコメントで我善坊さんが書いてくださったとおり、丸山眞男の臨終(1996)は、奇しくもこの母親の命日の日でありました。

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2007/06/16

丸山眞男をめぐるオハナシ(1)

2007_0616 『丸山眞男回顧談(上下)』(岩波書店)から、個人的なメモ。
この本やたら面白くて一気読みしてしまった。

丸山眞男の父親は丸山幹治(かんじ)という明治生まれの新聞記者である。号を侃堂(かんどう)といった。東京専門学校(早稲田の前身)を出て、「日本新聞」に入る。この時の「日本新聞」社長兼主筆は陸羯南。編集長は古島一雄。同僚の記者として長谷川如是閑、井上亀六らがいた。

丸山幹治は父だから当然のこととして、長谷川如是閑と井上亀六も、丸山眞男に大きな影響を与えたようであります。この三人はいずれも根っからのジャーナリスト。

丸山眞男によれば、この三人のうち長谷川如是閑は、しいて言えば左派にあたり、のちに社会主義に接近していくことになる。
これに対して、右派といえるのは井上亀六で、陸羯南の流れをくむ民族主義的な色彩のつよい「日本及日本人」から三宅雪嶺が出てしまったあと同新聞の社主となった。
父である丸山幹治については、丸山眞男はなかなか手厳しい評価を本書のあちらこちらでも語っているのだが、とりあえず井上亀六の「丸山幹治は自由主義者だな」という言葉を紹介している。まあ、丸山幹治が真ん中で、左に長谷川如是閑、右に井上亀六というジャーナリストの図式をとりあえず思い浮かべればいいのかもしれない。

ところでむかし丸山眞男の『日本の思想』を読んだとき、こんな箇所があったのをいまでもおぼえている。

「完成品」の輸入取次に明け暮れする日本の「学会」にたいする反動として他方で断片的な思いつきを過度に尊ぶ「オリジナリティ」崇拝がとくに評論やジャーナリズムの世界で不断に再生産され、両者が互いに軽蔑するという悪循環。

とても印象的な文章だったので頭に残ったのだが、丸山眞男の父やその親友たちのことを知ったうえでこれをもう一度味わうと、なかなか深いものがあるなあ。

若いころの丸山眞男が思想的な面でもっとも自分に近しいものを感じたとすればおそらく長谷川如是閑なのだと思う。丸山幹治は、自分の父親であるという理由で、ぜんぜん偉く見えなかったはずである。(笑)
井上亀六は、思想的には、「自由主義者」である父親でさえかれのことをボロクソにけなすような右派だから、丸山眞男が思想的な共感を寄せるようなタイプではもちろんないのだけれども、別のつながりでしっかり丸山眞男と結びつけられていた。
じつは、井上亀六の妹が丸山眞男の母親なのでありますね。
すなわち井上亀六は、伯父さんにあたります。

でも、この伯父さん、どうも甥っ子の丸山少年が大のお気に入りだったふしがある。

戦前の学校では飛び級というのは当たり前のようにある。丸山眞男のいた府立一中でも、四年修了で第一高等学校へドーッと行ってしまう。ところがなんとあの丸山眞男がこのとき受験に失敗してしまったというのだから面白い。もちろん翌年五年修了で受験合格していますから、まあ別に普通と言えば普通なんだけど、丸山眞男にしてみれば、自分なんかよりはるかに成績の下だった連中が受かって、自分は見事落第、深刻な挫折感を味わった。一中の先生に「丸山、どうしたの一体」と言われて声もなかった。そのときのことである。

ぼくの家の傍に、伯父の井上亀六が住んでいました。当時、政教社『日本及日本人』の社主です。落ちたという知らせを聞いて、すぐにやって来て、「眞男、落ちてよかった。秀才じゃないほうがいいんだ。秀才が日本を毒した」とズバッと言いました。当時、意味がわからなかった。ぼくを慰めるためにそう言ったのだと思っただけでした。
他の中学だと五年まで在校するのが普通ですけれど、一中に関しては、四年で一クラスなくなるほどゴソッと入るわけですから、五年生というのは「どうせ、おいらは落ちぶれ者よ」というところがあって、実に面白い。一中時代で最も楽しかったのは五年の時代です。

たぶん、井上亀六も、あんまり出来る甥っ子だから、多少の挫折を味わったことは、ほんとうに「よかった」と思ったのでしょうね。いい伯父さんであります。

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2007/06/14

ハルキ・ムラカミと探偵小説

「文學界」7月号に「村上春樹の知られざる顔―外国語版インタビューを読む」という評論が載っている。書いているのは都甲幸治。村上春樹の父親がお寺の坊さんで学校の先生(インタビューでは僧侶で学校で日本文学を教えていた、てな表現だったかな)というのは、はじめて知ったな。ディープな村上春樹ファンには、物足りないかもしれないが、けっこう面白い評論でありました。

カズオ・イシグロは日本語がぜんぜんしゃべれないって言い張ってるけど、奥さんが言うにはよくしゃべれるらしいんだよね、とか探偵小説の構造を借りて、自分の中味をそのなかに入れるんだ、なんてところは昨日までのエントリー「反・ミステリー小説」と偶然につながっていて、あらま、と思った。探偵小説についてのハルキ・ムラカミの発言。

(前略)探偵小説も好きです。だからといって探偵小説を書こうとは思いませんが。そういったものの構造を使いたいんです。中身ではなくてね。そういった構造に自分で中身を入れたいんです。それが僕のやり方、書き方です。だから両方の作家たちに好かれません。エンターテインメントの作家も真面目な文学の作家も僕のことは嫌いです。僕は真ん中で、新しい種類のことをしているんです。(The Salon Interview)

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2007/06/13

反・ミステリー小説(4)

では、ようやく『わたしたちが孤児だったころ』について。
この戦前の魔界都市、上海を舞台にしたミステリー小説風の面白い作品(そうです、これはとってもヘンだけど間違いなく面白いのです)において、主人公であるクリストファーが孤児であった(ただし本人は両親の生存をずっと確信しているけれど)という設定はとても重要だと思います。なぜならもし探偵が「ほころび」修復業者であるなら、世界の修復をもっとも必要とし、それについてもっとも深いモチベーションをもつのは、おそらく孤児という生い立ちをした人間であるだろうからです。
幸せな子ども時代が突然不条理なかたちで断ち切られ、喪失感に苛まれ、なんとかして世界を元通りにしたいという願望が、かれを探偵業に向かわせる。

クリストファーが名探偵となってから手がけたむごたらしい事件(例によっておもわせぶりなムードだけでどんな事件だったかはわからない仕掛けなのだが)のときに、担当の警部が、親父はわたしに大工になれといったのに、わたしは刑事になった。しかしこんなひどい出来事が世界におこりえることを知ると、わたしは親父の忠告通り大工になっておけばよかったと思いますよ、なんてことを言う。これに対するクリトファーの台詞。

「このようなことがあると」とわたしは言った。「すっかり気持ちがくじけてしまうというのは、わたしにもよくわかりますよ。でも言わせていただければ、あなたがお父さんの忠告を聞かなかったのはよかったと思いますよ、警部。あなたほどの力量のある方はめったにいません。悪と戦う義務を課せられているわたしたちのような人間は、その・・・・なんと言ったらいいですかね?ブラインドの羽根板を束ねている撚り糸のような存在なんですよ。わたしたちがしっかり束ねるのに失敗したら、すべてがばらばらになってしまうのです。あなたが任務を遂行されることが、とても大事なんですよ、警部」

自分は「ブラインドの羽根板を束ねている撚り糸のような存在」だと思うような人間が、探偵になるというのは、ミステリー小説のもっとも正統的な解釈であるといってもいいでしょうが、しかし一方では、カズオ・イシグロは、その探偵の理性がいささか疑わしい—少なくとも作品世界のなかでその人物の語りはまったく信用できないようにつくりあげています。
つまり、わたしが思うのは、この作品はミステリー小説といういささかくたびれた衣装を身にまとっていますが、その実、作家はその古くさい意匠を逆手に取って、まったく新しい物語をマジックのように取り出して読者の前に広げて見せています。
だってね、一人称の語り手がじつは真犯人だったというクリスティのアレは、もちろんもう二度とだれも使うことのできないトリックですが、探偵が正気の人でない(かもしれない)というのは、そもそもミステリーの成立の根本を揺るがす大トリックですからねえ。(笑)

まあ、これは半分以上は冗談ですが、この小説でもうひとつ言えることは、ミステリー小説のイデオロギー暴露をミステリー小説の構造をつかっておこなっているということであります。すなわちミステリー小説は、たとえばかつての大英帝国のような特権的な、あるいは支配的な社会集団に属している人々の内部の「ほころび」には最大の関心と細心の注意を向けますが、世界の中でほんとうに悪がおこなわれているところにはいたって冷淡なものであるということを遠慮なく暴いているということでありますね。
最後のほうで、黒幕の役割の人物がこんなことを主人公に言う。

探偵とはな!そんなものがなんの役に立つ?盗まれた宝石、遺産のために殺された貴族。世の中で相手にしなければならないのはそういうものだけだと思っているのかい?きみのお母さんは、きみに永遠に魔法がかけられた楽しい世界で生きてほしいと思っていた。しかし、そんなことは無理だ。結局、最後にはそんな世界は粉々に砕けてしまうんだ。きみのそんな世界がこんなにも長く続くことができたなんて奇跡だよ。

カズオ・イシグロ自身がミステリー小説を愛好しているのかどうかは(たぶんしていると本書の書きぶりからわたしは想像しますが)わかりませんが、本書によってミステリー小説というジャンルが、まったく新しい姿でわたしたちミステリ愛好家の前に立ち上がる愉悦が本書にはたしかにある。
だからこそ、わたしはこれをヘンな小説であり(最大の褒め言葉ですよ、もちろん)「反・ミステリー小説」と呼びたいと思うのであります。

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2007/06/12

反・ミステリー小説(3)

物語世界での探偵というのは、世界に生じた「ほころび」を元通りにする修復業者であるというのが前回の仮説ですが、このほかにも、名探偵「のりつっこみ」説というのも考えられますな。

そう、そう、この列車に乗ってるみなさん方は完璧なアリバイが全員にありますねん。ということは、消去法でいくと犯人になり得るのは論理的に言ってこのわたし・・・・なんでやねん!お前らみんな犯人やんか、とか。(笑)

しかしながら、そんなふうに「ほころび」修復業者であれ、「ねんでやねん!」のつっこみ役であれ、ひとつ共通していることがあるように思えますな。
それは、名探偵はつねに理性の人であるということであります。
「ほころび」修復業者であるためには、なぜそれが「ほころび」であるのか、リアリティのなかで本来の正しい姿がどういうものであるのかを知っていることが必要です。そこにはたらくのはいうまでもなく理性でしょう。
またつっこみ役というのは、いったんは相方の非現実のシュールな世界に入りかけながら、そこにリアルな世界との断絶をみとめ、はっと正気に戻って「なんでやねん!」と相方のアタマをはたくのが役割ですから、これまた大げさに言えば理性の人であると言ってよろしい。

たとえばここで名探偵モンクにもういちど登場してもらいましょう。

前回のテーマソングの一節に「みんなはわたしがクレージーだと思ってる」という箇所があります。しかし、あのシリーズのファンなら同意してくださると思うのですが、たしかにモンクはいろいろな恐怖症というメンタルな問題を抱えてサンフランシスコ市警を病気休職しているとは言っても、それはかれの理性がいささかも曇っていることを意味しない。否、むしろかれの「問題」はかれが正気すぎるというところにあるのですね。
ふつうの人なら、気にならないような、ちょっとした不整合や不一致をどうしてもかれは見落とすことができない。それはかれが理性の人だからです。

さて、ずいぶん遠回りをしてしまいましたが、ようやくわたしはカズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』のヘンさの分析に戻ることができるような気がする。
というところで、続きはまた明日、ということに。

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2007/06/11

反・ミステリー小説(2)

前回の続きで、カズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』から思いつくことを思いつくままに書いてみる。なにか意外なものが出てくると面白いのだが。

ミステリーという物語世界において探偵の果たす役割は、現実の世界で期待されるであろうところの役割とはおよそ正反対のように見えます。だって、たいがいのミステリーにおいては探偵がその本領を発揮するのは最後の最後だけで、のこりの大半の部分は、おそるべき犯罪が最終目的にゆきつくところまでその進行をただひたすら見守るだけですからね。

シャーロック・ホームズであれ、ムシュウ・ポアロであれ、金田一耕助であれ、かれらは事件を未然に防ぐとか、連続殺人を最小のものに食い止めるとかいうことについては、全然、熱心ではない。いや、むしろ、そのもっともらしい言い訳とは裏腹に、たとえ小さな疑いや直感があっても、100パーセントの確信が持てるようになるところまでは、だんまりを決め込んで、どんどん被害が拡大するのを放置したりするんだから始末が悪い。禍々しい犯罪が完遂されたあとになってから、いくら華麗な推理で事件の全容を解明してくれたって、殺された被害者が生きて帰ってくるわけではないので、探偵としてはもしかしてすごくへぼなのではないかなあ。

あのね、ほんとうはもっとすごい名探偵がいるんだけどさ、事件が大きくなる前に全部解決しちゃうので、全然有名にならないのよ、あのヒト、なんてことも実はありそうである。(笑)

物語世界での探偵の役割は、ではいったい何であるか。
たとえば、不幸にも世界に生じた「ほころび」を元通りにする修復業者である、というのはどうでしょうか。

この美しい世界、わたしたちが信頼して子どもたちを毎日学校に送り出してやっている世界は、けれど、とてもあぶなかしいバランスで成り立っているんだ。だれかが、いつも気にかけて、もしそこに「ほころび」があるのを見つけたら、だれかがそれをきちんと元通りにしてやらなくちゃ。なんで、みんな気にならないわけ?間違っている。ちゃんともとにもどさなきゃ。人殺しって、そういう世界の「ほころび」のなかでも一番大きな「ほころび」なんだよ。だから、間違った戻し方なんかしたら絶対だめなんだ。ちゃんと、正しくもとに戻さなきゃ・・・・とかなんとか。

はは、じつはここで、わたしが思い浮かべているのは、大好きなTV番組「名探偵モンク」のオープニングのテーマソングであることに気づいた方もあるかも知れない。
こういうの。

It's a jungle out there
Disorder and confusion everywhere
No one seems to care
Well I do
Hey, who's in charge here?

People think I'm crazy, 'cause I worry all the time
If you paid attention, you'd be worried too
You better pay attention
Or this world we love so much might just kill you
I could be wrong now, but I don't think so
It's a jungle out there

"MONK MAIN TITLE THEME"から一部抜粋

カズオ・イシグロの小説が「反・ミステリー小説」であるということに全然つながってないので、自信はないが以下次号(笑)。

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2007/06/10

反・ミステリー小説(1)

Orphans_1 カズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』(早川書房)は一言で言うとヘンな小説である。
20世紀初頭の上海で、何一つ不自由なく、幸福な幼年時代を過ごしていたクリストファー・バンクス。近所にはアキラという日本人の幼なじみがいて、毎日ふたりして「ごっこ」遊びに明け暮れていた。父親の会社は当時のイギリスの国策に基づきアヘン貿易の尖兵として中国に進出した貿易会社で、クリストファーと両親はその社宅に暮らしている。若い母親は、上海の英国人社会でも評判の美人だが、会社がアヘン貿易によって莫大な利益を上げていることに深い嫌悪感を抱き、反アヘン運動への共感を社宅仲間の婦人連にも公言して煙たがられている。どうやら、夫を感化して、反英的なグループになにやら重要な情報をもたらそうとしているようでもある。そんなある日、突然父親が失踪する。どうやら秘密組織に誘拐されたらしき気配が濃厚である。やがて、母親も何者かに拉致されてしまう。孤児となった主人公はイギリスに帰国して名門のパブリックスクールに入り、ケンブリッジを卒業してから高名な探偵となる。やがてかれは日中戦争がはじまった上海に舞い戻り、謎のアジトに監禁されている両親の救出に向かう、というのが大まかなストーリーなのだが、いたって正確に思える時代考証や上海租界のアクチュアルな描写と対照的な、このストーリーの怪しさ、現実感の乏しさはどうだろう。

なによりまず主人公が名探偵を目指すというところからしてヘンなのである。

戦前のイギリス社会がどういうところであったにせよ、社交界に名をはせるエルキュール・ポアロのような存在は単なる「お約束」に過ぎない。いくつもの難事件を解決して(その具体的な内容は決して語られることはない)イギリスにクリストファー・バンクスありと知られるような犯罪捜査の専門家となったというような設定であれば、これはミステリー小説というジャンルの骨法である。ところが、本書はミステリー小説とはおよそかけ離れている。否、むしろこれは反ミステリー小説というべきものなのではないかなあ。このことは、あとでもう一度ゆっくり考えてみたいと思います。

さらにヘンなのは、主人公の語りで立ち現れてくる小説の世界像がなんだか現実とずれているらしいことであります。たとえば、ケンブリッジを卒業したあとロンドンで優雅な独身生活を始める主人公が学友に出会って昔話をすると、学生時代からお前は変わり者だったからなあ、なんて言われる。おかしなことを言うねえ。ぼくはどちらかというと快活で友人も多くてみんなに好かれるタイプだったよ。キミは、だれか他の同級生と混同してるみたいだな、なんて主人公は言うのだが、もちろん読者の頭には、あれれ、こいつはちょっとおかしいぞとアラームが鳴り始める。そして、そういう現実との小さなズレが、後半になればなるほど、大きくなって、最後には主人公の語りをそのまま信じることができるかどうか、わからなくなってくる。

なにしろ読者は、主人公の目で見た世界を、主人公のヴォイスでしか解釈できないことになっているので(一人称の語り構造なのね)、もしこの主人公が妄想で狂っているとしたならば(その可能性は否定できない)むしろその方が筋が通るというような気もするほどなのである。

訳者のあとがきによれば、カズオ・イシグロは、『日の残り』でブッカー賞をとってからは、自分の好きなようなものを書くことができるようになったのが嬉しいと言っているらしい。この本なんか、最初に言ったようにヘンなんだけど、そのヘンさ加減がどうもしこりのようにあとに残る。どうしてもこのヘンさって何なんだろうと考えざるを得ないのでありますね。
ということで、考えはべつにまとまらないのだけれど、書いているうちに思いつくこともあるだろうから、このまま次回にはなしを続けてみます。

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2007/06/06

ブランド「はなれわざ」

2007_0606 クリスチアナ・ブランドの『はなれわざ』(原題:Tour De Force)は、1991年発行の早川書房編集部編『ミステリハンドブック』の「読者が選ぶ海外ミステリ・ベスト100」では第31位、名作の誉れ高い作品であります。

ブランドはわたしは長編では『ハイヒールの死』、『緑は危険』、『疑惑の霧』の3冊を読んでいる筈だが、同じく名作と称される『ジェゼベルの死』はたぶん読んでいないと思う。短編集では『招かれざる客たちのビュッフェ』が面白かった。

さて本書については、冒頭に書いたようにミステリー・ファンの間では結構有名で、わたしもむかしから題名だけは知っていたのだけれど、なかなか出会う機会がなくて今回はじめて読んだ。原著の刊行は1955年なので、なんとわたしが生まれた頃の作品であります。宇野利泰訳でハヤカワ・ポケット・ミステリ(474)に収録されたのが1959年だから、もう半世紀も昔のミステリーということになるのか、やれやれ。

半世紀前の、イギリス人の団体イタリア観光ツアーという趣向なのだが、いまなら誰でも知っているような地名や料理名などにもいちいちこまかな訳注がついていて時代を感じさせる。
たとえば、トルティーヤだと思うのだが、「トーティールラ」という料理にはこんな注がカッコのなかに小さな活字で組んである。「とうもろこし粉をこねてまるく伸ばし鉄板の上で焼いたケイキ、これはスペイン風 訳注)
そのすぐあとにピッツアが出てきて、この解説は「トマト、チーズ、肉などをパン粉にまぜて焼いた大型パイ、これはイタリイ風 訳注」。(笑)
まあ、こういうのはご愛嬌ということで。

ミステリーとしては、さすが名作の評判に違わぬ面白さで、楽しむことができましたが、オハナシの基本的な設定が、古畑任三郎のある回と同じでありまして(つまり三谷幸喜さんはあきらかにこれを下敷きにしていますな)ああ、これをつかったのかぁ!とにやりとしてしまった。
古畑のどの回のものかを言ってしまうと、ネタバレになるおそれがありますので、ここではパスしますが、わたしはファイナルまでふくめた古畑シリーズのなかでも、とくにあれはよくできていたと思っていたので、嬉しくなったのであります。

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2007/06/01

5月に読んだ本

『To Kill A Mockingbird』Harper Lee(Warner Books)
『反哲学史』木田元(講談社学術文庫/2000)
『半七捕物帳〈5〉』岡本綺堂(光文社文庫/2001)
『民権と憲法—シリーズ日本近現代史〈2〉』牧原憲夫(岩波新書/2006)
『日本の風景を歩く 京都』水上勉(河出書房新社/2000)
『イン・ザ・プール』奥田英朗(文春文庫/2006)
『博士と狂人—世界最高の辞書OEDの誕生秘話』サイモン ウィンチェスター/鈴木主税訳(早川書房/1999)
『雪屋のロッスさん』いしいしんじ(メディアファクトリー /2006)
『空中ブランコ』奥田英朗(文藝春秋/2005)
『私家版・ユダヤ文化論』内田樹(文春新書/2006)
『町長選挙』奥田英朗(文藝春秋/2007)
『丸山眞男講義録〈第6冊〉』(東京大学出版会/2000)
『漢詩逍遥』一海知義(藤原書店/2006)
『テロル』ヤスミナ・カドラ/藤本優子訳(早川書房/2007)
『臓器移植 我、せずされず』池田清彦(小学館文庫/2000)
『余白の愛』小川洋子(中公文庫/2005)
『半七捕物帳〈6〉』岡本綺堂(光文社文庫/2001)
『丸山眞男講義録〈第7冊〉』(東京大学出版会/1998)
『わかりやすい現代短歌読解法』岡井隆(ながらみ書房/2006)
『本の気つけ薬』出久根達郎(河出書房新社/2006)

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5月に見た映画

スモーク・シグナルズ(アメリカ/1998)
監督:クリス・エア
出演:アダム・ビーチ、エバン・アダムス、ゲイリー・ファーマー、アイリーン・ベダード 

アラバマ物語(1962/アメリカ)
監督:ロバート・マリガン
出演:グレゴリー・ペック、メリー・バーダム、フィリップ・アルフォード、ロバート・デュバル

薬指の標本(2004/フランス)
監督:ディアーヌ・ベルトラン
出演:オルガ・キュリレンコ 、マルク・バルベ

舞台より素敵な生活(2006/アメリカ)
監督・脚本:マイケル・カレスニコ
出演:ケネス・プラナー、ロビン・ライト・ペン、スージー・ホフリヒター

パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド(アメリカ/2007)
監督:ゴア・ヴァービンスキー
出演:ジョニー・デップ、キーラ・ナイトレイ、オーランド・ブルーム、ジェフリー・ラッシュ

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