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2007/06/16

丸山眞男をめぐるオハナシ(1)

2007_0616 『丸山眞男回顧談(上下)』(岩波書店)から、個人的なメモ。
この本やたら面白くて一気読みしてしまった。

丸山眞男の父親は丸山幹治(かんじ)という明治生まれの新聞記者である。号を侃堂(かんどう)といった。東京専門学校(早稲田の前身)を出て、「日本新聞」に入る。この時の「日本新聞」社長兼主筆は陸羯南。編集長は古島一雄。同僚の記者として長谷川如是閑、井上亀六らがいた。

丸山幹治は父だから当然のこととして、長谷川如是閑と井上亀六も、丸山眞男に大きな影響を与えたようであります。この三人はいずれも根っからのジャーナリスト。

丸山眞男によれば、この三人のうち長谷川如是閑は、しいて言えば左派にあたり、のちに社会主義に接近していくことになる。
これに対して、右派といえるのは井上亀六で、陸羯南の流れをくむ民族主義的な色彩のつよい「日本及日本人」から三宅雪嶺が出てしまったあと同新聞の社主となった。
父である丸山幹治については、丸山眞男はなかなか手厳しい評価を本書のあちらこちらでも語っているのだが、とりあえず井上亀六の「丸山幹治は自由主義者だな」という言葉を紹介している。まあ、丸山幹治が真ん中で、左に長谷川如是閑、右に井上亀六というジャーナリストの図式をとりあえず思い浮かべればいいのかもしれない。

ところでむかし丸山眞男の『日本の思想』を読んだとき、こんな箇所があったのをいまでもおぼえている。

「完成品」の輸入取次に明け暮れする日本の「学会」にたいする反動として他方で断片的な思いつきを過度に尊ぶ「オリジナリティ」崇拝がとくに評論やジャーナリズムの世界で不断に再生産され、両者が互いに軽蔑するという悪循環。

とても印象的な文章だったので頭に残ったのだが、丸山眞男の父やその親友たちのことを知ったうえでこれをもう一度味わうと、なかなか深いものがあるなあ。

若いころの丸山眞男が思想的な面でもっとも自分に近しいものを感じたとすればおそらく長谷川如是閑なのだと思う。丸山幹治は、自分の父親であるという理由で、ぜんぜん偉く見えなかったはずである。(笑)
井上亀六は、思想的には、「自由主義者」である父親でさえかれのことをボロクソにけなすような右派だから、丸山眞男が思想的な共感を寄せるようなタイプではもちろんないのだけれども、別のつながりでしっかり丸山眞男と結びつけられていた。
じつは、井上亀六の妹が丸山眞男の母親なのでありますね。
すなわち井上亀六は、伯父さんにあたります。

でも、この伯父さん、どうも甥っ子の丸山少年が大のお気に入りだったふしがある。

戦前の学校では飛び級というのは当たり前のようにある。丸山眞男のいた府立一中でも、四年修了で第一高等学校へドーッと行ってしまう。ところがなんとあの丸山眞男がこのとき受験に失敗してしまったというのだから面白い。もちろん翌年五年修了で受験合格していますから、まあ別に普通と言えば普通なんだけど、丸山眞男にしてみれば、自分なんかよりはるかに成績の下だった連中が受かって、自分は見事落第、深刻な挫折感を味わった。一中の先生に「丸山、どうしたの一体」と言われて声もなかった。そのときのことである。

ぼくの家の傍に、伯父の井上亀六が住んでいました。当時、政教社『日本及日本人』の社主です。落ちたという知らせを聞いて、すぐにやって来て、「眞男、落ちてよかった。秀才じゃないほうがいいんだ。秀才が日本を毒した」とズバッと言いました。当時、意味がわからなかった。ぼくを慰めるためにそう言ったのだと思っただけでした。
他の中学だと五年まで在校するのが普通ですけれど、一中に関しては、四年で一クラスなくなるほどゴソッと入るわけですから、五年生というのは「どうせ、おいらは落ちぶれ者よ」というところがあって、実に面白い。一中時代で最も楽しかったのは五年の時代です。

たぶん、井上亀六も、あんまり出来る甥っ子だから、多少の挫折を味わったことは、ほんとうに「よかった」と思ったのでしょうね。いい伯父さんであります。

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コメント

丸山真男と三宅雪嶺の名前を見たらば、大塚久雄と中野正剛の話題を思い出しました。
三宅雪嶺と花圃(あの一葉の友人)の長女・多美子が、中野正剛の妻となります(1913)。正剛・多美子の間には、克明、雄志、達彦、泰雄の四人の子がありました。1/10の記事で、大塚久雄に「わたしには二人の息子がいます。その将来について相談に乗ってやって下さい」と頼んだ、と紹介されていた「二人の息子」は、長男が山で遭難(1932)し、妻と次男が続いて病死した(34.35)後に残された達彦、泰雄氏のことでした。
なお、雪嶺と正剛の関係については、↓参照。
http://www.rku.ac.jp/seturei/brain.html

投稿: かぐら川 | 2007/06/16 23:41

丸山眞男の母(セイ)は萩の出身と聞いた記憶があります。
父・幹治は信州松代の人。佐久間象山の理屈っぽさと、吉田松陰の熱さが丸山のDNAかと思うと面白い。
長州人(周防も含む)には全く異質な二種類があるようです。伊藤博文、山県有朋、桂太郎、岸信介、佐藤栄作、宮本顕治のように権謀術数が得意で組織人で身内の利益を強引に守るタイプと、吉田松陰、高杉晋作、乃木希典、中原中也、金子みすずといった、詩人で世俗的利害に関心が向かない非組織人タイプと。この中間が殆ど見られない。もちろん、丸山には前者のDNAは全く無かったようですね。
母セイは1945年8月15日、敗戦のその日に亡くなり、丸山は奇しくも51年後の同じ8月15日に亡くなりました。
以上、話が「戸籍調べ」に飛んでしまって失礼しました。

投稿: 我善坊 | 2007/06/17 10:02

かぐら川さん
コメントをどうもありがとうございます。じつは『丸山眞男回顧談』でも三宅雪嶺の名前が出た箇所で中野正剛の名前がとびだします。具体的には
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ぼくは経緯をよく知らないのですが、親父に言わせると、中野正剛が悪いと言うのだけれど、何かあって、とにかく三宅雪嶺が『日本及日本人』を出てしまう。雪嶺と別れて伯父が『日本及日本人』の社主になるわけです。その後も、雪嶺とは付き合ってはいましたけれど。
『―回顧談(下)』p.9
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というような内容ですけれど、どうもこれだけではよくわからないですね。

我善坊さん
たいへんいいフォローをいただきありがとうございます。
この本のなかにもセイが萩の人であることに触れた箇所がありますね。
ただ丸山自身はあまり長州に思い入れはなかったような感じがします。信州は別に出生地ではないのに(生まれは大阪ですものね)、自分の郷里のように感じて、いろいろ講演などにも出向いたようですが。
もしかしたら長州閥(寺内正毅内閣とか)は、大正デモクラシーの親父の代からの仇敵だという感じだったのかもしれませんが、実際のところはどうなんでしょうか。

投稿: かわうそ亭 | 2007/06/17 21:01

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