海軍に行った少年
1893年(明治26年)熊本県球磨郡矢黒町(現在の人吉市)に生れる。
1907年(明治40年)主席で球磨郡立西瀬高等小学校を卒業したが、父はアル中の胃潰瘍でろくな稼ぎはできず、赤貧洗うが如き家計では、中学に上がるなどは夢のまた夢であった。
カーネギー伝やロックフェラー小伝、盧花や紅葉を本屋の立ち読みで通読した早熟の少年は、小作人の伜が運命を切り拓くにはハワイか米国本土に渡ることだと思い定めた。
少年は、当時建設中であった肥薩線鉄道の工事事務所の事務見習となって日給25銭で学資を稼ぐ。
渡米のメドはあった。
その頃、憲政の神様・尾崎行雄が会長になってはじめた、通信教育「大日本国民中学会講義録」である。成績が抜群ならば米国に留学させてやるというのが宣伝文句であった。おのれの頭脳の明晰であることについては、はばかりながら自信がある。刻苦三年、見事規定条件の成績を達成し、東京で最終審査にパスすれば米国留学できるはずと、上京したら、そこは駅前留学のNOVAではないが、宣伝と現実は大違い、そう簡単に渡米などさせてはくれない仕掛けで、まんまと一杯食わされていたことに田舎の少年は気づいたが時すでにおそし。
むかし夜店で「かたぬき」という駄菓子があったが、針できれいに型を抜けたら千円もらえるなんていうので子どもが必死でやって持っていっても相手にされない。まあ、アレと同じでありますね。
仕方がないので神田の製本屋の裁断工になるなど辛酸をなめたが、捨てる神あれば拾う神あり、日本力行会の島貫兵太夫(ひょうだゆう)の知己を得て、東京帝国大学教授兼東京天文台長の寺尾寿博士の玄関番に推薦された。
寺田寿の母堂がこれまた一代の傑物、若くして未亡人となったが、四人の子どもを伴って福岡から上京、寿、亨、徳の息子をそろって理博、法博、医博に育て上げた。矢島楫子や小崎弘道とも親交があったというから明治時代のキリスト者のグループだったのだろう。郷里の父が深酒の結果重病となり母をおいて海外雄飛もできない。ならば、通信教育の中学課程からでも受験を許す高等教育機関に行きなさいと、この「男まさり」の寺田母堂が激励した。むかしの人は偉いものだ。
そんな学校があったのか。
あった。海軍兵学校がそうである。入学の条件は入学試験の学力である。
少年は東京理科大の前身、物理学校の夜間部に通って海兵を受けた。ときに1912年(明治45年)。
しかし、海兵といえば、当時は一高とならぶ難関中の難関校である。普通の志願者は、陸軍士官学校、海軍機関学校、海軍経理学校と連記志願した。ところが、少年は通信教育の独学三年と夜間の物理学校一年の学歴しかないくせに海兵単独志願であった。無茶な受験だが、性分で二股かけるのが嫌だった。
もちろん合格した。
入学時の成績は100人中、21位。卒業時成績96名中27位。
以前、木田元の『闇屋になりそこねた哲学者』にからめて「海軍士官は席次が命」という記事を書いたが、この少年時代の学歴で上位3割に入っているのはさすがにただ者ではない。
1915年(大正4年)海兵卒業後、どちらかといえばぱっとしない艦上勤務や海兵団教官の後、1925年(大正14年)軍令部出仕兼海軍省人事局第2課附出仕、翌年、海軍大学校甲種第25期学生となる。32歳であった。翌年、海軍大学を卒業したときは、主席、恩賜の長剣を拝受。同年海軍少佐・在フランス日本大使館附海軍駐在武官附補佐官となる。
面白い人がやはり世の中にはいるものでありますね。
この人は高木惣吉といいます。
病気がちであったので戦争中は主として海軍省にあり、海軍の東条暗殺計画の立案などにもあたったようですが、一番大きな功績は「米内光政海軍大将と、海軍兵学校長から海軍次官に転属補職した井上成美海軍中将から終戦工作の密命を受け、鈴木貫太郎内閣総辞職に至るまでの短い時間、各方面と連携をとりつつ戦争終結に向け奔走した。」(ウィキペディア(Wikipedia))ことであったとされているらしい。
最終の階級は海軍少将でありました。
以上は主として『自伝的日本海軍始末記』(光人社)から。
この本、じつに面白い。
一例を挙げる。1943年(昭和18年)東条首相の動きにからむ場面。この遠慮会釈のない人物評をごらんください。
折りもあろうに六月二十一日、海軍の永野、陸軍の寺内、杉山三大将が元帥府に列せられ、元帥の称号をたまわる旨発表された。称号だけのことでとやかく目くじら立てることでもないが、いずれも無能のボケ大将、しかも陛下のご信任もそれほどでもないのが、そろって元帥とは恐れいった戦時風景、総理はこのころから、杉山、永野の追いだしを考えて、好餌を提供していたようにも疑われるのである。
本書は、東条退陣までなので、この続編がいよいよ終戦工作に入るのだろう。いろいろ思うところもあるが、海軍側からの敗戦までの動きが見えて面白い。まったく阿呆が戦争指導をしたがるのは困りものである。むかしの話ではない。いまの話。あんな程度の総理大臣やら外務大臣やらしかいないのに、わざわざ憲法変えて、あんなバカどもが勝手に開戦できる国にしたがるとは・・・・
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