反・ミステリー小説(4)
では、ようやく『わたしたちが孤児だったころ』について。
この戦前の魔界都市、上海を舞台にしたミステリー小説風の面白い作品(そうです、これはとってもヘンだけど間違いなく面白いのです)において、主人公であるクリストファーが孤児であった(ただし本人は両親の生存をずっと確信しているけれど)という設定はとても重要だと思います。なぜならもし探偵が「ほころび」修復業者であるなら、世界の修復をもっとも必要とし、それについてもっとも深いモチベーションをもつのは、おそらく孤児という生い立ちをした人間であるだろうからです。
幸せな子ども時代が突然不条理なかたちで断ち切られ、喪失感に苛まれ、なんとかして世界を元通りにしたいという願望が、かれを探偵業に向かわせる。
クリストファーが名探偵となってから手がけたむごたらしい事件(例によっておもわせぶりなムードだけでどんな事件だったかはわからない仕掛けなのだが)のときに、担当の警部が、親父はわたしに大工になれといったのに、わたしは刑事になった。しかしこんなひどい出来事が世界におこりえることを知ると、わたしは親父の忠告通り大工になっておけばよかったと思いますよ、なんてことを言う。これに対するクリトファーの台詞。
「このようなことがあると」とわたしは言った。「すっかり気持ちがくじけてしまうというのは、わたしにもよくわかりますよ。でも言わせていただければ、あなたがお父さんの忠告を聞かなかったのはよかったと思いますよ、警部。あなたほどの力量のある方はめったにいません。悪と戦う義務を課せられているわたしたちのような人間は、その・・・・なんと言ったらいいですかね?ブラインドの羽根板を束ねている撚り糸のような存在なんですよ。わたしたちがしっかり束ねるのに失敗したら、すべてがばらばらになってしまうのです。あなたが任務を遂行されることが、とても大事なんですよ、警部」
自分は「ブラインドの羽根板を束ねている撚り糸のような存在」だと思うような人間が、探偵になるというのは、ミステリー小説のもっとも正統的な解釈であるといってもいいでしょうが、しかし一方では、カズオ・イシグロは、その探偵の理性がいささか疑わしい—少なくとも作品世界のなかでその人物の語りはまったく信用できないようにつくりあげています。
つまり、わたしが思うのは、この作品はミステリー小説といういささかくたびれた衣装を身にまとっていますが、その実、作家はその古くさい意匠を逆手に取って、まったく新しい物語をマジックのように取り出して読者の前に広げて見せています。
だってね、一人称の語り手がじつは真犯人だったというクリスティのアレは、もちろんもう二度とだれも使うことのできないトリックですが、探偵が正気の人でない(かもしれない)というのは、そもそもミステリーの成立の根本を揺るがす大トリックですからねえ。(笑)
まあ、これは半分以上は冗談ですが、この小説でもうひとつ言えることは、ミステリー小説のイデオロギー暴露をミステリー小説の構造をつかっておこなっているということであります。すなわちミステリー小説は、たとえばかつての大英帝国のような特権的な、あるいは支配的な社会集団に属している人々の内部の「ほころび」には最大の関心と細心の注意を向けますが、世界の中でほんとうに悪がおこなわれているところにはいたって冷淡なものであるということを遠慮なく暴いているということでありますね。
最後のほうで、黒幕の役割の人物がこんなことを主人公に言う。
探偵とはな!そんなものがなんの役に立つ?盗まれた宝石、遺産のために殺された貴族。世の中で相手にしなければならないのはそういうものだけだと思っているのかい?きみのお母さんは、きみに永遠に魔法がかけられた楽しい世界で生きてほしいと思っていた。しかし、そんなことは無理だ。結局、最後にはそんな世界は粉々に砕けてしまうんだ。きみのそんな世界がこんなにも長く続くことができたなんて奇跡だよ。
カズオ・イシグロ自身がミステリー小説を愛好しているのかどうかは(たぶんしていると本書の書きぶりからわたしは想像しますが)わかりませんが、本書によってミステリー小説というジャンルが、まったく新しい姿でわたしたちミステリ愛好家の前に立ち上がる愉悦が本書にはたしかにある。
だからこそ、わたしはこれをヘンな小説であり(最大の褒め言葉ですよ、もちろん)「反・ミステリー小説」と呼びたいと思うのであります。
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