丸山眞男をめぐるオハナシ(2)
引続き『丸山眞男回顧談』から。
丸山眞男には兄、鐵雄と弟、矩男、邦男がある。男兄弟ばっかりの次男である。
父親は明治の男だから、それでなくとも子どもたちには横暴で専制的な家長に映る。ましてや血気盛んな政治記者で、ニューヨーク特派員までやったような男ですから、家庭のことはどうしても二の次になるのはこれはやむを得ない。ということで、丸山兄弟は全員母親党、アンチ父親で団結して親父に対抗となるのでありました。
母親はセイといいます。
大正時代の母親であります。天が授けてくれた息子たち。人並み優れた資質の持主、とくればこれはどうしても、一所懸命学問なさいませ、となる。それは、まあ、そうだろうなあ。
だからこの母親はやかましく息子たちに勉強をさせたのであります。
ところが、いくら母親党の息子たちでも、だいたい本物の秀才というのは、中学生くらいになると、ガリ勉なんかバカらしくて、もうしないのであります。丸山眞男も兄ちゃんと学校をサボって映画館に入り浸ってばかりいた。
ある日のことです。洗濯のとき紺の着物からモギリが出てきて映画館通いが母親にバレてしまった。
そのときに母が「兄さんはもうしょうがないと思っている。あんだけは信用しとった」と萩の言葉で泣いて言いました。ぼくは言葉がなかったけれど。
たはは、しかし母親にあれはもうしょうがないと嘆かれた長男だって、京大の経済を出てNHKに行っているのだから、まいるね。
もっとも、この不良というのもなかなか半端ではなくて、四谷に住んでいたころ、こいつは見所があるというので、うちの親分にあってみないかと、なんとか組に勧誘された、おふくろがいなかったら、兄貴は危なかった、とは丸山眞男の証言。
おふくろさんは泣くと萩の言葉になったそうですから、「あんたぁ、賢いんじゃから、ちゃんと勉強して、偉いひとになってくれんにゃあ、いけんわーね」とでも言ったのではないかしら、とこれは長州人のわたしの想像。
二・二六事件(1936)のとき眞男は東大の二年の終わり。鐵雄はNHK勤務だったので「報道だ」と腕章を見せて、銃剣の警戒線をかいくぐり叛乱軍の首脳部の籠城する山王ホテルまで行って様子を見てきた。その夜、眞男と鐵雄は大激論。あれは根本的には進歩的だというのが兄、鐵雄。婆さんが「軍人さんたのみます、財閥をやっつけてください」と手を合わせていたぜ、なんて言う。丸山眞男は、冗談じゃない、ファシズムというのは初めは急進的で、反資本主義的に見えるんだ、なんて夜更けまで侃侃諤諤やっていると、母親が、「あなた方、いい加減に寝なさい!」(笑)
丸山が東大の助教授に任命されたときのこと。
ぼくが東大の助教授になりますと「叙 従七位」という辞令が来るのです。戦後はないけれど。助教授は高等官で、助手は判任官です。おふくろは、それを仏壇に上げて拝む。親父は火鉢に当たりながら「お稲荷さんにはまだ遠いなあ」と言う。お稲荷さんは正一位なんです。
戦争も過酷の度を強めていた1942年、丸山は東大での初めての講義、「東洋政治思想史」を開始します。翌年1943年にはもう学徒出陣という時代背景。
丸山の講義の準備は半端ではない。きっちり講義原稿をつくっていたことは『丸山眞男講義録』全7巻を読めばよくわかる。
講義の準備は毎回徹夜で、冬は辛かった。西高井戸の親父の家の電話部屋で、おふくろが炬燵の周りに座布団をいっぱい立てかけて、背中に毛布みたいなものをかけて固めてくれるのです。隣で母は寝ているのです。炬燵だけが暖房ですから寒かった。
わたしは男だから想像するしかないけれど、どんなぼんくらな息子でも母親は愛することができるのだろう。(あ、自分のおふくろがたぶんそうである(笑))しかし、それはそれとして、やはりセイにとって、二十八歳でこの時局のなか、東京帝国大学法学部助教授として、戦地にいつ向かうことになるかも知れない学生たちのために毎回徹夜で講義の準備をする丸山眞男は誇らしい息子で、その母親であったのは、とてもとても幸せなことだったんじゃないかなあ。
1945年8月15日の敗戦を丸山は宇品の陸軍船舶司令部で迎える。翌日の16日、父幹治から電報が届く。「ハハシス ソウギバンタン スンダ チチ」。
母親は八月十五日、ちょうど終戦の日に死んでいるわけです。ぼくの知らないときだけれど、子どもの中で弟の邦男だけ家にいたのです。邦男とぼくの女房とが看病役で、親父がいた。お棺も自前でつくらねばならぬという時代です。箪笥を削って白木にして、それをお棺にしたらしい。また、焼き場に燃料を持っていかないとだめなんです。庭木を切って火葬場に持っていって、それで焼いたらしい。大変だったと思うんです。あのニュースくらい空しいことはなかった。柔道場がとなりにあって、そこで転げまわって泣いたな、誰も見ていませんから。
前回のコメントで我善坊さんが書いてくださったとおり、丸山眞男の臨終(1996)は、奇しくもこの母親の命日の日でありました。
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コメント
「続き」があるのに気がつかず、先走った事を書いて申し訳ありませんでした。
その上かわうそ亭さんご自身が長州人だったなんて、重ね重ね失礼を申上げました。勿論かわうそ亭さんにも「大正デモクラシーの仇敵」の方のDNAはひとかけらもないと存じますがーー、これ以上何か言うと恥の上塗りかねないので、この辺で退散します。
投稿: 我善坊 | 2007/06/18 05:08
いえ、いえ、とんでもありません。今回の記事のちょうどいい水先案内をしていただきました。
さすがに、いまはどうか知りませんが、わたしが中学、高校のころ山口県の学校では、県民歌というのをたしか毎週歌わされていました。いや、お笑いになると思うのですが、さわりの部分は、いまでも歌える。こういうのです。
秀麗の地に偉人出て
維新の偉業なせるかな
誇りと使命忘れめや
山口県の我らみな
ちなみに作詞は佐藤春夫、作曲は信時潔(「海ゆかば」)だそうです。とほほ。(笑)
投稿: かわうそ亭 | 2007/06/18 21:15
日本中で住民が「県民歌」を歌えるのは長野県だけと思っていましたが、山口県もそうでしたか。
信州ではかつては宴会でも「信濃の国はー」と歌っていました。そのくせ日本中で内部抗争が一番激しい県で、外敵にだけ団結する。
小生は神奈川県ですが、たまたま子供の頃に国体が来たので、
光あらたに 雲染めて
七つの潮路 真向かいに
国のあしたの 指すところ
という歌を覚えていますが、この歌を知っている県民は皆無に近いでしょうね。
またまた余談で話の腰を折りそうですので、このコメントへのご返事はご無用です。
投稿: 我善坊 | 2007/06/18 22:20
「作詞は佐藤春夫、作曲は信時潔(「海ゆかば」)だそうです。とほほ。(笑)」の部分は、わかりにくいですね。
「とほほ」の意味は、時代的(事大的?)な歌の揶揄と読めばよいのでしょうが、「海ゆかば」の作曲者だから!?・・・という風にも読めてしまうのです。とすれば、この書き方は誤誘導(「海ゆかば」=軍国歌謡→信時潔=体制翼賛的作曲家)にもつながるように思われるのですが・・・。
いかがなものでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%99%82%E6%BD%94
http://home.netyou.jp/ff/nobu/index.html
http://www.tys.co.jp/honpo/banto/0927.shtm
投稿: かぐら川 | 2007/06/22 01:28
最後のリンクうまくはられていないようです。
http://www.tys.co.jp/honpo/banto/0927.shtml
これでどうでしょうか。
投稿: かぐら川 | 2007/06/22 01:40
「とほほ(笑)」はおっしゃるとおり、ひとつは山口県民歌のおおまじめな歌詞(とメロディも)に対する揶揄というか照れの表現ですが、もうひとつ「海ゆかば」=軍国歌謡→信時潔=体制翼賛的作曲家、というわたしの連想と理解もたしかに含まれております。
信時潔について、そういう浅薄な決め付けを無自覚に行い、そのイメージだけを拡大させるような人物紹介はあってはならない、というかぐら川さんのお怒りはわたしにもよく伝わりました。
この作曲家についてすこし調べてみたいと思います。ありがとうございました。
投稿: かわうそ亭 | 2007/06/22 12:02
いつも片言隻句にこだわった書き込みを、心広く受けてとめていただき有り難いことです。のぶときさんについては、私の方もあらためて書く機会をもちたいと思います。
「海ゆかば」については、この歌の作詞家?である家持の故地巡りツァーでの出来事――年配の方々の自然発生的に湧き起こった「海ゆかば」の合唱――のことも書きたかったのですが、あらためて。
投稿: かぐら川 | 2007/06/23 01:15
「海ゆかば」で、出てきました。(^^v
TBできなかったので、下記をご覧下さいませ。
海ゆかば(2)
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/06/post_10bd.html
投稿: renqing | 2007/06/30 04:03
やあ、どうもです。TBの不調、恐縮至極。
ちょうどいま、新保祐司さんの『信時潔』(構想社)を読んでいます。
投稿: かわうそ亭 | 2007/06/30 22:44
下記の書きこもうをしようと勇んで!登場したのですが、すべてすでに解決済みでした。
「信時については新保祐司『信時潔』によって多くのことを教えられたのですが、renqingさんが「海ゆかば」というブログ稿をすでに書いておられること忘れていました。renqingさんの続稿を待ってまた勉強したいと思います。
私の場合も、石原莞爾について思い込みによる先入観を持っていたこと、宮下隆二『イーハトーブと満洲国――宮沢賢治と石原莞爾が描いた理想郷』によって思い知らされました。」
投稿: かぐら川 | 2007/06/30 23:03
丸山眞男の弟、矩男について知りたい。狂気との関連で。
投稿: 直感子 | 2015/08/18 22:35