反・ミステリー小説(3)
物語世界での探偵というのは、世界に生じた「ほころび」を元通りにする修復業者であるというのが前回の仮説ですが、このほかにも、名探偵「のりつっこみ」説というのも考えられますな。
そう、そう、この列車に乗ってるみなさん方は完璧なアリバイが全員にありますねん。ということは、消去法でいくと犯人になり得るのは論理的に言ってこのわたし・・・・なんでやねん!お前らみんな犯人やんか、とか。(笑)
しかしながら、そんなふうに「ほころび」修復業者であれ、「ねんでやねん!」のつっこみ役であれ、ひとつ共通していることがあるように思えますな。
それは、名探偵はつねに理性の人であるということであります。
「ほころび」修復業者であるためには、なぜそれが「ほころび」であるのか、リアリティのなかで本来の正しい姿がどういうものであるのかを知っていることが必要です。そこにはたらくのはいうまでもなく理性でしょう。
またつっこみ役というのは、いったんは相方の非現実のシュールな世界に入りかけながら、そこにリアルな世界との断絶をみとめ、はっと正気に戻って「なんでやねん!」と相方のアタマをはたくのが役割ですから、これまた大げさに言えば理性の人であると言ってよろしい。
たとえばここで名探偵モンクにもういちど登場してもらいましょう。
前回のテーマソングの一節に「みんなはわたしがクレージーだと思ってる」という箇所があります。しかし、あのシリーズのファンなら同意してくださると思うのですが、たしかにモンクはいろいろな恐怖症というメンタルな問題を抱えてサンフランシスコ市警を病気休職しているとは言っても、それはかれの理性がいささかも曇っていることを意味しない。否、むしろかれの「問題」はかれが正気すぎるというところにあるのですね。
ふつうの人なら、気にならないような、ちょっとした不整合や不一致をどうしてもかれは見落とすことができない。それはかれが理性の人だからです。
さて、ずいぶん遠回りをしてしまいましたが、ようやくわたしはカズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』のヘンさの分析に戻ることができるような気がする。
というところで、続きはまた明日、ということに。
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