Harry Potter and the Deathly Hallows
ハリー・ポッター全シリーズの完結篇である本書については、発売前からとかくの噂がありました。著者のJ.K.ローリングが、"there are deaths, more deaths, coming"なんて不穏なことをBBCのインタビューのなかで言っていたことから、いろいろなセオリーが繰り出されることになったのですね。
実際このシリーズでは、主人公であるハリーにとってかけがえのない登場人物の死が、繰り返されることに多くの読者はとまどいに似た気持ちを持っていました。
"I want these books to be a world where my children can escape to."
ある母親が著者に切々と綴った手紙の一節を、ローリング自身が語っていますが、この願いは多くの読者に共通する思いかもしれません。この母親の言葉が著者にとって重いものであったからこそ、わざわざインタビュー(これは上記のものとは別ですが)のなかで彼女はあえてこれを紹介したのだと思います。
では今回の最終巻で、ハリーたちにいったい何が起きるのか。
もちろんわたしは、この巻に書かれている内容のほんのわずかなヒントであっても、ここで語る気は一切ありません。また、ほんとうのファンは、それを聞きたいとも思わない筈です。すべて自分で確かめたいと思うでしょう。
ただひとつだけ、ここで言ってもよいとわたしが考えるのは次のことです。
二年間、待ちこがれた完結編が手元に届き、一喜一憂しながら読み進め、最後の頁を終えたとき、わたしは、深い満足とともにこう呟きました。
「そう、これでいいんだよ」と。
発売の前の段階から『Harry Potter and the Deathly Hallows』は、商業的な意味ではすでに成功を約束されていました。
ハリー・ポッターという名前のビッグビジネスが、著者のコントロールをはるかに超えてびゅんびゅんと世界中を駆け巡っていました。
もちろんそれも現代の「マジック」のひとつかも知れませんが、もはやここまで天文学的な富を得てしまった作家にとって、さらにもうひとつの商業的な成功はさほど意味のあるものではなかったでしょう。
だから著者にとって重要だったのは、おそらく何かを伝えるべきだという思いだったとわたしは思います。
こんな風に考えてみてはどうでしょう。
世界中で何千万人という子どもたちが、そして同じくらいの大人たちが、あなたの語るオハナシに夢中で耳を傾けてくれることがわかっています。
そんなとき、あなたはなにか良きものをそのオハナシの芯に入れたいとは思わないでしょうか。
では、本書でJ.K.ローリングが子どもたちに(あるいは大人たちに)伝えるべきだと信じたのは一体なんだったのでしょう。
わたしはそれは「死ぬことを恐がりすぎてはだめ」ということではないかと思います。
本書とはまったく離れてしまいますが、遺伝子工学の今後の発達を考えたときに、人間は(誰もがではなくて、特定の力を得た人間はということですけれど)死を乗り越えるという誘惑にひかれるような気がします。第六巻であきらかになったヴォルデモート卿の「ホークラックス」というのはその喩えではないかとわたしは思います。
そして著者はそれを直感的に邪悪なものとして退けているのではないでしょうか。
人はかならず死んで行く。
かなしいことですが、それはまた美しいことでもある。
それを彼女は伝えるべきだと信じたのだとわたしは思うのです。
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